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1.「われは信ず」

11.「よみにくだったキリスト」

2.「天地を造られた神」

12.「死人のうちより甦ったキリスト」

3.「神の全能」

13.「天にのぼられたキリスト」

4.「父なる神を信ず」  

14.「神の右に座すキリスト」

5.「神のひとり子」  

15.「再び来られるキリスト」

6.「われらの主イエス・キリスト」

16.「聖霊を信ず」

7.「イエス・キリストの誕生」

17.「教会を信ず」  

8.「ピラトのもとでの苦しみ」  

18.「聖なる公同の教会」

9.「十字架につけられたキリスト」

19.「聖徒の交わり」

10.「死にて葬られたキリスト」

1.「われは信ず」  

 今日から、しばらくこの礼拝において信仰告白である使徒信条の言葉一つ一つを取り上 げまして御言葉を聞いていきたいと思っています。けれども、礼拝の中で使徒信条とはど ういうものであるのか、歴史的にどういう働きをしてきたのかだけを学ぶのではなく、基 本はあくまでも聖書の言葉から使徒信条を説き明かしていきたいという試みです。このこ とを使徒信条の講解説教と呼んでいます。使徒信条の言葉一つ一つを聖書の言葉によって 講義を行い、解説をしていくという意味です。それですから、聖書から離れて御言葉を聞 き取ろうというものではありません。あくまでも聖書の言葉を中心に説き明かしをするこ とはどのようなものを取り上げても変わらないものです。それよりも、使徒信条そのもの が聖書の言葉を基にして造られたものでした。それですから、聖書の言葉を読み取ってい きますと使徒信条の言葉も理解することができるということです。というよりも聖書が語 っている神の救いとはいったい何であるのか、信仰とは何かという急所が使徒信条に表さ れているのです。聖書は、旧新約聖書合わせて66巻で日本語訳であるならば約2千頁に 渡って神の救いのことが記されています。これを私たちが全巻読み取って、そのすべてを 理解することはほとんど不可能に近いものです。一信徒が理解できるような、いえ聖書の 言葉に四六時中触れていると思われる牧師ですら一生掛かってもとうてい理解することな んてできないものでありましょう。

  それだからこそ、聖書の多くの言葉を受け取って理解するためには、結局、急所は何か ということが考えだされてまとめられていったのでしょう。ましてや、信仰を言い表して 洗礼を受ける者にとっては、聖書が一体何を告げているのか公に告白することが不可欠な こととなっていったのです。しかも、教会において信徒の訓練や教育をすることにおいて 、聖書が語っている神の救いの急所を短く、簡潔に語っていくとこういう言葉になるとい うものを必然的に造らなければならなかったのかもしれません。そのようにして使徒信条 が形造られていきました。使徒信条と記されていますように、最初は主イエスの直接の弟 子たちである12人が造った「使徒たちの信条」というように呼ばれていたのです。主イ エスの復活を直接目の当たりにして教会の基礎を形造って伝道していた使徒と呼ばれる弟 子たちが使徒信条を造ったというようにです。それですから、12人の使徒が1節づつを 持ち寄って編集して使徒信条が出来上がったとも言われているのです。そのことから、使 徒信条を12項目に分けて説き明かす方法があるくらいです。しかしながら、使徒信条が どのような歴史的な経過によって出来上がってきたのか、今ではよく分かってはいません 。恐らく、主イエス・キリストがよみがえられ天にのぼられてから使徒たちが伝道を始め 、教会が形成し始めた頃には、この使徒信条の原型が洗礼準備のために使われていたのか もしれません。それでも、最初に使徒たちが信仰を言い表すために書いたものであると考 えられていましたから教会での最初の信仰告白と呼んでも差し支えないのかもしれません 。しかも、この後に様々な信条や信仰告白が登場していくのですが、この使徒信条の影響 を受けていないものはない程です。私たちが所属しています日本キリトス教団の信仰告白 は、使徒信条に前文を付けたものです。それですから、使徒信条を礼拝の中でみなさんと 共に唱えて信仰の告白をしているのです。しかも、使徒信条はキリスト者一人一人が共通 して言い表している信仰の言葉です。洗礼を受ける時にも、自分の言葉を信仰の言葉とし て語ったのではなく、教会が語り継いできたいうならば使徒信条の言葉に同意することに よって、つまり公に言い表すことによって神様を信じて信仰に入ったと思うのです。一人 一人が使徒信条を受け入れて教会の中に入会して、教会員になったと思われるのです。

  さて、使徒信条についての最初の説教は「われは信ず」ということから始めています。 今日もこの後、使徒信条を唱えてみればわかりますように、日本語ですと「われは何々を 信ず」という言葉が繰り返されています。しかしながら、この使徒信条の原文ですと「わ れは信ず」という言葉が一番最初に出てきまして、それが父なる神から主イエス・キリス トまでの事柄に及んでいるのです。その後、二度目の「われは信ず」という言葉が出てき まして聖霊のこと、教会のこといわゆる私たちの信仰生活のことについてのことが述べら れているのです。原文は「われは信ず」という言葉が2度使われて使徒信条においては大 切な位置を占めているのです。現代の日本語ですと「私は信じる」ということです。この 「われは信ず」私は信じるということについてある外国の説教者が「われ」とは一体誰な のか、「信ず」ということが一体どういうことなのかをそれこそ何週も渡って嫌になる程 に丁寧に聖書の言葉から説き明かしをしているのです。それだけに、この「われは信ず」 という言葉だけでも奥が深いのかもしれません。ただみなさんと共に考えていきたいのは なぜ使徒信条が「われは信ず」となっていて「我々は信ず」とどうして言わないのだろう かということです。なぜ、「われは」とひとりなのだろうかということです。単数なのだ ろうかということです。お気づきだとは思いますが、この使徒信条は、教会の信仰告白と してみんなと一緒に唱えます。私たちが教会の信仰として告白をするということです。し かも、この使徒信条がむかしから洗礼の時に用いられてきました。その時に「あなたは何 々を信じますか」という問いに対して使徒信条の言葉が示していますように「わたしは父 なる神を信じます」というように定まった答えを求められたのです。

  私たちが洗礼を受ける時にただ使徒信条の言葉を自分の言葉として告白し、受け入れて きました。それですから使徒信条においてわたしの信仰が語られていると思われても、ど うも納得できないような気がするのです。私たちと語ったほうが気が楽なような気がする のです。しかも、なぜこのことが私の信仰なのだろうかと戸惑うことがあるのではないか と思われるのです。私の信仰と言いながらも、決めつけられた言葉を、きちん型にはまっ た言葉を同意させられるからです。つまり、なぜこの型にはまった文章を私の信仰の告白 として公に語らなければならないのかということです。まるで、数学の方程式や物理や科 学の法則で決まっているかのような答えを求められるからです。このように考えることは 私たちが信仰を持つことに対して誤解があるからではないでしょうか。信仰とは、いわゆ る神様を信じるということです。どういう神様を信じて、どういう神様と共に生きていく かということです。しかも、どのような神様によって救われているかということです。し かしながら、私たちは自分たちの信仰をどこかで自分で決める自分の問題だと思っている ことでしょう。信仰とは、自分の魂の一番深いところの問題ではないか。それだから、「 お前はこれを信じるのだ」と押しつけがましくいわれると、どうも納得できないのです。 自分だけの信仰を自分のこととして大事にしたいと思えていくのです。しかしながら、時 々は、信仰が自分の信念と置き換えられる危険があります。自分自身でこのような神様を 信じているから大丈夫だということは、以外にも随分わがままなものになっていきます。 しかも、自分の信念によって思い描かれる神様ですから思い込んだらなかなか心を変えよ うとはしなくなっていくものです。しかも、信念という名前を借りた信仰ですから、自分 が熱中している時は、夢中になるでしょうが、飽きてしまったら、あるいは嫌になったら さっさと捨ててしまおうと考えるのではないでしょうか。信仰とは、私がこう思う、私が こう信じているという信念ではないのです。それですから、信仰とは私たちの側にはなく 、神様から与えられるものであり、神様の言葉である聖書の言葉によって示されるという ことです。それ故に、聖書の言葉のエッセンスが詰まっている使徒信条の言葉を私の信仰 の告白として語るということになっていくのです。

 さて、今日取り上げましたマルコによる福音書8章27節から30節までの聖書の言葉 は弟子の一人であるペトロが主イエスに対して信仰の告白をした物語です。ここに、主イ エスが弟子たちと一緒に伝道されていた頃の信仰の告白が語られています。信念とは違う 信仰のこと、わたしは信じているということがどういうことなのかが主イエスの福音の物 語に記されているのです。このマルコによる福音書は、福音書の中でも最初に書かれたも のであると言われています。この福音書は、主イエスの生涯のことが書かれている伝記の ようなものですが、厳密には伝記ではありません。主イエスの喜ばしい知らせつまり福音 が語られているのです。私たちにとっても、喜びの知らせのことが記されているのです。 その喜びの知らせこそが、神様の救いのこと、恵みのことです。私たちが唱える使徒信条 もまた神様のよき知らせを公に告白しているのです。聖書そのものが、神様からのよき知 らせ、幸せををもたらしてくれる喜びの手紙であるならば当然のことでしょう。実は、こ の喜びの知らせが書かれているマルコによる福音書の8章27節からの物語は丁度この福 音書の真ん中にあたります。中間地点、つまりマラソンで言えば折り返し地点にあたるの です。みなさんも学校の授業などで走ったことがあるでしょう。私は高校時代、水泳部に 所属しておりました。ただ、走るだけのスポーツであるマラソンとそんなにも変わらない スポーツです。ただ、泳ぐだけというようにです。その水泳部の練習においてもよく2千 メートルというような長い距離を泳いでいました。とても長い距離に思えますが千メート ルを越えるとほっとする思いがしました。なんでもそうですが、折り返し点に来ると特別 な思いがしてきます。ゴールが見えているということは安心する思いが致します。ただ、 あとはゴールに向かって進むだけです。

  ここで、主イエスにはゴールというものがはっきりと見えていました。進むべき道がは っきりとしていたのです。特に、主イエスは弟子たちが信仰告白をした後に聖書は31節 で「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たち から排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始めら れた。」と記しています。ここにおいても神様の救い、恵み、勝利である主イエス・キリ ストの十字架と復活がはっきりと見えておられたのです。けれども、弟子たちはゴールが はっきりと見えていなかったのです。弟子たちの目が見るべきものを見ていなかったので す。だからこそ、ここで主イエス自ら弟子たちにお尋ねになるのです。信仰を尋ねられる ということです。私たちが使徒信条を告白することも、見えないゴールを見定めることに あるのです。使徒信条を公に言い表すことによって、一体私たちが何を信じて、何によっ て生かされて人生を歩んでいるのかをたえず確認するためにです。特に聖書は27節で「 イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途 中、弟子たちに、『人々は、わたしのことを何者だと言っているか』と言われた。」と記 しています。フィリポ・カイサリア地方は、巻末の地図「6新約時代のパレスチナ」を見 てわかりますように、神殿がありますエルサレムから随分北に離れた場所にありました。 しかも、信仰をお尋ねになった場所は神殿の正面でも、祭壇の前でも、会堂でもありませ んでした。道の途中の出来事でした。信頼する弟子たちを集めて、きちんとあらたまって 「さあ、これから大事なことを尋ねよう。わたしは一体誰なのか」と言われたのではなか ったのです。道を歩きながら尋ねられたのです。

 ところで、私たちは信仰を持つということが教会内のことであると思っているのではな いでしょうか。このように日曜日の礼拝においてだけキリスト者になるというようにです 。それですから教会から一歩外に出るともう既にそれこそキリスト者ではなくなると思え ていくでしょう。けれども、キリスト者であるということは、四六時中のことです。たと え、教会から離れていても、神様を信じないと語っていても、信仰の告白を言い表して洗 礼を受けた限りにおいてはキリスト者には変わらないのです。つまり、主イエス・キリス トは私たちの日常の生活の中でたえず信仰を尋ねられておられるのです。毎日の自分の家 庭において、会社において、学校において、主イエスとは誰なのか、一体あなたはイエス ・キリストとどういう関係があるのかを問われているのです。あなたは主イエスによって 生かされて信じているのかが問われているのです。それこそが信仰の問いであり、これに 答えることが信仰告白だということです。しかしながら、主イエスは弟子たちに向かって 最初は「人々は私を誰だと言っているか」とお尋ねになりました。世間ではどのように言 っているのかお尋ねになったのです。このことは、弟子たちにとっても無関心なことでは なかったと思われます。自分たちの仕事を捨ててまでも主イエスに従ってきて弟子たちで す。主イエスの評判が気になっていたことでしょう。私たちも主イエスのことを知らない 人々がどのように思っているのか気になるところでしょう。しかし、あえてここで弟子た ち自身に世間の人々の声を聞かれるのです。28節で弟子たちが答えています。「『洗礼 者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と 言う人もいます。」というようにです。洗礼者ヨハネは、本物の救い主である主イエスが やって来られるために準備をしていた人物です。洗礼者ヨハネは、結局は神様でも救い主 でもありませんでした。エリヤは、預言者の一人でした。神様の言葉を人々に伝える者で ありました。つまり預言者の一人でありました。それですからどの答えも神様を表すもの ではなく、神様から遣わされた人、神様に近い存在を表していました。世間の人々は、結 局、主イエスを偉い人、偉人の一人、歴史の中に現れた大勢の預言者の中の一人であると 考えていたのです。今の時代と同じようにです。

  そこで、このように人々がどのように思っているのかをお尋ねになった後に、次にあら たまって29節で「それではあなたがたはわたしを何者だと言うのか」と主イエスがお尋 ねになりました。この言葉を聞いた弟子たちは驚いたと思われるのです。「あなたがたは どうか」と聞かれたということは一人一人の信仰を問われたのです。目の前にいるお方が 弟子として従っているこの私に尋ねておられる。いい加減なことを答えるわけにはいかな かったと思うのです。他人がこう言っているということは所詮は人ごとです。私たちにと って主イエスを信じて生きることは、あるいは信仰生活を続けていくことはどうかすると 他人事のようなものになりがちです。洗礼を受ける時には、真剣に神様を求めて、神様の 御前に信仰の告白をしたのに、いつの間にか深刻には感じられなくなって、厳しいようで すが人ごとのような信仰に生きているのではないかと思えるのです。しかしながら、その ような中において、イエスというお方をどう信じているのか神様のほうから求めておられ るのです。信仰を与えて下さった神様自らが求めておられるのです。私たちの信仰ではな く、私の信仰を求めておられるということです。確かに主イエス・キリストは弟子たちの 信仰、教会の信仰をお尋ねになっておられるけれども、はっきりと一人一人がイエスとい うお方をどのように考えているのかを尋ねておられたのです。一人一人、私の信仰が問わ れているということは、これは責任があることです。私の信仰を言い表すということは、 他の誰でもない私に問われていることですから、責任が伴っていくのです。私たちは、信 仰告白をすることから洗礼を受けてキリスト者となり、この教会の教会員となりました。 イエス・キリストに救われて、神様の祝福の中、恵みの中でキリストに従って歩むことを 決断したのです。神様を信じて歩むことを約束したのです。しかも、この世のしがらみや 罪から解放されて自由になったことを受け入れたのです。ある人が「自由とは、放縦では なく、そこには責任がある」と言いました。確かに、主イエスの守りの中、自由に生きて いくことができますが、神様との間に責任が与えられているのです。その責任をいつの間 にか破っているのではないでしょうか。いつの時代でも、聖書の物語の最初から人間同志 の責任の押しつけあいがなされていました。罪の始まりは、「私には関係がない、責任が ない」という責任転嫁でありました。牧師もそうです。就任式がある度に、誓約がなされ てその責任を守るように促されるのです。教会員としての責任、牧師としての責任、いえ 私たち一人一人に対して使徒信条によって、信仰の責任が問われているのです。あなたは 、この使徒信条を信じて告白しているのではないかというようにです。

 さて、弟子たちが誰も信仰の告白をしない中で代表するようにペトロが「あなたはメシ アです」と答えました。このメシアという言葉はヘブル語です。「油注がれた者」という 意味の言葉です。ギリシャ語で「キリスト」のことです。王様や預言者あるいは祭司が神 様から任命される時に、香油を注いだということからメシアと呼ばれ、後に「救世主・救 い主」を表すようになっていきました。しかし、人々が考えていたのは政治的な権力にも 立ち向かうことができるような力で神様の救いを実現するメシアの存在でした。確かに、 ペトロも人々と同じような意味でメシアと告白したのでしょう。けれども、ペトロはその ように告白するしかないような言葉でしか言い表すことができなかったのです。あなたこ そが私にとってのメシア・救い主だというようにです。他の福音書によれば、この告白の 言葉を聞かれた主イエスはペトロを褒めておられます。ペトロが責任をもって答えた信仰 告白に対して満足されておられたのです。しかし、それにしても30節の「するとイエス は、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。」と語られている ことは奇妙な気がしてきます。「あなたは救い主だ」と答えたならば「さあ、これから人 々に宣べ伝えなさい」ということなら理解できるからです。しかし、ここでは「誰にも言 うな」と語られている。これは、どういうことなのでしょうか。まだ、この時、主イエス の十字架と復活がなかったからでしょう。救いの時が来ていなかったからです。つまり、 神様の考えには、ただ単にユダヤ民族だけが救われるのではなく、すべての民が救われる ことにありました。この時には、メシアということをいたずらに広められると困るからで す。つまり人間の信仰の告白さえも主イエスが管理されておられたということです。人間 が正しい告白をすることができるように働いておられるということです。それですから、 礼拝において、いえ日常の生活において私たち一人一人に信仰の告白を正しく答えること を求めておられる。そのために、主イエスが共にいて下さり、使徒信条の言葉を理解する ことができるように御言葉を与えてくださるのです。「われは信ず」という言葉によって 正しく神様のことを知ることによって信仰の告白をして、救いの中、恵みの中で目指すべ き人生を歩んでいくためにです。

 お祈りを致します。 主イエス・キリストの父なる御神様 あなたから救われて、恵みを頂いているにもかかわ らずに責任を持ってあなたの御前に信仰の告白ができない私たちです。けれども、それに もかかわずに私たち一人一人にあなたが信仰を与え、信仰によって生きることができるよ うに働いて下さっておられます。心から感謝を申し上げます。しかも、そのために使徒信 条という信仰告白の言葉を私たちに与えて下さいました。どうか、その与えて下さった信 仰の言葉一つ一つを聖書から導かれた言葉としてしっかりと受け取って、御前に告白して いくことができますようにお導きをお願い致します。なによりも「われは信ず」と無責任 になることなく、人ごとではなく、私たちの救いの言葉、恵みの言葉として信じることが できますように。神様が求められるままに信仰の告白をするものとさせて下さいますよう に、どうぞお願い致します。このお祈り救い主である主イエス・キリストの御名によって 、御前にお捧げ致します。アーメン

2.「天地を造られた神」  

 みなさんと共に唱えます使徒信条は、原文では「我は信ず」という言葉から始まってい ました。けれども、日本語に訳されています使徒信条を言い表す時に最初に「われは、天 地の造り主」という言葉を口にします。つまり、私たちは「天地の造り主である神様を信 じる」ことをまず公に言い表すのです。キリスト者になることは、神様を信じる者になる ことを意味しています。その時に大切なことは、どのような神様を信じるのかということ が問われるでしょう。「あなたは、神様を信じているというけれども、どんな神様を信じ ているのか」と問われた時に、まず「天地を造られた神様を信じる」と答えるのです。天 地の造り主とは何か。それは、何よりも自然の万物を造られたお方だということです。特 に聖書の一番最初を開いてみますと「創世記」と題されていて天地を造られた神様のこと が描かれています。聖書には、ご存じのように旧約聖書と新約聖書があります。特に旧約 聖書にはイスラエルの人々のことが記されています。イスラエルの人々がどのような神様 を信じて、どのような関係を持ってきたのかが記されているものです。私たちキリスト者 だけでなく、イスラエルの人々、つまユダヤ教の信仰を持っている人々もこの旧約聖書を 聖書として神様の言葉を聞きます。けれども、当然、イエス・キリストはこの書物には登 場してきません。それに対して、新約聖書にはイエス・キリストが登場して救いのことが 語られていきます。それにしては旧約聖書と新約聖書の間には溝があるということではな く、同じ神様が働いて下さっているのです。イエス・キリストもユダヤ人でした。弟子た ちもユダヤ人でした。そのユダヤ人であったイエス・キリストを通して全世界の神様へと なって下さったのです。それですから、救い主であるイエス・キリストと天地を造られた 神様はひとつに結びついているのです。新約聖書に描かれている救いの神様つまり使徒信 条で後に学びます独り子であるイエス・キリストに先立って天地を造られた神様について の物語が最初に描かれていくのです。そのことから、まず私たちは「天地の造り主」を信 じるという信仰を言い表すのです。

  さて、聖書の一番最初の言葉は旧約聖書の創世記1章1節の言葉である「初めに、神は 天地を創造された。」ということでした。この1節の言葉から天と地しかもあらゆるもの を造られたことが描かれていきます。昼と夜を造られ、空と水を造られ、太陽や月、星と いったあらゆる天体続いて草や木というような植物に始まり、あらゆる生き物、鳥や魚、 動物を造られたことが記されていきます。私たちの自分の周りを見回して、これもあれも 自然や動物も神様によって造られたことを知ることができるのです。究極的には、神様は 私たち一人一人を造って下さったということに気づいていくのです。それにしては、普通 、神様を信じられない人にとっては神様がいるのか、いないのかということから疑問を投 げかけるのではないでしょうか。それですから、聖書の最初は、神様が存在するのか、し ないのかということから書き始めてもいいような気がするです。ある優れた神学者がこの 疑問に答えるように語ります。「われわれは普通、こういうふうに考える。まず世界があ る。あるいは、私自身が存在する。その上で、こうした世界や自分を造った神は本当にお られるのだろうかと問う。われわれは世界の存在について疑うことはない。ただ創造者で ある神の存在について疑う。『神は本当におられるのだろうか』と疑わしく問う。自分た ちが生きている世界が本当にあるのか、などというようなことは疑いもしない。けれども 、信仰を得たときに、われわれが教わるのは、実はそうではなく、本当の意味で存在なさ るのは神だということである。神が存在しておられるのは、間違いがない。問題は、どう してその神の他に、神と並んでこの私が存在し、この世界があるのかということなのだ。 神はご自分だけで存在しておられれば良いのであって、それ以外に、われわれを存在させ るなどということを必要としなかったはずではないか。『どうして自分がいるのだろう。 どうしてこんな世界を神様がお造りになったのであろうか。」このような問いに、驚きの 目を開かざるを得ない。」というようにです。

  聖書というものは、当たり前のようではありますが、科学や物理のような書物ではあり ません。幾何学のような証明して答えを提示するものでもありません。聖書は信仰の書で す。信じるものだということです。それですから、初めに神がこの世界を造って下さった 、この私を造って下さったことを信じるということから信仰が始まるということです。い わゆる信仰に生きるということは神様との関係に生きるということです。神様と人間との 関わりの基本になっていることが天地を造って下さった神様を信じることになるのです。 そのように、神様を信じて生きることが実はこの世界の秘密がわかりますし、この私が生 きている謎が解けていくのです。人間の側からではなく、神様の側に立って物事を見てい き判断することができていくのです。神様がいるのか、いないのかそもそもそのような問 いがばかばかしく感じられていくのです。なぜか。このことは繰り返すように語ってきま したが、神が存在するのか、存在しないのかということにこだわっている間は、私たちが 切実に生きることができないからです。この私が生きている現実、この世界が存在してい ることを見つめていくことによって、私たちの真実の目が開けていくのだと思えるのです 。確かに、天地を神が創造している姿を見たものは誰もいません。それもそのはずです。 2節では「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」と表 現されています。最初の1節の言葉と照らし合わせてみますと、このことは「無からの創 造」という言葉で表現されるからです。

  無ということは何もないということです。けれども、私たちが無ということを考える時 には、あったものがなくなった時にしか無ということを使わないと思えるのです。何もな いということが言えるのは、何かがあると知っているからではないかと思えるのです。つ まり、私たちが無ということから何かができるということは無いものがあったというよう にしか考えることができないのです。なぞなぞのようものであり、混乱することですが、 無いものがあるということは、あるものだということがいえるのかもしれません。ある神 学者が「無よりの創造とは、人間の理解しうることではない。信じうるのみである。なぜ ならこの意味の「無」ということはわれわれ人間には考えれない」と語りました。私たち の誰もが世界の最初を見た人間はいません。ただ、この世界を神様がお造りになったこと を人間が信じるだけである。いえ、神様によって信じさせていくだくことに限るというこ とです。これが、信仰だといえるのです。このことを新約聖書のヘブライ人の手紙11章 の1節から3節で「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することで す。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。信仰によって、わたしたちは 、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものから できたのではないことが分かるのです。」という言葉で表現しています。特に、この創世 記がイスラエルにおいて書かれていった頃の背景は、とても神様を信じることなんかでき ない状況に置かれていたのです。神様がこの世界をお造りになった、私たちをお造りにな ったということが信じられなかったと思われる事態に陥っていたのです。時は、イスラエ ルという国が北と南に分裂し、先に北の国が滅ぼされて、南の国もまた新バビロニア帝国 という国に滅ぼされた時でありました。多くの指導者がその征服者の国バビロンに捕らえ られて移されたのです。いわゆる歴史上、バビロン補囚と呼ばれているものです。イスラ エルの人々は国を失い、エルサレム神殿も破壊されてしまいました。人々は、自分たちの 拠り所とする場所である故郷を失い、信仰をも崩れそうになって苦しみの中、悩みのただ 中に突き落とされていたのです。人々は「神様は本当におられるのだろうか」と問いを持 つ以上に、「こんな目に合わせた神様なんかは信じられない」という思いのほうが強かっ たのかもしれません。

  けれども、不思議なことに神様の働きによって人々がこの創世記の物語を書き記すよう になっていったのです。特に、神様の創造の業を書き残す時に繰り返される言葉がありま した。「神はこれを見て、良しとされた」という言葉でした。神様がご自分でお造りにな ったものを見て、良しとされたということです。神様がこの天地をお造りになって「ああ 、これは大変良い、素晴らしいものだ」とお思いになったのです。人間側の判断からすれ ばとても良いとは思えない世界に見えている時代に神様がお造りになったものを「良かっ た」といえるということは信仰以外には考えることができないものです。聖書は、神の霊 感によって書かれたと言われています。書いたのは人間かもしれませんが、やはり神様の 働き、神様が言葉を示して下さらなければ書き残せなかったのではないでしょうか。その ことからこの世界はもう駄目かもしれない。すべてがあらゆるものが敵となってしまった というところで信仰に生きることができるかということがこの「天地の造り主」を信じる ことに関わっていくのだと思えるのです。7年前になりますが阪神大震災が起こりました 。あらゆる建物が破壊され、多くの犠牲者を出しました。それに、日本においては度々天 変地異に犯されて多くの人々が亡くなっています。天地を創造された主なる神様であるな らば、なぜこんなことをされるのか。この世界を支配されているならば、なぜ、こんなこ とを人間にされるのかということが考えられるでしょう。その時に多くの人々が神様に疑 いを持つものだと思えるのです。これは何も天変地異のことだけでなく、この世界がなぜ 平和にならないのか、なぜ憎しみや悲しみを抱いて生きていかなければないならのかとい うことさえも疑問も持つものだと思えるです。けれども、時に私たちに逆らうような自然 あるいは世界の現実を私たちが見据えながらも、これも神様のもの、神様に造られたもの であると言い切ることが出来た時に、新しい生き方がここから生まれていくのです。まさ しく、神様を信じて生きることは何が待っているのかわからない、どこに向かっているの かわからない、けれども、そこには神様の祝福があり、恵みがあることを信じて生きるこ とではないでしょうか。イスラエルの人々はそのように生かされてきましたし、私たちも そのような信仰を抱いて生きるということです。

 さて、創世記には天地・自然を造られただけでなく、私たち人間をも造って下さったこ とが記されています。26節から「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人 を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。 』神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造さ れた。神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の 魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」というようにです。私たちが天地 を造られた神様のことを信じて思い起こす時には、今度は自分自身を見つめてこの私も神 様がお造りになったことを信じるということです。しかも、神様はこの私をよいものとし てお造りになった。私をお造りになったことが極めて良かったとお思いになっていること を確信することなのです。けれども、しばしば自分が神様によって良く造られてはいない のではないかと疑いを持つことがあります。すぐに私たちは人と比べてしまいます。それ だから、なんでもない悩みに捕らわれて生きてしまうのです。自分よりも頭がいい人を見 れば羨ましがりますし、悩みなく人生を歩んでいるような人を見かければ恨みを抱くこと がいくらでもあるのです。それだから、どうしてこんなに成績が悪いのか、弱いのか、醜 いのかという思いがつのっては、人に対して妬みが生まれたり、自分に失望したりするの ではないでしょうか。そのような時、信仰がないと自分にだってましなところ、良いとこ ろがあるさと長所を見つけながら自己満足して生きていくことに救いを求めていくのかも しれません。けれども、聖書ははっきりと31節で「神はお造りになったすべてのものを ご覧になった。見よ、それは極めて良かった」と私たちに語りかけるのです。しかも、私 たちは神様に似るものとして造られているということです。神様そっくりに造られたとい うことです。それですから、一人一人の人間が神様から造られたものとして愛されないわ けにはいかなかったと思われるのです。しかも私たち一人一人が造り主である神様を信じ て生きることを神様御自身が祝福されておられたのです。

 ところで、造り主である神様はこの世界をお造りになり、私たち人間をお造りになった のが6日間の出来事でした。創世記2章の最初においては神様がこの世界をお造りになる ために6日間熱心に働かれて、7日目にお休みになったことが記されています。神が安息 された日ということで安息日と呼ばれているものです。7日目に神が安息された、だから こそ7日目毎に安息がめぐってくるのです。イスラエルにおきましては普通安息日は土曜 日でしたが、キリスト教会においては日曜日になりました。それは、イエス・キリストが 日曜日に復活されたからです。実は日本の人々もこの聖書の恩恵を受けているからこそ日 曜日がお休みになっているのです。ある牧師がよくつぶやくそうです。「神様が七日目に 休まれたのは早すぎた。八日目、九日目であったらよかったのに」私自身もそう思うこと があります。それは、礼拝で語る説教がなかなかできない時にです。会社や学校に行って いる人にとっては神様がもっと早くにこの世界を完成させておければよかったのにと思わ れるかもしれません。いずれにしても、この七日というものは完全を表す数字です。神様 が御自分で完成なさった世界をごらんになって完全なものができたとお思いになって「こ れはすばらしい、よいものだ」と満足されて一日ゆっくりとお休みになったということで す。私たちもこの神様の安息を一緒に喜んで楽しむということです。そうだからといって 、日曜日はただ単に私たちが体を休め、レジャーに楽しむということでなく、なによりも 神様のために存在するということです。そのことから、日曜日は神様を礼拝するための一 日であるとういことがいえるでしょう。それですから、神様から造られた人間として、祝 福を受けながら神様に感謝を表し、賛美して礼拝することが天地を造られた神を信じる生 き方となっていくのです。

  さて、神様を造り主と信じて生きることは、神様を主人として頼りにして生活をするこ とです。神様に従って生きる生活をすることです。確かに、天地創造の物語にはイエス・ キリストは登場してきません。使徒信条においても、キリストのことは後から出てくる。 本来、神様から良いものとして造られた人間です。神様に似た人間としてどんなに愛され 、大切にされているのかがこの創造の物語に語られているのです。ところが、創世記の3 章におきましては、人間の堕落が始まります。神様を裏切っていくのです。神様との関係 に生きることができない人間の姿が表されていくのです。4章においては兄弟殺しが描か れていきます。神様との関係だけでなく、人間関係までがおかしくなっていく。神様との 関係がないと、人間同志もうまくはいかないことを聖書は私たちに教えているのです。神 様との関係に生きることができない、つまり神様から離れて生きる生活を教会では罪とい う言葉で表しています。罪とはもともとの言葉で的はずれを意味する言葉です。本来、良 いものとして造られた人間がまともな生活からはずれてしまったということです。自分が したいままに、欲望のままに自由に生きたいと願う人間にとっては神様は邪魔になるので す。それだから、自分が神様のように自由に生きたいと考えてしまうのです。私たちは神 様といえ神様がお造りして下さったこの世界や人間とも仲良く生きていくことができなく なってしまったのです。ある牧師が使徒信条の解説でこのようなことを語ります。「神が 造り主であることを信じれば、自分と神とが全く違うことがわかるのです。」私と神様と は全く違う。当たり前のようなことですが、自分と神様との区別がうまくつかないからこ そ、神様から離れてしまうのではないでしょうか。神様なんか頼りにせず、神様を信じな いで生きていきたいと望むのではないかと思えるのです。  

 特に、日本人は人間と神との区別をつけない。すぐれた才能や知識を持っている人を神 と崇めてしまう。「お客様は神様です」と語る人もいます。死ねば神になってしまうもの でしょう。しかも、この私がこの世界の主人公であると考えだした時には、もう既に私を 造って下さったお方のことなど考えられなくなっているのです。けれども、私たちは神様 抜きのほうが自由に生きることができるとうっかりと思ってしまう。神様抜きのほうが人 間らしい生き方ができる。神様を信じている生活は不自由な不自然な生活ではないか。思 うとおり欲望に従って生きることが真に人間らしいのではないか。けれども、先程の牧師 の解説によると「それでは、人間らしくならないで、怪物になってしまうことでしょう。 神と人間との区別がつきにくいことから、人間が人間らしくならないのです。」と語りま す。改革者カルブァンは「神を知ろうとしない人間は禽獣に劣る」と厳しい言葉を語って います。本来、そのような人間、神様から良しとされて造られた人間が罪を犯したことか ら滅びにいたるものだったのです。私たちは本来の生き方からはずれて滅びにいたるとこ ろでした。けれども、新約聖書エフェソの信徒への手紙2章10節で「わたしたちは神に 造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリス ト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。 」と語ります。イエス・キリストの十字架と復活によって、私たちの罪が取り除かれて、 神様との関係を回復されて復活の命を私たちが頂くことから新しく造られたということで す。人間はもともと善いものとして造られた。けれども、それを私たちは泥まみれにして しまった。しかし、その泥まみれの体をもう一度主イエスによってきれいに洗って下さっ たのです。神様との関係を仲良く保つようにです。それだから、日曜日教会に招かれて、 天地創造の働きをなさった神様を賛美するだけでなく、復活された主イエス・キリストの お祝いをして生活をしているのです。主イエス・キリストと共におられた造り主である神 様を信じる信仰を持って、神様と共に歩んでいくのです。

 お祈りを致します。 主イエス・キリストの父なる御神様 何もないところからあなたは御言葉によってこの世 界を造って下さいました。しかも、この世界に生きるべき私たち一人一人を善い者として お造りになりました。心より感謝を申し上げます。けれども、あなたから造られたことを 自覚することができずに、すぐに御心から離れてしまう私たちです。自分勝手に行動し、 この世界と仲良くできずに、苦しみ悩みの中に陥っているにもかかわらずに気づかない私 たちです。どうか、私たちが造り主のもとへと立ち返ることができますように。なにより もイエス・キリストの働きによって、あなたのものとして新しく造りなおして下さったこ とを受け入れて、造り主である神様のことを信じて信仰の歩みをさせて下さいますように 。私たちが滅びにいたることなく愛され生かされていることから、心から神様のことを賛 美し、結びついていくことができますようにお導きをお願い致します。深く信仰の目をも って、この人間の現実の世界を見つめて天地の造り主である神様を信じて生きるものとさ せて下さい。この祈りを救い主である主イエス・キリストの御名によって御前にお捧げ致 します。アーメン

3.「神の全能」  

 礼拝の中で毎週信仰の告白をしています使徒信条は、日本語では神の項目から始まりま す。すなわち、「われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず」というようにです。つま り、まず私が天地を造られた神様しかも全能であり父である神様を信じるということを公 に言い表すことから使徒信条は始まるのです。この世界を造って下さった神様、この私を 造って下さった神様は、全能のお方であり、父と呼べるお方であることを信仰を持って信 じるということです。特に、今日みなさんと共に考えていただきたいのは、説教題にもし ましたように「神の全能」ということです。全能というものは、そんなに難しい言葉では ないでしょう。全というのは完全とか全部すなわちすべてという意味ですし、能というの ものは能力のことです。すべてのことができる、つまり神様はすべてのこと、なんでもお できになるということです。この世界に存在しておられる神様は、何もないところからす べての物をお造りになりました。私たちが目に見えている物、あるいは時間や空気のよう な見えない物にいたるまでもすべて神様がお造りなったのです。しかも、私たち一人一人 をお造りになって下さいました。そのような造り主であるならば、神様がすべてのことを 何でもできるということを信じることは簡単なことなのかもしれません。それよりも、神 様だから何でもできるということは当たり前だ、神様だからこそもしできないことがあっ たらおかしいのではないかと思ってしまうでしょう。この私が信じている神様は、すべて をなして下さる力を持っておられる。しかしながら、神様だから当然ということではなく て私を造って下さった神様あるいは父として存在して下さっている神様だからこそすべて のことをなして下さるということがいえるのかもしれません。

  いうならば、この私と神様との結びつき、関係があるからこそ神様を全能の神様として 信じて生きるということです。自分とは無関係である神様が全能であり何でもできるとい うことならば、何も神様を信じることなんかないと思うのです。私たちが生きる上で切実 なものにはならないからです。信仰とは、神様を信じることです。しかも、私たちが信仰 に生きることは、神様と共に生きることです。全能の神様を信じる信仰に立つことは、神 様のすべてをなして下さることを信じきることでしょう。それに、この神様のすべてを成 してくださる力は、私たちのための力だということです。つまり、この全能の神様を信じ ることによって、私たち自身も何でもできるということです。神様から信仰を頂いて、信 じる力から私たちはすべてのことを成すことができていくのです。けれども、いつでも私 たちは疑いが生じていきます。本当に神様は何でもおできになるというけれども、本当な のだろうかと思ってしまうことでしょう。病気になれば、病気を直してくれるように神様 に頼みます。不幸な目にあったり、苦しい目にあったのならば、どうか苦しみから悩みか ら解放して下さいと祈り、幸せになるように願うことでしょう。しかも、その願いや祈り が叶った時に、私たちは神様はやっぱり何でもおできになると思うのではないでしょうか 。反対に、願いや祈りが叶わなかった時には、神様は何にもできないと思ってしまい、全 能なる神様のことなんか信じないと思ってしまうのです。大変面白いことに、キリスト教 会においても他の宗教のちらしが配られます。先日も、ある宗教のちらしが入っておりま して、そこには、先祖供養をしようということが書かれていました。先祖の霊を静めて、 供養することによって幸せに生きることができると書かれていました。体験談までも書か れています。それまで、家族の中で事故にあったり、病気になったりしていた人が、その 宗教を信じることによって病気もせずに、みんなが幸せになって喜んで生活をするように なったというのです。

  多くの人々が神様が病気を癒してくれた、何かを与えてくれた、不幸な生活から幸せの 生活へと変えられたということから神様を信じるものではないかと思うのです。神様を信 じるのはまず私だというようにです。案外、キリスト者になってもそのような御利益を求 めて生きているのではないかと思われるのです。そうして、教会にやって来て、自分が期 待するようなことがなかったら、願いが叶わなくなったり、病気が直らなかったり、不幸 が続いていくと、教会が語る神様は駄目だと思わずにはいられなくなるものでしょう。私 が信じているのだから、私が信じないのも、神様を捨てるのも勝手だというようにです。 けれども、そのような一人一人の勝手な願いや祈りを叶えて下さる神様が果して全能であ る神様なのでしょうか。神様は何でもおできになると信じることができるのかということ です。それだけですと、ただ単に私たち人間が神様のことを利用しているだけに過ぎない ものでしょう。私たち自身で神様を小さなものとして思い込んではいないかということで す。それでは、神様が全能であるということはどういうことでしょうか。先程読んで下さ いました聖書マルコによる福音書10章27節で主イエス・キリストが「人間にできるこ とではないが、神にはできる。神はなんでもできるからだ。」と語られておられます。主 イエス自らが神様の全能を語っておられるところです。この神様の全能について語られた 言葉は、主イエスの弟子たちが「それでは、誰が救われるのだろうか」という問いに対し ての答えでありました。しかも、主イエスが語られた言葉に弟子たちは24節、26節で 「驚いた」と表現しています。主イエスが思いがけない言葉を語られたからこそ、弟子た ちは驚いていたのです。誰が一体救われるのか、救われる人なんかいないのではないかと 弟子たちは語ります。その言葉を受けて人間にはできることでないが、神様には出来る、 神様はなんでもできるからだと主イエスは語られたのです。

  さて、神様の全能とは何か。実は、私たちの救いと結びつくのです。何でもおできにな ると神様は、私たちを救ってくださるお方だということです。全能である神様を信じると いうことは、私たちが救われていること、救われていることから信仰を持って神様を信じ て生きる。そうすれば、私たちも何でもできるということです。御利益宗教からも解放さ れる道がここにある。たとえ、不幸と思えていることがあったとしても、病気であれ、苦 しみ悩みがあったとしても、救われるということです。実は、今日取り上げています聖書 の物語は、17節から始まっていました「金持ちの男」と題されている物語の続きです。 金持ちの男が主イエスのところにやって来て問答をして、悲しみながら立ち去ったことに 対しての弟子たちの反応が23節から描かれていたのです。この「金持ちの男」と題され ている物語は、マタイによる福音書やルカによる福音書にも同じような物語として描かれ ています。同じように主イエスが「神様は何でもできる」という神様の全能を告げておら れます。それにしても、特に、マタイによる福音書19章16節からの物語が一番有名で ありまして、主イエスのもとから悲しみながら立ち去った男の人は、青年として描かれて います。これはむかしから「富める青年の物語」と呼ばれてきました。特に、この物語に 感動を覚えて、それまでのものを何もかも捨てて極貧の生活をして神様に従っていく生活 をしていった人までもいた程です。たとえばインドにおいて貧しい人々を助けるために一 生を捧げた修道女であるマザー・テレサに影響を及ぼしたフランチェスコという人物がそ うでした。この人物は主イエスの言葉からすっかり人生を変えられてお金持ちの道楽息子 だった者が神様に一生を捧げて修道の生活へと入っていくのです。それに、カーネギー・ ホールを設立させたことで有名なカーネギーもまたこの悲しみながら立ち去った「富める 青年」の物語を読んで、立ち去ることはせずに反対に自分の財産をすべてなげうって貧し い人々のために社会事業を始めたのでした。

  この二人のどちらとも若い時にこの御言葉に触れたのでした。それですから、人生をこ れからどう生きるかという決断を迫られている中においては「富める青年の物語」は若者 の心を揺さぶるもので、時には、若い人の集いやキリスト教学校でよく取り上げられる聖 書の物語となっています。けれども、マルコによる福音書の物語は若者とは書かれてはい ません。「ある人」となっています。それですから、少なくともこの「金持ちの男」の物 語は若者だけのあるいは男だけのものでも、ましてや後に聖人や偉人になるような極めて まれな人々に向けられたものではなかったのです。自分たちの物語、私たちの物語、いえ 「ある人」という匿名性が強調されているからこそ、自分に当てはめて聞くことができる 物語なのです。しかも、神の全能を告げておられる「神はなんでもできるからだ」という 言葉も自分に向けられたものとして聞くことができていくのです。それですから、まずこ の「金持ちの男」の物語でこの私が主イエスのもとへと走り寄ってひざまずいて尋ねたと いうことです。そこから、この私に向かって主イエスが答えて下さるのです。最初に「善 い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と主イエスに尋ねます。 この質問に対して、主イエスは「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証すなる、奪い取る な、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」と言われる。それに対して「 先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました。」と答えるのです。しかしな がら、そのように自分に当てはめてこの物語を見ていきますと、無理が生じるような気が します。とても、「金持ちの男」のような生き方はしていない思えるのです。そもそも、 たくさんの財産を持っている、お金持ちだと思える人は、失礼ですけれどもこの中にはお られないと思えるのです。しかも、この人は、神様から与えられた戒めを子供の時から、 すなわち物心がついた頃からずっと守っていると思っていた人です。今日この礼拝に集っ てきた人の中で自分の責任で生きることができるようになってから、自分の生活を振り返 ってみた時になにひとつシミがない、神様の戒めを破ったことはないと言えますと聞かれ て、堂々と手を挙げることはできないと思えるのです。もちろん、そんなにひどい生活を してきたなんて思わないかもしれませんが、この「金持ちの男」のように自信に満ちて答 えることはできないと思えるのです。  それでは、この「金持ちの男」と自分たちは違うと言えるのでしょうか。この男の人が 求めていたものは永遠の命でした。この人は自分の人生が死で終わることを明らかに意識 していたことでしょう。財産も富もある、神様が与えて下さった戒めはきちんと守ってい る。いうならば、誰にも文句を言われずに生活をきちんと整えている。けれども、毎日の 生活をしていても自分の命は、いつ、どのようにであるか分からないけれども、死によっ て終わってしまう。永遠のものではない。しかし、どうしても自分は永遠の命に生きてい たいとそう願っていたのです。誰でもが現実に生きている中では死をまともには考えない ものでしょう。けれども、人間は死ぬからこそ生きている中で幸せになりたいと願います し、病気をしたらなんとか直してもらいたい、悩み苦しみから自由になりたいと望んでい るではないかと思うのです。結局誰でもが自分の幸せを思い、自分が救われることを願っ ているのです。それだから、この「金持ち」が主イエスにした問いは「何をすれば救われ るのでしょうか。何をすれば永遠の命を獲得するのか。何をすれば神の国に入ることがで きて安心して生きて、死んでいくのか」ということではなかったかと思うのです。特にこ の男の人は「受け継ぐには」と語っています。この言葉は、財産を親からもらう時に使う 言葉です。それですから、神様からいただく永遠の命がほしいと考えていたのです。死の 向こう側で生きる命は、自分の力で手に入ることができないことをよく知っていたのです 。それにしては、この金持ちの男は、救われるための条件を出しました。実は、私たちで すら救われるために、何かをしなければと思っているのではないでしょうか。救いの条件 を考える。何か善いことをすれば、人に善いことをすれば、戒めをきちんと守って、品行 方正な生活、みだりに他人と争わずに、いい子にしていれば救われると思ってはいないか ということです。

  さて、この後、不思議なことに主イエス・キリストご自身はこの「金持ちの男」に条件 を出されました。21節の「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を 売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、 わたしに従いなさい。」という言葉でした。しかしながら、この人は主イエスの勧めに従 って、持っている財産を貧しい人々にほどこすことができなくて、悲しみながら立ち去っ ていきます。ここから弟子たちに向かって言われるのです。23節からの言葉です。「イ エスは弟子たちを見回して言われた。『財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しい ことか。』弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。『子た ちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが 針の穴を通る方がまだ易しい。』弟子たちはますます驚いて、『それでは、だれが救われ るのだろうか』と互いに言った。」と描かれています。「らくだが針の穴を通る」この言 葉は、不可能なことを言い表すためのことわざのようなものでした。つまり、主イエスは 金持ちが神の国に入ること、救われること、永遠の命を受け継ぐことは不可能なこと、で きない相談だと語っておられるのです。この悲しみながら立ち去っていった「金持ちの男 」に対して主イエスに信頼して従っていた弟子たちです。その弟子たちですら世の中に救 われるものがいるのだろうとお互いに驚きながらつぶやいてしまったのです。「ああ、よ かった。自分たちも貧しくなってあなたに従っているから、難しいことではないですね」 と主イエスに向かってうなずいたのではありませんでした。財産のある者が、金持ちが救 われるのは不可能なことだと言われた時に、弟子たちは自分たちも自分たちなりに自分の 財産から自由になっていないと感じていたのでしょう。だから、弟子たちは驚いてしまっ たのです。救われる者なんかいないではないかと大変正直な言葉を口にするしかなかった のです。

  私たちはどうでしょうか。ある牧師はこの物語を説教する時に「私どもは皆二股をかけ て生きてきている。中途半端に信仰を持っている。富も大事だけれども神様の平安も欲し い、そんなにむきになって主イエスの前にひざまずいて、永遠の命を受け継ぐためにはど うしたらいいかと、主イエスと真剣な問答もしていないし、主イエスの御言葉をまともに 受けとめて、私にはそれはできないと、正直に立ち去るということもしない。どこかで不 正直なだけのことではないか」と厳しい言葉を語られます。私たちの信仰はいつもふらふ らしています。私自身にも見覚えがあることですが、生活の中で忙しくなったら、悩みや 苦しみが深まったら、礼拝を休んでもいいのではないか、そんなにも真面目に教会生活を しなくてもいいのではないかと考えてしまうものでしょう。私たちは多かれ少なかれ様々 なものに縛られて生活をしています。主イエスに従っていくために、すべてが邪魔な財産 になっています。けれども、その自分に邪魔だと思えるようなものを捨てることができな いのです。悲しみながら立ち去った男の人のように、実際に教会から離れていく人もいる でしょう。しかも、教会よりも礼拝よりもましてや神様の御言葉よりも救いに預かるため に別の方法を探してしまうのです。この物語で、立ち去っていく男の姿を見つめながら、 弟子たちを代表してペトロが28節で「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなた に従って参りました」と語っています。ペトロは、自信満々に語りました。けれども、ペ トロ自身は気づいていないのです。私は何もかも捨てている、それに主イエスに従ってい ることが救いの条件になっていることをです。しかも、ペトロは主イエスの言葉を聞き逃 していました。27節で主イエスのまなざしが弟子に降り注ぐ中において「人間にできる ことではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」という神様の全能であるこ との言葉をです。  弟子たちは神様の全能を気づいていなかったのです。自分自身こそが主イエスに従って いるというように考えている限りは、やがては主イエスについていくことができなくなる です。実際に、すべての弟子が主イエスを「捨てた」のです。十字架で見殺しにするはめ になっていったのです。それだから、この神様の全能を語る言葉「神は何でもできるから だ」という言葉は、私たちの考え方を根底からひっくり返すものでした。私たち中心の考 え方、いえ私たち中心の生き方を百八十度変えられることです。つまり、私たちは何にも できないものでるあることに気づいていくのです。神様の救いなしには、神様が何でもお できになるという信仰を受け入れない限りは私たちは何もできないことを受け入れること なのです。救われること、神の国に入ること、永遠の命を受け継ぐことは、私たちが何か をしたら、それこそ信じよう信じようと熱心になったら、あるいは人に施したり、神様や 人を愛したならば、いえキリスト者にならなければ、礼拝に出席しなければというような 義務や条件は何もないということです。ただ、神様によって信仰を与えてくださること、 ただ信じる力を素直に受け入れることが神様と共に生きることであり、神様の全能を信じ ることになっていくのです。この後、主イエスは三度目の死と復活を予告されます。「金 持ちの男」の物語の最初は17節で「イエスが旅に出ようとされると」と記されています 。まさしく、死に向かう主イエスの旅でありました。やがては、私たちの罪のため主イエ スが十字架に付けられます。このことは、まさしく人間の罪を取り除きゆるしを与えるた めであったと同時に神様の全能を示すためでありました。しかも、この後全能である神様 が主イエス・キリストを復活させて下さるのです。まさしく、主イエスの十字架と復活の 姿に神様の全能が現れたのです。何でもおできになる神様が人間の救いのために主イエス を十字架につけることによって許しと愛を与えて下さり、永遠の命を与えるために主イエ スを復活させて下さり、私たちと共に生きるようにさせて下さったのです。恵みと祝福に 満ちたお姿こそが神様の全能であったのです。それだから、たとえ災いや病気の中におい ても、私たちに不幸と思えることが起こったとしても、それになかなか主イエスを信じな い人や教会にもどって来ない人がいても落胆することなく必ず神様はその人々をも救って 下さることを信じ抜いて、主イエスに祈り続けて信仰の歩みをするだけです。まさしく、 人間の思いを遙に越えて、恵みに満ちた神様は何でもおできになるからです。

 お祈りを致 します。 主イエス・キリストの父なる御神様 あなたは、まことに全能の神であり、なんでもおで きになることによって私たちに救いを与えて下さいました。どうか、私たちの心を開いて 下さい。あなたの全能が御子であるイエス・キリストの十字架と復活に現れたことを深く 受け入れて、恵みと祝福に満たされますようにお導きをお願い致します。また、私たち自 身で救いの条件を考えることなく、尚も縛られているものから解放されて自由なものとし て信仰に生きるものとさせて下さいますように。この教会を、ここに集まっている人々を 、ここに集まることができない人々を全能である神様の恵みと祝福で満たしてくださいま すように。この祈りを救い主である主イエス・キリストの御名によって、御前にお捧げ致 します。アーメン

4.「父なる神を信ず」  

 礼拝の中で信仰の告白をしています使徒信条の言葉一つ一つを取り上げまして御言葉を 聞き続けています。特に、使徒信条の語りだしは「我は天地の造り主、全能の父なる神を 信ず」という言葉で始まります。本来、この最初の部分は「天地をお造りになって下さっ た全能の父である神様を信じる」と訳すことができる言葉です。大切なことは、本来は天 地を造られたお方である造り主と、全能である父なる神であられることを分けてはいない ことです。父なるお方である神様は、天地を造って下さったお方であること、つまり私た ち一人一人をお造り下さったお方であり、全能であるお方、つまり何でもおできになるお 方だということです。いうならば、私たち一人一人に関係を持っておられるお方が、父と なっておられる神様になるのです。しかも、私たちが父なる神様を信じることは、父と子 との関係が結ばれていることです。それでは、神を父と呼んだ時に、一体誰の父なのかと いうことです。いえ、そもそもなぜ神様は父なるお方なのだろうかと思ってしまうもので しょう。

  ところで最近、仕事において女性の進出は目ざましいものです。教会においては女性の 力はむかしからなくてはならないものでした。しかしながら、その中において弱い立場で ある女性を守ろうではないか、女性の意見を繁栄させようではないかということが教会の 中で叫ばれてきました。そのような中で、教会においていえ牧師の中においても、なぜ神 は父なるお方なのか、どうして母であるお方ではいけないのかという疑問が飛びだしてき ました。誰でもが一度は考えたことがある疑問ではないでしょうか。祈る時に、なぜ母な る神様と祈りをしてはいけないのかということです。特に、教会においては神様を父と呼 んでいます。けれども、父親の愛だけでは足りない。人間には皆、両親がいる。父だけで なく母もいる。だからこそ、キリスト教の神様はお父さんみたいに厳しくて、おっかなく 、権威的であるから近づきにくい、しかも母親のようなやさしさが足りない。それだから 、父のようであり、母のようであると神様の名前を呼ぶことも可能であるし、そのような 両面を持っている神様と捕らえてもいいのではないかということが叫ばれているのです。 特に、性差別に敏感な人は、父なる神様だけが存在するのはおかしいのではないかと主張 するのです。みなさんは、どう思われるでしょうか。世間を見回してみますと、最近はそ れこそ父親の権威というものがなくなってきましたし、むしろ母親のほうが強くたくまし くなっている傾向があります。そのようなことから、益々神様は母なる神でもいいのでは ないかと考えられているようです。けれども、このようなことで私たちはしばしば間違い を犯していくのではないでしょうか。この世の常識やセンチメンタルな感情や同情を信仰 に当てはめて解決しようとするところに、教会が犯していく間違いがあるのです。そもそ も私たちが信仰に生きるということはどういうことなのか。何を基準にして信仰生活をし ているのかということです。これは、当然、聖書の言葉からです。聖書の言葉を神様の言 葉として聞き取っていくことから私たちは神様を信じて生きていることになるのです。聖 書が生活のものさしになっていますし、聖書から信仰のことを考えなければならないとい うことです。そうしないと、自分たち人間中心の考え方、この世の価値判断で信仰が間違 った方向へと動いていくからです。

 それですから、世間の常識である父親像を理解して、父としての神様を論じることに間 違いが起こっていくのです。始めに、神様は父として存在しておられた。その中で、家庭 における父親が存在することになるです。これは逆ではなく、最初に父なる神有りきとい うことです。それにしても、なぜ、神様は母なる神ではないのか。なによりも、神様の言 葉である聖書が父なる神と呼んでいるからです。いえ、そもそも私たちが信じその救いを 受け入れている主イエス・キリストが神様のことを「父」と呼んでおられるからです。多 くの人々がどのように呼んでいけばわからなかった神様のことを主イエス・キリストがは っきりと「父よ」と呼びかけるように勧めておられるからです。特に、私たちに与えられ ている「主の祈り」において、原文では「父よ」と呼び掛けがなされています。だからこ そ、私たちは安心して、心から神様のことを父よと呼びかけることができますし、この父 なる神様のことを信じて生活をしていくことができていくのです。それだから、私たちが 聖書から離れて、聖書に基づかないで信仰のことや神様のことを考えることに無理が生じ てきますし、あらゆる間違った方向へと引っ張られていくのです。それこそ、的外れな生 き方をしていく、神様から離れた生き方をしていき、神様との関係が成り立たないばかり ではなく、人間関係においてもおかしなことになっていくのです。20世紀の悪魔とまで 呼ばれているドイツのヒトラーは、それこそ聖書の言葉を違うものとして解釈をしてユダ ヤ人虐殺をしました。しかも、この独裁者ヒトラーの考えに同調した教会は、聖書の書換 えを行ったのでした。特にヨハネによる福音書4章22節の主イエスが語られた言葉「救 いはユダヤ人から来るからだ」という言葉を消し去ってしまったのです。そのように聖書 の言葉を書き換えることによって自分たちの考え方を正当化して神様に罪を重ねて、人間 を消し去り滅ぼして、人間関係のひづみをも造ることへと変わっていったのです。それだ から、聖書から離れた解釈を教会がすることによって、自らに裁きをもたらす結果になっ ていくのです。

  さて、私たちが聖書の言葉から神様の言葉として受け取りなおしてみますと、父なる神 様を信じることは、主イエス・キリストの父なる神様を信じることになります。しかも、 私たちが主イエス・キリストに関わりを持つことによって、私たち自身も「神の子」とな るのです。父なる神を信じて生きることは、私たちが「神の子」であることを信じて生き ることになっていくのです。それでは、具体的に父なる神を信じる生き方、この「神の子 」となっている生き方とはどういうことなのでしょうか。特に、それまでユダヤ教の熱心 な信徒であった者が復活された主イエス・キリストで出会うことによってすっかり人生を 変えられキリスト者に生まれ変わったパウロという人物がが今日取り上げましたガラテヤ の信徒への手紙の中で私たちに語りかけをしています。神の子となった生き方、神様を父 と呼んで信じることができるようになった生活がどのようなものであるのか私たちに訴え かけているのです。特にパウロがこのガラテヤにある教会の人々に送った手紙は、キリス ト者の自由を語っているものです。自由ということはなにものにも縛られずに生きるとい うことです。神の子としての自由に生きることが語られている手紙となっています。それ にしても自由に生きるということの反対は何かの奴隷として生きることになるでしょう。 この手紙でパウロが強調していることは、あなたたちはせっかくキリスト者になって、キ リストのものとなって神の子として生きている生活を与えられているのに他のものの奴隷 となって生きるのかということを厳しく問い掛けているのです。最初にパウロは一つの例 えを用いるように4章1節から「つまり、こういうことです。相続人は、未成年である間 は、全財産の所有者であっても僕と何ら変わるところがなく、父親が定めた期日までは後 見人や管理人の監督の下にいます。」と語り出しました。

  パウロはここで、たとえ父親から全財産を受け継ぐことが約束されていたとしてもある 程度の年齢にならなければつまり一人前にならなければその財産は誰かの支配の基に置か れてしまう。それは、その支配している監督の言う通りに生きなければならないことにな るし、そのことは僕同様つまり奴隷と同じようなことだとパウロは語るのです。折角、目 の前に全財産を所有していても誰かの支配の基に生きなければならない、奴隷として仕え ていかなければならないようなことだと語っているのです。その例え話しから3節で「同 様にわたしたちも、未成年であったときは」と語り出します。それにしてもここでパウロ が語る未成年ということは一体どういうことでしょうか。未成年とは、つまり大人になっ ていないということです。現代において、むかしから話題になっていることが大人になる ことを拒否した大人が多いということです。親は子供に依存し、子供は親に依存してしま っている。それは、なかなか自分自身で生きていくことができずに自立して責任をもって 生きることを拒否してしまって大人になっているからでしょう。成熟した大人が少なくな ってしまっている。まだ未成年の頃は、親の支配化に置かれていながらも、反発しては日 々を過ごす。やがては、他者から自立して自分自身で働き、自分自身で物事を考えて自由 に生きることができる。誰にも依存することなく、誰にも頼ることなく責任をもって生き ることが大人になることだと考えられるのです。しかしながら、逆にパウロは大人になる ことが誰にも依存することなく、誰にも頼ることがなく過ごすことだと考えているのでし ょうか。それよりも、聖書が語る自立とは一体何なのか。いうならば、神様を信じて生き ることの成熟が求められているのです。信仰が成長し大人になることです。それでは、信 仰の成長とは何のか。信仰が大人へと変わることは一体どういうことなのか。

  パウロは、7節で「ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神 によって立てられた相続人でもあるのです。」と語っています。信仰者が大人になるとい うことは神の子として生きるということです。真の父なる神様を信じきって生きるという ことです。他人に依存する生活から自立する生活へと成長することが大人になることでは なく、むしろ真実に父なる神の子どもとして生きるということです。神様にすべてをお任 せして生きることであり、父なる神様に連なって結びついて生きることが主イエス・キリ ストによって救われ、神の子どもとなった者つまり洗礼を受けて信仰者となった人々の生 き方だということです。しかしながら、この世界は、変に大人になった世界というように 言われています。つまり、神様の助けを借りなくても生きていけると人間が思いはじめて いることです。いえ、いつの時代においても、神様なしでも人間は生きていける、神様に 依存しなくても、神様にお任せしなくても生きていけると思いはじめたことから間違いが 起こっていったのでしょう。それに、神様を信じて生きなくても私は大丈夫だ、一週間の 歩むを神様を礼拝しなくても、神様から御言葉を頂かなくても生きることができると思い はじめた時にもうすでにそこから他のものを頼って、他のものに依存して生きはじめてし まうものなのです。3節でパウロが「未成年であったときは、世を支配する諸霊に奴隷と して仕えていました。」と語っているようにです。特にこのことを説明するように今日は 読みませんでしたが8節、9節で「あなたがたはかつて、神を知らずに、もともと神では ない神々に奴隷として仕えていました。しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神か ら知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、も う一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。」とパウロが厳しく語っているよ うです。

 この当時、長い歴史を持つギリシア哲学などに裏付けられた習慣が入ってきまして、諸 霊という言葉をパウロが使っていますように様々な霊的な力があって、この世の中はその 力によって支配されていると信じられていたようです。現代の日本と同じように暦を重ん じ、縁起をかつぐようにしていたのです。まさしく、運命のようなものに縛られたり、い い日と悪い日があるというように区別をしていたのです。それだから、調和を乱したり、 運命に従わなかったり、また悪い日を重んじなかったりしたならば霊力が復讐をすると考 えられて、復讐されると病気になったり、わざわいが起こったりすると考えられていたの です。イスラエルの人々は、最初は神様の戒めである律法を頂いたことから、これは神様 から頂いたもの、神様から支配されている生活であると信じて生きていたようです。けれ ども、日々が過ぎると自分の生活を純粋には守ることができなくなっていったのです。つ まり、神様の戒めや掟を破ってしまったらどうなるのか。自分たちを支配している霊力に よって復讐されてしまい生活は台無しになってしまう。そのような不安のとりこに陥って いたのです。それこそ、最初は神様に従うために、神様から頂いた律法を守って生きるこ とが喜びであったのかもしれません。けれども、やはり「さわらぬ神にたたりなし」とい うような発想から余計なことはしないほうがいいと考えられるようになっていきました。 もし、余計なことをしてそれこそ神様の戒めを守らなかったり、暦や縁起をばかにしたこ とから一度病気になったり、不幸な目に遇ったりすると、もう二度と霊力のようなものに 逆らわないほうがよいのではないかと考えてしまうのです。私たちの生活はどうでしょう か。多かれ少なかれ、今私たちが築いている生活は、運がいいか、悪いか、幸か不幸かと いうことを絶えず計っているのではないかと思えるのです。家族が健康であること、子ど もの成績がよいこと、何の苦労もすることなく人生を渡っている人こそが運がいいし、幸 せだと思っていることです。それだから、何かのはずみでそれが崩れてしまうと、悪い運 が訪れた。それこそ、自分たちは悪い霊によって祟られているのではないかと考えてしま うのです。

 もちろん、他の宗教のことを軽んじて批判し軽蔑することは慎まなければならないもの でしょう。ただ、私たち主イエス・キリストの父なる神を信じている者は、そうした諸霊 あるいは神々と呼ばれているものから自由になっているのかということが問われているの です。聖書の言葉に基づくならば幽霊信仰や占い信仰からも自由になることができるし、 たたりなども恐れずに生きることができる。いえ、神様の戒めである律法を守らなければ ならないという自由からも解放されて生きていくことができるのです。それが、父なる神 様の子どもとして生きる生き方であり、主イエス・キリストによって救われていることを 受入れ信じた者の生活だということです。ある人々はキリスト者になったら、信仰を持っ たならば窮屈な生活をしなければならないと考えています。いうならば、キリスト者にな ると神様の戒めを絶対に守らなければならない、守らないと神様の裁きがある、神様の怒 りを受けてしまう。それこそ品行方正に生きなければならないとか、キリスト者は穏やか で腹を立てることなんかしてはならないと勝手に思い込むのです。それだから、神様の戒 めを守ることが救いの条件のようなものになっていくのです。礼拝や献金あるいは奉仕に しても、行かなければ、しなければならないと考えることから、自分自身の救いの条件を 造り上げていくのです。礼拝に行くことを義務としたり、任務としたりするところに疲れ る原因を造っていくのです。挙げ句の果ては、教会に行くことあるいは神様を熱心に信じ て生きることに疲れを覚えて、逆に礼拝から遠ざかっていくのではないでしょうか。そも そもこの私が神様を信じていこう、あるいは神様のすべてを知らなければならないという ことが信仰においての疲れを生み出していくのです。パウロは、本物の神様を知って生き ること、いえ神様から知られて生きることがあらゆるもの、それこそ、こうしなければ救 われないとか、何か悪い霊のたたりがあることや神様からの裁きや怒りがあるからという ことを恐れることから解放されることだと語るのです。

  当然のことのようではありますが、パウロが神様のことを語る時には、主イエス・キリ ストによって信仰を与えられたことを前提としていました。父である神様のことを考えて いる時には、主イエスの父である神様のことを考えていたのです。それだから、あらゆる 縛られた生き方から解放されることは、主イエスを抜きにして語ることができなかったの です。そのことから4節から「時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下 に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して 、わたしたちを神の子となさるためでした。あなたがたが子であることは、神が、『アッ バ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送って下さった事実から分かります。」 と語ります。私たちは真っ直ぐに大人にならずに過ごしている。信仰にしても、もうこれ 以上成長しなくてもいいと甘んじてしまっている。それこそ、神様の子どもとして自由に 生きるよりも何かに縛られて生きていたほうがましである。それこそ、成長することがで きなくなった人間、人間として生きることを忘れてしまった人間、帰るべきふるさとを失 った人間。いえ、あらゆるものに奴隷として仕えていることすらわからなくなってしまい 、不自由の中で生きていることも自覚できなくなったことが現代も続いているのです。そ の人間を不自由から引き出すために、父なる神様が時を用意して下さったのです。ただひ とりの神の子である御子イエス・キリストをマリアという女性から誕生させたのです。し かも、そのように不自由な中で、奴隷として縛られて生きている私たちと同じような立場 になって下さったのです。神の子イエス・キリストが律法の中に生まれたということは人 間として生まれて下さったということです。究極的には、私たちをあらゆる支配の下から 、それこそ義理や義務で信じることから、あらゆるものから解き放つためにイエス・キリ ストは自ら苦しまれて十字架に掛かって下さいました。私たちの苦しみを担って下さり、 命を捧げて下さったのです。

 いうならば、私たちが神様から離れる思い、神様との関係を回復して神様の子供として 自由の中に生きるための十字架でありました。しかも、主イエスは、死を打ち破って復活 して下さった。今も生きて働いておられ、御言葉を与えつづけておられるのです。それだ から、聖書の言葉が生きて働き、私たちが命の言葉として受け入れることができていくの です。そこから、私たちの思いや熱心さが吹き飛ばされてしまい、ただ父なる神様を信じ させていただくことになっていくのです。この働きをするのが御子の霊です。つまり、神 様の霊・聖霊が注がれることから信仰が生まれていくのです。言い換えるならば、神様が 私たちに働き掛けて下さることによって、神様の子どもとしていえ主イエス・キリストを 通して養子となっていくのです。そうなのです。私たちは生まれながら神様の子どもでは なかったのです。けれども主イエス・キリストを通して神様の養子させてくたさった。そ のことから、私たちは父なる神様を信じて「アッバ、父よ」と呼ぶことがゆるされるので す。この「アッバ」とは、「お父さん」の幼児言葉です。日本では、「パパやお父ちゃん 」ということでしょう。そのように親しみを込めて私たちは父なる神を呼ぶことができる し、祈ることができていくのです。それは、なによりもイエス・キリストを通して父なる 神様が身近に共にいて下さり、救いを与え続けておられるからです。ある人が祈る時に、 「私たちが思っているよりもはるかに近くにいてくださる主イエス・キリストの父なる神 様」と神様に対して祈りを捧げました。私たちはこの先も共にいて下さる神様を父として 呼び続けて信じて神の子として自由に生き続けていくのです。

  お祈りを致します。 主イエス・キリストの父なる御神様 あなたは、私たち一人一人の名前を呼んで、「あな たはわたしの子」だと叫び続けておられます。それなのに、なかなか信仰において成長す ることなく、自由になることなく父なる神を信じて従っていくことができない私たちです 。その中においてあなたはイエス・キリストをお与えになる時を与えて下さいました。心 より感謝を申し上げます。どうか、本物の神の御子である主イエス・キリストを通して神 の子として自由に生かされていることを受け入れることができますように。ただ、神様が 共に居てくださること、どのような時にでも救いを与え続けておられることを信じて、あ らゆる縛られていることから解放されて父なる神様との喜びの交わりに生きることができ ますように、お導きをお願い致します。この祈りを救い主である主イエス・キリストの御 名によって、御前にお捧げ致します。アーメン

 5.「神のひとり子」  

  世界を見回してみますとたくさんの宗教が存在しています。私たちが信じているキリス ト教と呼ばれているものも一般には一つの宗教と認識されています。しかしながら牧師や 信徒の人々においては多くの中の宗教の一つとしてキリスト教を信仰しているとは認めて はいないようです。それは、そもそもキリスト教は宗教の一つではありませんし、まして やキリスト教というようにいわゆる多くの宗教と同じ立場であるということを好まないか らです。けれども、キリスト者以外の人々は宗教はどれも同じであり、いわばキリスト教 も他の宗教も一緒だという考えがあるようです。それですから、日常の生活の中、職場で 、学校で、近所やあるいは家庭の中で「私はキリスト者である、教会に行っている」とい うことを告げた時に、「それじゃあ、あなたが信じているキリスト教とは何ですか」とい う質問がなされることでしょう。その時に、私たちは一体どのように答えたらいいのかと いうことです。依怙地になってキリスト教は宗教ではありませんと答えればいいのでしょ うか。それにしても、決してこれは答えが決まっているわけでありませんので、様々な答 え方ができるものでしょう。「キリスト教とは、聖書の教えである」、「まことの神様の ことを教える教え」あるいは「イエス様を信じる信仰」など信仰生活の長い短いにかかわ らずにいろいろな答えを用意することができるものです。

  けれども、そのこそ注意していかないと的外れな答え方をしていくものです。ある神学 者が謎めいた言葉のように「キリスト教はキリストである」と答えました。キリスト教で あるからキリストであるということは当然ではないかと思えるでしょう。そもそもキリス ト教のキリストとは、救い主を表すものです。全世界の救い主のことを信じる信仰という ことです。それでは、この救い主つまりキリストとは一体誰なのか。これが、イエスとい うお方であり、主イエスとかイエス様と呼ばれているお方です。つまり、イエスというお 方が救い主であるということを信じることがキリスト教の根本にあるのです。イエス・キ リスト。当然のようですが、イエスは名前でありますが、キリストは名字ではなく救い主 を表す尊称だということです。いわば、イエス・キリストと呼ぶことによって、イエスは キリストつまり救い主であると告白をしているということになるのです。

  さて、多くの宗教には、当然のようにその宗教を起こした人物がいます。一つの宗教の 教えを開いた人物がいるのです。いわばその宗教を広めるため、伝えるための指導者にな る人物です。その人物は開祖というように一般には呼ばれています。その開祖が最初の信 徒になっていきます。さらに、その開祖が起こした教えをみんなが信じて生きるようにな っていくのです。そのようにして、宗教は広まっていきます。けれども、その教えそのも のを信じることが重要であって、開祖を信じて生きるというようなことではありません。 けれども、キリスト教に関しては、イエス・キリストが最初の信徒でも、イエスというお 方の教えを信じて生きるだけでいいということでもないのです。確かに、イエス・キリス トがお教え下さったことや行いというものが聖書の中に収められていますが、そのことだ けを大切にして信じるということではなく、イエス・キリストそのものを信じるというこ とになっていくのです。いわば、イエス・キリストの教えが信仰の対象ではなく、イエス というお方そのもの、その本人が信仰の対象であるということです。イエス・キリストそ のものを信じるということなっていくのです。いわゆる他の宗教のことは本来はあまり批 判をすべきではないですし、謙遜にならなければならないかもしれませんが、多くの宗教 はその開いた本人のことは知らなくても、ただ教えさえ知っていればいいということにな っていくのです。そのようなことから、キリスト教のことを知るためには、イエスという お方そのもの、その本人を知らなければならないということです。つまり、イエス・キリ ストが私たちにとって、誰であり、イエス・キリストと私たちの関係が何であるのかが本 当にわからなければキリストを信じて生きることは何にもならなくなっていくのです。

  ところで、私たちは、ここしばらく礼拝において信仰告白である使徒信条の言葉一つ一 つから御言葉を聞き取っています。今日からイエス・キリストを信じるその内容に入って いきます。つまり、私たちが信じている、いえ信じさせていただいているイエス・キリス トとは一体誰であるのかを告白している部分です。イエス・キリストをどのように信じて いるのか、その信仰を言い表している部分を今日から御言葉として受け取っていくのです 。「われらは、そのひとり子、われらの主イエス・キリストを信ず」というようにです。 この告白に先立って使徒信条においては、「われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず 」というようにまず最初に私たちは父なる神様のことを信じることを公に言い表していま す。けれども、父なる神様のことを考えている時にも、いつもイエス・キリストとの関係 を語っていたのでした。そのことがはっきりするのが、このイエス・キリストとは一体誰 なのかというこの部分です。つまり、使徒信条で告白するように私たちは、そのひとり子 であるイエス・キリストを信じるということです。そのひとり子という言葉こそが、父な る神様のひとり子であるのです。イエス・キリストと呼ばれるお方を神様のひとり子であ ると信じるということです。それでは、この「ひとり子」ということはどういう意味があ るのでしょうか。教会において普通イエスというお方は神の子であると呼んでいます。神 の息子とも呼ばれることがあります。けれども、使徒信条では、神の子と呼んでいるので はなく「神のひとり子」とわざわざ特別な呼び方をしていることです。これは、明らかに 今日取り上げています聖書ヨハネによる福音書1章の14節に「父の独り子」と語ってい る表現に基づいているものです。当然のようにイエス・キリストを信じて生きる教会は、 聖書に基づいて生かされています。私たちの信仰も聖書の言葉を基盤として生きていると いうことです。神様の言葉である聖書こそが私たちの生活のものさしであり、この聖書の 御言葉によって生かされていくということです。この御言葉によって信仰が成長していき ますし、活き活きと生かされていく、神様と共に生きていることを実感することができる ものです。けれども、この聖書に基づいて生き始めた教会は、それから後の歩みの中で、 「イエスというお方は、神のひとり子である」ということを強調しなければならなくなり ました。それですから、使徒信条の「神のひとり子」について解説をする信仰問答ではこ のような問いがなされています。「私たちも神の子であるのに、それにもかかわらずどう して主イエスだけが『神のひとり子』と呼ばれるのでしょうか」という質問です。

 確かに、私たちも信仰を持つことによって父なる神様の子どもとさせられます。私たち も神の子となるのです。主イエス・キリストと同じように神の子となっていくのです。け れども、正確には私たちと主イエスとは明らかに違いがあるのです。そのことを答えるよ うに信仰問答の答えは「神から生まれたまことの神の子はただ主イエス・キリストのみ。 この神がお生みになったひとり子である神こそがイエス・キリストである」というように 語っています。ヨハネによる福音書1章18節では「父のふところにいる独り子である神 」という言葉で表現しました。神のひとり子であるお方はイエス・キリストだけだという ことです。特に、神様がお生みになった子どもということで、神様と特別な関係にありま す。いえ、イエス・キリストは、神様そのものだということを言い表しているのです。私 たちが神の子と呼ばれるのに、どうしてイエスというお方だけが神のひとり子と呼ばれる のかという問い掛けは、実は、私たちは神様ではないことを明らかにすることでありまし た。私たち一人一人は、この先も神様には成りえないことを明らかに告白することが「神 のひとり子であるイエス・キリスト」を信じるということになるのです。そのようにして 、主イエス御自身は、「神さまのような人」ではなく、神様そのものであられることを信 仰によって言い表すのです。

 さて、使徒信条は教会が生まれた頃の最初の信条つまり聖書全体の言葉を簡潔に言い表 した信仰告白と呼ばれていました。それで、最初の頃の教会は、この使徒信条の言葉を受 け入れてこの言葉に同意した時に教会はキリスト者に生まれ変わる人々に洗礼を授けてい たようにです。つまり、洗礼を受ける準備の時に、この使徒信条の言葉を学び、これには っきりと同意することができた時に洗礼を授けていたのてす。けれども、この使徒信条は あまりにも簡潔に記されているために、誤解したり解釈を変えたりして受け取る人々が現 れてきました。それだから、一つ一つの事柄を詳しくするためにも様々な信条が生まれて いきました。ある信条においては、「イエス・キリストは誰か」という問いから「まこと の神より生まれたまことの神である」ということを言い表しています。もちろん、これは 使徒信条の言葉である「神のひとり子であるイエス・キリスト」のことを明らかにしなけ ればならなかったということです。そもそも、教会が生まれてきた中で、いえ教会の中に おいてでさえイエスというお方が神様そのものであるということを明らかにしなければな りませんでした。しかも、イエス・キリストは神様であるにもかかわらずに、人間になっ たということを語らなければなりませんでした。イエス・キリストは真の神であり真の人 であったというようにです。今でもこの戦いが続いているのです。というよりも聖書の言 葉にまで発展していく問題でありました。イエス・キリストの福音の全体に係わる問題で もあったのです。けれども、このことはイエス・キリストを神様と認めない人々にどのよ うな言葉で受け入れさせるのかということよりも、私たちがイエス・キリストを神様と認 めて信じることによってどのような恵みや祝福があるのかということが大切になっていっ たのです。私たち信仰を与えられた者の問題だということです。そうでなければ、何のた めに信仰を与えられたのか、何のためにイエス・キリストというお方を信じて生きている のかがわからなくなっていくからです。特に、今日取り上げていますヨハネによる福音書 は、イエス・キリストとは誰であるか、イエスというお方は神様であるということを前提 として書き記されているものでした。このヨハネによる福音書は紀元の100年ごろ、主 イエスが十字架に付けられて復活させられて教会が生まれてからしばらく経った頃に書か れたと推測されています。主イエス・キリストを信じる群れである教会あるいは共同体が 生み出していった福音書です。もちろん、神様の働きによってこの福音書が記されるよう になっていったのでした。

 さて、この当時のイスラエルにおいては、神様が人間になるということは考えられない ことでした。しかも、主イエスを信じる人々の中からも同じような考え方が起こってきた のです。ナザレで生まれたイエスを救い主とは考えるけれども、神様が人間の姿を実際に とったということを否定する人々が出てきたのです。このことは、神様が人間と実際に接 触を持つことによって、神様をそのものを汚すものであるという考え方がありました。し かも、神様を直接見たものは死ぬとまで伝えられていましたので、イエスという人は神様 ではなく、神様に近い存在であると考えられていたのです。それですから、ナザレという 地名に生まれ育ったイエスという人物は、単に外から見て、人間に見えるにすぎないとい う考えだったのです。あたかも、神様の分身がこの世界にやって来て、地上を歩き回って いるという考えだったのです。いうならば、テレビ番組の変身もののヒーロー、私の世代 ではウルトラマンですけれども、そのウルトラマンが地球では人間に姿を変えているのと 同じように、神様がこの世界においては、単にイエスという人間に姿を変えているという 考え方だったのです。そのことから、ヨハネによる福音書においても、使徒信条において も神様が人間になられたことを主張しなければならなかったのです。なぜか。それこそ、 私たち一人一人が神様になることができるからです。人間が神様なんかになれないことを 告げるためにもヨハネによる福音書1章14節において「言は肉となって、私たちの間に 宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵み と真理とに満ちていた」と記しています。神様であるイエス・キリストが一時的に人間の 姿をとって、いわば仮の姿でこの世界に降りて来られたのではなく、主イエス・キリスト は完全な意味で人間として、私たちの住む世界に降りて下さった、私たちと同じような人 間とし、肉の体となった人間として生活をなさったということです。これが、神様のひと り子としてのイエス・キリストだということです。

  繰り返すようですが、「言が肉となった」ということは、神様が人間になったというこ とです。人間が神になったのではない。神様が私たちと同じように人間になられたという ことです。ある中世の神学者が「神が人間になった」ということがどういうことなのか丁 寧に考察を致しました。たとえば、神様が私たちと同じように、肉体を取ったというけれ ども、心は神様のままであったのだろうか。理性はどうだったのだろうか。感情はどうだ ったのだろうか。理性は、私たちと人間と同じであっても、感情までも人間と同じものに なられたのだろうかというように丁寧に検証したのです。その結果、その神学者は、やは り私たちと同じ人間になられたという結論に達したのです。まさしく、イエスという人間 になっ下さって、私たちの間に宿って下さったのです。この「宿る」という言葉は、一晩 の仮の宿を取ったというようなことではありません。共に住んで下さるという意味の言葉 です。私たち人間の間にイエス・キリストが神様として住んで下さったということです。 しかも、イエス・キリストが私たち人間の中に仲間として住んで下さるということです。 イエスというお方が、神様であると共に、人間の姿になって、私たちの世界に降りて来ら れた。しかも私たち人間の仲間としてこの世界に住んで下さった。このことは、私たちの 慰めであり、それこそ恵みに満ちたものであると思えるのです。なぜならば、イエスとい うお方を私たちは、より身近に感じることができるからです。遠い存在であるような神様 をより身近にそれも主イエスを通して本当に神様はいるんだと感じることができるからで す。このことは、大変不思議なことです。私たち一人一人の存在は、それこそ消えてなく なりそうなものです。海を見ても、空を見上げてみても、私という人間が生きていること が不思議に思えてくると同時に、ちっぽけなものであり、取るに足らないものであること を感じることでしょう。そのような中で、それこそ大宇宙を支配されている神様ご自身が 、なぜ私たちが住んでいる地球の、それもただ一点にみ業を行い、ご自身の姿を表すよう なことをなさったのか。これは途方に暮れるような話であり、信じられない出来事です。

  けれども、それよりも、なぜ人間が神様の救いの対象になっているのかということです 。考えてみれば、神様は人間を無視することぐらい簡単にお出来になるお方であります。 神様に対する私たちの身勝手さ、不信仰さからすれば、たとえ私たちに関心を持たれたと しても、対立するお方として、私たちの敵として存在されてもよかったはずです。けれど も、神様は私たち人間を無視することなく、裁いたり、滅ぼしたりすることなく、イエス ・キリストにおいて人となってくださった。私たちが住む地球を選び、その地球に生きて いる私たち人間を選んで、私たちと同じ存在となって下さったのです。そのように「神の ひとり子であるイエス・キリストを信じる」ということは、スケールの大きなものです。 とても、常識で計ることのできない出来事、その信仰を私たちは与えられているのです。 それだから、16節においては「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から 、恵みの上に、更に恵みを受けた。」と表現しました。さらに、17節においては「恵み と真理はイエス・キリストを通して現れたからである」と語られています。神のひとり子 であるイエス・キリストの信じる生き方、いえまさしく信仰が与えられていることを受け 入れて生きる生き方こそが、恵みを受けていることだと聖書は私たちに示してくれるので す。この真理ということは、本当のこと、間違いのないことです。私たちはイエス・キリ ストと共に生きることによって、間違いなく生きていかれるということです。神様のもと で正しく生きるということです。それは、聖書に基づく正さです。人間中心の正さではな く、絶対的なもの、絶対者であるこの世界を支配して下さって共にいて下さる神様のもの として正しく生きるということです。それが、恵みの上に、更に恵みを増し加わる生き方 へと変えられ、神様のひとり子としてのイエス・キリストを信じ受け入れた私たちの姿と なっていくのです。

  しかも、大胆にも聖書は18節で「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところ にいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」と語っています。神様を見た という人は、世界中にたくさんいることでしょう。日本においても、私は神様を見たと言 って自分が教祖になってしまう人がいるくらいです。そのような現実から新しい宗教か起 こっているのが現実です。そのことからしても、私たちが信仰を持つ時にも、神様が生き ておられるということがわからないと信じるということは起こっていかないと思えるので す。しかも、神様そのものにお会いしなければ、神様が生きて働いておられるのかわかり ません。それだから、神様を見れば、神様にお会いすれば神様が生きておられることは誰 にでもすぐに納得できるのではないか。それだから、実際に神様にお会いしたい、見たい と願うのではないでしょうか。けれども、聖書ははっきりと神様に会った人などいないと 明言します。それでは、困るではないか、そんなことで信仰が、神様を信じることなんか 起こらないと思えるでしょう。けれども、父なる神様のふところにいる独り子である神、 つまりイエス・キリストによって神様が示されたということです。つまり、私たちはもう 神様を見たり、神様に会ったり、神様が生きておられることを確かめたりする必要はなく なったのです。大切なことは、神様のひとり子であるイエス・キリストが来て下さったこ とです。主イエスを通して神様を表して下さいました。なによりも、主イエスは、この世 界において神様の栄光を表して下さったのです。主イエスが神様であることの栄光です。 父なる神様のひとり子としての栄光です。栄光とは、イエスというお方が神様であるしる しです。それは、なによりも、私たちの救いのために十字架に掛かって下さって、三日後 復活して下さり、私たちと共に居て今も尚働いて下さり、御言葉によって恵みと祝福を、 さらに慰めを与えて下さっていることです。それだからこそ、今後も私たちは神様を見た などと言い張る必要もないし、神様に会いたいとか見たいという言って特別な経験を追い 求める必要もありません。ただ、神様を知ることは、ひとり子であるイエス・キリストを 知る以外にはないことを受け入れることです。まさしく、私たちの信仰の出発点は、イエ ス・キリストを神様と信じること、父なる神のひとり子であることを受け入れることにあ るのです。この信仰に生かされて神様を知って恵みに満ちて生きていくだけです。

 お祈り を致します。 主イエス・キリストの父なる御神様 あなたのひとり子、まさしくあなた御自身にほかな らぬイエス・キリストが私たちの中に住んで下さったために、その恵みに溢れた真理を持 って、私たちを生かして下さっております。心より感謝を申し上げます。なによりも、あ なたのひとり子であるイエス・キリストを通してしか、私たちはあなたのことを知ること ができません。どうか、恵み深く、憐れみと慰めに満ち、この世界をも支配し働いて下さ っておられる神様のことをひとり子である主イエスを通して知ることができますように。 受け入れて信じて信仰の歩みをすることができますように、お導きをお願い致します。ま た、「われは父なる神のひとり子を信じる」と告白する時、その喜びに満たされて、さら にこの後も神様である主イエス・キリストが与えて下さる御言葉によって生かされるもの とさせて下さいますように、どうぞお願い致します。このお祈りを救い主である主イエス ・キリストの御名によって、御前にお捧げ致します。アーメン

 6.「われらの主イエス・キリスト」  

  私たちは、礼拝の中でご一緒に唱えます使徒信条の一つ一つの言葉の意味を考えながら 、御言葉を聞き取っています。使徒信条におきましては、イエス・キリストをどのような お方として私たちが信じるのか、公に言い表すのかが示されているものです。それだから 、使徒信条においては、イエス・キリストがどういうお方で、私たちとどのような関係が あるのかを比較的長く語るのです。特に、この使徒信条においてはイエス・キリストとい うお方について語る時に「われらの主イエス・キリストを信ず」と告げています。その後 、「主は聖霊においてやどり」と続けられていますように、もう一度このイエス・キリス トのことを「主」と告げているのです。この「主」ということは、御主人ということです 。支配者を意味する言葉です。それは、何かの所有者を意味する言葉でもあります。みな さん方の中でも犬を飼っているお方がいるでしょう。飼い犬がいる。その犬を飼っている 家がある、その家の人は犬にとっては御主人です。その家の人々にとっては、その犬は自 分の持ち主になるでしょう。犬にとっては、御主人によって支配されてはいますが、なに よりもこの主人は自分の命を養ってくれる者となっています。このように人間を犬にたと えるということはおかしいかもしれません。けれども、聖書は飼い主と犬との関係のこと は語ってはいませんが、私たち一人一人を「羊」として、イエス・キリストをその羊の飼 い主、牧者にたとえて語っているのです。

 そのように、私たちはこの方に従うものとしてイエス・キリストを「主」と呼ぶという ことです。御主人として、自分の命を養って下さるお方として信じて従って生きるという ことです。それだから、私たちがイエス・キリストを「主」と呼ぶことができたならば、 それはそれでもうイエス・キリストのことを信じていることになるのです。特に、キリス ト教会の歴史において最初の時代には、簡潔な信仰の告白の言葉としてよく使用されてい たものが「イエスは主である」という言葉でした。それこそ、教会が生まれた頃にこの信 仰の告白が大切にされていました。それだから、復活された主イエス・キリストに出会っ て、この方に委ねる新しい生活をすることになったパウロという人物がコリントの教会に 送った手紙の中で、コリントの信徒への手紙一の12章3節で「聖霊によらなければだれ も『イエスは主である』とは言えないのです。」とはっきりと告げています。それこそ、 聖霊の働き、神様が実際に一人一人に働いて導いて下さらなければ信仰を持つことができ ないものです。それに、信じるということはイエスというお方を「主」と呼ぶことに他な らないということになります。このことは、今も十分通じるものです。「イエスは主であ る」つまり私自身も説教でこの方の名前をあえて「主イエス」と呼んでいますように、「 主イエス・キリスト」と呼ぶことができたならば、それで信仰の告白は既にできていると いうことになるのです。その代わりに、このお方を「主イエス」あるいは「イエスは私の 主である」ことを告げることができないならば、まだ信仰を持っていないことになってい くのです。よく、呼び方そのものにその人の態度が表されると言われています。人間関係 の中にありましても、気に食わなかったり、あるいは自分と無関係であるとするならば、 「あの人」とか「あいつ」というような呼び方をするのではないでしょうか。学生だけで なく、もしかしたら教会においても「〜先生」あるいは「〜長老」「〜さん」と改まった 言い方をしているのが、気に入らないことがあったり、嫌という思いが強いと陰では「あ いつはとか」あるいは呼び捨てで呼ぶということが起こるのではないでしょうか。そのよ うに自分とこの方とはどういう関係があるのかということで呼び方そのものが変わってい くのかもしれません。それですから、私が神学生の時には、教授から、もしイエスという お方を信頼し、この方を信じて生きているならば、「イエス」と呼び捨てにはしないはず だと口をすっぱく言われたのです。説教や日頃の言葉においても「イエス様」あるいは「 イエス・キリスト」それこそ、「主イエス」と厳かに呼ぶようにと注意されたのです。

  ところで、使徒信条というものは、名前の通りに使徒たちが書いたとされる信条という ように受け取りがちです。使徒というのは、復活された主イエスに直接お会いして、それ こそ、主イエスの救いである喜びの福音を宣べ伝えるために選ばれた弟子たちでありまし た。ペトロやパウロたちが後に使徒と呼ばれています。それに、信条というのは、教会誕 生の頃に生み出された信仰告白です。イエス・キリストをどのように言い表し信じている かを告げている基本的なものを信条と呼んでいます。そのことから、むかしは使徒である ペトロやパウロあるいは今日示されている聖書に登場していますトマスが書いたとされて いました。言い伝えによりますと、それぞれの使徒たちが自分が大事であると思っている 信仰を持ち寄って、信ずべきことを定めようということになり、その重要な信仰の内容を 集めたものが、使徒信条になったといわれていたのです。けれども、そうではなく教会の 歴史の基礎を築いてきました使徒たちが言い表し、宣べ伝え、教えてきた信仰に基づいて 言い表されてきた教会の信仰ということを意味していたのです。確かに、使徒たちは直接 はこの使徒信条を書かなかったかもしれませんが、使徒たちの信仰の言葉がこの使徒信条 には反映をしているということです。特に、使徒となっていくトマスの言葉が今日取り上 げています使徒信条の「われらの主イエス・キリストを信ず」という言葉に影響を及ぼし ていたのです。ヨハネによる福音書20章28節で復活された主イエスとの対話からトマ スが「わたしの主、わたしの神よ」と告白していることです。復活されて共におられる主 イエス・キリストに向かって「あなたが、わたしの主人です。あなたこそがわたしの神様 です。」と言い表した言葉だということです。

  さて、今日、聖書として取り上げていますヨハネによる福音書は最初の1章でイエス・ キリストとは誰かということを簡潔に語りました。1章18節で「いまだかつて、神を見 た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」と 聖書が語っていますように、イエス・キリストこそが父なる神の独り子であり、神様その ものであるということが語られていたのです。それこそ、21章は付録と考えられていま すので、今日示されている20章の最後の物語はこの福音書のクライマックスの場面だと 言われているのです。それだから、やがて使徒となる人物が主イエスに向かって「わたし の主、わたしの神よ」と告白をしていることがこの福音書全体においてイエス・キリスト を明らかにする、証していく人間の言葉だということです。いうならば、使徒信条が告げ る「われはその独り子、われらの主イエス・キリストを信ず」と告白する言葉が使徒とな る人物であるトマスによって告げられていることになっていくのです。実はこのトマスの 信仰告白の言葉は最初の頃の教会にとっては、重要な言葉となっていきました。この当時 は、今日のように難しく言い表すような信仰告白は存在していませんし、当然、使徒信条 は形作られてはいませんでした。それで、主イエスのことをはっきりと信じて、救い主で あると受け入れて洗礼を受ける時には、このトマスが語った「わたしの主、わたしの神よ 」という言葉を告白するように指導させていたようです。私たちの教会においては、使徒 信条を含んでいます日本キリスト教団信仰告白を告白させるようにです。

 さて、それでは、ここに登場している主イエスの弟子として選ばれた人物であるトマス は、教会にとってふさわしい人物であったのでしょうか。いえ、むしろ、そうではなく決 してりっぱな信仰を持っていたとか、信仰熱心ではなかったようです。このヨハネによる 福音書が人々に読まれるようになってからずいぶん早くからトマスのことを「疑い深いト マス」というように不名誉な呼び方をしていたようです。これは、20章25節で「あの 方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入 れてみなければ、わたしは決して信じない。」と疑いの言葉をトマスが語っているからで す。なによりも、疑い深いということは、神様に対して信頼していないということになる でしょう。神様に不平不満があるからこそ、疑いが募っていくのだと思われるのです。そ れだから、疑い深いということは、一番信仰が弱いということになるのかもしれません。 けれども、賢いからこそ、知識や理屈があるからこそ疑いが強いということも考えられる ものです。それでも、神様を信頼しない、信じないということですから、信仰が弱いとい うことには変わりないと思えるのです。それにしても、わたしたちはどこかで信仰が弱い ことや疑い深いということが悪いことだと考えています。それだから、私たちも疑うけれ ども、トマス程でもない。あるいは、私自身もトマスと同じように神様のことを疑ってし まうと考えて落胆してしまうものでしょう。果して、そのように考えられるだけでしょう か。このトマスが疑いの言葉を語ったのは、復活された主イエスが他の弟子たちがひとつ のところに集まり、主イエスが尋ねてくださっていた時に、トマスひとりだけが弟子たち に一緒といなかったことに対してのことでありました。24節で「十二人の一人でディデ ィモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかたった。」と記さ れているようにです。この場面においては、当然、主イエスを裏切って自殺をしてしまっ た裏切り者ユダはいませんでした。けれども、聖書には12人と記されてあります。トマ スはユダを含めた12人の弟子の一人であるというようにです。それだから本来ユダも疑 い深いトマスも主イエスが選んで下さって、愛して下さった弟子たちであったのです。

 それにしても、このトマスは「疑い深いトマス」と呼ばれる前は、「ディディモ」と呼 ばれていました。この当時、トマスという名前の人はずいぶんたくさんいたために、どの トマスかを区別するためにニックネームのようなものが付けられていたのです。実は、デ ィディモというのは、双子という意味です。双子のトマスと呼ばれていたのです。そのこ とから興味があることにはこの双子のもう一人はどこへ行ってしまったのかということで す。この福音書には登場していませんし、何も記してはいません。キリスト者になったの かどうかそれもわかりません。ただ、ある説教者が大変面白いことを語りました。「トマ スはふたごであった。そのもうひとりはどこへ行ってしまったのか。実は、私たち一人一 人がそのトマスの片割れだ。私たちの誰もがもうひとりのトマスだ。」というようにです 。双子であるトマスのもう片方は、別に探さなくてもよくなったということです。私たち 一人一人であるからです。私たちも他の弟子同様に実際に主イエスにお会いしたいと願っ ている。会って信じたいと願っている。けれども、言葉だけを聞いているだけでは納得が できない。それは、なによりも主イエスに会いたいからだと思えるのです。誰でもが、神 様を見たいし、神様の救いを求めて生きているのではないかと思えるのです。そのように して、私たちも復活された主イエスにお目かに掛かることによって「わたしの主、わたし の神よ」と信仰の告白をすることになっていくのです。しかも、使徒信条の言葉である「 われはその独り子、われらの主イエス・キリストを信ず」と公に告白することができてい くのだと思えるのです。

  この時、他の弟子たちはすでに復活された主イエスにお会いしていました。喜びに包ま れていたからこそ、トマスにも同じような経験をさせたかったのです。トマスにも主イエ スが必ず尋ねて下さるという期待をして待っていたのです。主イエス・キリストを受け入 れる備えをしていたのです。やがて、主イエスが来られて真ん中にたって「あなたがたに 平和があるように」と言われたことが聖書には描かれています。この「平和があるように 」という言葉は、シャロームというユダヤ人にとっては挨拶の言葉です。しかし、ただの 挨拶の言葉ではない。真実に神様と共にある平和を告げるために主イエスは弟子たちをい え、疑いの中にあったトマスを尋ねて下さったのでした。そのことから、主イエスはトマ スひとりに対して27節で「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、 あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者にな りなさい。」と語られました。自分の手で主イエスの釘跡を触らなければ、本物の主イエ スかとうかわからないではないかという疑いの思いで一杯であったトマスでした。けれど も、主イエス御自身が自ら姿勢を低くして下さいました。決して、トマスを叱り飛ばすよ うなことはなさいませんでした。トマスの疑っている姿勢を主イエスは受け入れて下さっ たのです。ここで疑問に思われることが、トマスがこの場面において実際に主イエスに触 ったかどうかです。しかしながら、あえて聖書にはトマスが主イエスに触ったのか、触ら なかったのかは描かれてはいません。そんなことは聖書は問題にはしていなかったようで す。ただ、トマスが主イエスの体に触って信じたと語られてはいないことから、もう触る ことは無意味なことに変わったのではないでしょうか。それよりも、ここでようやくトマ スが主イエスに向かって「わたしの主、わたしの神よ」と告白したことです。この時、ト マスはもしかしたら、主イエスの御前にひざまづいたのかもしれません。それにしても、 なぜ、トマスがここで主イエスに対する信仰の告白をすることができたのかということで す。トマスは復活された主イエスに会うまでは、イエス・キリストが十字架に付けられた ことを深刻には受け止めてはいなかったようです。改めて、復活された主イエスにお会い して、手にある釘で打たれた傷痕、わき腹にある槍で刺された傷痕を見た時に、トマス自 身が打ちのめされてしまったのです。復活された主イエス・キリストの言葉は、十字架に 付けられた主イエス・キリストの言葉でもあったからです。つまり、主イエスの言葉の中 には「おまえのために、もう一度十字架の苦しみ、痛みを繰り返そう。おまえが信じる者 になるために」という意味が隠されていたのではないかと思えるのです。この時、トマス はこんな弱い私のために、十字架に掛かって救いを与え、ゆるしを与えて下さったことを 初めて知ることができたのです。主イエス・キリスト御自身が尋ねて下さらなければなら ないことでした。それだからこそ、新しく復活の主イエスに出会ったからこそトマスは、 主イエスに対して「わたしの主、わたしの神よ」と叫ばずにはおられなかったのです。そ れだからこそ私たちが使徒信条で「われらの主イエス・キリストを信ず」という言葉を告 白する時にも同じことが起こっているということがいえるのではないでしょうか。

  疑いの中にあったトマスでありました。それこそ、神様から離れていましたけれども、 ようやく平安を与えられて、許されていることを受け入れることができたトマスは、主イ エスに支えられながらも「わたしの主、わたしの神よ」と語ることができました。そこで 、主イエスは29節で「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いであ る。」と語られたのです。弟子たちは、当然のように復活された主イエス・キリストを実 際の目に見ることができました。けれども、今は私たちは実際に肉眼で主イエスを見るこ とはできません。けれども、ここで見ないのに信じる人は、この弟子たちよりも、トマス よりも偉いということを語られておられたのではありませんでした。むしろ、見ないで信 じることができる人を祝福されておられるのです。それは、なによりも主イエスを信じる 喜びの中に御自身が招いて下さっておられるからです。私たちに向けて御言葉を語ってお られるからです。まさに、私たち一人一人が神様の働きである聖霊の力によって主イエス にお会いして、信じるようになるためにです。そのようにして私たち一人一人が主イエス ・キリストに向かって「わたしの主、わたしの神よ」と信仰の告白をして生きることにな っていくのです。それにしても、使徒信条においては「我は信ず」と始めながらも、ここ では「我が主イエス・キリスト」とは語ってはいなくて、「我らの主」というように複数 として語っていることです。これは、私だけの、私一人の主イエスではないということに なります。つまり、信仰というものは一人では成り立たないのです。主なる神様、主イエ ス・キリスとの私との関係は一人では成り立たないのです。すべての人の「主」であると いうことです。

  特に、今日のトマスの物語においては、26節で「八日の後、弟子たちはまた家の中に おり、トマスも一緒にいた。」と記されていました。弟子たちは八日後、一つの家に集ま っていたのです。八日後というのは、復活された主イエス・キリストに弟子たちがお会い して八日後のことです。主イエスが復活されたのが日曜日の出来事であり、その日にトマ スを除く弟子たちにお会いになっていたのです。日曜日から八日後、イスラエルにおいて はその日の日曜日も日にちを数えますので、次の日曜日のことです。再び弟子たちは日曜 日に集まったのです。何のためにか。神様に祈りをし、礼拝を捧げるためにです。いえ、 主イエスにお会いするために集まっていたのです。まさしく、そのようにして主イエスに お会いして、信仰の告白をするために集まったことになるのです。ここから教会の歴史が 始まったのです。やがて、いつも主イエスの復活された日曜日に一つのところに集まり、 弟子たちは神様を礼拝するようになっていったのです。一人で信じるのでなく、教会が信 じるようになっていったのです。みんなと共に信仰の告白をするようになっていったので す。ある説教者が告げるのです。「復活された主イエスは、今われわれと共に生きておら れる。教会として生きておられる。教会として存在しておられる。だから教会の礼拝に出 ないと、教会の仲間の話を聞かないと、教会での説教を聞かないと、復活された主イエス に会うことはできないし、『私の主、私の神よ』という喜びの言葉もわれわれの言葉には ならない」そう呼びかけます。また、宗教改革者ルターは言います。「われわれが自分の 罪、自分の心に悩まされる時、自らを元気づけて慰めてこう言ったらいい。これでもなお 、わたしは洗礼を受けている。いやしくも洗礼を受けている以上救われている。魂も体も 、永遠の命を与えることが約束されている。」というようにです。私たちもトマスのよう に疑い深くなる時がある。それこそ、神様なんか信じられない時がある。恐れに満ちてし まう。その時こそ、わたしは洗礼を受けている。これでも主イエスに会っていただいた人 間なのだ。わたしは、これでも「あなたこそ、わたしの主、あなたこそわたしの神」と告 白した人間なのだ。そう主イエスの御前に告白することができたら、必ず主イエスは支え て下さる。そのために、われらの主イエス・キリストとして、ここで、教会で生きて働い ておられるのです。それだから「われらの主イエス・キリストを信ず」という言葉を告白 して生きることが喜びとなっていくのです。既に洗礼を受け入れた方は、主イエスに出会 い続けて、洗礼を受けた時のあの喜びを思い起こして歩み続けていただきたいと願うので す。まだ洗礼を受けられておられない方は、一日でも早くイエスというお方を「主である 」と告白することができますように、主にお祈りを捧げたいと思うのです。さましく、イ エス・キリストこそがわれらの主イエス・キリストであるからです。

 お祈りを致します。 天の父なる御神様 私たちはあなたがお送り下さった独り子であるイエス・キリストを「 主」と呼ぶことができるようになりました。このイエスと呼ばれるお方こそが、私の主、 私たちの主であり、教会の主であります。どうか、このイエスという名によって、「われ らの主イエス・キリスト」信じて、言い表して信仰の歩みをしていくことができますよう に、お導き下さい。また、なによりも洗礼を受けた私たちであること、イエス・キリスト が「われらの主」として捕らえて下さっていることを心から信じて、いついかなる時でさ えも主イエスと共に喜んで歩んでいくことができますように、お導き下さい。まだ、洗礼 の志を与えられていない方々の上に、どうか、主イエスを真の救い主であり、神様である ことを信じることができますように、聖霊の豊かな導きを与えてくださいますように、ど うぞお願い致します。このお祈りを救い主である主イエス・キリストの御名によって、御 前にお捧げ致します。アーメン

 7.「イエス・キリストの誕生」

 私たちは礼拝において使徒信条が告げる一つ一つの言葉を聖書を通して学び始めまして 、今日から新しい重要な部分に入っていきます。いうならば、使徒信条が中心に告げてい ることは、イエス・キリストが何をなさったのか、何をなさっておられるのか、これから 何をなさろうとしておられるのかということです。使徒信条におきましては、最初に父な る神様のことを告げていました。「われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず」という ようにです。けれども、重要なことは父なる神様との関係においてイエス・キリストのこ とを信ずということを次に告げていることです。「われはその独り子、われらの主イエス ・キリストを信ず」というようにです。その次から、その私たちの主イエス・キリストと いうお方が、どのような歩みをなされたのか、私たちの関係においてどのようなお方なの かが示されていくのです。まず、イエス・キリストを語る上で最初に「主は聖霊において 宿り、処女マリアより生まれ」ということが告白されます。この言葉において、イエス・ キリストの誕生のことを私たちは告白をするのです。いうならば、主イエスの誕生である クリスマス物語を私たちは信じ受け入れて告白をしていくことが求められているのです。 けれども、そのような主イエスの誕生であるクリスマスは、一人一人に驚くべきことを見 せてくれますが、つまずきにも変わっていくのではないでしょうか。「主は聖霊において 宿り、処女マリアより生まれ」というように信じられない言葉を使徒信条において告白し ていくからです。  

 ところで、使徒信条は聖書に基づいて形作られたものです。聖書の言葉を凝縮して語る ならば、このように言い表すことができる、いわゆる神様を信じるという信仰のエッセン スが詰まっているものです。それにしては、新約聖書の中の主イエスが実際どのようなこ とをなされたかを描いています福音書を読みますと、主イエスの言葉がいくつも残ってい ることがわかります。主イエスの教えられたことがたくさん記されています。しかしなが ら、使徒信条には、一体イエス・キリストがどういう教えを語られたのか、どれほど熱心 に愛を説かれて、私たちを愛しておられるのか、反対にどれほど神様の裁きや滅びの厳し さが語られているのかについては、何も告げていません。病人の癒しや弱い者を救って下 さったことやましてや主イエスが行われた一つ一つの奇跡も取り上げてはいないのです。 ただ、使徒信条は、一貫して主イエス・キリストがどういうお方なのかを語っているだけ です。いわゆる、主イエス・キリストの歴史を物語っているのです。この歴史こそが、救 いの出来事です。確かに主イエスが教えて下さったことも大切だけれども、最も重要なこ とは主イエス・キリストが私たちのために何をして下さったのかということです。私たち は、主イエスの教えや言葉だけを信じるのではなく、その本人、イエス・キリストを信じ て生きることが最も重要なことだからです。それだから、使徒信条が告白する中心には、 主イエス・キリストが一体誰なのかが記されていくのです。最初に、主イエスの誕生のこ とが告げられていきます。けれども、これこそが人にとってはつまずきの基になっていく ものであり、受け入れることができないものであり、信じられないものとなっていくでし ょう。「主は聖霊によりて宿り、処女マリアより生まれ」という言葉がです。

  さて、この「聖霊において宿り」の宿りという言葉は、聖霊において受胎したというこ とです。イエス・キリストは聖霊によって地上の存在となられ、それこそ処女マリアから お生まれになったということです。特に、日本語に訳されています使徒信条においては「 処女マリアより生まれ」となっていますが、原文では「マリアより生み出された」という ように受け身になっているのです。処女マリアを通してお生まれになったということです 。このことを教会用語では、処女降誕と呼んでいます。もちろん、これは処女マリアが生 まれる物語ではなく、処女であったマリアから御子であるイエスというお方がお生まれに なったということです。そのようにこの使徒信条の言葉に注目していくならば、人によっ ては処女であった女性が男の子を生んだということだけを問題にするのではないでしょう か。けれども、一番重要なことは主イエス・キリストの誕生は聖霊によってそのことが起 こったということです。聖霊とは、神の霊のことです。神様が霊を注いで下さるその働き のことを語っているのです。神様が働いて下さらなければ、処女降誕は起こらないという ことです。もちろん、処女降誕を科学的に説明せよと言われてたり、この「処女降誕」に 変わる良い言葉があるのかと言われれば、答えを見出すのに困惑が生じてきますけれども 、なによりも聖霊によって受胎したということと処女降誕を分けることなく「主は聖霊に よりて宿り、処女マリアより生まれ」という言葉を丸ごと信じて受け入れることが大切だ ということです。どうして、処女が子供を生むのかということだけに興味を持たないとい うことが大事なことなのです。使徒信条を解説している書物に東京神学大学が出しており ますパンフレットの一冊として「正しい信仰」という小冊子があります。その書物におい て「主は聖霊によりて宿り、処女マリアより生まれ」という部分の解説についてこのよう な言葉から始まっているのです。「クリスマスの喜びに、感動しない人はありません。ク リスマスは、偉大な人間の誕生だから、うれしいのではなくて、神のみ子がお生まれにな ったから、喜ばしいのであります。しかし、神の御子が生まれたのであるとすれば、御子 は、人間の女から生まれた、ということになります。ここに、クリスマスの不思議があり ます。み子が聖霊によりてやどり、処女マリアより生まれた、と信条が告げるのは、クリ スマスの神秘を語ろうとするのであります。」というようにです。

  先程から私自身も語ってきましたように、多くの書物や人々が処女マリアからの誕生を 語る時には、戸惑いや困惑から語るのではないでしょうか。「こんな不自然なことがどう してあるのか」あるいは「こんなことは、現代では受け入れることができないけれども」 というようにです。そのように前置きをしてから「この物語の本当の意味」を語るように 努力をするのです。けれども、この「正しい信仰」の著者が語ることにはクリスマスはみ なんでお祝いするではないかと問い掛けるのです。この内灘教会においても2か月後にク リスマスをお祝いをすることでしょう。しかも、クリスマスには日頃、教会から離れてい る人や関係がないと思っている人々でさえも教会へと足を運ぼうかなと考えるようになる 。しかも、家族と共に主イエスの誕生の歌を歌い、プレゼントを交換することがある。ク リスマスはなぜ嬉しいのか。ただ、一人の偉人が生まれたということだけで、世界中が何 年も何年も喜び、お祝いをするものでしょうか。クリスマスにはもっと大きな喜びが、確 かな真実がクリスマス物語にはあるのだとみんながどこかで薄々思っているのではないで しょうか。それこそ、神の御子が一人の人間、一人の娘からお生まれになったという、ま ことに神秘的な、深い神様の働きをみんなが祝っているのです。しかも、主イエスが行わ れたことは、最初から英雄的な行為ではなく、むしろ幼子として、一人の人間である処女 マリアから生まれてくだっさたことに始まったということです。神様が人間イエスとして 生まれて下さったということです。ここに大きな喜びがあるのです。それだからこそイエ ス・キリストが私たちと同じ人間となって下さったことを表し、それが聖霊によるもの、 神様の働きによるものとして使徒信条は「主は聖霊によりて宿り、処女マリアより生まれ 」と告げているのです。特に、この事実を語っている聖書は、マタイによる福音書とルカ による福音書だけです。しかも、今日取り上げていますルカによる福音書1章26節から の物語は、使徒信条が言い表している事柄を具体的に、しかも大変詳しく語っているもの となっています。

  さて、そのことから今日示されている聖書の物語を見ていきますと、マリアという女性 が神様から遣わされた天使ガブリエルから救い主を身ごもっていることのお告げを聞くこ とから始まっています。この時、マリアは戸惑い恐れました。このマリアが一番驚いたこ と、恐れたことは、自分には絶対ありえないことだと考えたからです。34節で「どうし て、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」とマリア が驚きの言葉を語っているようにです。人間の目から見て、絶対ありそうもないこと、不 可能であると語ったのです。ありそうもないこととは、人間の力ではどうすることもでき ない絶望的なことでありました。マリアは、この時、自分で自分をどうすることもできま せんでした。今、自分の身に起こっていることに対して、解決する力が全くなかったので す。マリア自身、全く無力感を持っていたことでしょう。けれども、人間としての無力感 や恐れを感じるのはマリアだけではありません。特別な立場に立たされた人間だけではな いです。私たちも少なからず、自分ではどうすることもできない、人間の力ではどうしよ うもない問題を抱えて生きているのだと思えるのです。誰かに相談しても、これといった 解決が得られなかったりすることがあるでしょう。しかも、自分が死ぬかもしれない重い 病気になったり、あるいは誰か親しい人の死にぶつかったりすると、「どうして」とつぶ やいて、人間の無力さを感じるのではないでしょうか。人間と人間というように人間同志 で毎日を生きているのに、人間だけでは、どうしよもないことが私たちの人生には起こっ ていくのです。どんなに、表面で明るく、楽しくしている人でさえも、もしかしたら自分 たちの知らないところで、悩み苦しんでいるということがあるのかもしれません。それだ からこそ、多くの人々が苦しみや病気がない人生を歩みたいと考えるのではないでしょう か。しかしながら、現実には、人間の力ではどうしても解決ができない問題が次から次へ と起こっていくものです。

  このマリアが救い主を身ごもった物語は、人間の予想をはるかに越えたものでありまし た。使徒信条が告げる「主は聖霊によりて宿り、処女マリアより生まれ」ということを言 い表すことでさえも私たちの予想をはるかに越えたものとなることでしょう。けれども、 このクリスマス物語に気づかされることは、「恵み」という言葉が使われていることです 。マリアに向かって28節で「おめでとう、恵まれた方」、30節で「あなたは神から恵 みをいただた」というように天使が二度繰り返して「恵み」を語っていることです。この ことは、たとえ驚くべきこと、恐れることがあったとしても、神様が恵みをお与えになる ということです。まさしく、人間とは、神様の恵みと出会う存在であるのです。しかも、 人間に神様の恵みがやって来るのです。聖霊において身ごもって、処女であるマリアから イエス・キリストが誕生したということは、私たちの世界に主イエス・キリストがやって 来られたということになります。つまり、救いである恵み