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1.「われは信ず」

11.「よみにくだったキリスト」

2.「天地を造られた神」

12.「死人のうちより甦ったキリスト」

3.「神の全能」

13.「天にのぼられたキリスト」

4.「父なる神を信ず」  

14.「神の右に座すキリスト」

5.「神のひとり子」  

15.「再び来られるキリスト」

6.「われらの主イエス・キリスト」

16.「聖霊を信ず」

7.「イエス・キリストの誕生」

17.「教会を信ず」  

8.「ピラトのもとでの苦しみ」  

18.「聖なる公同の教会」

9.「十字架につけられたキリスト」

19.「聖徒の交わり」

10.「死にて葬られたキリスト」

1.「われは信ず」  

 今日から、しばらくこの礼拝において信仰告白である使徒信条の言葉一つ一つを取り上 げまして御言葉を聞いていきたいと思っています。けれども、礼拝の中で使徒信条とはど ういうものであるのか、歴史的にどういう働きをしてきたのかだけを学ぶのではなく、基 本はあくまでも聖書の言葉から使徒信条を説き明かしていきたいという試みです。このこ とを使徒信条の講解説教と呼んでいます。使徒信条の言葉一つ一つを聖書の言葉によって 講義を行い、解説をしていくという意味です。それですから、聖書から離れて御言葉を聞 き取ろうというものではありません。あくまでも聖書の言葉を中心に説き明かしをするこ とはどのようなものを取り上げても変わらないものです。それよりも、使徒信条そのもの が聖書の言葉を基にして造られたものでした。それですから、聖書の言葉を読み取ってい きますと使徒信条の言葉も理解することができるということです。というよりも聖書が語 っている神の救いとはいったい何であるのか、信仰とは何かという急所が使徒信条に表さ れているのです。聖書は、旧新約聖書合わせて66巻で日本語訳であるならば約2千頁に 渡って神の救いのことが記されています。これを私たちが全巻読み取って、そのすべてを 理解することはほとんど不可能に近いものです。一信徒が理解できるような、いえ聖書の 言葉に四六時中触れていると思われる牧師ですら一生掛かってもとうてい理解することな んてできないものでありましょう。

  それだからこそ、聖書の多くの言葉を受け取って理解するためには、結局、急所は何か ということが考えだされてまとめられていったのでしょう。ましてや、信仰を言い表して 洗礼を受ける者にとっては、聖書が一体何を告げているのか公に告白することが不可欠な こととなっていったのです。しかも、教会において信徒の訓練や教育をすることにおいて 、聖書が語っている神の救いの急所を短く、簡潔に語っていくとこういう言葉になるとい うものを必然的に造らなければならなかったのかもしれません。そのようにして使徒信条 が形造られていきました。使徒信条と記されていますように、最初は主イエスの直接の弟 子たちである12人が造った「使徒たちの信条」というように呼ばれていたのです。主イ エスの復活を直接目の当たりにして教会の基礎を形造って伝道していた使徒と呼ばれる弟 子たちが使徒信条を造ったというようにです。それですから、12人の使徒が1節づつを 持ち寄って編集して使徒信条が出来上がったとも言われているのです。そのことから、使 徒信条を12項目に分けて説き明かす方法があるくらいです。しかしながら、使徒信条が どのような歴史的な経過によって出来上がってきたのか、今ではよく分かってはいません 。恐らく、主イエス・キリストがよみがえられ天にのぼられてから使徒たちが伝道を始め 、教会が形成し始めた頃には、この使徒信条の原型が洗礼準備のために使われていたのか もしれません。それでも、最初に使徒たちが信仰を言い表すために書いたものであると考 えられていましたから教会での最初の信仰告白と呼んでも差し支えないのかもしれません 。しかも、この後に様々な信条や信仰告白が登場していくのですが、この使徒信条の影響 を受けていないものはない程です。私たちが所属しています日本キリトス教団の信仰告白 は、使徒信条に前文を付けたものです。それですから、使徒信条を礼拝の中でみなさんと 共に唱えて信仰の告白をしているのです。しかも、使徒信条はキリスト者一人一人が共通 して言い表している信仰の言葉です。洗礼を受ける時にも、自分の言葉を信仰の言葉とし て語ったのではなく、教会が語り継いできたいうならば使徒信条の言葉に同意することに よって、つまり公に言い表すことによって神様を信じて信仰に入ったと思うのです。一人 一人が使徒信条を受け入れて教会の中に入会して、教会員になったと思われるのです。

  さて、使徒信条についての最初の説教は「われは信ず」ということから始めています。 今日もこの後、使徒信条を唱えてみればわかりますように、日本語ですと「われは何々を 信ず」という言葉が繰り返されています。しかしながら、この使徒信条の原文ですと「わ れは信ず」という言葉が一番最初に出てきまして、それが父なる神から主イエス・キリス トまでの事柄に及んでいるのです。その後、二度目の「われは信ず」という言葉が出てき まして聖霊のこと、教会のこといわゆる私たちの信仰生活のことについてのことが述べら れているのです。原文は「われは信ず」という言葉が2度使われて使徒信条においては大 切な位置を占めているのです。現代の日本語ですと「私は信じる」ということです。この 「われは信ず」私は信じるということについてある外国の説教者が「われ」とは一体誰な のか、「信ず」ということが一体どういうことなのかをそれこそ何週も渡って嫌になる程 に丁寧に聖書の言葉から説き明かしをしているのです。それだけに、この「われは信ず」 という言葉だけでも奥が深いのかもしれません。ただみなさんと共に考えていきたいのは なぜ使徒信条が「われは信ず」となっていて「我々は信ず」とどうして言わないのだろう かということです。なぜ、「われは」とひとりなのだろうかということです。単数なのだ ろうかということです。お気づきだとは思いますが、この使徒信条は、教会の信仰告白と してみんなと一緒に唱えます。私たちが教会の信仰として告白をするということです。し かも、この使徒信条がむかしから洗礼の時に用いられてきました。その時に「あなたは何 々を信じますか」という問いに対して使徒信条の言葉が示していますように「わたしは父 なる神を信じます」というように定まった答えを求められたのです。

  私たちが洗礼を受ける時にただ使徒信条の言葉を自分の言葉として告白し、受け入れて きました。それですから使徒信条においてわたしの信仰が語られていると思われても、ど うも納得できないような気がするのです。私たちと語ったほうが気が楽なような気がする のです。しかも、なぜこのことが私の信仰なのだろうかと戸惑うことがあるのではないか と思われるのです。私の信仰と言いながらも、決めつけられた言葉を、きちん型にはまっ た言葉を同意させられるからです。つまり、なぜこの型にはまった文章を私の信仰の告白 として公に語らなければならないのかということです。まるで、数学の方程式や物理や科 学の法則で決まっているかのような答えを求められるからです。このように考えることは 私たちが信仰を持つことに対して誤解があるからではないでしょうか。信仰とは、いわゆ る神様を信じるということです。どういう神様を信じて、どういう神様と共に生きていく かということです。しかも、どのような神様によって救われているかということです。し かしながら、私たちは自分たちの信仰をどこかで自分で決める自分の問題だと思っている ことでしょう。信仰とは、自分の魂の一番深いところの問題ではないか。それだから、「 お前はこれを信じるのだ」と押しつけがましくいわれると、どうも納得できないのです。 自分だけの信仰を自分のこととして大事にしたいと思えていくのです。しかしながら、時 々は、信仰が自分の信念と置き換えられる危険があります。自分自身でこのような神様を 信じているから大丈夫だということは、以外にも随分わがままなものになっていきます。 しかも、自分の信念によって思い描かれる神様ですから思い込んだらなかなか心を変えよ うとはしなくなっていくものです。しかも、信念という名前を借りた信仰ですから、自分 が熱中している時は、夢中になるでしょうが、飽きてしまったら、あるいは嫌になったら さっさと捨ててしまおうと考えるのではないでしょうか。信仰とは、私がこう思う、私が こう信じているという信念ではないのです。それですから、信仰とは私たちの側にはなく 、神様から与えられるものであり、神様の言葉である聖書の言葉によって示されるという ことです。それ故に、聖書の言葉のエッセンスが詰まっている使徒信条の言葉を私の信仰 の告白として語るということになっていくのです。

 さて、今日取り上げましたマルコによる福音書8章27節から30節までの聖書の言葉 は弟子の一人であるペトロが主イエスに対して信仰の告白をした物語です。ここに、主イ エスが弟子たちと一緒に伝道されていた頃の信仰の告白が語られています。信念とは違う 信仰のこと、わたしは信じているということがどういうことなのかが主イエスの福音の物 語に記されているのです。このマルコによる福音書は、福音書の中でも最初に書かれたも のであると言われています。この福音書は、主イエスの生涯のことが書かれている伝記の ようなものですが、厳密には伝記ではありません。主イエスの喜ばしい知らせつまり福音 が語られているのです。私たちにとっても、喜びの知らせのことが記されているのです。 その喜びの知らせこそが、神様の救いのこと、恵みのことです。私たちが唱える使徒信条 もまた神様のよき知らせを公に告白しているのです。聖書そのものが、神様からのよき知 らせ、幸せををもたらしてくれる喜びの手紙であるならば当然のことでしょう。実は、こ の喜びの知らせが書かれているマルコによる福音書の8章27節からの物語は丁度この福 音書の真ん中にあたります。中間地点、つまりマラソンで言えば折り返し地点にあたるの です。みなさんも学校の授業などで走ったことがあるでしょう。私は高校時代、水泳部に 所属しておりました。ただ、走るだけのスポーツであるマラソンとそんなにも変わらない スポーツです。ただ、泳ぐだけというようにです。その水泳部の練習においてもよく2千 メートルというような長い距離を泳いでいました。とても長い距離に思えますが千メート ルを越えるとほっとする思いがしました。なんでもそうですが、折り返し点に来ると特別 な思いがしてきます。ゴールが見えているということは安心する思いが致します。ただ、 あとはゴールに向かって進むだけです。

  ここで、主イエスにはゴールというものがはっきりと見えていました。進むべき道がは っきりとしていたのです。特に、主イエスは弟子たちが信仰告白をした後に聖書は31節 で「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たち から排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始めら れた。」と記しています。ここにおいても神様の救い、恵み、勝利である主イエス・キリ ストの十字架と復活がはっきりと見えておられたのです。けれども、弟子たちはゴールが はっきりと見えていなかったのです。弟子たちの目が見るべきものを見ていなかったので す。だからこそ、ここで主イエス自ら弟子たちにお尋ねになるのです。信仰を尋ねられる ということです。私たちが使徒信条を告白することも、見えないゴールを見定めることに あるのです。使徒信条を公に言い表すことによって、一体私たちが何を信じて、何によっ て生かされて人生を歩んでいるのかをたえず確認するためにです。特に聖書は27節で「 イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途 中、弟子たちに、『人々は、わたしのことを何者だと言っているか』と言われた。」と記 しています。フィリポ・カイサリア地方は、巻末の地図「6新約時代のパレスチナ」を見 てわかりますように、神殿がありますエルサレムから随分北に離れた場所にありました。 しかも、信仰をお尋ねになった場所は神殿の正面でも、祭壇の前でも、会堂でもありませ んでした。道の途中の出来事でした。信頼する弟子たちを集めて、きちんとあらたまって 「さあ、これから大事なことを尋ねよう。わたしは一体誰なのか」と言われたのではなか ったのです。道を歩きながら尋ねられたのです。

 ところで、私たちは信仰を持つということが教会内のことであると思っているのではな いでしょうか。このように日曜日の礼拝においてだけキリスト者になるというようにです 。それですから教会から一歩外に出るともう既にそれこそキリスト者ではなくなると思え ていくでしょう。けれども、キリスト者であるということは、四六時中のことです。たと え、教会から離れていても、神様を信じないと語っていても、信仰の告白を言い表して洗 礼を受けた限りにおいてはキリスト者には変わらないのです。つまり、主イエス・キリス トは私たちの日常の生活の中でたえず信仰を尋ねられておられるのです。毎日の自分の家 庭において、会社において、学校において、主イエスとは誰なのか、一体あなたはイエス ・キリストとどういう関係があるのかを問われているのです。あなたは主イエスによって 生かされて信じているのかが問われているのです。それこそが信仰の問いであり、これに 答えることが信仰告白だということです。しかしながら、主イエスは弟子たちに向かって 最初は「人々は私を誰だと言っているか」とお尋ねになりました。世間ではどのように言 っているのかお尋ねになったのです。このことは、弟子たちにとっても無関心なことでは なかったと思われます。自分たちの仕事を捨ててまでも主イエスに従ってきて弟子たちで す。主イエスの評判が気になっていたことでしょう。私たちも主イエスのことを知らない 人々がどのように思っているのか気になるところでしょう。しかし、あえてここで弟子た ち自身に世間の人々の声を聞かれるのです。28節で弟子たちが答えています。「『洗礼 者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と 言う人もいます。」というようにです。洗礼者ヨハネは、本物の救い主である主イエスが やって来られるために準備をしていた人物です。洗礼者ヨハネは、結局は神様でも救い主 でもありませんでした。エリヤは、預言者の一人でした。神様の言葉を人々に伝える者で ありました。つまり預言者の一人でありました。それですからどの答えも神様を表すもの ではなく、神様から遣わされた人、神様に近い存在を表していました。世間の人々は、結 局、主イエスを偉い人、偉人の一人、歴史の中に現れた大勢の預言者の中の一人であると 考えていたのです。今の時代と同じようにです。

  そこで、このように人々がどのように思っているのかをお尋ねになった後に、次にあら たまって29節で「それではあなたがたはわたしを何者だと言うのか」と主イエスがお尋 ねになりました。この言葉を聞いた弟子たちは驚いたと思われるのです。「あなたがたは どうか」と聞かれたということは一人一人の信仰を問われたのです。目の前にいるお方が 弟子として従っているこの私に尋ねておられる。いい加減なことを答えるわけにはいかな かったと思うのです。他人がこう言っているということは所詮は人ごとです。私たちにと って主イエスを信じて生きることは、あるいは信仰生活を続けていくことはどうかすると 他人事のようなものになりがちです。洗礼を受ける時には、真剣に神様を求めて、神様の 御前に信仰の告白をしたのに、いつの間にか深刻には感じられなくなって、厳しいようで すが人ごとのような信仰に生きているのではないかと思えるのです。しかしながら、その ような中において、イエスというお方をどう信じているのか神様のほうから求めておられ るのです。信仰を与えて下さった神様自らが求めておられるのです。私たちの信仰ではな く、私の信仰を求めておられるということです。確かに主イエス・キリストは弟子たちの 信仰、教会の信仰をお尋ねになっておられるけれども、はっきりと一人一人がイエスとい うお方をどのように考えているのかを尋ねておられたのです。一人一人、私の信仰が問わ れているということは、これは責任があることです。私の信仰を言い表すということは、 他の誰でもない私に問われていることですから、責任が伴っていくのです。私たちは、信 仰告白をすることから洗礼を受けてキリスト者となり、この教会の教会員となりました。 イエス・キリストに救われて、神様の祝福の中、恵みの中でキリストに従って歩むことを 決断したのです。神様を信じて歩むことを約束したのです。しかも、この世のしがらみや 罪から解放されて自由になったことを受け入れたのです。ある人が「自由とは、放縦では なく、そこには責任がある」と言いました。確かに、主イエスの守りの中、自由に生きて いくことができますが、神様との間に責任が与えられているのです。その責任をいつの間 にか破っているのではないでしょうか。いつの時代でも、聖書の物語の最初から人間同志 の責任の押しつけあいがなされていました。罪の始まりは、「私には関係がない、責任が ない」という責任転嫁でありました。牧師もそうです。就任式がある度に、誓約がなされ てその責任を守るように促されるのです。教会員としての責任、牧師としての責任、いえ 私たち一人一人に対して使徒信条によって、信仰の責任が問われているのです。あなたは 、この使徒信条を信じて告白しているのではないかというようにです。

 さて、弟子たちが誰も信仰の告白をしない中で代表するようにペトロが「あなたはメシ アです」と答えました。このメシアという言葉はヘブル語です。「油注がれた者」という 意味の言葉です。ギリシャ語で「キリスト」のことです。王様や預言者あるいは祭司が神 様から任命される時に、香油を注いだということからメシアと呼ばれ、後に「救世主・救 い主」を表すようになっていきました。しかし、人々が考えていたのは政治的な権力にも 立ち向かうことができるような力で神様の救いを実現するメシアの存在でした。確かに、 ペトロも人々と同じような意味でメシアと告白したのでしょう。けれども、ペトロはその ように告白するしかないような言葉でしか言い表すことができなかったのです。あなたこ そが私にとってのメシア・救い主だというようにです。他の福音書によれば、この告白の 言葉を聞かれた主イエスはペトロを褒めておられます。ペトロが責任をもって答えた信仰 告白に対して満足されておられたのです。しかし、それにしても30節の「するとイエス は、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。」と語られている ことは奇妙な気がしてきます。「あなたは救い主だ」と答えたならば「さあ、これから人 々に宣べ伝えなさい」ということなら理解できるからです。しかし、ここでは「誰にも言 うな」と語られている。これは、どういうことなのでしょうか。まだ、この時、主イエス の十字架と復活がなかったからでしょう。救いの時が来ていなかったからです。つまり、 神様の考えには、ただ単にユダヤ民族だけが救われるのではなく、すべての民が救われる ことにありました。この時には、メシアということをいたずらに広められると困るからで す。つまり人間の信仰の告白さえも主イエスが管理されておられたということです。人間 が正しい告白をすることができるように働いておられるということです。それですから、 礼拝において、いえ日常の生活において私たち一人一人に信仰の告白を正しく答えること を求めておられる。そのために、主イエスが共にいて下さり、使徒信条の言葉を理解する ことができるように御言葉を与えてくださるのです。「われは信ず」という言葉によって 正しく神様のことを知ることによって信仰の告白をして、救いの中、恵みの中で目指すべ き人生を歩んでいくためにです。

 お祈りを致します。 主イエス・キリストの父なる御神様 あなたから救われて、恵みを頂いているにもかかわ らずに責任を持ってあなたの御前に信仰の告白ができない私たちです。けれども、それに もかかわずに私たち一人一人にあなたが信仰を与え、信仰によって生きることができるよ うに働いて下さっておられます。心から感謝を申し上げます。しかも、そのために使徒信 条という信仰告白の言葉を私たちに与えて下さいました。どうか、その与えて下さった信 仰の言葉一つ一つを聖書から導かれた言葉としてしっかりと受け取って、御前に告白して いくことができますようにお導きをお願い致します。なによりも「われは信ず」と無責任 になることなく、人ごとではなく、私たちの救いの言葉、恵みの言葉として信じることが できますように。神様が求められるままに信仰の告白をするものとさせて下さいますよう に、どうぞお願い致します。このお祈り救い主である主イエス・キリストの御名によって 、御前にお捧げ致します。アーメン

2.「天地を造られた神」  

 みなさんと共に唱えます使徒信条は、原文では「我は信ず」という言葉から始まってい ました。けれども、日本語に訳されています使徒信条を言い表す時に最初に「われは、天 地の造り主」という言葉を口にします。つまり、私たちは「天地の造り主である神様を信 じる」ことをまず公に言い表すのです。キリスト者になることは、神様を信じる者になる ことを意味しています。その時に大切なことは、どのような神様を信じるのかということ が問われるでしょう。「あなたは、神様を信じているというけれども、どんな神様を信じ ているのか」と問われた時に、まず「天地を造られた神様を信じる」と答えるのです。天 地の造り主とは何か。それは、何よりも自然の万物を造られたお方だということです。特 に聖書の一番最初を開いてみますと「創世記」と題されていて天地を造られた神様のこと が描かれています。聖書には、ご存じのように旧約聖書と新約聖書があります。特に旧約 聖書にはイスラエルの人々のことが記されています。イスラエルの人々がどのような神様 を信じて、どのような関係を持ってきたのかが記されているものです。私たちキリスト者 だけでなく、イスラエルの人々、つまユダヤ教の信仰を持っている人々もこの旧約聖書を 聖書として神様の言葉を聞きます。けれども、当然、イエス・キリストはこの書物には登 場してきません。それに対して、新約聖書にはイエス・キリストが登場して救いのことが 語られていきます。それにしては旧約聖書と新約聖書の間には溝があるということではな く、同じ神様が働いて下さっているのです。イエス・キリストもユダヤ人でした。弟子た ちもユダヤ人でした。そのユダヤ人であったイエス・キリストを通して全世界の神様へと なって下さったのです。それですから、救い主であるイエス・キリストと天地を造られた 神様はひとつに結びついているのです。新約聖書に描かれている救いの神様つまり使徒信 条で後に学びます独り子であるイエス・キリストに先立って天地を造られた神様について の物語が最初に描かれていくのです。そのことから、まず私たちは「天地の造り主」を信 じるという信仰を言い表すのです。

  さて、聖書の一番最初の言葉は旧約聖書の創世記1章1節の言葉である「初めに、神は 天地を創造された。」ということでした。この1節の言葉から天と地しかもあらゆるもの を造られたことが描かれていきます。昼と夜を造られ、空と水を造られ、太陽や月、星と いったあらゆる天体続いて草や木というような植物に始まり、あらゆる生き物、鳥や魚、 動物を造られたことが記されていきます。私たちの自分の周りを見回して、これもあれも 自然や動物も神様によって造られたことを知ることができるのです。究極的には、神様は 私たち一人一人を造って下さったということに気づいていくのです。それにしては、普通 、神様を信じられない人にとっては神様がいるのか、いないのかということから疑問を投 げかけるのではないでしょうか。それですから、聖書の最初は、神様が存在するのか、し ないのかということから書き始めてもいいような気がするです。ある優れた神学者がこの 疑問に答えるように語ります。「われわれは普通、こういうふうに考える。まず世界があ る。あるいは、私自身が存在する。その上で、こうした世界や自分を造った神は本当にお られるのだろうかと問う。われわれは世界の存在について疑うことはない。ただ創造者で ある神の存在について疑う。『神は本当におられるのだろうか』と疑わしく問う。自分た ちが生きている世界が本当にあるのか、などというようなことは疑いもしない。けれども 、信仰を得たときに、われわれが教わるのは、実はそうではなく、本当の意味で存在なさ るのは神だということである。神が存在しておられるのは、間違いがない。問題は、どう してその神の他に、神と並んでこの私が存在し、この世界があるのかということなのだ。 神はご自分だけで存在しておられれば良いのであって、それ以外に、われわれを存在させ るなどということを必要としなかったはずではないか。『どうして自分がいるのだろう。 どうしてこんな世界を神様がお造りになったのであろうか。」このような問いに、驚きの 目を開かざるを得ない。」というようにです。

  聖書というものは、当たり前のようではありますが、科学や物理のような書物ではあり ません。幾何学のような証明して答えを提示するものでもありません。聖書は信仰の書で す。信じるものだということです。それですから、初めに神がこの世界を造って下さった 、この私を造って下さったことを信じるということから信仰が始まるということです。い わゆる信仰に生きるということは神様との関係に生きるということです。神様と人間との 関わりの基本になっていることが天地を造って下さった神様を信じることになるのです。 そのように、神様を信じて生きることが実はこの世界の秘密がわかりますし、この私が生 きている謎が解けていくのです。人間の側からではなく、神様の側に立って物事を見てい き判断することができていくのです。神様がいるのか、いないのかそもそもそのような問 いがばかばかしく感じられていくのです。なぜか。このことは繰り返すように語ってきま したが、神が存在するのか、存在しないのかということにこだわっている間は、私たちが 切実に生きることができないからです。この私が生きている現実、この世界が存在してい ることを見つめていくことによって、私たちの真実の目が開けていくのだと思えるのです 。確かに、天地を神が創造している姿を見たものは誰もいません。それもそのはずです。 2節では「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」と表 現されています。最初の1節の言葉と照らし合わせてみますと、このことは「無からの創 造」という言葉で表現されるからです。

  無ということは何もないということです。けれども、私たちが無ということを考える時 には、あったものがなくなった時にしか無ということを使わないと思えるのです。何もな いということが言えるのは、何かがあると知っているからではないかと思えるのです。つ まり、私たちが無ということから何かができるということは無いものがあったというよう にしか考えることができないのです。なぞなぞのようものであり、混乱することですが、 無いものがあるということは、あるものだということがいえるのかもしれません。ある神 学者が「無よりの創造とは、人間の理解しうることではない。信じうるのみである。なぜ ならこの意味の「無」ということはわれわれ人間には考えれない」と語りました。私たち の誰もが世界の最初を見た人間はいません。ただ、この世界を神様がお造りになったこと を人間が信じるだけである。いえ、神様によって信じさせていくだくことに限るというこ とです。これが、信仰だといえるのです。このことを新約聖書のヘブライ人の手紙11章 の1節から3節で「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することで す。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。信仰によって、わたしたちは 、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものから できたのではないことが分かるのです。」という言葉で表現しています。特に、この創世 記がイスラエルにおいて書かれていった頃の背景は、とても神様を信じることなんかでき ない状況に置かれていたのです。神様がこの世界をお造りになった、私たちをお造りにな ったということが信じられなかったと思われる事態に陥っていたのです。時は、イスラエ ルという国が北と南に分裂し、先に北の国が滅ぼされて、南の国もまた新バビロニア帝国 という国に滅ぼされた時でありました。多くの指導者がその征服者の国バビロンに捕らえ られて移されたのです。いわゆる歴史上、バビロン補囚と呼ばれているものです。イスラ エルの人々は国を失い、エルサレム神殿も破壊されてしまいました。人々は、自分たちの 拠り所とする場所である故郷を失い、信仰をも崩れそうになって苦しみの中、悩みのただ 中に突き落とされていたのです。人々は「神様は本当におられるのだろうか」と問いを持 つ以上に、「こんな目に合わせた神様なんかは信じられない」という思いのほうが強かっ たのかもしれません。

  けれども、不思議なことに神様の働きによって人々がこの創世記の物語を書き記すよう になっていったのです。特に、神様の創造の業を書き残す時に繰り返される言葉がありま した。「神はこれを見て、良しとされた」という言葉でした。神様がご自分でお造りにな ったものを見て、良しとされたということです。神様がこの天地をお造りになって「ああ 、これは大変良い、素晴らしいものだ」とお思いになったのです。人間側の判断からすれ ばとても良いとは思えない世界に見えている時代に神様がお造りになったものを「良かっ た」といえるということは信仰以外には考えることができないものです。聖書は、神の霊 感によって書かれたと言われています。書いたのは人間かもしれませんが、やはり神様の 働き、神様が言葉を示して下さらなければ書き残せなかったのではないでしょうか。その ことからこの世界はもう駄目かもしれない。すべてがあらゆるものが敵となってしまった というところで信仰に生きることができるかということがこの「天地の造り主」を信じる ことに関わっていくのだと思えるのです。7年前になりますが阪神大震災が起こりました 。あらゆる建物が破壊され、多くの犠牲者を出しました。それに、日本においては度々天 変地異に犯されて多くの人々が亡くなっています。天地を創造された主なる神様であるな らば、なぜこんなことをされるのか。この世界を支配されているならば、なぜ、こんなこ とを人間にされるのかということが考えられるでしょう。その時に多くの人々が神様に疑 いを持つものだと思えるのです。これは何も天変地異のことだけでなく、この世界がなぜ 平和にならないのか、なぜ憎しみや悲しみを抱いて生きていかなければないならのかとい うことさえも疑問も持つものだと思えるです。けれども、時に私たちに逆らうような自然 あるいは世界の現実を私たちが見据えながらも、これも神様のもの、神様に造られたもの であると言い切ることが出来た時に、新しい生き方がここから生まれていくのです。まさ しく、神様を信じて生きることは何が待っているのかわからない、どこに向かっているの かわからない、けれども、そこには神様の祝福があり、恵みがあることを信じて生きるこ とではないでしょうか。イスラエルの人々はそのように生かされてきましたし、私たちも そのような信仰を抱いて生きるということです。

 さて、創世記には天地・自然を造られただけでなく、私たち人間をも造って下さったこ とが記されています。26節から「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人 を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。 』神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造さ れた。神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の 魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」というようにです。私たちが天地 を造られた神様のことを信じて思い起こす時には、今度は自分自身を見つめてこの私も神 様がお造りになったことを信じるということです。しかも、神様はこの私をよいものとし てお造りになった。私をお造りになったことが極めて良かったとお思いになっていること を確信することなのです。けれども、しばしば自分が神様によって良く造られてはいない のではないかと疑いを持つことがあります。すぐに私たちは人と比べてしまいます。それ だから、なんでもない悩みに捕らわれて生きてしまうのです。自分よりも頭がいい人を見 れば羨ましがりますし、悩みなく人生を歩んでいるような人を見かければ恨みを抱くこと がいくらでもあるのです。それだから、どうしてこんなに成績が悪いのか、弱いのか、醜 いのかという思いがつのっては、人に対して妬みが生まれたり、自分に失望したりするの ではないでしょうか。そのような時、信仰がないと自分にだってましなところ、良いとこ ろがあるさと長所を見つけながら自己満足して生きていくことに救いを求めていくのかも しれません。けれども、聖書ははっきりと31節で「神はお造りになったすべてのものを ご覧になった。見よ、それは極めて良かった」と私たちに語りかけるのです。しかも、私 たちは神様に似るものとして造られているということです。神様そっくりに造られたとい うことです。それですから、一人一人の人間が神様から造られたものとして愛されないわ けにはいかなかったと思われるのです。しかも私たち一人一人が造り主である神様を信じ て生きることを神様御自身が祝福されておられたのです。

 ところで、造り主である神様はこの世界をお造りになり、私たち人間をお造りになった のが6日間の出来事でした。創世記2章の最初においては神様がこの世界をお造りになる ために6日間熱心に働かれて、7日目にお休みになったことが記されています。神が安息 された日ということで安息日と呼ばれているものです。7日目に神が安息された、だから こそ7日目毎に安息がめぐってくるのです。イスラエルにおきましては普通安息日は土曜 日でしたが、キリスト教会においては日曜日になりました。それは、イエス・キリストが 日曜日に復活されたからです。実は日本の人々もこの聖書の恩恵を受けているからこそ日 曜日がお休みになっているのです。ある牧師がよくつぶやくそうです。「神様が七日目に 休まれたのは早すぎた。八日目、九日目であったらよかったのに」私自身もそう思うこと があります。それは、礼拝で語る説教がなかなかできない時にです。会社や学校に行って いる人にとっては神様がもっと早くにこの世界を完成させておければよかったのにと思わ れるかもしれません。いずれにしても、この七日というものは完全を表す数字です。神様 が御自分で完成なさった世界をごらんになって完全なものができたとお思いになって「こ れはすばらしい、よいものだ」と満足されて一日ゆっくりとお休みになったということで す。私たちもこの神様の安息を一緒に喜んで楽しむということです。そうだからといって 、日曜日はただ単に私たちが体を休め、レジャーに楽しむということでなく、なによりも 神様のために存在するということです。そのことから、日曜日は神様を礼拝するための一 日であるとういことがいえるでしょう。それですから、神様から造られた人間として、祝 福を受けながら神様に感謝を表し、賛美して礼拝することが天地を造られた神を信じる生 き方となっていくのです。

  さて、神様を造り主と信じて生きることは、神様を主人として頼りにして生活をするこ とです。神様に従って生きる生活をすることです。確かに、天地創造の物語にはイエス・ キリストは登場してきません。使徒信条においても、キリストのことは後から出てくる。 本来、神様から良いものとして造られた人間です。神様に似た人間としてどんなに愛され 、大切にされているのかがこの創造の物語に語られているのです。ところが、創世記の3 章におきましては、人間の堕落が始まります。神様を裏切っていくのです。神様との関係 に生きることができない人間の姿が表されていくのです。4章においては兄弟殺しが描か れていきます。神様との関係だけでなく、人間関係までがおかしくなっていく。神様との 関係がないと、人間同志もうまくはいかないことを聖書は私たちに教えているのです。神 様との関係に生きることができない、つまり神様から離れて生きる生活を教会では罪とい う言葉で表しています。罪とはもともとの言葉で的はずれを意味する言葉です。本来、良 いものとして造られた人間がまともな生活からはずれてしまったということです。自分が したいままに、欲望のままに自由に生きたいと願う人間にとっては神様は邪魔になるので す。それだから、自分が神様のように自由に生きたいと考えてしまうのです。私たちは神 様といえ神様がお造りして下さったこの世界や人間とも仲良く生きていくことができなく なってしまったのです。ある牧師が使徒信条の解説でこのようなことを語ります。「神が 造り主であることを信じれば、自分と神とが全く違うことがわかるのです。」私と神様と は全く違う。当たり前のようなことですが、自分と神様との区別がうまくつかないからこ そ、神様から離れてしまうのではないでしょうか。神様なんか頼りにせず、神様を信じな いで生きていきたいと望むのではないかと思えるのです。  

 特に、日本人は人間と神との区別をつけない。すぐれた才能や知識を持っている人を神 と崇めてしまう。「お客様は神様です」と語る人もいます。死ねば神になってしまうもの でしょう。しかも、この私がこの世界の主人公であると考えだした時には、もう既に私を 造って下さったお方のことなど考えられなくなっているのです。けれども、私たちは神様 抜きのほうが自由に生きることができるとうっかりと思ってしまう。神様抜きのほうが人 間らしい生き方ができる。神様を信じている生活は不自由な不自然な生活ではないか。思 うとおり欲望に従って生きることが真に人間らしいのではないか。けれども、先程の牧師 の解説によると「それでは、人間らしくならないで、怪物になってしまうことでしょう。 神と人間との区別がつきにくいことから、人間が人間らしくならないのです。」と語りま す。改革者カルブァンは「神を知ろうとしない人間は禽獣に劣る」と厳しい言葉を語って います。本来、そのような人間、神様から良しとされて造られた人間が罪を犯したことか ら滅びにいたるものだったのです。私たちは本来の生き方からはずれて滅びにいたるとこ ろでした。けれども、新約聖書エフェソの信徒への手紙2章10節で「わたしたちは神に 造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリス ト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。 」と語ります。イエス・キリストの十字架と復活によって、私たちの罪が取り除かれて、 神様との関係を回復されて復活の命を私たちが頂くことから新しく造られたということで す。人間はもともと善いものとして造られた。けれども、それを私たちは泥まみれにして しまった。しかし、その泥まみれの体をもう一度主イエスによってきれいに洗って下さっ たのです。神様との関係を仲良く保つようにです。それだから、日曜日教会に招かれて、 天地創造の働きをなさった神様を賛美するだけでなく、復活された主イエス・キリストの お祝いをして生活をしているのです。主イエス・キリストと共におられた造り主である神 様を信じる信仰を持って、神様と共に歩んでいくのです。

 お祈りを致します。 主イエス・キリストの父なる御神様 何もないところからあなたは御言葉によってこの世 界を造って下さいました。しかも、この世界に生きるべき私たち一人一人を善い者として お造りになりました。心より感謝を申し上げます。けれども、あなたから造られたことを 自覚することができずに、すぐに御心から離れてしまう私たちです。自分勝手に行動し、 この世界と仲良くできずに、苦しみ悩みの中に陥っているにもかかわらずに気づかない私 たちです。どうか、私たちが造り主のもとへと立ち返ることができますように。なにより もイエス・キリストの働きによって、あなたのものとして新しく造りなおして下さったこ とを受け入れて、造り主である神様のことを信じて信仰の歩みをさせて下さいますように 。私たちが滅びにいたることなく愛され生かされていることから、心から神様のことを賛 美し、結びついていくことができますようにお導きをお願い致します。深く信仰の目をも って、この人間の現実の世界を見つめて天地の造り主である神様を信じて生きるものとさ せて下さい。この祈りを救い主である主イエス・キリストの御名によって御前にお捧げ致 します。アーメン

3.「神の全能」  

 礼拝の中で毎週信仰の告白をしています使徒信条は、日本語では神の項目から始まりま す。すなわち、「われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず」というようにです。つま り、まず私が天地を造られた神様しかも全能であり父である神様を信じるということを公 に言い表すことから使徒信条は始まるのです。この世界を造って下さった神様、この私を 造って下さった神様は、全能のお方であり、父と呼べるお方であることを信仰を持って信 じるということです。特に、今日みなさんと共に考えていただきたいのは、説教題にもし ましたように「神の全能」ということです。全能というものは、そんなに難しい言葉では ないでしょう。全というのは完全とか全部すなわちすべてという意味ですし、能というの ものは能力のことです。すべてのことができる、つまり神様はすべてのこと、なんでもお できになるということです。この世界に存在しておられる神様は、何もないところからす べての物をお造りになりました。私たちが目に見えている物、あるいは時間や空気のよう な見えない物にいたるまでもすべて神様がお造りなったのです。しかも、私たち一人一人 をお造りになって下さいました。そのような造り主であるならば、神様がすべてのことを 何でもできるということを信じることは簡単なことなのかもしれません。それよりも、神 様だから何でもできるということは当たり前だ、神様だからこそもしできないことがあっ たらおかしいのではないかと思ってしまうでしょう。この私が信じている神様は、すべて をなして下さる力を持っておられる。しかしながら、神様だから当然ということではなく て私を造って下さった神様あるいは父として存在して下さっている神様だからこそすべて のことをなして下さるということがいえるのかもしれません。

  いうならば、この私と神様との結びつき、関係があるからこそ神様を全能の神様として 信じて生きるということです。自分とは無関係である神様が全能であり何でもできるとい うことならば、何も神様を信じることなんかないと思うのです。私たちが生きる上で切実 なものにはならないからです。信仰とは、神様を信じることです。しかも、私たちが信仰 に生きることは、神様と共に生きることです。全能の神様を信じる信仰に立つことは、神 様のすべてをなして下さることを信じきることでしょう。それに、この神様のすべてを成 してくださる力は、私たちのための力だということです。つまり、この全能の神様を信じ ることによって、私たち自身も何でもできるということです。神様から信仰を頂いて、信 じる力から私たちはすべてのことを成すことができていくのです。けれども、いつでも私 たちは疑いが生じていきます。本当に神様は何でもおできになるというけれども、本当な のだろうかと思ってしまうことでしょう。病気になれば、病気を直してくれるように神様 に頼みます。不幸な目にあったり、苦しい目にあったのならば、どうか苦しみから悩みか ら解放して下さいと祈り、幸せになるように願うことでしょう。しかも、その願いや祈り が叶った時に、私たちは神様はやっぱり何でもおできになると思うのではないでしょうか 。反対に、願いや祈りが叶わなかった時には、神様は何にもできないと思ってしまい、全 能なる神様のことなんか信じないと思ってしまうのです。大変面白いことに、キリスト教 会においても他の宗教のちらしが配られます。先日も、ある宗教のちらしが入っておりま して、そこには、先祖供養をしようということが書かれていました。先祖の霊を静めて、 供養することによって幸せに生きることができると書かれていました。体験談までも書か れています。それまで、家族の中で事故にあったり、病気になったりしていた人が、その 宗教を信じることによって病気もせずに、みんなが幸せになって喜んで生活をするように なったというのです。

  多くの人々が神様が病気を癒してくれた、何かを与えてくれた、不幸な生活から幸せの 生活へと変えられたということから神様を信じるものではないかと思うのです。神様を信 じるのはまず私だというようにです。案外、キリスト者になってもそのような御利益を求 めて生きているのではないかと思われるのです。そうして、教会にやって来て、自分が期 待するようなことがなかったら、願いが叶わなくなったり、病気が直らなかったり、不幸 が続いていくと、教会が語る神様は駄目だと思わずにはいられなくなるものでしょう。私 が信じているのだから、私が信じないのも、神様を捨てるのも勝手だというようにです。 けれども、そのような一人一人の勝手な願いや祈りを叶えて下さる神様が果して全能であ る神様なのでしょうか。神様は何でもおできになると信じることができるのかということ です。それだけですと、ただ単に私たち人間が神様のことを利用しているだけに過ぎない ものでしょう。私たち自身で神様を小さなものとして思い込んではいないかということで す。それでは、神様が全能であるということはどういうことでしょうか。先程読んで下さ いました聖書マルコによる福音書10章27節で主イエス・キリストが「人間にできるこ とではないが、神にはできる。神はなんでもできるからだ。」と語られておられます。主 イエス自らが神様の全能を語っておられるところです。この神様の全能について語られた 言葉は、主イエスの弟子たちが「それでは、誰が救われるのだろうか」という問いに対し ての答えでありました。しかも、主イエスが語られた言葉に弟子たちは24節、26節で 「驚いた」と表現しています。主イエスが思いがけない言葉を語られたからこそ、弟子た ちは驚いていたのです。誰が一体救われるのか、救われる人なんかいないのではないかと 弟子たちは語ります。その言葉を受けて人間にはできることでないが、神様には出来る、 神様はなんでもできるからだと主イエスは語られたのです。

  さて、神様の全能とは何か。実は、私たちの救いと結びつくのです。何でもおできにな ると神様は、私たちを救ってくださるお方だということです。全能である神様を信じると いうことは、私たちが救われていること、救われていることから信仰を持って神様を信じ て生きる。そうすれば、私たちも何でもできるということです。御利益宗教からも解放さ れる道がここにある。たとえ、不幸と思えていることがあったとしても、病気であれ、苦 しみ悩みがあったとしても、救われるということです。実は、今日取り上げています聖書 の物語は、17節から始まっていました「金持ちの男」と題されている物語の続きです。 金持ちの男が主イエスのところにやって来て問答をして、悲しみながら立ち去ったことに 対しての弟子たちの反応が23節から描かれていたのです。この「金持ちの男」と題され ている物語は、マタイによる福音書やルカによる福音書にも同じような物語として描かれ ています。同じように主イエスが「神様は何でもできる」という神様の全能を告げておら れます。それにしても、特に、マタイによる福音書19章16節からの物語が一番有名で ありまして、主イエスのもとから悲しみながら立ち去った男の人は、青年として描かれて います。これはむかしから「富める青年の物語」と呼ばれてきました。特に、この物語に 感動を覚えて、それまでのものを何もかも捨てて極貧の生活をして神様に従っていく生活 をしていった人までもいた程です。たとえばインドにおいて貧しい人々を助けるために一 生を捧げた修道女であるマザー・テレサに影響を及ぼしたフランチェスコという人物がそ うでした。この人物は主イエスの言葉からすっかり人生を変えられてお金持ちの道楽息子 だった者が神様に一生を捧げて修道の生活へと入っていくのです。それに、カーネギー・ ホールを設立させたことで有名なカーネギーもまたこの悲しみながら立ち去った「富める 青年」の物語を読んで、立ち去ることはせずに反対に自分の財産をすべてなげうって貧し い人々のために社会事業を始めたのでした。

  この二人のどちらとも若い時にこの御言葉に触れたのでした。それですから、人生をこ れからどう生きるかという決断を迫られている中においては「富める青年の物語」は若者 の心を揺さぶるもので、時には、若い人の集いやキリスト教学校でよく取り上げられる聖 書の物語となっています。けれども、マルコによる福音書の物語は若者とは書かれてはい ません。「ある人」となっています。それですから、少なくともこの「金持ちの男」の物 語は若者だけのあるいは男だけのものでも、ましてや後に聖人や偉人になるような極めて まれな人々に向けられたものではなかったのです。自分たちの物語、私たちの物語、いえ 「ある人」という匿名性が強調されているからこそ、自分に当てはめて聞くことができる 物語なのです。しかも、神の全能を告げておられる「神はなんでもできるからだ」という 言葉も自分に向けられたものとして聞くことができていくのです。それですから、まずこ の「金持ちの男」の物語でこの私が主イエスのもとへと走り寄ってひざまずいて尋ねたと いうことです。そこから、この私に向かって主イエスが答えて下さるのです。最初に「善 い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と主イエスに尋ねます。 この質問に対して、主イエスは「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証すなる、奪い取る な、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」と言われる。それに対して「 先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました。」と答えるのです。しかしな がら、そのように自分に当てはめてこの物語を見ていきますと、無理が生じるような気が します。とても、「金持ちの男」のような生き方はしていない思えるのです。そもそも、 たくさんの財産を持っている、お金持ちだと思える人は、失礼ですけれどもこの中にはお られないと思えるのです。しかも、この人は、神様から与えられた戒めを子供の時から、 すなわち物心がついた頃からずっと守っていると思っていた人です。今日この礼拝に集っ てきた人の中で自分の責任で生きることができるようになってから、自分の生活を振り返 ってみた時になにひとつシミがない、神様の戒めを破ったことはないと言えますと聞かれ て、堂々と手を挙げることはできないと思えるのです。もちろん、そんなにひどい生活を してきたなんて思わないかもしれませんが、この「金持ちの男」のように自信に満ちて答 えることはできないと思えるのです。  それでは、この「金持ちの男」と自分たちは違うと言えるのでしょうか。この男の人が 求めていたものは永遠の命でした。この人は自分の人生が死で終わることを明らかに意識 していたことでしょう。財産も富もある、神様が与えて下さった戒めはきちんと守ってい る。いうならば、誰にも文句を言われずに生活をきちんと整えている。けれども、毎日の 生活をしていても自分の命は、いつ、どのようにであるか分からないけれども、死によっ て終わってしまう。永遠のものではない。しかし、どうしても自分は永遠の命に生きてい たいとそう願っていたのです。誰でもが現実に生きている中では死をまともには考えない ものでしょう。けれども、人間は死ぬからこそ生きている中で幸せになりたいと願います し、病気をしたらなんとか直してもらいたい、悩み苦しみから自由になりたいと望んでい るではないかと思うのです。結局誰でもが自分の幸せを思い、自分が救われることを願っ ているのです。それだから、この「金持ち」が主イエスにした問いは「何をすれば救われ るのでしょうか。何をすれば永遠の命を獲得するのか。何をすれば神の国に入ることがで きて安心して生きて、死んでいくのか」ということではなかったかと思うのです。特にこ の男の人は「受け継ぐには」と語っています。この言葉は、財産を親からもらう時に使う 言葉です。それですから、神様からいただく永遠の命がほしいと考えていたのです。死の 向こう側で生きる命は、自分の力で手に入ることができないことをよく知っていたのです 。それにしては、この金持ちの男は、救われるための条件を出しました。実は、私たちで すら救われるために、何かをしなければと思っているのではないでしょうか。救いの条件 を考える。何か善いことをすれば、人に善いことをすれば、戒めをきちんと守って、品行 方正な生活、みだりに他人と争わずに、いい子にしていれば救われると思ってはいないか ということです。

  さて、この後、不思議なことに主イエス・キリストご自身はこの「金持ちの男」に条件 を出されました。21節の「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を 売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、 わたしに従いなさい。」という言葉でした。しかしながら、この人は主イエスの勧めに従 って、持っている財産を貧しい人々にほどこすことができなくて、悲しみながら立ち去っ ていきます。ここから弟子たちに向かって言われるのです。23節からの言葉です。「イ エスは弟子たちを見回して言われた。『財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しい ことか。』弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。『子た ちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが 針の穴を通る方がまだ易しい。』弟子たちはますます驚いて、『それでは、だれが救われ るのだろうか』と互いに言った。」と描かれています。「らくだが針の穴を通る」この言 葉は、不可能なことを言い表すためのことわざのようなものでした。つまり、主イエスは 金持ちが神の国に入ること、救われること、永遠の命を受け継ぐことは不可能なこと、で きない相談だと語っておられるのです。この悲しみながら立ち去っていった「金持ちの男 」に対して主イエスに信頼して従っていた弟子たちです。その弟子たちですら世の中に救 われるものがいるのだろうとお互いに驚きながらつぶやいてしまったのです。「ああ、よ かった。自分たちも貧しくなってあなたに従っているから、難しいことではないですね」 と主イエスに向かってうなずいたのではありませんでした。財産のある者が、金持ちが救 われるのは不可能なことだと言われた時に、弟子たちは自分たちも自分たちなりに自分の 財産から自由になっていないと感じていたのでしょう。だから、弟子たちは驚いてしまっ たのです。救われる者なんかいないではないかと大変正直な言葉を口にするしかなかった のです。

  私たちはどうでしょうか。ある牧師はこの物語を説教する時に「私どもは皆二股をかけ て生きてきている。中途半端に信仰を持っている。富も大事だけれども神様の平安も欲し い、そんなにむきになって主イエスの前にひざまずいて、永遠の命を受け継ぐためにはど うしたらいいかと、主イエスと真剣な問答もしていないし、主イエスの御言葉をまともに 受けとめて、私にはそれはできないと、正直に立ち去るということもしない。どこかで不 正直なだけのことではないか」と厳しい言葉を語られます。私たちの信仰はいつもふらふ らしています。私自身にも見覚えがあることですが、生活の中で忙しくなったら、悩みや 苦しみが深まったら、礼拝を休んでもいいのではないか、そんなにも真面目に教会生活を しなくてもいいのではないかと考えてしまうものでしょう。私たちは多かれ少なかれ様々 なものに縛られて生活をしています。主イエスに従っていくために、すべてが邪魔な財産 になっています。けれども、その自分に邪魔だと思えるようなものを捨てることができな いのです。悲しみながら立ち去った男の人のように、実際に教会から離れていく人もいる でしょう。しかも、教会よりも礼拝よりもましてや神様の御言葉よりも救いに預かるため に別の方法を探してしまうのです。この物語で、立ち去っていく男の姿を見つめながら、 弟子たちを代表してペトロが28節で「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなた に従って参りました」と語っています。ペトロは、自信満々に語りました。けれども、ペ トロ自身は気づいていないのです。私は何もかも捨てている、それに主イエスに従ってい ることが救いの条件になっていることをです。しかも、ペトロは主イエスの言葉を聞き逃 していました。27節で主イエスのまなざしが弟子に降り注ぐ中において「人間にできる ことではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」という神様の全能であるこ との言葉をです。  弟子たちは神様の全能を気づいていなかったのです。自分自身こそが主イエスに従って いるというように考えている限りは、やがては主イエスについていくことができなくなる です。実際に、すべての弟子が主イエスを「捨てた」のです。十字架で見殺しにするはめ になっていったのです。それだから、この神様の全能を語る言葉「神は何でもできるから だ」という言葉は、私たちの考え方を根底からひっくり返すものでした。私たち中心の考 え方、いえ私たち中心の生き方を百八十度変えられることです。つまり、私たちは何にも できないものでるあることに気づいていくのです。神様の救いなしには、神様が何でもお できになるという信仰を受け入れない限りは私たちは何もできないことを受け入れること なのです。救われること、神の国に入ること、永遠の命を受け継ぐことは、私たちが何か をしたら、それこそ信じよう信じようと熱心になったら、あるいは人に施したり、神様や 人を愛したならば、いえキリスト者にならなければ、礼拝に出席しなければというような 義務や条件は何もないということです。ただ、神様によって信仰を与えてくださること、 ただ信じる力を素直に受け入れることが神様と共に生きることであり、神様の全能を信じ ることになっていくのです。この後、主イエスは三度目の死と復活を予告されます。「金 持ちの男」の物語の最初は17節で「イエスが旅に出ようとされると」と記されています 。まさしく、死に向かう主イエスの旅でありました。やがては、私たちの罪のため主イエ スが十字架に付けられます。このことは、まさしく人間の罪を取り除きゆるしを与えるた めであったと同時に神様の全能を示すためでありました。しかも、この後全能である神様 が主イエス・キリストを復活させて下さるのです。まさしく、主イエスの十字架と復活の 姿に神様の全能が現れたのです。何でもおできになる神様が人間の救いのために主イエス を十字架につけることによって許しと愛を与えて下さり、永遠の命を与えるために主イエ スを復活させて下さり、私たちと共に生きるようにさせて下さったのです。恵みと祝福に 満ちたお姿こそが神様の全能であったのです。それだから、たとえ災いや病気の中におい ても、私たちに不幸と思えることが起こったとしても、それになかなか主イエスを信じな い人や教会にもどって来ない人がいても落胆することなく必ず神様はその人々をも救って 下さることを信じ抜いて、主イエスに祈り続けて信仰の歩みをするだけです。まさしく、 人間の思いを遙に越えて、恵みに満ちた神様は何でもおできになるからです。

 お祈りを致 します。 主イエス・キリストの父なる御神様 あなたは、まことに全能の神であり、なんでもおで きになることによって私たちに救いを与えて下さいました。どうか、私たちの心を開いて 下さい。あなたの全能が御子であるイエス・キリストの十字架と復活に現れたことを深く 受け入れて、恵みと祝福に満たされますようにお導きをお願い致します。また、私たち自 身で救いの条件を考えることなく、尚も縛られているものから解放されて自由なものとし て信仰に生きるものとさせて下さいますように。この教会を、ここに集まっている人々を 、ここに集まることができない人々を全能である神様の恵みと祝福で満たしてくださいま すように。この祈りを救い主である主イエス・キリストの御名によって、御前にお捧げ致 します。アーメン

4.「父なる神を信ず」  

 礼拝の中で信仰の告白をしています使徒信条の言葉一つ一つを取り上げまして御言葉を 聞き続けています。特に、使徒信条の語りだしは「我は天地の造り主、全能の父なる神を 信ず」という言葉で始まります。本来、この最初の部分は「天地をお造りになって下さっ た全能の父である神様を信じる」と訳すことができる言葉です。大切なことは、本来は天 地を造られたお方である造り主と、全能である父なる神であられることを分けてはいない ことです。父なるお方である神様は、天地を造って下さったお方であること、つまり私た ち一人一人をお造り下さったお方であり、全能であるお方、つまり何でもおできになるお 方だということです。いうならば、私たち一人一人に関係を持っておられるお方が、父と なっておられる神様になるのです。しかも、私たちが父なる神様を信じることは、父と子 との関係が結ばれていることです。それでは、神を父と呼んだ時に、一体誰の父なのかと いうことです。いえ、そもそもなぜ神様は父なるお方なのだろうかと思ってしまうもので しょう。

  ところで最近、仕事において女性の進出は目ざましいものです。教会においては女性の 力はむかしからなくてはならないものでした。しかしながら、その中において弱い立場で ある女性を守ろうではないか、女性の意見を繁栄させようではないかということが教会の 中で叫ばれてきました。そのような中で、教会においていえ牧師の中においても、なぜ神 は父なるお方なのか、どうして母であるお方ではいけないのかという疑問が飛びだしてき ました。誰でもが一度は考えたことがある疑問ではないでしょうか。祈る時に、なぜ母な る神様と祈りをしてはいけないのかということです。特に、教会においては神様を父と呼 んでいます。けれども、父親の愛だけでは足りない。人間には皆、両親がいる。父だけで なく母もいる。だからこそ、キリスト教の神様はお父さんみたいに厳しくて、おっかなく 、権威的であるから近づきにくい、しかも母親のようなやさしさが足りない。それだから 、父のようであり、母のようであると神様の名前を呼ぶことも可能であるし、そのような 両面を持っている神様と捕らえてもいいのではないかということが叫ばれているのです。 特に、性差別に敏感な人は、父なる神様だけが存在するのはおかしいのではないかと主張 するのです。みなさんは、どう思われるでしょうか。世間を見回してみますと、最近はそ れこそ父親の権威というものがなくなってきましたし、むしろ母親のほうが強くたくまし くなっている傾向があります。そのようなことから、益々神様は母なる神でもいいのでは ないかと考えられているようです。けれども、このようなことで私たちはしばしば間違い を犯していくのではないでしょうか。この世の常識やセンチメンタルな感情や同情を信仰 に当てはめて解決しようとするところに、教会が犯していく間違いがあるのです。そもそ も私たちが信仰に生きるということはどういうことなのか。何を基準にして信仰生活をし ているのかということです。これは、当然、聖書の言葉からです。聖書の言葉を神様の言 葉として聞き取っていくことから私たちは神様を信じて生きていることになるのです。聖 書が生活のものさしになっていますし、聖書から信仰のことを考えなければならないとい うことです。そうしないと、自分たち人間中心の考え方、この世の価値判断で信仰が間違 った方向へと動いていくからです。

 それですから、世間の常識である父親像を理解して、父としての神様を論じることに間 違いが起こっていくのです。始めに、神様は父として存在しておられた。その中で、家庭 における父親が存在することになるです。これは逆ではなく、最初に父なる神有りきとい うことです。それにしても、なぜ、神様は母なる神ではないのか。なによりも、神様の言 葉である聖書が父なる神と呼んでいるからです。いえ、そもそも私たちが信じその救いを 受け入れている主イエス・キリストが神様のことを「父」と呼んでおられるからです。多 くの人々がどのように呼んでいけばわからなかった神様のことを主イエス・キリストがは っきりと「父よ」と呼びかけるように勧めておられるからです。特に、私たちに与えられ ている「主の祈り」において、原文では「父よ」と呼び掛けがなされています。だからこ そ、私たちは安心して、心から神様のことを父よと呼びかけることができますし、この父 なる神様のことを信じて生活をしていくことができていくのです。それだから、私たちが 聖書から離れて、聖書に基づかないで信仰のことや神様のことを考えることに無理が生じ てきますし、あらゆる間違った方向へと引っ張られていくのです。それこそ、的外れな生 き方をしていく、神様から離れた生き方をしていき、神様との関係が成り立たないばかり ではなく、人間関係においてもおかしなことになっていくのです。20世紀の悪魔とまで 呼ばれているドイツのヒトラーは、それこそ聖書の言葉を違うものとして解釈をしてユダ ヤ人虐殺をしました。しかも、この独裁者ヒトラーの考えに同調した教会は、聖書の書換 えを行ったのでした。特にヨハネによる福音書4章22節の主イエスが語られた言葉「救 いはユダヤ人から来るからだ」という言葉を消し去ってしまったのです。そのように聖書 の言葉を書き換えることによって自分たちの考え方を正当化して神様に罪を重ねて、人間 を消し去り滅ぼして、人間関係のひづみをも造ることへと変わっていったのです。それだ から、聖書から離れた解釈を教会がすることによって、自らに裁きをもたらす結果になっ ていくのです。

  さて、私たちが聖書の言葉から神様の言葉として受け取りなおしてみますと、父なる神 様を信じることは、主イエス・キリストの父なる神様を信じることになります。しかも、 私たちが主イエス・キリストに関わりを持つことによって、私たち自身も「神の子」とな るのです。父なる神を信じて生きることは、私たちが「神の子」であることを信じて生き ることになっていくのです。それでは、具体的に父なる神を信じる生き方、この「神の子 」となっている生き方とはどういうことなのでしょうか。特に、それまでユダヤ教の熱心 な信徒であった者が復活された主イエス・キリストで出会うことによってすっかり人生を 変えられキリスト者に生まれ変わったパウロという人物がが今日取り上げましたガラテヤ の信徒への手紙の中で私たちに語りかけをしています。神の子となった生き方、神様を父 と呼んで信じることができるようになった生活がどのようなものであるのか私たちに訴え かけているのです。特にパウロがこのガラテヤにある教会の人々に送った手紙は、キリス ト者の自由を語っているものです。自由ということはなにものにも縛られずに生きるとい うことです。神の子としての自由に生きることが語られている手紙となっています。それ にしても自由に生きるということの反対は何かの奴隷として生きることになるでしょう。 この手紙でパウロが強調していることは、あなたたちはせっかくキリスト者になって、キ リストのものとなって神の子として生きている生活を与えられているのに他のものの奴隷 となって生きるのかということを厳しく問い掛けているのです。最初にパウロは一つの例 えを用いるように4章1節から「つまり、こういうことです。相続人は、未成年である間 は、全財産の所有者であっても僕と何ら変わるところがなく、父親が定めた期日までは後 見人や管理人の監督の下にいます。」と語り出しました。

  パウロはここで、たとえ父親から全財産を受け継ぐことが約束されていたとしてもある 程度の年齢にならなければつまり一人前にならなければその財産は誰かの支配の基に置か れてしまう。それは、その支配している監督の言う通りに生きなければならないことにな るし、そのことは僕同様つまり奴隷と同じようなことだとパウロは語るのです。折角、目 の前に全財産を所有していても誰かの支配の基に生きなければならない、奴隷として仕え ていかなければならないようなことだと語っているのです。その例え話しから3節で「同 様にわたしたちも、未成年であったときは」と語り出します。それにしてもここでパウロ が語る未成年ということは一体どういうことでしょうか。未成年とは、つまり大人になっ ていないということです。現代において、むかしから話題になっていることが大人になる ことを拒否した大人が多いということです。親は子供に依存し、子供は親に依存してしま っている。それは、なかなか自分自身で生きていくことができずに自立して責任をもって 生きることを拒否してしまって大人になっているからでしょう。成熟した大人が少なくな ってしまっている。まだ未成年の頃は、親の支配化に置かれていながらも、反発しては日 々を過ごす。やがては、他者から自立して自分自身で働き、自分自身で物事を考えて自由 に生きることができる。誰にも依存することなく、誰にも頼ることなく責任をもって生き ることが大人になることだと考えられるのです。しかしながら、逆にパウロは大人になる ことが誰にも依存することなく、誰にも頼ることがなく過ごすことだと考えているのでし ょうか。それよりも、聖書が語る自立とは一体何なのか。いうならば、神様を信じて生き ることの成熟が求められているのです。信仰が成長し大人になることです。それでは、信 仰の成長とは何のか。信仰が大人へと変わることは一体どういうことなのか。

  パウロは、7節で「ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神 によって立てられた相続人でもあるのです。」と語っています。信仰者が大人になるとい うことは神の子として生きるということです。真の父なる神様を信じきって生きるという ことです。他人に依存する生活から自立する生活へと成長することが大人になることでは なく、むしろ真実に父なる神の子どもとして生きるということです。神様にすべてをお任 せして生きることであり、父なる神様に連なって結びついて生きることが主イエス・キリ ストによって救われ、神の子どもとなった者つまり洗礼を受けて信仰者となった人々の生 き方だということです。しかしながら、この世界は、変に大人になった世界というように 言われています。つまり、神様の助けを借りなくても生きていけると人間が思いはじめて いることです。いえ、いつの時代においても、神様なしでも人間は生きていける、神様に 依存しなくても、神様にお任せしなくても生きていけると思いはじめたことから間違いが 起こっていったのでしょう。それに、神様を信じて生きなくても私は大丈夫だ、一週間の 歩むを神様を礼拝しなくても、神様から御言葉を頂かなくても生きることができると思い はじめた時にもうすでにそこから他のものを頼って、他のものに依存して生きはじめてし まうものなのです。3節でパウロが「未成年であったときは、世を支配する諸霊に奴隷と して仕えていました。」と語っているようにです。特にこのことを説明するように今日は 読みませんでしたが8節、9節で「あなたがたはかつて、神を知らずに、もともと神では ない神々に奴隷として仕えていました。しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神か ら知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、も う一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。」とパウロが厳しく語っているよ うです。

 この当時、長い歴史を持つギリシア哲学などに裏付けられた習慣が入ってきまして、諸 霊という言葉をパウロが使っていますように様々な霊的な力があって、この世の中はその 力によって支配されていると信じられていたようです。現代の日本と同じように暦を重ん じ、縁起をかつぐようにしていたのです。まさしく、運命のようなものに縛られたり、い い日と悪い日があるというように区別をしていたのです。それだから、調和を乱したり、 運命に従わなかったり、また悪い日を重んじなかったりしたならば霊力が復讐をすると考 えられて、復讐されると病気になったり、わざわいが起こったりすると考えられていたの です。イスラエルの人々は、最初は神様の戒めである律法を頂いたことから、これは神様 から頂いたもの、神様から支配されている生活であると信じて生きていたようです。けれ ども、日々が過ぎると自分の生活を純粋には守ることができなくなっていったのです。つ まり、神様の戒めや掟を破ってしまったらどうなるのか。自分たちを支配している霊力に よって復讐されてしまい生活は台無しになってしまう。そのような不安のとりこに陥って いたのです。それこそ、最初は神様に従うために、神様から頂いた律法を守って生きるこ とが喜びであったのかもしれません。けれども、やはり「さわらぬ神にたたりなし」とい うような発想から余計なことはしないほうがいいと考えられるようになっていきました。 もし、余計なことをしてそれこそ神様の戒めを守らなかったり、暦や縁起をばかにしたこ とから一度病気になったり、不幸な目に遇ったりすると、もう二度と霊力のようなものに 逆らわないほうがよいのではないかと考えてしまうのです。私たちの生活はどうでしょう か。多かれ少なかれ、今私たちが築いている生活は、運がいいか、悪いか、幸か不幸かと いうことを絶えず計っているのではないかと思えるのです。家族が健康であること、子ど もの成績がよいこと、何の苦労もすることなく人生を渡っている人こそが運がいいし、幸 せだと思っていることです。それだから、何かのはずみでそれが崩れてしまうと、悪い運 が訪れた。それこそ、自分たちは悪い霊によって祟られているのではないかと考えてしま うのです。

 もちろん、他の宗教のことを軽んじて批判し軽蔑することは慎まなければならないもの でしょう。ただ、私たち主イエス・キリストの父なる神を信じている者は、そうした諸霊 あるいは神々と呼ばれているものから自由になっているのかということが問われているの です。聖書の言葉に基づくならば幽霊信仰や占い信仰からも自由になることができるし、 たたりなども恐れずに生きることができる。いえ、神様の戒めである律法を守らなければ ならないという自由からも解放されて生きていくことができるのです。それが、父なる神 様の子どもとして生きる生き方であり、主イエス・キリストによって救われていることを 受入れ信じた者の生活だということです。ある人々はキリスト者になったら、信仰を持っ たならば窮屈な生活をしなければならないと考えています。いうならば、キリスト者にな ると神様の戒めを絶対に守らなければならない、守らないと神様の裁きがある、神様の怒 りを受けてしまう。それこそ品行方正に生きなければならないとか、キリスト者は穏やか で腹を立てることなんかしてはならないと勝手に思い込むのです。それだから、神様の戒 めを守ることが救いの条件のようなものになっていくのです。礼拝や献金あるいは奉仕に しても、行かなければ、しなければならないと考えることから、自分自身の救いの条件を 造り上げていくのです。礼拝に行くことを義務としたり、任務としたりするところに疲れ る原因を造っていくのです。挙げ句の果ては、教会に行くことあるいは神様を熱心に信じ て生きることに疲れを覚えて、逆に礼拝から遠ざかっていくのではないでしょうか。そも そもこの私が神様を信じていこう、あるいは神様のすべてを知らなければならないという ことが信仰においての疲れを生み出していくのです。パウロは、本物の神様を知って生き ること、いえ神様から知られて生きることがあらゆるもの、それこそ、こうしなければ救 われないとか、何か悪い霊のたたりがあることや神様からの裁きや怒りがあるからという ことを恐れることから解放されることだと語るのです。

  当然のことのようではありますが、パウロが神様のことを語る時には、主イエス・キリ ストによって信仰を与えられたことを前提としていました。父である神様のことを考えて いる時には、主イエスの父である神様のことを考えていたのです。それだから、あらゆる 縛られた生き方から解放されることは、主イエスを抜きにして語ることができなかったの です。そのことから4節から「時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下 に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して 、わたしたちを神の子となさるためでした。あなたがたが子であることは、神が、『アッ バ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送って下さった事実から分かります。」 と語ります。私たちは真っ直ぐに大人にならずに過ごしている。信仰にしても、もうこれ 以上成長しなくてもいいと甘んじてしまっている。それこそ、神様の子どもとして自由に 生きるよりも何かに縛られて生きていたほうがましである。それこそ、成長することがで きなくなった人間、人間として生きることを忘れてしまった人間、帰るべきふるさとを失 った人間。いえ、あらゆるものに奴隷として仕えていることすらわからなくなってしまい 、不自由の中で生きていることも自覚できなくなったことが現代も続いているのです。そ の人間を不自由から引き出すために、父なる神様が時を用意して下さったのです。ただひ とりの神の子である御子イエス・キリストをマリアという女性から誕生させたのです。し かも、そのように不自由な中で、奴隷として縛られて生きている私たちと同じような立場 になって下さったのです。神の子イエス・キリストが律法の中に生まれたということは人 間として生まれて下さったということです。究極的には、私たちをあらゆる支配の下から 、それこそ義理や義務で信じることから、あらゆるものから解き放つためにイエス・キリ ストは自ら苦しまれて十字架に掛かって下さいました。私たちの苦しみを担って下さり、 命を捧げて下さったのです。

 いうならば、私たちが神様から離れる思い、神様との関係を回復して神様の子供として 自由の中に生きるための十字架でありました。しかも、主イエスは、死を打ち破って復活 して下さった。今も生きて働いておられ、御言葉を与えつづけておられるのです。それだ から、聖書の言葉が生きて働き、私たちが命の言葉として受け入れることができていくの です。そこから、私たちの思いや熱心さが吹き飛ばされてしまい、ただ父なる神様を信じ させていただくことになっていくのです。この働きをするのが御子の霊です。つまり、神 様の霊・聖霊が注がれることから信仰が生まれていくのです。言い換えるならば、神様が 私たちに働き掛けて下さることによって、神様の子どもとしていえ主イエス・キリストを 通して養子となっていくのです。そうなのです。私たちは生まれながら神様の子どもでは なかったのです。けれども主イエス・キリストを通して神様の養子させてくたさった。そ のことから、私たちは父なる神様を信じて「アッバ、父よ」と呼ぶことがゆるされるので す。この「アッバ」とは、「お父さん」の幼児言葉です。日本では、「パパやお父ちゃん 」ということでしょう。そのように親しみを込めて私たちは父なる神を呼ぶことができる し、祈ることができていくのです。それは、なによりもイエス・キリストを通して父なる 神様が身近に共にいて下さり、救いを与え続けておられるからです。ある人が祈る時に、 「私たちが思っているよりもはるかに近くにいてくださる主イエス・キリストの父なる神 様」と神様に対して祈りを捧げました。私たちはこの先も共にいて下さる神様を父として 呼び続けて信じて神の子として自由に生き続けていくのです。

  お祈りを致します。 主イエス・キリストの父なる御神様 あなたは、私たち一人一人の名前を呼んで、「あな たはわたしの子」だと叫び続けておられます。それなのに、なかなか信仰において成長す ることなく、自由になることなく父なる神を信じて従っていくことができない私たちです 。その中においてあなたはイエス・キリストをお与えになる時を与えて下さいました。心 より感謝を申し上げます。どうか、本物の神の御子である主イエス・キリストを通して神 の子として自由に生かされていることを受け入れることができますように。ただ、神様が 共に居てくださること、どのような時にでも救いを与え続けておられることを信じて、あ らゆる縛られていることから解放されて父なる神様との喜びの交わりに生きることができ ますように、お導きをお願い致します。この祈りを救い主である主イエス・キリストの御 名によって、御前にお捧げ致します。アーメン

 5.「神のひとり子」  

  世界を見回してみますとたくさんの宗教が存在しています。私たちが信じているキリス ト教と呼ばれているものも一般には一つの宗教と認識されています。しかしながら牧師や 信徒の人々においては多くの中の宗教の一つとしてキリスト教を信仰しているとは認めて はいないようです。それは、そもそもキリスト教は宗教の一つではありませんし、まして やキリスト教というようにいわゆる多くの宗教と同じ立場であるということを好まないか らです。けれども、キリスト者以外の人々は宗教はどれも同じであり、いわばキリスト教 も他の宗教も一緒だという考えがあるようです。それですから、日常の生活の中、職場で 、学校で、近所やあるいは家庭の中で「私はキリスト者である、教会に行っている」とい うことを告げた時に、「それじゃあ、あなたが信じているキリスト教とは何ですか」とい う質問がなされることでしょう。その時に、私たちは一体どのように答えたらいいのかと いうことです。依怙地になってキリスト教は宗教ではありませんと答えればいいのでしょ うか。それにしても、決してこれは答えが決まっているわけでありませんので、様々な答 え方ができるものでしょう。「キリスト教とは、聖書の教えである」、「まことの神様の ことを教える教え」あるいは「イエス様を信じる信仰」など信仰生活の長い短いにかかわ らずにいろいろな答えを用意することができるものです。

  けれども、そのこそ注意していかないと的外れな答え方をしていくものです。ある神学 者が謎めいた言葉のように「キリスト教はキリストである」と答えました。キリスト教で あるからキリストであるということは当然ではないかと思えるでしょう。そもそもキリス ト教のキリストとは、救い主を表すものです。全世界の救い主のことを信じる信仰という ことです。それでは、この救い主つまりキリストとは一体誰なのか。これが、イエスとい うお方であり、主イエスとかイエス様と呼ばれているお方です。つまり、イエスというお 方が救い主であるということを信じることがキリスト教の根本にあるのです。イエス・キ リスト。当然のようですが、イエスは名前でありますが、キリストは名字ではなく救い主 を表す尊称だということです。いわば、イエス・キリストと呼ぶことによって、イエスは キリストつまり救い主であると告白をしているということになるのです。

  さて、多くの宗教には、当然のようにその宗教を起こした人物がいます。一つの宗教の 教えを開いた人物がいるのです。いわばその宗教を広めるため、伝えるための指導者にな る人物です。その人物は開祖というように一般には呼ばれています。その開祖が最初の信 徒になっていきます。さらに、その開祖が起こした教えをみんなが信じて生きるようにな っていくのです。そのようにして、宗教は広まっていきます。けれども、その教えそのも のを信じることが重要であって、開祖を信じて生きるというようなことではありません。 けれども、キリスト教に関しては、イエス・キリストが最初の信徒でも、イエスというお 方の教えを信じて生きるだけでいいということでもないのです。確かに、イエス・キリス トがお教え下さったことや行いというものが聖書の中に収められていますが、そのことだ けを大切にして信じるということではなく、イエス・キリストそのものを信じるというこ とになっていくのです。いわば、イエス・キリストの教えが信仰の対象ではなく、イエス というお方そのもの、その本人が信仰の対象であるということです。イエス・キリストそ のものを信じるということなっていくのです。いわゆる他の宗教のことは本来はあまり批 判をすべきではないですし、謙遜にならなければならないかもしれませんが、多くの宗教 はその開いた本人のことは知らなくても、ただ教えさえ知っていればいいということにな っていくのです。そのようなことから、キリスト教のことを知るためには、イエスという お方そのもの、その本人を知らなければならないということです。つまり、イエス・キリ ストが私たちにとって、誰であり、イエス・キリストと私たちの関係が何であるのかが本 当にわからなければキリストを信じて生きることは何にもならなくなっていくのです。

  ところで、私たちは、ここしばらく礼拝において信仰告白である使徒信条の言葉一つ一 つから御言葉を聞き取っています。今日からイエス・キリストを信じるその内容に入って いきます。つまり、私たちが信じている、いえ信じさせていただいているイエス・キリス トとは一体誰であるのかを告白している部分です。イエス・キリストをどのように信じて いるのか、その信仰を言い表している部分を今日から御言葉として受け取っていくのです 。「われらは、そのひとり子、われらの主イエス・キリストを信ず」というようにです。 この告白に先立って使徒信条においては、「われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず 」というようにまず最初に私たちは父なる神様のことを信じることを公に言い表していま す。けれども、父なる神様のことを考えている時にも、いつもイエス・キリストとの関係 を語っていたのでした。そのことがはっきりするのが、このイエス・キリストとは一体誰 なのかというこの部分です。つまり、使徒信条で告白するように私たちは、そのひとり子 であるイエス・キリストを信じるということです。そのひとり子という言葉こそが、父な る神様のひとり子であるのです。イエス・キリストと呼ばれるお方を神様のひとり子であ ると信じるということです。それでは、この「ひとり子」ということはどういう意味があ るのでしょうか。教会において普通イエスというお方は神の子であると呼んでいます。神 の息子とも呼ばれることがあります。けれども、使徒信条では、神の子と呼んでいるので はなく「神のひとり子」とわざわざ特別な呼び方をしていることです。これは、明らかに 今日取り上げています聖書ヨハネによる福音書1章の14節に「父の独り子」と語ってい る表現に基づいているものです。当然のようにイエス・キリストを信じて生きる教会は、 聖書に基づいて生かされています。私たちの信仰も聖書の言葉を基盤として生きていると いうことです。神様の言葉である聖書こそが私たちの生活のものさしであり、この聖書の 御言葉によって生かされていくということです。この御言葉によって信仰が成長していき ますし、活き活きと生かされていく、神様と共に生きていることを実感することができる ものです。けれども、この聖書に基づいて生き始めた教会は、それから後の歩みの中で、 「イエスというお方は、神のひとり子である」ということを強調しなければならなくなり ました。それですから、使徒信条の「神のひとり子」について解説をする信仰問答ではこ のような問いがなされています。「私たちも神の子であるのに、それにもかかわらずどう して主イエスだけが『神のひとり子』と呼ばれるのでしょうか」という質問です。

 確かに、私たちも信仰を持つことによって父なる神様の子どもとさせられます。私たち も神の子となるのです。主イエス・キリストと同じように神の子となっていくのです。け れども、正確には私たちと主イエスとは明らかに違いがあるのです。そのことを答えるよ うに信仰問答の答えは「神から生まれたまことの神の子はただ主イエス・キリストのみ。 この神がお生みになったひとり子である神こそがイエス・キリストである」というように 語っています。ヨハネによる福音書1章18節では「父のふところにいる独り子である神 」という言葉で表現しました。神のひとり子であるお方はイエス・キリストだけだという ことです。特に、神様がお生みになった子どもということで、神様と特別な関係にありま す。いえ、イエス・キリストは、神様そのものだということを言い表しているのです。私 たちが神の子と呼ばれるのに、どうしてイエスというお方だけが神のひとり子と呼ばれる のかという問い掛けは、実は、私たちは神様ではないことを明らかにすることでありまし た。私たち一人一人は、この先も神様には成りえないことを明らかに告白することが「神 のひとり子であるイエス・キリスト」を信じるということになるのです。そのようにして 、主イエス御自身は、「神さまのような人」ではなく、神様そのものであられることを信 仰によって言い表すのです。

 さて、使徒信条は教会が生まれた頃の最初の信条つまり聖書全体の言葉を簡潔に言い表 した信仰告白と呼ばれていました。それで、最初の頃の教会は、この使徒信条の言葉を受 け入れてこの言葉に同意した時に教会はキリスト者に生まれ変わる人々に洗礼を授けてい たようにです。つまり、洗礼を受ける準備の時に、この使徒信条の言葉を学び、これには っきりと同意することができた時に洗礼を授けていたのてす。けれども、この使徒信条は あまりにも簡潔に記されているために、誤解したり解釈を変えたりして受け取る人々が現 れてきました。それだから、一つ一つの事柄を詳しくするためにも様々な信条が生まれて いきました。ある信条においては、「イエス・キリストは誰か」という問いから「まこと の神より生まれたまことの神である」ということを言い表しています。もちろん、これは 使徒信条の言葉である「神のひとり子であるイエス・キリスト」のことを明らかにしなけ ればならなかったということです。そもそも、教会が生まれてきた中で、いえ教会の中に おいてでさえイエスというお方が神様そのものであるということを明らかにしなければな りませんでした。しかも、イエス・キリストは神様であるにもかかわらずに、人間になっ たということを語らなければなりませんでした。イエス・キリストは真の神であり真の人 であったというようにです。今でもこの戦いが続いているのです。というよりも聖書の言 葉にまで発展していく問題でありました。イエス・キリストの福音の全体に係わる問題で もあったのです。けれども、このことはイエス・キリストを神様と認めない人々にどのよ うな言葉で受け入れさせるのかということよりも、私たちがイエス・キリストを神様と認 めて信じることによってどのような恵みや祝福があるのかということが大切になっていっ たのです。私たち信仰を与えられた者の問題だということです。そうでなければ、何のた めに信仰を与えられたのか、何のためにイエス・キリストというお方を信じて生きている のかがわからなくなっていくからです。特に、今日取り上げていますヨハネによる福音書 は、イエス・キリストとは誰であるか、イエスというお方は神様であるということを前提 として書き記されているものでした。このヨハネによる福音書は紀元の100年ごろ、主 イエスが十字架に付けられて復活させられて教会が生まれてからしばらく経った頃に書か れたと推測されています。主イエス・キリストを信じる群れである教会あるいは共同体が 生み出していった福音書です。もちろん、神様の働きによってこの福音書が記されるよう になっていったのでした。

 さて、この当時のイスラエルにおいては、神様が人間になるということは考えられない ことでした。しかも、主イエスを信じる人々の中からも同じような考え方が起こってきた のです。ナザレで生まれたイエスを救い主とは考えるけれども、神様が人間の姿を実際に とったということを否定する人々が出てきたのです。このことは、神様が人間と実際に接 触を持つことによって、神様をそのものを汚すものであるという考え方がありました。し かも、神様を直接見たものは死ぬとまで伝えられていましたので、イエスという人は神様 ではなく、神様に近い存在であると考えられていたのです。それですから、ナザレという 地名に生まれ育ったイエスという人物は、単に外から見て、人間に見えるにすぎないとい う考えだったのです。あたかも、神様の分身がこの世界にやって来て、地上を歩き回って いるという考えだったのです。いうならば、テレビ番組の変身もののヒーロー、私の世代 ではウルトラマンですけれども、そのウルトラマンが地球では人間に姿を変えているのと 同じように、神様がこの世界においては、単にイエスという人間に姿を変えているという 考え方だったのです。そのことから、ヨハネによる福音書においても、使徒信条において も神様が人間になられたことを主張しなければならなかったのです。なぜか。それこそ、 私たち一人一人が神様になることができるからです。人間が神様なんかになれないことを 告げるためにもヨハネによる福音書1章14節において「言は肉となって、私たちの間に 宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵み と真理とに満ちていた」と記しています。神様であるイエス・キリストが一時的に人間の 姿をとって、いわば仮の姿でこの世界に降りて来られたのではなく、主イエス・キリスト は完全な意味で人間として、私たちの住む世界に降りて下さった、私たちと同じような人 間とし、肉の体となった人間として生活をなさったということです。これが、神様のひと り子としてのイエス・キリストだということです。

  繰り返すようですが、「言が肉となった」ということは、神様が人間になったというこ とです。人間が神になったのではない。神様が私たちと同じように人間になられたという ことです。ある中世の神学者が「神が人間になった」ということがどういうことなのか丁 寧に考察を致しました。たとえば、神様が私たちと同じように、肉体を取ったというけれ ども、心は神様のままであったのだろうか。理性はどうだったのだろうか。感情はどうだ ったのだろうか。理性は、私たちと人間と同じであっても、感情までも人間と同じものに なられたのだろうかというように丁寧に検証したのです。その結果、その神学者は、やは り私たちと同じ人間になられたという結論に達したのです。まさしく、イエスという人間 になっ下さって、私たちの間に宿って下さったのです。この「宿る」という言葉は、一晩 の仮の宿を取ったというようなことではありません。共に住んで下さるという意味の言葉 です。私たち人間の間にイエス・キリストが神様として住んで下さったということです。 しかも、イエス・キリストが私たち人間の中に仲間として住んで下さるということです。 イエスというお方が、神様であると共に、人間の姿になって、私たちの世界に降りて来ら れた。しかも私たち人間の仲間としてこの世界に住んで下さった。このことは、私たちの 慰めであり、それこそ恵みに満ちたものであると思えるのです。なぜならば、イエスとい うお方を私たちは、より身近に感じることができるからです。遠い存在であるような神様 をより身近にそれも主イエスを通して本当に神様はいるんだと感じることができるからで す。このことは、大変不思議なことです。私たち一人一人の存在は、それこそ消えてなく なりそうなものです。海を見ても、空を見上げてみても、私という人間が生きていること が不思議に思えてくると同時に、ちっぽけなものであり、取るに足らないものであること を感じることでしょう。そのような中で、それこそ大宇宙を支配されている神様ご自身が 、なぜ私たちが住んでいる地球の、それもただ一点にみ業を行い、ご自身の姿を表すよう なことをなさったのか。これは途方に暮れるような話であり、信じられない出来事です。

  けれども、それよりも、なぜ人間が神様の救いの対象になっているのかということです 。考えてみれば、神様は人間を無視することぐらい簡単にお出来になるお方であります。 神様に対する私たちの身勝手さ、不信仰さからすれば、たとえ私たちに関心を持たれたと しても、対立するお方として、私たちの敵として存在されてもよかったはずです。けれど も、神様は私たち人間を無視することなく、裁いたり、滅ぼしたりすることなく、イエス ・キリストにおいて人となってくださった。私たちが住む地球を選び、その地球に生きて いる私たち人間を選んで、私たちと同じ存在となって下さったのです。そのように「神の ひとり子であるイエス・キリストを信じる」ということは、スケールの大きなものです。 とても、常識で計ることのできない出来事、その信仰を私たちは与えられているのです。 それだから、16節においては「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から 、恵みの上に、更に恵みを受けた。」と表現しました。さらに、17節においては「恵み と真理はイエス・キリストを通して現れたからである」と語られています。神のひとり子 であるイエス・キリストの信じる生き方、いえまさしく信仰が与えられていることを受け 入れて生きる生き方こそが、恵みを受けていることだと聖書は私たちに示してくれるので す。この真理ということは、本当のこと、間違いのないことです。私たちはイエス・キリ ストと共に生きることによって、間違いなく生きていかれるということです。神様のもと で正しく生きるということです。それは、聖書に基づく正さです。人間中心の正さではな く、絶対的なもの、絶対者であるこの世界を支配して下さって共にいて下さる神様のもの として正しく生きるということです。それが、恵みの上に、更に恵みを増し加わる生き方 へと変えられ、神様のひとり子としてのイエス・キリストを信じ受け入れた私たちの姿と なっていくのです。

  しかも、大胆にも聖書は18節で「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところ にいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」と語っています。神様を見た という人は、世界中にたくさんいることでしょう。日本においても、私は神様を見たと言 って自分が教祖になってしまう人がいるくらいです。そのような現実から新しい宗教か起 こっているのが現実です。そのことからしても、私たちが信仰を持つ時にも、神様が生き ておられるということがわからないと信じるということは起こっていかないと思えるので す。しかも、神様そのものにお会いしなければ、神様が生きて働いておられるのかわかり ません。それだから、神様を見れば、神様にお会いすれば神様が生きておられることは誰 にでもすぐに納得できるのではないか。それだから、実際に神様にお会いしたい、見たい と願うのではないでしょうか。けれども、聖書ははっきりと神様に会った人などいないと 明言します。それでは、困るではないか、そんなことで信仰が、神様を信じることなんか 起こらないと思えるでしょう。けれども、父なる神様のふところにいる独り子である神、 つまりイエス・キリストによって神様が示されたということです。つまり、私たちはもう 神様を見たり、神様に会ったり、神様が生きておられることを確かめたりする必要はなく なったのです。大切なことは、神様のひとり子であるイエス・キリストが来て下さったこ とです。主イエスを通して神様を表して下さいました。なによりも、主イエスは、この世 界において神様の栄光を表して下さったのです。主イエスが神様であることの栄光です。 父なる神様のひとり子としての栄光です。栄光とは、イエスというお方が神様であるしる しです。それは、なによりも、私たちの救いのために十字架に掛かって下さって、三日後 復活して下さり、私たちと共に居て今も尚働いて下さり、御言葉によって恵みと祝福を、 さらに慰めを与えて下さっていることです。それだからこそ、今後も私たちは神様を見た などと言い張る必要もないし、神様に会いたいとか見たいという言って特別な経験を追い 求める必要もありません。ただ、神様を知ることは、ひとり子であるイエス・キリストを 知る以外にはないことを受け入れることです。まさしく、私たちの信仰の出発点は、イエ ス・キリストを神様と信じること、父なる神のひとり子であることを受け入れることにあ るのです。この信仰に生かされて神様を知って恵みに満ちて生きていくだけです。

 お祈り を致します。 主イエス・キリストの父なる御神様 あなたのひとり子、まさしくあなた御自身にほかな らぬイエス・キリストが私たちの中に住んで下さったために、その恵みに溢れた真理を持 って、私たちを生かして下さっております。心より感謝を申し上げます。なによりも、あ なたのひとり子であるイエス・キリストを通してしか、私たちはあなたのことを知ること ができません。どうか、恵み深く、憐れみと慰めに満ち、この世界をも支配し働いて下さ っておられる神様のことをひとり子である主イエスを通して知ることができますように。 受け入れて信じて信仰の歩みをすることができますように、お導きをお願い致します。ま た、「われは父なる神のひとり子を信じる」と告白する時、その喜びに満たされて、さら にこの後も神様である主イエス・キリストが与えて下さる御言葉によって生かされるもの とさせて下さいますように、どうぞお願い致します。このお祈りを救い主である主イエス ・キリストの御名によって、御前にお捧げ致します。アーメン

 6.「われらの主イエス・キリスト」  

  私たちは、礼拝の中でご一緒に唱えます使徒信条の一つ一つの言葉の意味を考えながら 、御言葉を聞き取っています。使徒信条におきましては、イエス・キリストをどのような お方として私たちが信じるのか、公に言い表すのかが示されているものです。それだから 、使徒信条においては、イエス・キリストがどういうお方で、私たちとどのような関係が あるのかを比較的長く語るのです。特に、この使徒信条においてはイエス・キリストとい うお方について語る時に「われらの主イエス・キリストを信ず」と告げています。その後 、「主は聖霊においてやどり」と続けられていますように、もう一度このイエス・キリス トのことを「主」と告げているのです。この「主」ということは、御主人ということです 。支配者を意味する言葉です。それは、何かの所有者を意味する言葉でもあります。みな さん方の中でも犬を飼っているお方がいるでしょう。飼い犬がいる。その犬を飼っている 家がある、その家の人は犬にとっては御主人です。その家の人々にとっては、その犬は自 分の持ち主になるでしょう。犬にとっては、御主人によって支配されてはいますが、なに よりもこの主人は自分の命を養ってくれる者となっています。このように人間を犬にたと えるということはおかしいかもしれません。けれども、聖書は飼い主と犬との関係のこと は語ってはいませんが、私たち一人一人を「羊」として、イエス・キリストをその羊の飼 い主、牧者にたとえて語っているのです。

 そのように、私たちはこの方に従うものとしてイエス・キリストを「主」と呼ぶという ことです。御主人として、自分の命を養って下さるお方として信じて従って生きるという ことです。それだから、私たちがイエス・キリストを「主」と呼ぶことができたならば、 それはそれでもうイエス・キリストのことを信じていることになるのです。特に、キリス ト教会の歴史において最初の時代には、簡潔な信仰の告白の言葉としてよく使用されてい たものが「イエスは主である」という言葉でした。それこそ、教会が生まれた頃にこの信 仰の告白が大切にされていました。それだから、復活された主イエス・キリストに出会っ て、この方に委ねる新しい生活をすることになったパウロという人物がコリントの教会に 送った手紙の中で、コリントの信徒への手紙一の12章3節で「聖霊によらなければだれ も『イエスは主である』とは言えないのです。」とはっきりと告げています。それこそ、 聖霊の働き、神様が実際に一人一人に働いて導いて下さらなければ信仰を持つことができ ないものです。それに、信じるということはイエスというお方を「主」と呼ぶことに他な らないということになります。このことは、今も十分通じるものです。「イエスは主であ る」つまり私自身も説教でこの方の名前をあえて「主イエス」と呼んでいますように、「 主イエス・キリスト」と呼ぶことができたならば、それで信仰の告白は既にできていると いうことになるのです。その代わりに、このお方を「主イエス」あるいは「イエスは私の 主である」ことを告げることができないならば、まだ信仰を持っていないことになってい くのです。よく、呼び方そのものにその人の態度が表されると言われています。人間関係 の中にありましても、気に食わなかったり、あるいは自分と無関係であるとするならば、 「あの人」とか「あいつ」というような呼び方をするのではないでしょうか。学生だけで なく、もしかしたら教会においても「〜先生」あるいは「〜長老」「〜さん」と改まった 言い方をしているのが、気に入らないことがあったり、嫌という思いが強いと陰では「あ いつはとか」あるいは呼び捨てで呼ぶということが起こるのではないでしょうか。そのよ うに自分とこの方とはどういう関係があるのかということで呼び方そのものが変わってい くのかもしれません。それですから、私が神学生の時には、教授から、もしイエスという お方を信頼し、この方を信じて生きているならば、「イエス」と呼び捨てにはしないはず だと口をすっぱく言われたのです。説教や日頃の言葉においても「イエス様」あるいは「 イエス・キリスト」それこそ、「主イエス」と厳かに呼ぶようにと注意されたのです。

  ところで、使徒信条というものは、名前の通りに使徒たちが書いたとされる信条という ように受け取りがちです。使徒というのは、復活された主イエスに直接お会いして、それ こそ、主イエスの救いである喜びの福音を宣べ伝えるために選ばれた弟子たちでありまし た。ペトロやパウロたちが後に使徒と呼ばれています。それに、信条というのは、教会誕 生の頃に生み出された信仰告白です。イエス・キリストをどのように言い表し信じている かを告げている基本的なものを信条と呼んでいます。そのことから、むかしは使徒である ペトロやパウロあるいは今日示されている聖書に登場していますトマスが書いたとされて いました。言い伝えによりますと、それぞれの使徒たちが自分が大事であると思っている 信仰を持ち寄って、信ずべきことを定めようということになり、その重要な信仰の内容を 集めたものが、使徒信条になったといわれていたのです。けれども、そうではなく教会の 歴史の基礎を築いてきました使徒たちが言い表し、宣べ伝え、教えてきた信仰に基づいて 言い表されてきた教会の信仰ということを意味していたのです。確かに、使徒たちは直接 はこの使徒信条を書かなかったかもしれませんが、使徒たちの信仰の言葉がこの使徒信条 には反映をしているということです。特に、使徒となっていくトマスの言葉が今日取り上 げています使徒信条の「われらの主イエス・キリストを信ず」という言葉に影響を及ぼし ていたのです。ヨハネによる福音書20章28節で復活された主イエスとの対話からトマ スが「わたしの主、わたしの神よ」と告白していることです。復活されて共におられる主 イエス・キリストに向かって「あなたが、わたしの主人です。あなたこそがわたしの神様 です。」と言い表した言葉だということです。

  さて、今日、聖書として取り上げていますヨハネによる福音書は最初の1章でイエス・ キリストとは誰かということを簡潔に語りました。1章18節で「いまだかつて、神を見 た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」と 聖書が語っていますように、イエス・キリストこそが父なる神の独り子であり、神様その ものであるということが語られていたのです。それこそ、21章は付録と考えられていま すので、今日示されている20章の最後の物語はこの福音書のクライマックスの場面だと 言われているのです。それだから、やがて使徒となる人物が主イエスに向かって「わたし の主、わたしの神よ」と告白をしていることがこの福音書全体においてイエス・キリスト を明らかにする、証していく人間の言葉だということです。いうならば、使徒信条が告げ る「われはその独り子、われらの主イエス・キリストを信ず」と告白する言葉が使徒とな る人物であるトマスによって告げられていることになっていくのです。実はこのトマスの 信仰告白の言葉は最初の頃の教会にとっては、重要な言葉となっていきました。この当時 は、今日のように難しく言い表すような信仰告白は存在していませんし、当然、使徒信条 は形作られてはいませんでした。それで、主イエスのことをはっきりと信じて、救い主で あると受け入れて洗礼を受ける時には、このトマスが語った「わたしの主、わたしの神よ 」という言葉を告白するように指導させていたようです。私たちの教会においては、使徒 信条を含んでいます日本キリスト教団信仰告白を告白させるようにです。

 さて、それでは、ここに登場している主イエスの弟子として選ばれた人物であるトマス は、教会にとってふさわしい人物であったのでしょうか。いえ、むしろ、そうではなく決 してりっぱな信仰を持っていたとか、信仰熱心ではなかったようです。このヨハネによる 福音書が人々に読まれるようになってからずいぶん早くからトマスのことを「疑い深いト マス」というように不名誉な呼び方をしていたようです。これは、20章25節で「あの 方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入 れてみなければ、わたしは決して信じない。」と疑いの言葉をトマスが語っているからで す。なによりも、疑い深いということは、神様に対して信頼していないということになる でしょう。神様に不平不満があるからこそ、疑いが募っていくのだと思われるのです。そ れだから、疑い深いということは、一番信仰が弱いということになるのかもしれません。 けれども、賢いからこそ、知識や理屈があるからこそ疑いが強いということも考えられる ものです。それでも、神様を信頼しない、信じないということですから、信仰が弱いとい うことには変わりないと思えるのです。それにしても、わたしたちはどこかで信仰が弱い ことや疑い深いということが悪いことだと考えています。それだから、私たちも疑うけれ ども、トマス程でもない。あるいは、私自身もトマスと同じように神様のことを疑ってし まうと考えて落胆してしまうものでしょう。果して、そのように考えられるだけでしょう か。このトマスが疑いの言葉を語ったのは、復活された主イエスが他の弟子たちがひとつ のところに集まり、主イエスが尋ねてくださっていた時に、トマスひとりだけが弟子たち に一緒といなかったことに対してのことでありました。24節で「十二人の一人でディデ ィモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかたった。」と記さ れているようにです。この場面においては、当然、主イエスを裏切って自殺をしてしまっ た裏切り者ユダはいませんでした。けれども、聖書には12人と記されてあります。トマ スはユダを含めた12人の弟子の一人であるというようにです。それだから本来ユダも疑 い深いトマスも主イエスが選んで下さって、愛して下さった弟子たちであったのです。

 それにしても、このトマスは「疑い深いトマス」と呼ばれる前は、「ディディモ」と呼 ばれていました。この当時、トマスという名前の人はずいぶんたくさんいたために、どの トマスかを区別するためにニックネームのようなものが付けられていたのです。実は、デ ィディモというのは、双子という意味です。双子のトマスと呼ばれていたのです。そのこ とから興味があることにはこの双子のもう一人はどこへ行ってしまったのかということで す。この福音書には登場していませんし、何も記してはいません。キリスト者になったの かどうかそれもわかりません。ただ、ある説教者が大変面白いことを語りました。「トマ スはふたごであった。そのもうひとりはどこへ行ってしまったのか。実は、私たち一人一 人がそのトマスの片割れだ。私たちの誰もがもうひとりのトマスだ。」というようにです 。双子であるトマスのもう片方は、別に探さなくてもよくなったということです。私たち 一人一人であるからです。私たちも他の弟子同様に実際に主イエスにお会いしたいと願っ ている。会って信じたいと願っている。けれども、言葉だけを聞いているだけでは納得が できない。それは、なによりも主イエスに会いたいからだと思えるのです。誰でもが、神 様を見たいし、神様の救いを求めて生きているのではないかと思えるのです。そのように して、私たちも復活された主イエスにお目かに掛かることによって「わたしの主、わたし の神よ」と信仰の告白をすることになっていくのです。しかも、使徒信条の言葉である「 われはその独り子、われらの主イエス・キリストを信ず」と公に告白することができてい くのだと思えるのです。

  この時、他の弟子たちはすでに復活された主イエスにお会いしていました。喜びに包ま れていたからこそ、トマスにも同じような経験をさせたかったのです。トマスにも主イエ スが必ず尋ねて下さるという期待をして待っていたのです。主イエス・キリストを受け入 れる備えをしていたのです。やがて、主イエスが来られて真ん中にたって「あなたがたに 平和があるように」と言われたことが聖書には描かれています。この「平和があるように 」という言葉は、シャロームというユダヤ人にとっては挨拶の言葉です。しかし、ただの 挨拶の言葉ではない。真実に神様と共にある平和を告げるために主イエスは弟子たちをい え、疑いの中にあったトマスを尋ねて下さったのでした。そのことから、主イエスはトマ スひとりに対して27節で「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、 あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者にな りなさい。」と語られました。自分の手で主イエスの釘跡を触らなければ、本物の主イエ スかとうかわからないではないかという疑いの思いで一杯であったトマスでした。けれど も、主イエス御自身が自ら姿勢を低くして下さいました。決して、トマスを叱り飛ばすよ うなことはなさいませんでした。トマスの疑っている姿勢を主イエスは受け入れて下さっ たのです。ここで疑問に思われることが、トマスがこの場面において実際に主イエスに触 ったかどうかです。しかしながら、あえて聖書にはトマスが主イエスに触ったのか、触ら なかったのかは描かれてはいません。そんなことは聖書は問題にはしていなかったようで す。ただ、トマスが主イエスの体に触って信じたと語られてはいないことから、もう触る ことは無意味なことに変わったのではないでしょうか。それよりも、ここでようやくトマ スが主イエスに向かって「わたしの主、わたしの神よ」と告白したことです。この時、ト マスはもしかしたら、主イエスの御前にひざまづいたのかもしれません。それにしても、 なぜ、トマスがここで主イエスに対する信仰の告白をすることができたのかということで す。トマスは復活された主イエスに会うまでは、イエス・キリストが十字架に付けられた ことを深刻には受け止めてはいなかったようです。改めて、復活された主イエスにお会い して、手にある釘で打たれた傷痕、わき腹にある槍で刺された傷痕を見た時に、トマス自 身が打ちのめされてしまったのです。復活された主イエス・キリストの言葉は、十字架に 付けられた主イエス・キリストの言葉でもあったからです。つまり、主イエスの言葉の中 には「おまえのために、もう一度十字架の苦しみ、痛みを繰り返そう。おまえが信じる者 になるために」という意味が隠されていたのではないかと思えるのです。この時、トマス はこんな弱い私のために、十字架に掛かって救いを与え、ゆるしを与えて下さったことを 初めて知ることができたのです。主イエス・キリスト御自身が尋ねて下さらなければなら ないことでした。それだからこそ、新しく復活の主イエスに出会ったからこそトマスは、 主イエスに対して「わたしの主、わたしの神よ」と叫ばずにはおられなかったのです。そ れだからこそ私たちが使徒信条で「われらの主イエス・キリストを信ず」という言葉を告 白する時にも同じことが起こっているということがいえるのではないでしょうか。

  疑いの中にあったトマスでありました。それこそ、神様から離れていましたけれども、 ようやく平安を与えられて、許されていることを受け入れることができたトマスは、主イ エスに支えられながらも「わたしの主、わたしの神よ」と語ることができました。そこで 、主イエスは29節で「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いであ る。」と語られたのです。弟子たちは、当然のように復活された主イエス・キリストを実 際の目に見ることができました。けれども、今は私たちは実際に肉眼で主イエスを見るこ とはできません。けれども、ここで見ないのに信じる人は、この弟子たちよりも、トマス よりも偉いということを語られておられたのではありませんでした。むしろ、見ないで信 じることができる人を祝福されておられるのです。それは、なによりも主イエスを信じる 喜びの中に御自身が招いて下さっておられるからです。私たちに向けて御言葉を語ってお られるからです。まさに、私たち一人一人が神様の働きである聖霊の力によって主イエス にお会いして、信じるようになるためにです。そのようにして私たち一人一人が主イエス ・キリストに向かって「わたしの主、わたしの神よ」と信仰の告白をして生きることにな っていくのです。それにしても、使徒信条においては「我は信ず」と始めながらも、ここ では「我が主イエス・キリスト」とは語ってはいなくて、「我らの主」というように複数 として語っていることです。これは、私だけの、私一人の主イエスではないということに なります。つまり、信仰というものは一人では成り立たないのです。主なる神様、主イエ ス・キリスとの私との関係は一人では成り立たないのです。すべての人の「主」であると いうことです。

  特に、今日のトマスの物語においては、26節で「八日の後、弟子たちはまた家の中に おり、トマスも一緒にいた。」と記されていました。弟子たちは八日後、一つの家に集ま っていたのです。八日後というのは、復活された主イエス・キリストに弟子たちがお会い して八日後のことです。主イエスが復活されたのが日曜日の出来事であり、その日にトマ スを除く弟子たちにお会いになっていたのです。日曜日から八日後、イスラエルにおいて はその日の日曜日も日にちを数えますので、次の日曜日のことです。再び弟子たちは日曜 日に集まったのです。何のためにか。神様に祈りをし、礼拝を捧げるためにです。いえ、 主イエスにお会いするために集まっていたのです。まさしく、そのようにして主イエスに お会いして、信仰の告白をするために集まったことになるのです。ここから教会の歴史が 始まったのです。やがて、いつも主イエスの復活された日曜日に一つのところに集まり、 弟子たちは神様を礼拝するようになっていったのです。一人で信じるのでなく、教会が信 じるようになっていったのです。みんなと共に信仰の告白をするようになっていったので す。ある説教者が告げるのです。「復活された主イエスは、今われわれと共に生きておら れる。教会として生きておられる。教会として存在しておられる。だから教会の礼拝に出 ないと、教会の仲間の話を聞かないと、教会での説教を聞かないと、復活された主イエス に会うことはできないし、『私の主、私の神よ』という喜びの言葉もわれわれの言葉には ならない」そう呼びかけます。また、宗教改革者ルターは言います。「われわれが自分の 罪、自分の心に悩まされる時、自らを元気づけて慰めてこう言ったらいい。これでもなお 、わたしは洗礼を受けている。いやしくも洗礼を受けている以上救われている。魂も体も 、永遠の命を与えることが約束されている。」というようにです。私たちもトマスのよう に疑い深くなる時がある。それこそ、神様なんか信じられない時がある。恐れに満ちてし まう。その時こそ、わたしは洗礼を受けている。これでも主イエスに会っていただいた人 間なのだ。わたしは、これでも「あなたこそ、わたしの主、あなたこそわたしの神」と告 白した人間なのだ。そう主イエスの御前に告白することができたら、必ず主イエスは支え て下さる。そのために、われらの主イエス・キリストとして、ここで、教会で生きて働い ておられるのです。それだから「われらの主イエス・キリストを信ず」という言葉を告白 して生きることが喜びとなっていくのです。既に洗礼を受け入れた方は、主イエスに出会 い続けて、洗礼を受けた時のあの喜びを思い起こして歩み続けていただきたいと願うので す。まだ洗礼を受けられておられない方は、一日でも早くイエスというお方を「主である 」と告白することができますように、主にお祈りを捧げたいと思うのです。さましく、イ エス・キリストこそがわれらの主イエス・キリストであるからです。

 お祈りを致します。 天の父なる御神様 私たちはあなたがお送り下さった独り子であるイエス・キリストを「 主」と呼ぶことができるようになりました。このイエスと呼ばれるお方こそが、私の主、 私たちの主であり、教会の主であります。どうか、このイエスという名によって、「われ らの主イエス・キリスト」信じて、言い表して信仰の歩みをしていくことができますよう に、お導き下さい。また、なによりも洗礼を受けた私たちであること、イエス・キリスト が「われらの主」として捕らえて下さっていることを心から信じて、いついかなる時でさ えも主イエスと共に喜んで歩んでいくことができますように、お導き下さい。まだ、洗礼 の志を与えられていない方々の上に、どうか、主イエスを真の救い主であり、神様である ことを信じることができますように、聖霊の豊かな導きを与えてくださいますように、ど うぞお願い致します。このお祈りを救い主である主イエス・キリストの御名によって、御 前にお捧げ致します。アーメン

 7.「イエス・キリストの誕生」

 私たちは礼拝において使徒信条が告げる一つ一つの言葉を聖書を通して学び始めまして 、今日から新しい重要な部分に入っていきます。いうならば、使徒信条が中心に告げてい ることは、イエス・キリストが何をなさったのか、何をなさっておられるのか、これから 何をなさろうとしておられるのかということです。使徒信条におきましては、最初に父な る神様のことを告げていました。「われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず」という ようにです。けれども、重要なことは父なる神様との関係においてイエス・キリストのこ とを信ずということを次に告げていることです。「われはその独り子、われらの主イエス ・キリストを信ず」というようにです。その次から、その私たちの主イエス・キリストと いうお方が、どのような歩みをなされたのか、私たちの関係においてどのようなお方なの かが示されていくのです。まず、イエス・キリストを語る上で最初に「主は聖霊において 宿り、処女マリアより生まれ」ということが告白されます。この言葉において、イエス・ キリストの誕生のことを私たちは告白をするのです。いうならば、主イエスの誕生である クリスマス物語を私たちは信じ受け入れて告白をしていくことが求められているのです。 けれども、そのような主イエスの誕生であるクリスマスは、一人一人に驚くべきことを見 せてくれますが、つまずきにも変わっていくのではないでしょうか。「主は聖霊において 宿り、処女マリアより生まれ」というように信じられない言葉を使徒信条において告白し ていくからです。  

 ところで、使徒信条は聖書に基づいて形作られたものです。聖書の言葉を凝縮して語る ならば、このように言い表すことができる、いわゆる神様を信じるという信仰のエッセン スが詰まっているものです。それにしては、新約聖書の中の主イエスが実際どのようなこ とをなされたかを描いています福音書を読みますと、主イエスの言葉がいくつも残ってい ることがわかります。主イエスの教えられたことがたくさん記されています。しかしなが ら、使徒信条には、一体イエス・キリストがどういう教えを語られたのか、どれほど熱心 に愛を説かれて、私たちを愛しておられるのか、反対にどれほど神様の裁きや滅びの厳し さが語られているのかについては、何も告げていません。病人の癒しや弱い者を救って下 さったことやましてや主イエスが行われた一つ一つの奇跡も取り上げてはいないのです。 ただ、使徒信条は、一貫して主イエス・キリストがどういうお方なのかを語っているだけ です。いわゆる、主イエス・キリストの歴史を物語っているのです。この歴史こそが、救 いの出来事です。確かに主イエスが教えて下さったことも大切だけれども、最も重要なこ とは主イエス・キリストが私たちのために何をして下さったのかということです。私たち は、主イエスの教えや言葉だけを信じるのではなく、その本人、イエス・キリストを信じ て生きることが最も重要なことだからです。それだから、使徒信条が告白する中心には、 主イエス・キリストが一体誰なのかが記されていくのです。最初に、主イエスの誕生のこ とが告げられていきます。けれども、これこそが人にとってはつまずきの基になっていく ものであり、受け入れることができないものであり、信じられないものとなっていくでし ょう。「主は聖霊によりて宿り、処女マリアより生まれ」という言葉がです。

  さて、この「聖霊において宿り」の宿りという言葉は、聖霊において受胎したというこ とです。イエス・キリストは聖霊によって地上の存在となられ、それこそ処女マリアから お生まれになったということです。特に、日本語に訳されています使徒信条においては「 処女マリアより生まれ」となっていますが、原文では「マリアより生み出された」という ように受け身になっているのです。処女マリアを通してお生まれになったということです 。このことを教会用語では、処女降誕と呼んでいます。もちろん、これは処女マリアが生 まれる物語ではなく、処女であったマリアから御子であるイエスというお方がお生まれに なったということです。そのようにこの使徒信条の言葉に注目していくならば、人によっ ては処女であった女性が男の子を生んだということだけを問題にするのではないでしょう か。けれども、一番重要なことは主イエス・キリストの誕生は聖霊によってそのことが起 こったということです。聖霊とは、神の霊のことです。神様が霊を注いで下さるその働き のことを語っているのです。神様が働いて下さらなければ、処女降誕は起こらないという ことです。もちろん、処女降誕を科学的に説明せよと言われてたり、この「処女降誕」に 変わる良い言葉があるのかと言われれば、答えを見出すのに困惑が生じてきますけれども 、なによりも聖霊によって受胎したということと処女降誕を分けることなく「主は聖霊に よりて宿り、処女マリアより生まれ」という言葉を丸ごと信じて受け入れることが大切だ ということです。どうして、処女が子供を生むのかということだけに興味を持たないとい うことが大事なことなのです。使徒信条を解説している書物に東京神学大学が出しており ますパンフレットの一冊として「正しい信仰」という小冊子があります。その書物におい て「主は聖霊によりて宿り、処女マリアより生まれ」という部分の解説についてこのよう な言葉から始まっているのです。「クリスマスの喜びに、感動しない人はありません。ク リスマスは、偉大な人間の誕生だから、うれしいのではなくて、神のみ子がお生まれにな ったから、喜ばしいのであります。しかし、神の御子が生まれたのであるとすれば、御子 は、人間の女から生まれた、ということになります。ここに、クリスマスの不思議があり ます。み子が聖霊によりてやどり、処女マリアより生まれた、と信条が告げるのは、クリ スマスの神秘を語ろうとするのであります。」というようにです。

  先程から私自身も語ってきましたように、多くの書物や人々が処女マリアからの誕生を 語る時には、戸惑いや困惑から語るのではないでしょうか。「こんな不自然なことがどう してあるのか」あるいは「こんなことは、現代では受け入れることができないけれども」 というようにです。そのように前置きをしてから「この物語の本当の意味」を語るように 努力をするのです。けれども、この「正しい信仰」の著者が語ることにはクリスマスはみ なんでお祝いするではないかと問い掛けるのです。この内灘教会においても2か月後にク リスマスをお祝いをすることでしょう。しかも、クリスマスには日頃、教会から離れてい る人や関係がないと思っている人々でさえも教会へと足を運ぼうかなと考えるようになる 。しかも、家族と共に主イエスの誕生の歌を歌い、プレゼントを交換することがある。ク リスマスはなぜ嬉しいのか。ただ、一人の偉人が生まれたということだけで、世界中が何 年も何年も喜び、お祝いをするものでしょうか。クリスマスにはもっと大きな喜びが、確 かな真実がクリスマス物語にはあるのだとみんながどこかで薄々思っているのではないで しょうか。それこそ、神の御子が一人の人間、一人の娘からお生まれになったという、ま ことに神秘的な、深い神様の働きをみんなが祝っているのです。しかも、主イエスが行わ れたことは、最初から英雄的な行為ではなく、むしろ幼子として、一人の人間である処女 マリアから生まれてくだっさたことに始まったということです。神様が人間イエスとして 生まれて下さったということです。ここに大きな喜びがあるのです。それだからこそイエ ス・キリストが私たちと同じ人間となって下さったことを表し、それが聖霊によるもの、 神様の働きによるものとして使徒信条は「主は聖霊によりて宿り、処女マリアより生まれ 」と告げているのです。特に、この事実を語っている聖書は、マタイによる福音書とルカ による福音書だけです。しかも、今日取り上げていますルカによる福音書1章26節から の物語は、使徒信条が言い表している事柄を具体的に、しかも大変詳しく語っているもの となっています。

  さて、そのことから今日示されている聖書の物語を見ていきますと、マリアという女性 が神様から遣わされた天使ガブリエルから救い主を身ごもっていることのお告げを聞くこ とから始まっています。この時、マリアは戸惑い恐れました。このマリアが一番驚いたこ と、恐れたことは、自分には絶対ありえないことだと考えたからです。34節で「どうし て、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」とマリア が驚きの言葉を語っているようにです。人間の目から見て、絶対ありそうもないこと、不 可能であると語ったのです。ありそうもないこととは、人間の力ではどうすることもでき ない絶望的なことでありました。マリアは、この時、自分で自分をどうすることもできま せんでした。今、自分の身に起こっていることに対して、解決する力が全くなかったので す。マリア自身、全く無力感を持っていたことでしょう。けれども、人間としての無力感 や恐れを感じるのはマリアだけではありません。特別な立場に立たされた人間だけではな いです。私たちも少なからず、自分ではどうすることもできない、人間の力ではどうしよ うもない問題を抱えて生きているのだと思えるのです。誰かに相談しても、これといった 解決が得られなかったりすることがあるでしょう。しかも、自分が死ぬかもしれない重い 病気になったり、あるいは誰か親しい人の死にぶつかったりすると、「どうして」とつぶ やいて、人間の無力さを感じるのではないでしょうか。人間と人間というように人間同志 で毎日を生きているのに、人間だけでは、どうしよもないことが私たちの人生には起こっ ていくのです。どんなに、表面で明るく、楽しくしている人でさえも、もしかしたら自分 たちの知らないところで、悩み苦しんでいるということがあるのかもしれません。それだ からこそ、多くの人々が苦しみや病気がない人生を歩みたいと考えるのではないでしょう か。しかしながら、現実には、人間の力ではどうしても解決ができない問題が次から次へ と起こっていくものです。

  このマリアが救い主を身ごもった物語は、人間の予想をはるかに越えたものでありまし た。使徒信条が告げる「主は聖霊によりて宿り、処女マリアより生まれ」ということを言 い表すことでさえも私たちの予想をはるかに越えたものとなることでしょう。けれども、 このクリスマス物語に気づかされることは、「恵み」という言葉が使われていることです 。マリアに向かって28節で「おめでとう、恵まれた方」、30節で「あなたは神から恵 みをいただた」というように天使が二度繰り返して「恵み」を語っていることです。この ことは、たとえ驚くべきこと、恐れることがあったとしても、神様が恵みをお与えになる ということです。まさしく、人間とは、神様の恵みと出会う存在であるのです。しかも、 人間に神様の恵みがやって来るのです。聖霊において身ごもって、処女であるマリアから イエス・キリストが誕生したということは、私たちの世界に主イエス・キリストがやって 来られたということになります。つまり、救いである恵みがやって来たことになるのです 。たとえ、人間が打ちのめされるような経験の中にも、神様の恵みがやって来るのです。 人間が考えて、これは不可能だと思える中で、苦しみや悲しみを抱えている中においても 、神様の恵みは与えられていくのです。しかしながら、神様の恵みが与えられていると言 われても、ただ気休めしか聞こえない時があるのかもしれません。それにしては、マリア が、天使のお告げを聞いたのは、不意打ちに遭った出来事でした。突然の出来事でした。 まさに、主イエスがお生まれになることは、人間の計算にはなかったことでしょう。マリ アは、ただ驚いて恐れたのです。けれども、天使は「おめでとう、恵まれた方」という2 8節の言葉の後に、「主があなたと共におられる」という言葉を語りました。これこそが 、マリアにとっての恵みの言葉でありました。神様から与えられた恵みであり、慰めであ ったのです。

  けれども、マリアは、自分の身に何か起きようとしているかよくわからなかったと思う のです。なぜ、自分が恵みの言葉をもらわなければならないのか理解できなかったことで しょう。それでも、天使との対話が進む中で、だんだと導かれて気づいたことは、神様が 自分と一緒にいて下さるということでした。考えてみますと、私たちの生活には、恵みや 慰めの言葉は満ち溢れています。病気の時には、必ず治りますからという慰めの言葉が医 者から与えられることでしょう。けれども、病気が思うように治らない時もあるかもしれ ません。失意や孤独、苦難や困難を経験することもあるでしょう。そのような中で、嬉し い時にも悲しい時にも、どんな時にでも、力となり慰めや恵みとなる言葉は、「神様があ なたと共にいて下さる」ということではないでしょうか。私たちと神様が一緒にいつも居 てくださることを、心から信じてことができた時に、恐れるものはありませんし、恵みで 満たされていくのです。神様が共にいて下さる、これは頭の中で考えることや口ばかりの ことではありません。実際に、神様はこの世界にやって来てくださいました。イエス・キ リストという人間になって、この世界に来て下さったことは、神様が私たちと一緒にいて ださることを私たち人間が知るためであったのです。まさしく、クリスマスだけでなく、 いつでも、それこそ使徒信条において「主は聖霊において宿り、処女マリアより生まれ」 という言葉を言い表す時にこそ、この私と神様が共に居て下さることを確信する時だと思 えるのです。

  ところで、この内灘教会が伝統としています改革派の教理を教えるものに「ハイデルベ ルク信仰問答」というものがあります。教会によっては洗礼準備をする段階で学びをする ことがありますし、私たちが属している教派の伝統を学ぶうえでも大切な信仰問答書とな っているものです。それにしては、私自身この「ハイデルベルク信仰問答」をそれこそ洗 礼を受ける前に学びましたけれども、ちんぷんかんぷんでありましたし、たとえ洗礼を受 けておられる方もとっつきにくいものかもしれません。ただ、最初の問一あるいは問一に 対する答えの最初だけでも味わい知って受け入れてもらいたいと思うのです。ある牧師は 、信仰問答を隅から隅まで理解して覚えようとするから無理があるし、結局身に付かない のだと言います。ただ一つ最初の文章を味わって何度でも覚えるように口にするだけでい いとアドバイスをしています。問い掛けはこうです。「生きているときにも、死ぬときに も、あなたにとってただ一つの慰めはなんですか」これに対する長い答えの最初の部分は 「私が、身も魂も、生きている時も死ぬ時も、私のものではなく、私の真実なる救い主イ エス・キリストのものであることであります。」という言葉です。このことは、イエス・ キリストが「主」であることを語っているものであり、私たちがイエス・キリストのもの になるということは、まさしく主イエス・キリストが共にいて下さるということです。神 様が共にいて下さることをここで語っているのです。慰めとは、何かまさしく神様が、私 たちの主であるイエス・キリストが共にいて下さるということです。生きている時だけで はなく、死ぬ時においても、イエス・キリストが共にいて下さり、主イエスのものとなる ということです。

  さて、マリアは最初は戸惑いましたが、「主があなたと共におられる」ことを正しく受 け止めることができました。そこから、38節で「わたしは主のはしためです。お言葉ど おり、この身に成りますように。」と天使に向かって告白したのです。はしためとは、女 奴隷という意味です。奴隷は、ご主人を信頼して従っていくものです。自分の命はご主人 にお任せするということです。マリアは、神様にすべてを捧げてお任せをしたのです。神 様に自分の身を委ねたのでした。神様の言葉に自分の人生をお任せするようになっていっ たのです。しかしながら、私たちはマリアが特別な人であったのだから、このように告白 することが出来たのだろうとつい考えてしまうものでしょう。そこまで、神様の思いのま まにされたら、やりきれないと考えることもあるでしょう。神様に従うと言っても、ほど ほどにして、神様にお任せすると言っても、少しは自分の言い分を取っておこうとするも のではないでしょうか。しかしながら、私たちは今や神様の奴隷、イエス・キリストの奴 隷となっているのです。あまりにも自由なものとなっていることから、気づいていないの かもしれません。私たち人間は、いつも神様から離れて自分勝手に、自分中心に生きてい たものでした。このことを教会では罪という言葉で言い表しています。まさしく、罪の奴 隷となっていたのです。このことは、いつも私たちが何かに縛られて生きていたというこ とです。結局は、生活のしきたりに、自分に、他人に、何かに頼って縛られて私たちは生 きていたのてす。なによりも主イエス・キリストがこの世界にお生まれになったことは、 人間が様々なものに縛られていることから解き放つためでありました。実際に、主イエス は私たちの救いのために、十字架に付いて下さって、人間を縛っているものから、いわゆ る罪の奴隷となっていたことから、救い出して下さったのです。贖って下さった。主イエ スから買い取られたということです。

  そうなのです。神様の救いの出来事によって、私たちはイエス・キリストに買い取られ て、主イエスのものとなったのです。神様の奴隷となったのです。神様と共に生きていく こができるようになったのです。確かに、神様を信じて生きること、あるいは礼拝をして いく生活は縛られている生活だと思われている人もいるでしょう。けれども、礼拝とは、 神様の恵みに出会う場であり、神様がいつも一緒にいて下さることを確信することができ る時であります。それだから、神様の言葉を聞き、主イエス・キリストによって救われて いる感謝と喜びから神様に礼拝を捧げるしか私たちは生きることができないのです。しか も、神様が一緒に居てくださり、私たちの味方であるこからこそ、安心して生きていくこ とができるのです。この物語で天使は一番最初に「おめでとう」と言いました。この「お めでとうという言葉は、喜びなさいという意味があります。喜ぶということは、救い主が やって来たことを喜ぶことです。それに、まさしくマリアに起こった出来事は、聖霊によ って、全く神様の力によっての出来事でした。神様がイエスという一人の人間になること は、神様の力であったのです。天使は、37節で「神にはできないことは何一つない。」 と語りました。私たちが主イエスを受入れ、信じて生きることこそが、人間の力ではどう することもできないことだったのです。まさしく、私たちの人生にとって、神様の不意打 ちの物語が、私たちの中で続いているからです。それだから、主イエスをこの世界にお送 り下さった聖霊によって、私たちは、主イエスを信じて、神様と共に生きていくことがで きるのです。この神様の働きよって使徒信条が告げる「主は聖霊によりて宿り、処女マリ アより生まれ」という言葉を信じて、受け入れることができていくのです。まさしく、こ の世界に誕生して下さった救い主であるイエス・キリストが共におられることを信じる以 外には、本当の喜びはないからです。

  お祈りを致します。 主イエス・キリストの父なる御神様 あなたによっての救いの出来事がやって来た時に、 人間は恐れるばかりでありました。けれども、あなたは不意打ちともいえる恵みの業を私 たちに与えて下さいました。あなたの働きによって、一人の娘から御子をこの世界にお送 り下さり、私たち同じ人間として生きて下さり、救いを与えて下さったその大いなる恵み を感謝申し上げます。どうか、神様の力である聖霊を一人一人に与えて下さいまして、救 い主であるイエス・キリストを信じ受け入れて、神様の恵みによって新たな人生の歩みを していくことができますように。いつどのような時、悲しみ苦しみ、たとえ死の中におい てでさえも、主イエス・キリストが共に居てくださっておられることを確信することがで きますように、お導きをお願い致します。また、私たち自身すべてを神様に信頼し、委ね て信仰の歩みをするものとさせて下さいますように、どうぞお願い致します。このお祈り を主イエス・キリストの御名によって、御前にお捧げ致します。アーメン

 8.「ピラトのもとでの苦しみ」  

 礼拝の中で唱えます使徒信条には、3人の固有の名前を記しています。一人は、当然の ことではありますが、イエス・キリストです。残りの二人の中の一人は、処女マリアであ り、もう一人はポンテオ・ピラトです。教会や聖書が世界中に普及していますので、イエ ス・キリストという名前を聞いたことがないという方は、めったにおられないかもしれま せん。それに、このイエス・キリストの母となったマリアの名前も知らないという人もい ないかと思われるのです。使徒信条は、イエス・キリストが救い主であり、神様であるこ とを示しているのだから、イエス・キリスト本人とそれに付け加えて母になったマリアの ことを語っているのは当然のことなのかもしれません。それに対して、ポンテオ・ピラト の名前は、余程教会に足を運ぶか、聖書をよく読んでいる人にしかわからないのかもしれ ません。日本で学びます歴史の教科書にも登場してこない人物です。それだけに私たちに とっても馴染みにくい名前なのかもしれません。私が最初に行った教会でも、ここ内灘教 会と同じように、使徒信条を礼拝の中で告白をしていました。それで、この使徒信条をみ んなと一緒に唱えた時に、どうもこのポンテオ・ピラトという人物を口にする時に、うま く言えずに、変な名前を教会の礼拝において告げるのだなというような印象も持っていま した。けれども、毎週、使徒信条を唱えていく中で「ポンテオ・ピラト」という名前が気 になっていったのです。というよりも、「ポンテオ・ピラト」を口にすることが嫌な気分 になってきたことがあったのです。使徒信条を唱えて見ればわかりますように、「ポンテ オ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架に付けられ」と告白をしていきます。主イエス の生涯での大切な部分を語る中で、苦しまれた、十字架に付けられたと嫌なことに係わっ た人物がポンテオ・ピラトのような気がしてならないからです。それもそのはずです。主 イエス・キリストを信じる群れである教会が立ち始めた頃から、主イエスはいったいどう いうことをなかったのかということを言い表す時に、ポンテオ・ピラトのもとで苦しまれ た方であり、殺された方であることが、広まっていました。それだから、ある人は、使徒 信条を唱える度に、立派な自分の部屋に薄汚い物が入り込んだようなものであると語りま した。折角きれいに掃除していたのに、汚いものが紛れ込んでくる。「しっしっ」と払い のけたくなるというようにです。

 ところで、この使徒信条というものは、教会の初期に形作られた簡易信条と呼ばれてい るものです。つまり、聖書の言葉に基づいて私たちの救いに関われる最小限のこと、最も 大切なことをだけを、不必要だと思うようなものを削りに削って言い表すとどうなるのか ということからできた文章です。イエス・キリストのことを言い表す時に、最初に誕生の ことを表しました。「主は聖霊において宿り、処女マリアより生まれ」というようにです 。けれども、イエス・キリストの誕生から死に至まで、少なくても30年を越える月日が あって、その間に主イエスが行った奇跡や言葉があるばずなのに、何も語ってはいないの てす。むしろ、マリアとピラトの固有な名前を加えながらも主イエス・キリストの誕生と 苦しみの間にあったすべてのことは省略されているのです。そのように、言葉を節約し、 どうしても必要なことを語らない時に、どうして「ポンテオ・ピラト」などというその当 時にしては嫌な名前を持ち出すのか。まず、考えられることは、主イエス・キリストが苦 しまれて十字架に付けられたことには、きちんとした歴史的な日付があったということで す。主イエスを信じられない人々の中には、この人物が空想上のものであり、人々が思い 描いた救い主であるということを考えているようです。しかし、この人物は確かに実在し たということをきちんと語るためにも、誰々の時代に生きていたということを証言してい るのです。この主イエスが苦しまれ、十字架に付けられたのは、2千年前の出来事です。 けれども、このことは、2千年前の人類の歴史的な事件だったのです。古代の人々にとっ ては、ポンテオ・ピラトの時代と言えば、それだけ具体的な歴史の出来事として主イエス の苦しみを思い起こすことができたのです。  

 確かに、主イエス・キリストが苦しまれたことは古代の巨大な国であるローマテ帝国が 支配していた頃の歴史の一こまとして起こった出来事です。ほんの片隅で起こった小さな 事件です。ローマの歴史の中においても、主イエスのことは詳しくは描かれてはいません 。しかしながら、主イエスの出来事が「ポンテオ・ピラト」の時代にはっきりとした歴史 的な日付を持った出来事として使徒信条は語っているのです。ここに、神様の恵みの出来 事が起こった。これは、確かであり、真実であることを使徒信条は明確に語るのです。確 かに、私たちから遠く離れた、しかも2千年前のイスラエル、つまりローマ帝国から支配 されている小さな国において起こった事件であるから無関係なことと思われるでしょう。 けれども、それでも人類の歴史の一点において、主イエス・キリストが苦しんで下さった こと、どんなに今も私たちに深く関わりを持って下さっているのかを踏まえて「ポンテオ ・ピラトのもとに苦しみを受け」と使徒信条の言葉を言い表すのです。信仰とは、いわゆ る観念ではありません。主イエス・キリストと付き合うのも観念的ではないです。神様の ことを頭だけで考えるものでもありませんし、心だけで信仰に生きるのではないのです。 主イエス・キリストを信じることは、具体的なこととして、もっと体験的に、私たちの体 も心も含めた全身全霊を持って神様と共に生きていくいうことです。それにしては、この ポンテオ・ピラトはイスラエルの人々が住んでいますユダヤの領土を直接治めて支配して いる総督でありました。しかしながら、この総督ピラトはすぐれた政治家ではありません でした。パレスチナの小さな国であるユダヤの総督として君臨するということは対した名 誉ではなかったからです。それでも、このピラトは、ローマ皇帝から任命されてユダヤの 総督になっていたのです。ローマ皇帝の支配の中にいた、つまり皇帝の権威の基に働かせ られていたということです。

  それにしては、歴史の日付だけを刻むのであれは、その時のローマ皇帝の名前を登場さ せておけばよかったはずです。この時のローマ帝国は、ティベリアスという皇帝でありま した。ガリラヤ湖は、この時代はこの皇帝の名前を取って、ティベリアス湖と呼ばれてい た程です。それだけ、世間に対しては影響力が多かった皇帝でしたが、使徒信条では、「 ティベリアス皇帝のもとに苦しみを受け」とは告白していないのです。なぜなのだろうか 。それは、総督ピラトが直接、主イエス・キリストを裁いたからです。直接主イエス・キ リストを裁判し、十字架に付けるように判決を下したのが、ユダヤの総督であったピラト であったからです。ピラトは、主イエスの苦しみの出来事に不可欠な人物として登場して くるからです。それだけから、キリスト教会はこのピラトを悪役と見なして、使徒信条に も登場させているのだと考えられるものでしょう。それにしては、新約聖書において、特 に、主イエスが行われたことや言葉を描いているのが福音書です。主イエスが実際に過ご された時のことを描いています。けれども、この福音書は、主イエスの生涯を描きながら も、集中して描いているのが主イエスが十字架に付けられる前の1週間の出来事です。特 に、ヨハネによる福音書は、この一週間の出来事だけを半分近く描いています。それだけ に、主イエスの十字架の出来事が重要であったということです。しかも、総督ピラトによ って裁かれる主イエスの姿を詳しく記しているのもヨハネによる福音書でありました。本 来は、今日取り上げていますヨハネによる福音書19章の前、18章28節からピラトに よる裁判が始まっています。18章28節で「人々は、イエスをカイアファのところから 総督官邸に連れて行った」と記されています。カイアファとは、イスラエルの人々を宗教 的に指導していた大祭司でした。その大祭司の手から総督ピラトのもとへと主イエスを連 れてきたのです。まるで、主イエスが品物扱いされながら引き渡されたのでした。

  何のためにか。ロ−マ帝国の裁判において主イエスを死刑にしてもらいたかったからで す。31節でユダヤ人たちが「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません。」と 語っていますように、イスラエル側には人を死刑にする権利が無かったわけです。それだ から、ユダヤ人たちは何とかしてローマ帝国が行う裁判において死刑判決を勝ち取りたか ったのです。このピラトによっての裁判の様子を聖書を読んでみていきますと、確かに手 順や手続きにおいてはおかしいところはありますが、主イエスは決して非合法な殺人行為 によって殺されたのではありませんでした。主イエスを憎むことになっていった人々は、 それこそ殺したいと考えたけれども、暗殺しようとは思わなかったのです。衝動的に殺す こともしなかったのです。主イエスはきちんとした裁判によって合法的に殺されていくの です。裁判という人間の正しい判断によって主イエスは殺されたということです。いうな らば、この後、主イエスは十字架刑に処せられますけれども、人間の正しい判断によって 、それこそ正義の名によって行われたことでありました。ある人が「合法的に人を殺すに は二つの道がある」ことを指摘しています。一つは戦争です。戦争は人を殺すことにおい て正義を貫くことであると考えられて、しかも人を殺してもいいと信じられることから生 まれるものです。もう一つが裁判によって死刑にすることです。戦争にしても、裁判にし ても、国家の権威あるいは権限がなければ成り立つことかできません。しかも、この裁判 は、正義がないと成り立つことができないものでしょう。それこそ、戦争するにしても、 正義の名による戦いでないと正当化することはできないものです。そうでないと、戦争に 命を捧げてくれる人々を納得せさることはできないものでしょう。

  それよりも、身近なこととして、もし自分の身内が他人によって殺されたらどうでしょ うか。自分が被害にあったらどうでしょうか。日常においても、自分が悪くないと考えて いても人から文句を言われることがあります。傷つけられる言葉を受けることがあります 。その時、あの人は許せない、あのことだけは許せないという思いになるのではないでし ょうか。その時にこそ、考える事はまず自分の正さの主張です。これが正義の名によって 、人を裁くということです。この時には、そんなことは当然の権利であり、当たり前だと 思ってしまうものでしょう。では、何を基準として語っているのでしょうか。報道番組で は、殺人事件のニュース、それこそ無差別殺人のニュースを聞く時に、あんなことをした 犯人は死刑になって当然であるという気持ちを持ってしまうものです。それが、もし身近 な人であればある程に、自分と関係が深いことであればある程にということです。憎しみ を持って解決するしかないのだと私たちは思い込んでいるのです。しかも、それこそが当 然の権限であり権利だというように主張するのです。確かに、人間が共に生きていく時に は、国家や政治あるいは権威や権限の問題を無くしては生きていくことができません。そ れに、人々が共に生きること社会もできないことでしょう。少なくとも、この日本におて いは、今では権威を持っているのは、一人一人の国民でしょう。法律において、ルールの 基に一人一人が人権を与えられている。権限を与えられているのです。しかし、この権限 が与えられている、権威があることは、威張るということでも、自分たちが好き勝手に、 自分中心にそれこそわがままになることではないのです。

 19章10節で総督ピラトは、主イエスに向かって「お前を釈放する権限も、十字架に つける権限も、このわたしにあることを知らないのか」と言いました。ピラトにしてみれ ば主イエスを殺すにしても、生かすにしても自分の手の中にあると思っていたのです。と ころが、この主イエス・キリストを裁いているピラトの姿を見てみると、大変面白いこと に気づかされます。それは、ピラトは官邸から出たり入ったりしていることです。ユダヤ 人たちは、この時、ユダヤ人の王様と自称して神様を冒涜する主イエスと共に裁判に同席 することは汚れると考えて、その場ではなく、外にいました。それで、総督ピラトは、外 に出ていってはユダヤ人から話しを聞き、次に中に入っては主イエスを尋問しというよう に、何度も総督官邸から出たり入ったりしています。何ともみっともない裁判官ではない でしょうか。優柔不断ということが言えるのかもしれません。それよりも、12節で聖書 が示すようにピラトは、イエス・キリストを釈放しようと努めたのでした。しかし、自分 に圧力をかけるユダヤ人たちの意見に耳を傾けるしかしょうがなかったのです。なぜか。 ユダヤ人たちの脅しに負けてしまったからです。12節で「そこで、ピラトはイエスを釈 放しようと努めた。しかし、ユダヤ人たちは叫んだ。『もし、この男を釈放するなら、あ なたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています。』」と聖書はその 時の様子を描いています。結局、ピラトは、自分の権力に固執をし、自分の力と地位を守 ろうとしたのです。ユダヤ人たちもまた、総督ピラトをうまいぐあいに徹底的に利用した のです。なぜか。ピラトは、当時の権力者だったからです。けれども、8節が示していま すようにユダヤ人たちを益々恐れたです。権力者の恐れは、権力がなくなることです。ピ ラトにとっては、もし、皇帝に背くことがあったのならば、自分が今まで築き挙げてきた 権力さえも奪われると考えていたことでしょう。

 結局、ピラトにとっては本当に信頼するもの、自分を生かしてもらうものが、自分しか なかったのです。それだから、自分のためになることであるならば、神様をも抹殺しよう と考えることができたのです。総督ピラトだけではありません。もっと悪いことにユダヤ 人たちですら神様を信じていると思い込んでいたはずなのに、15節においては「わした ちには、皇帝のほかに王はありません」とまで答えてしまったのです。主イエスを殺すこ とにおいては、神様をもあざむくことになっていったのです。使徒信条において「ポンテ オ・ピラトのもとに苦しみを受け」と告白することは、決して人ごとではなかったでのす 。ピラト自身だけの責任ではなかったのです。ユダヤの人々もここに関わりを持っていっ たのです。いえ、私たちもまた自分の正しさを主張することから、その場にいたらやはり 主イエス・キリストを十字架に付けていったのではないでしょうか。まさに、このピラト における裁判の場面で、ピラトのもとで苦しまれた主イエス・キリストの場面の中で、私 たち一人一人の姿が映し出されていくのです。私たちもまた、ずいぶん偉そうな態度を取 ることがあります。けれども、強がって生きている私たちですけれども、内心は、穏やか ではなく、びくびくしながら、人を恐れながら生きているのではないでしょうか。あの人 にこんなことを言われたら大変だ、あの人に睨まれたら困ってしまう。あっち向いては人 の顔をうかがい、こっち向いてはびくびくして生きている。それなのに、いばる時には、 いばってしまう。挙げ句の果ては「神様なんかいないではないか。」、「イエス・キリス トなんかで救われるものか」「十字架、それが自分と関係あるのか」そのようなことを口 に出してしまう。口に出す勇気がなかったなら、心の中で神様のことを馬鹿にしてしまう 。馬鹿にしないまでも、主イエスの十字架に望みをなくしてしまうものではないでしょう か。

 このようにして、ピラトのもとでの裁判の場面において私たち一人一人の罪が暴露され ていったのです。神様を抜きにして考えること、救いよりも自分たちだけの幸せだけを考 えていった人間の行く末をです。この結果が、なによりも、ユダヤ人たちが主イエスに向 かって6節で「十字架につけろ、十字架につけろ」あるいは15節で「殺せ、殺せ、十字 架につけろ」と叫ぶ声に象徴されていくのです。それだから主イエスは11節で「神から 与えられなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。だから、わたしをあなたに引 き渡した者の罪はもっと重い。」と指摘されておられるます。けれども、総督ピラトは正 義の名において主イエスを裁きながらも、18章38節、19章4節、6節が語っている ように「わたしはこの男に罪を見いだせない。」と3度も繰り返して無罪を主張していた のです。ユダヤにおいては三度とは完全にという意味です。実は、このピラトにおける裁 判は、ピラト自身が行っているように見えますが、神様の働きがあったのです。なにより も、ピラトが主体性をもっていたのではなく、まさに裁判を起こしていたのが主イエス・ キリストだったのです。それだから、ローマの権力者の口を通して神が主イエス・キリス トの無罪をはっきりと宣言されたのです。しかも、5節でピラトは主イエスを指さしなが ら「見よ、この男だ」と語っています。ピラト本人にとっては、こんな男に何ができるの か、こんな見すぼらしい男が王様なのかということで、指し示したのかもしれません。け れども、まさしく神様は、主イエスを信じない人、馬鹿にする人を使って、主イエスに目 を向けさせるようになされたのです。ここで「男」と訳されている言葉は人間と訳すこと ができる言葉です。それだから、賛美歌121番を見てみればわかりますように、この言 葉を基にして主イエスを示す歌が造られていったのです。「どうぞ、この人を見て下さい 、これが本物の人間です」というようにです。まさしく、この十字架に付けられたイエス ・キリストは真の人間であり、真の王様であった。私たちの救い主であって、神様であっ たのです。

  さて、私にとってこの「見よ、この男だ」という言葉には忘れることのできない聖句と なっています。実は、7年前、牧師になるために東京神学大学の入学試験を受けた時に、 聖書の問題がありました。それは、聖書の一部分の言葉を抜き出して、この言葉はどの聖 書の記事で何章に記されているのかということを問う問題でした。それで、この聖句「見 よ、この男だ」といこの言葉が試験問題になっていたのですが、試験対策として聖書を読 んでいたはずが、答えることができなかったのです。昨年の正教師試験の教会史でも答え ることができなくてレーポート提出でした。試験の時、失敗した問題は今でもよく覚えて いるものです。もちろん、人生において失敗しないに越したことはないでしょうが、何か に失敗しなんとなく後ろめたさがある時は、その時のことをよく覚えてものです。それと 同じかどうかわかりませんが、やはり主イエスを十字架に付けたという事は、私たちにと っては失敗であったのです。しかしながら、この罪のことが私たちにとっては忘れること がないものとなっていったのです。ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架に付 けられと使徒信条が語る中で、覚えるべきことは主イエスを引き渡し十字架につけたのが まさに私たち一人一人だったということです。このことは、歴史上あってはならないこと でした。けれども、この十字架の出来事が起こらない限りは、私たちの救いはなかったの です。そのために、神様が用意をなされたのです。私たちの罪をゆるすために、御子であ るイエス・キリストはピラトのもとで苦しまれて、人々に憎まれながらも、憎しみを持っ て報いることなく、自分を犠牲にすることから愛を示し、救いを与えて下さるためにです 。

 お祈りを致します。 主イエス・キリストの父なる御神様  あなたは、私たちのために主イエスをこの世界に お送り下さいました。けれども、救い主である主イエス・キリストを憎み続け、裁いて十 字架に付けてしまったのです。その深い悲しい歴史の中にあっても、尚も人を愛すること ができずに、憎み続ける罪を抱いて生活をしています。どうか、私たちに罪を気づかせて 下さい。まさに、使徒信条で言い表す「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架 に付けられ」という言葉が無関係ではなく私のためにあることを自覚させて下さい。私た ちは主イエスの十字架によってしか救われないものです。どうぞ、私たちに主イエス・キ リストを示して下さり、主イエスの救いに預かって、罪ゆるされた者として信仰の歩みを していくことができますように、お導きをお願い致します。ねがわくは、すべての人々を 神様の救いと祝福の中へと導いて下さいますように。このお祈りを救い主である主イエス ・キリストの御名によって、御前にお捧げ致します。アーメン

  9.「十字架につけられたキリスト」

 今年の夏、石川のある教会の聖書研究・祈祷会で小さな論争が起こったそうです。その 論争が起こった時に扱っていた聖書の箇所は、旧約聖書の詩篇22編でありました。その 詩篇22編の19節に「わたしの着物を分け、衣を取ろうとしてくじを引く」という言葉 があります。これは、今日取り上げていますヨハネによる福音書19章24節「『彼らは わたしの服を分け合い、わたしの衣服のことでくじを引いた』という聖書の言葉が実現す るためであった。」という言葉を示しているものです。つまり、十字架に付けられた主イ エスの服を兵士たちがくじを引いて誰のものになるか分け合ったという物語を巡って論争 が起こったのです。その集会において、牧師が詩篇22編の19節を説明するにあたり、 このヨハネによる福音書の19章の物語を示しながら、十字架に付けられた主イエスは、 衣服だけでなく、23節によると「下着も取ってみた」という言葉があることから、真っ 裸にされたのではないかと語られたのです。いうならば、腰に巻かれていた布、腰布も奪 い取られて恥ずかしい状態に置かれたのではないかと説明されたのです。けれども、ある 一人の教会員の方が、「いくらなんでも、主イエスが十字架に付けられた時には、腰布が 巻かれていたのではないか、下着さえも奪い取られるというそんな恥ずかしいことはなか ったのだろう」と反論をされたのでした。そのようなことから、その教会において主イエ スの腰布を巡って「あーでもない、こーでもない」というようないわゆる腰布論争という ものが勃発したのです。みなさんは、どのように考えられるでしょうか。この十字架に付 けられた主イエスの姿がどうであったのか、小さなことのようではありますが、大変意義 深いものがそこに潜んでいるようです。なぜか。それは、私たちが主イエスの十字架をど のように考えているかということが問われているからです。

  さて、私たちは、使徒信条の言葉一つ一つの意味を探りながら、今日は、「十字架につ けられ」という短い言葉にたどりつきました。「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け 、十字架につけられ、死にて葬られ」というようにです。教会にとって、主イエス・キリ ストが十字架に付けられて死なれたということは、私たちイエス・キリストを信じて生き る者にとっては、大切なことであり、中心的なことは明らかなことです。多くの人々も、 十字架がついている建物を見れば、誰でもが教会堂あるいはキリスト教会に関係がある建 物であることを知ることができるものでしょう。キリスト者の信仰のしるしは十字架にあ ることも確かなことです。キリスト者は十字架をあおいで、十字架に救いを求めて生きて いくものです。それでは、この主イエスの十字架というものは一体どういう意味を持つの か。使徒信条においては、大変簡潔に「十字架につけられ」と語っています。十字架とい うものがどういう意味を持つのか、何のために主イエスが十字架につけられたのかという ことは何も語らないのです。けれども、使徒信条が語る「十字架につけられ」ということ は、ただ単に事実を語っているものではありません。十字架につけられて主イエスが死ん でしまったということをまるで私たちが無関係なこととして告白をするのではありません 。使徒信条の最初の言葉は、原文では「我は信ず」ということでありました。私は、何々 のことを信じるということを語るのです。つまり、「十字架につけられ」という後に、本 来は信じるという言葉が付けられているのです。主イエス・キリストが十字架に付けられ たことを信じるというようにです。人類の歴史上、主イエス・キリストは十字架に付けら れて死んでしまわれました。けれども、私たちがそれを信じるということは、主イエス・ キリストが十字架に付けられて死んでしまわれたという事件が深い関係を持って私たちに 迫ってくるということです。つまり、私自身の救いに係わることであり、自分の人生が、 主イエスが十字架に付けられたという事実によって大きく動かされていくということです 。いうなれは、主イエスの十字架が私たちにとって無関係ではなくなるのです。

 けれども、私たちは時にキリスト者でありながも、主イエスが十字架に付けられたこと を当たり前のように聞いていることがあります。「何だ、また十字架の話しか」というよ うにです。主イエスの十字架による救いの意味が十分に分かっているつもりになっている のです。しかしながら、主イエスが十字架に付けられたことは、当然の出来事ではありま せんでした。ヨハネによる福音書19章で主エイスが十字架につけられる場面を18節で 「彼らはイエスを十字架につけた。また、イエスと一緒にほかの二人をも、イエスを真ん 中にして両側に、十字架につけた」と描かれています。当時、ユダヤの人々にとって、十 字架に付けられることは、決して当たり前のことではありませんでした。十字架に付けら れるということは、処刑されるということです。それにしては、ユダヤ人社会においては 、十字架刑は認められてはいませんでした。それだから、なによりも主イエスはローマ帝 国の裁判のもとに十字架の刑で殺されていったということになります。しかも、十字架の 刑は、極悪人として罰を受けるということでした。主イエスの両側にも十字架刑を受ける 者がいたと聖書が描いていますように、ただ単に主イエスも極悪人の一人として死刑にさ せられたということです。この十字架刑というものは、ローマ史上いえ世界の歴史の中で 、最も残酷な死刑方法であったと考えられています。多くの人々が、こんな残酷で悲惨な 死刑方法はないと考えている程です。その当時のローマの支配者たちが人類のあらゆる悪 どい知恵を結集して十字架刑を考えだしたのでした。それだから、この十字架刑は、主イ エスが殺されてから後、しばらくは続いていたようですが、あまりにも残酷なことから廃 止されるようになりました。それ以後も、日本において、はりつけというような似たよう な死刑方法がありましたけれども、誰も十字架刑そのものを執行しようとする人々はいな かったのです。特に、主イエスが十字架に掛かる道のり、つまり苦しみを受けられる受難 の場面や十字架に付けられていく状況をそれぞれの福音書を見たり、文献を調べてみます と目を背けたい事実に遭遇致します。

  ローマの裁判、ローマ総督であったポンテオ・ピラトの裁判においては、主イエスが鞭 で打たれたり、平手で殴られたりしています。鞭というものは、ひとふりで、背中の皮が 剥けて血が滴ったそうです。しかも、平手で殴られるということは、人前で行ったという ことです。誰も見ていないところで行ったとしても効果はありません。それも、ユダヤ人 の王様だと笑い物にしながら平手で殴っていたのです。侮辱されながら、嘲笑されながら 殴られている主イエスの姿が聖書には次から次へと淡々と描かれているのです。現在の日 本の中で行われているいじめや弱い者をないがしろにする以上のことが主イエスの身に起 こっていたのです。ある人は、憎んでいる者をおとしめたいと考えたら、主イエスの姿を 参考にすればいいと言いました。聖書を読めば、人をどうしたらいじめることができるか 、辱めることができるか、辛い目に合わせることができるか、その方法が分かってくると いうような過激なことを語りました。もちろん、これはいじめを認めているのではなく、 多くのいじめの体験記にも優るものがこの聖書には描かれているということです。それだ け、主イエスの受難の物語は、哀れで辛いものがあったのです。しかも、十字架の死刑方 法は鎖に繋がれて、体力も気力も失われた中で、自分の十字架を担いで死刑上まで行かな ければなりませんでした。しかも、その道なりには人々がたくさんいるのです。まさしく 、みせしめです。それだけでなく、十字架に付けられる時に、手の平、恐らく自分の体重 を支えるために手首に釘を打たれたと思うのです。それに、足首にも釘を打たれました。 しかも残酷にも直ぐには殺さずに死ぬのを待つという方法でした。主イエスを十字架に付 けたのが午前9時、亡くなったのが午後3時でありましたので、実に6時間もの時間十字 架の上におられたということになります。その間も、人々から侮辱され、嘲笑されておら れたのです。最後は、おそらく心臓停止、心不全か何かで死んでいかれたのであろうと考 えられているのです。そのようなことから、冒頭での腰布論争のことを取り上げてみまし たが、恐らくこの十字架上の主イエスの姿は真っ裸であっただろうと思われます。恥ずか しい姿を十字架の上で6時間もさらされておられたということです。今、現在残されてい る絵画や主イエスの生涯をつづった映画には、下着や腰布を付けたり、暴力シーンなどは 柔らかく表現されています。もし、ドキュメンタリータッチに、リアルに映画を制作しよ うとするならば、あまりにも残酷過ぎて放映できないのではないかと私は考えているので す。主イエスの十字架の姿を描くにしても、素っ裸な状態ではなくなってきますし、それ こそ大事な部分にはぼかしか何かをしなければならなくなるものでしょう。それだけ、主 イエスが十字架に付けられて殺されることは重いことであり、深刻な出来事であったとい うことです。

  それにしては、福音書を描くことになった著者たちは、主イエスが十字架の上でどれ程 ひどく血を流されたとか、どんな苦しみを訴えられたとか、十字架の死刑というものがど んなに残酷なものであったのかについては、一切描いていないのです。ヨハネによる福音 書の場合ですと、19章16節から「そこで、ピラトは、十字架につけるために、イエス を彼らに引き渡した。こうして、彼らはイエスを引き取った。」というように、この後十 字架に付けられていく様子が淡々とそこに福音書記者の感情を含まずにありのまま事実だ けが語られていきます。聖書には、主イエスの苦しみのひどさや哀れみの姿には、興味を 示していません。つまり、私たちはただ主イエスの苦しみや辛さを想像するだけでありま して、同情をひくようなものとしては描いていないのです。つまり、私たちが「イエス様 はなんて可哀相なのだろうか。」というよな同情を引くような描き方はなされていないの です。私たちは飢餓で苦しんでいる子供たちや悲しいドラマあるいは病気で死んでいく人 々などのテレビ番組や書物などに触れていくと同情の心を持つことがあります。この人々 のために何かをしなければならない、この人達を救わなければならないと思うことがある でしょう。けれども、この同情の思いはすぐに消えてしまうのです。慌ただしい私たちの 生活の中では、すぐに無関心になってしまう事柄でしょう。本来、同情や哀れみの心、情 緒だけでは救われないことを聖書は私たちに訴えかけているのです。いえ、主イエス自ら が、同情やただ悲しい思いや辛い思いをバネにして立ち上がっても人間の救いはやってこ とないことを知っておられたのではないでしょうか。それだから、今も私たちは十字架に 付けられた主イエス・キリストのことを無関心に見ているのです。それでも、教会は、こ の2千年間、主イエス・キリストの救いを言い表す時に大事な言葉が十字架であることを 語り続けてきました。十字架で主イエスは私たちの罪を贖ってくださったんだということ をです。私たちが神様から離れる思い、神様から背いた罪を取り除くために主イエスは十 字架に付けられて死んで下さったんだということをです。

 しかしながら、このような十字架の意味を聞き続けていく中で、誰でもが一度はこうい う疑問を持つものでしょう。「2000年前にイエスという人が十字架によって死刑にさ せられたという出来事がなぜ、私と関係しているのか。この出来事はむかしむかしのこと ではないか。ましてや、遠い国であるイスラエルという国で起こったことではないか。」 というようにです。主イエス・キリストが十字架に掛かって下さったことが、一人一人の ためであった。人間のためであった。そんなことをいくら強調したとしても、簡単には受 け入れることができないものでしょう。あまりにも、身近ではなく、日常の生活において かけ離れているからです。一体この私とどんな関係があるのだろうかと考えてしまうから です。それだから、イエスというお方が自分の救いをもたらすものだと聞かせれて、そん な謎めいたことは分からないと立ち尽くしてしまうものではないでしょうか。このヨハネ による福音書で主イエスが十字架での死刑にされる時に、19章18節で「彼らは十字架 につけた」と不思議な書き方をしていました。この「彼ら」とは一体誰なのでしょうか。 十字架に付けようとしたユダヤ人たちや指導者である祭司長たちつまり神様を信じている と思い込んでいる神様の民であると考えられるものです。しかし、ユダヤ人たちは十字架 刑にする権限はありませんから、実際に主イエスを十字架に付けたのは、ローマの支配者 たちあるいはローマの兵隊たちでありました。いえ、ただ傍観者として主イエスの十字架 を見つめていた人々でもあるということです。つまり民衆は一体となって15節では「殺 せ、殺せ、十字架につけろ」と叫んでいるからです。しかしながら、ここで具体的な人物 の名前を示さずに、「彼ら」と代名詞を使って曖昧にしているのは、まさしくユダヤ人た ちだけでなく、ローマの人々も、それだけでなくこの福音書を読んで受け取る私たち一人 一人が主イエスを十字架に付けたということを示すためではないでしょうか。この福音書 を読むことになる人々に「あなたもまた主イエスを十字架に追いやり、十字架で殺してし まった」ということを告げるためにです。

  特に、この福音書でとても丁寧に描いていることがありました。それは、どんな罪状書 きで殺されたかということです。罪状書きというものは、決して名誉なことではありませ んでした。死刑にする理由を書いたものです。この罪状書きをめぐって問題が発生したこ とを聖書は私たちに訴えています。19節からの出来事で、総督ピラトが「ナザレのイエ ス、ユダヤ人の王」と罪状書きを記しまして、十字架の上に掲げました。それに対して、 ユダヤ人側がその罪状書きにいちゃもんを付けたのです。訂正するようにピラトに求めた のでした。21節で「ユダヤ人の祭司長たちがピラトに「『ユダヤ人の王』と書かず、『 この男は〔ユダヤ人の王〕と自称した』と書いて下さい。」と言った」というように描か れているようにです。このユダヤ人側の要求は正しいことであったのかもしれません。ロ ーマ帝国の権威からしても、このイエスという男を王様と認めるわけにはいかなかったか らです。当時としてはローマ皇帝以外の王様が存在することはあり得ないことであったか らです。けれども、22節で「ピラトは、『わたしが書いたものは、書いたままにしてお け』と答えた」と描かれています。ピラトは、はっきりと主イエスは「ユダヤ人の王」と して殺されていくことを告げたのです。もしかしたら、この時ピラトにしてみれば、もう これ以上は、ユダヤ人たちの言うことを聞きたくないという気持ちがあったのかもしれま せん。権威のあるローマ帝国の総督としての意地やプライドがあったのではないでしょう か。けれども、このピラトが語っていた言葉に、主イエス・キリストが誰なのかを告げて いたのでした。これは、大変不思議なことです。このピラトという権威者は、主イエスが 誰なのかを自分が意識しないところで、証しをしていったのでした。ピラトは、神様のこ とを知らず、ましてや神様のことを信じてはいない人物でありました。ピラトは、思いが けずに、神様の導きによって「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」という言葉を口にしたの です。ナザレのイエスとは、ナザレ出身の実在のイエスという人物であるということです 。しかも、「ユダヤ人の」ということは、神様に選ばれた民のということです。この罪状 書きは、「イエスこそが、神様から選ばれた人々を救い出してくださる王様である」こと を告げていたのでした。

  しかも、20節にはその罪状書きが「ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれてい た。」と描かれています。ヘブライ語は、ユダヤ人たちが読むことができる言葉です。ラ テン語は、ローマの人々が読むことができる言葉です。ギリシア語は、今の英語のように 世界の共通語として使われていました。つまり、そこにいた誰でもが主イエスが王様であ ることを確認することができたのです。そのことから、主イエス・キリストは全人類の王 様であることをここに示していたのです。主イエスは真実の王様として十字架で殺された ということです。いえ、この世の王様となられるために、十字架で死んで下さったという ことです。繰り返しますが、それは私たち一人一人のためであったということです。それ でも、なぜ主イエスの十字架だけが私たちの救いとなるのか。十字架の処刑が行われてい た時に、多くの人々が十字架で殺されていきました。その人々ほとんどが極悪人であり犯 罪者だったのです。けれども、主イエスは何の罪もなく殺されていったのです。総督ピラ トは、権力者を代表するように主イエスの裁判においては三度も無罪を主張しています。 ヨハネによる福音書では18章から19章に掛けて主イエスの裁判の模様を描いています が「わたしはこの男に罪を見いだされない」とピラトが語っているのです。主イエスは、 犯罪者ではなく、何の罪もないものとして十字架で殺されていったのです。しかしながら 世界中において、主イエスのように何の罪もなく殺されていく人々がいることも確かなこ とです。それらの人々と主イエスは一体何が違うのか。いえ、私たち一人一人と主イエス はそもそも何が違うのでしょうか。ユダヤ人たちやローマの人たち、すべての人々が主イ エスに暴力を振るい、つばを履きかけ、辱め、嘲笑し、あらゆる手段を持って、いじめに いじめました。けれども、どうしても主イエスを完全に屈伏させるに至らなかったのです 。なぜか。主イエスは、人を憎むという気持ちを起こされなかったし、無関心になるとい うことはなかったからです。これは、実に驚くべきことです。  私たちは、人に対して憎しみの心をすぐに持ってしまいます。人にいじめられたり、文 句を言われたら、すぐに腹を立てて、相手を憎んでしまうものでしょう。車を運転してい る人のことを見てみればよくわかってきます。ちょっと車が割り込んだだけでも、私たち は憎しみを持つものなのです。人間であるならば、それは当然のことでありましょう。け れども、主イエスはこんな酷い仕打ちをされていても、憎む心を持っておられなかったの です。それよりも、十字架に付けられていく主イエスは、憎まれても当然の人々の罪をゆ るして下さいと父なる神様にとりなしをなされたのでした。それは、主イエスが神の子で あり、神様であるとすれば、当然のことでありましょう。けれども、主イエスは私たちと 同じ人間でもあったのです。19章17節で「イエスは自ら十字架を背負い」と描かれて います。私たち人間のために、自ら十字架を背負って下さったのです。わたしちの罪を取 り除くためにです。それにしても、十字架に付けられた主イエスは人としてはあまりにも 無力でありました。十字架上の主イエスは醜さ、弱さや欠けを暴露されて、辱められたの です。けれども、この十字架によって私たちの一番弱い部分で、一番醜い部分で主イエス が一つになって下さったのです。普通、私たち人間のつながりは、良いところだけ、美し い部分だけだと思うのです。けれども、主イエスと私たちの関係は、この十字架をもとに して、醜い部分、弱い部分、欠けた部分で一致をしているのです。私たちが私たち自身の 醜さや嫌いな部分までも主イエス・キリストが受け入れて下さって、私たちをまるごと愛 して下さっているからです。そのように、主イエスが十字架につけられて死んで下さった ということは、私たちに与えられた神様の救いの手でありました。この十字架に付けられ た主イエス・キリストを私たちは信じて人生の歩みをしていくのです。宗教改革者ルター は言いました。「私たちが犯した罪、これからも犯すかもしれない罪が、皆キリストのも のになっている。まるでキリストがこれらの罪を犯されたかのように。私たちの罪は、す べてキリストご自身の罪にならないわけにはいかなかった。そうでなければ、私たちは滅 びてしまっていたであろう。永遠に」

  お祈りを致します。主イエス・キリストの父なる御神様 あなたは、この世界に御子イエス・キリストをお送 り下さり、私たちのために十字架を背負って、救いをもたらして下さいました。しかしな がら、その十字架に気づかない私たちです。十字架の望みに生きることができない私たち です。けれども、そのような中においきましても、私たちが気づかないところで、知るよ しもないところで、御言葉をもって私たちに十字架を示して下さっておられます。わたし ちが思うより遙に主イエスの十字架によって救われて、恵みを与えて下さっておられます 。どうか、わたしちの罪を、これから犯すかもしれない罪の姿を取り除いて下さり、すべ てを主イエスによって祝福へと変えて下さいますように、お導きをお願い致します。惨め に醜い中にいても、主イエスの十字架によって、主イエスと共に結びついて、一致してい ることを思い起こさせてください。この先、主イエス・キリストが共にいて下さることを 信頼して人生の歩みをするものとさせてくださいますように、一人一人に祝福と恵みをお 与え下さいますように、どうぞお願い致します。この祈りを救い主である主イエス・キリ ストの御名によって、御前にお捧げ致します。アーメン

 10.「死にて葬られたキリスト」

  私たちは、礼拝の中で告白致します使徒信条の言葉一つ一つの意味を探りながら、今日 は「死にて葬られ」という言葉が与えられました。この使徒信条は、大変簡潔な表現で記 されています。キリストの教会は、使徒信条以外にも、今まで、いくつかの信仰の表現を 文章にしてきましたけれども、その中でも最も簡潔に、簡単に記されているものです。け れども、この信仰の言葉は、自分たちで勝手に造ったものではありません。なによりも、 聖書の言葉に基づいて信仰の言葉を表現してきました。特に、キリスト教会にとっては、 それこそ聖書はイエス・キリストの証言の書であるといわれています。イエス・キリスト をどのように言い表しているかが記されているものです。つまり、私たち信仰者は、この イエス・キリストを信じて生きるものであるということです。それだからこそ、信条や信 仰告白においても、イエス・キリストがどのようなことをされたのか、イエス・キリスト とは一体誰なのかを詳しく語ってきたのでした。使徒信条も、イエス・キリストがどうい うお方なのかを告白していくのです。「主(イエス・キリスト)は、聖霊において宿り、 処女マリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死 にて葬られ」というようにです。けれども、使徒信条は、あまりにも簡潔なために、主イ エス・キリストが地上の生活をなさっていた時に、どのような説教をなさったのか、どの ような奇跡を行っておられたのについては、一切語られてはいません。

 ところが、使徒信条には特にイエス・キリストの業を丁寧に告白していることがありま した。主イエスの地上の生涯は33年ぐらいと言われています。それなのに、使徒信条に おいては、そのような主イエスの生涯よりも死に対してのことを詳しく告白をするのです 。「十字架につけられ、死にて葬られ」というようです。ご存じのように、主イエス・キ リストは十字架で殺されてしまいました。十字架で死んでしまったということです。教会 にとっては、主イエス・キリストが十字架に付けられて死なれたということは、キリスト 者にとっては大切なことであり、中心的なことは明らかなことでしょう。おそらく誰でも が、十字架がついている建物を見れば、教会堂あるいはキリスト教会に関係がある建物だ と気づくものです。それだけ、十字架というものは世界に浸透していますし、この十字架 で主イエスが死んだということはそんなに丁寧に説明しなくても分かることです。使徒信 条もまた「十字架につけられ」という言葉だけで私たちのために主イエス・キリストが死 んでくださったということを受け取るには十分な言葉になっているかと思われるのです。 しかし、あえて簡潔な信仰の告白である使徒信条はくどいぐらいに「十字架に付けられ」 の後に「死にて葬られ」と主イエスが死んで下さったことを強調して語るのです。ここを 丁寧に語ると主イエス・キリストは死んで、葬られたということです。つまり、ここに「 死と葬り」のことが告白されていくのです。この死と葬りということは、切り離すことが できない一つのことでしょう。この日本においても、誰かが死んだ時に、葬りの式をする ように死と葬りとはくっついたものです。しかも、私たちが人間として生まれた以上は、 死んで、葬られるということは、誰でもが経験するということです。では、これは、一体 どういうことでしょうか。

  この使徒信条は、主イエス・キリストのことを言い表すについて信仰の言葉を重ねてき ました。「我はその独り子、我らの主イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりて宿り、 処女マリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架に付けられ」と いうようにです。当然ではありますが、イエス・キリストについて告白するのですから、 「私」あるいは「私たち」という言葉を主語にして言い表すことはできないものです。私 は処女マリアから生まれたとか、私はポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受けたとかは言 えないものです。確かに、十字架は死刑の道具でありましたので、十字架で処刑された人 はたくさんいたことでしょう。けれども、主イエスが十字架に付けられたということは全 く意味が違っていたのです。それだから、この私が十字架に付けられたということもいえ ないものです。ところが、「死にて葬られ」という言葉を告白する時には、私たちに関係 することであり、私も死にて葬られるということが当てはまるのです。主イエス・キリス トが死んで葬られたと同じように私たち一人一人も死んで葬られるということです。この ような説明を聞きますと、恐らく、なにげなく主イエス・キリストのことを告白していた ことが「死にて葬られ」という言葉において立ち尽くしてしまうものかもしれません。い え、それよりも、主イエスのことを無関係なこととして告白していたものが、いきなり私 たちの身に起こっていくことを告白していることが明らかになり驚くものでしょう。つま り、この「死にて葬られ」という言葉において、ようやく主イエスと私たちとが結び合わ されるということです。主イエス・キリストと一つになるということがいえるのかもしれ ません。それよりも、誰でもが関係のない話しではなくなるのです。なぜか。誰でもが、 いつかは死んで葬られる日がくるからです。「死にて葬られ」という言葉がただ単に主イ エス・キリストについてだけ用いられるのではなく、私たちにも必ず用いられる時が来る からです。

  確かに、この「死にて葬られ」ということは私たち一人一人に関わることになっていく のかもしれません。けれども、あえて使徒信条で主イエスが死んで下さったこと、葬られ たことを語るのは意味があったのです。私たちに関わる死と葬りが主イエスの死と葬りに 関わらなければならなかったのです。主イエス・キリストのことを書き留めています4つ の福音書いずれも、主イエスが死んでしまわれたことと葬られていく姿を丁寧に描いてい ます。誰かの物語を記す時には、本来は、生きていた時の業績つまり生きていた時に何を したのか、あるいは頭がよかったのか悪かったのか、性格や資質などの人柄やひととなり に力を入れて書き留めていくのではないでしょうか。つまり、あまり人が死んだ時の有り 様や葬られた時の姿を丁寧には描くことはしないかと思うのです。あの人はいくつで死ん でしまって、あの墓の中になきがらが収められているというように簡潔になるかと思うの です。たとえば、今日取り上げておりますルカによる福音書であるならば、23章44節 から「既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。太陽は光 を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わ たしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。」というように主イエス がどのような言葉を語られてから死んでいかれたのかということまで丁寧に聖書は記して いるのてす。その後に、百人隊長が主イエスのことを「本当に、この人は正しい人だった 」と告白をしていきますし、それから後、埋葬の出来事つまり主イエスが墓に葬られてい く様子が丁寧に描かれていくのです。どうして、わざわざ丁寧に語られていくのか。特に 、主イエスが墓に葬られていく様子を読んでいても、ちっとも面白くないものです。直接 誰かが口にした言葉は記されてはいません。たんたんと埋葬の出来事が記されているだけ だからです。人間の埋葬がどのように行われているのかということを考えた場合でも、よ っぽど興味や関心を示さない限りは、面白くない記事でしかないことでしょう。つまらな い出来事が起こっているに過ぎないものです。

 けれども、どの福音書でもこの主イエスの死と葬りの出来事を外さずに丁寧に描いたと いうことは、このことがとても大事なことであったからだということです。なぜ、主イエ スが死んで葬られたことを物語として語らなければならなかったのか。私たち人間はやが ては死んでいきます。死んで葬られる日がやって来るのです。これは、人間としては当た り前のことでしょう。けれども、神の子である、いえ神様そのものである主イエス・キリ ストが死んで葬られることはあり得ないという考えがありました。死んで葬られるという 神様ほど神様らしいということがいえないのかもしれません。実は、教会の中においても そのような考え方が入り込んでいきました。それですから、神の子であるイエス・キリス トは人間の姿になられたことは仮の姿でしかないという考え方が生じてきたのです。まる で子供たちが見るヒーローもののウルトラマンと同じように人間の姿は仮の姿という考え が持ち出されたのです。それですから、神様であるイエス・キリストというお方が死なれ たということは、ただ仮の姿の人間が死んだだけであって、神様は死んだのではないとい う考え方であったのです。要するにただ死んだように見えただけだということです。もし かすると、私たちも似たような解釈をしているのかもしれません。「どうせ、イエス様は 死んだとしても甦ることができたのだからいいよな。イエス様は神様だから、私たち人間 のように死を怖がったり、恐ろしいと思わなかったからいいような」というようにです。 どこかに、私たちと神様である主イエスと比べてしまって、自分たち人間とはどこかやっ ぱり違うという考え方をしているのかもしれません。そういう中で、聖書は主イエスが本 当に死なれたということ、本当に葬られたということを語るのです。それよりも、聖書に 基づいた信仰告白である使徒信条は、はっきりと主イエス・キリストは「死にて葬られた 」ということを告白をするのです。主イエスが死なれたということは、死そのものであっ たのです。私たちもやがては体験することになる、本物の死であったということです。こ れは、一体どういうことなのでしょうか。

  本来は、死んで葬られるということが神様抜きにして人間だけがいえるように思い込ん でいる中で、主イエスが「わたしもあなたたちと同じことになる、いえ同じ仲間入りをす る」ということで入り込んで下さった出来事でした。ある信仰問答は、この使徒信条が語 る主イエスが「死にて葬られた」ということがどういうことなのか、単純に説明致します 。問が「何故に、主は葬られたのですか。」ということで、答えが「まことに死んでしま ったということを、証しするためであります。」というようです。つまり、本当に主イエ スが死なれたということを明らかにするためだということです。しかも、ある神学者がこ の主イエスが死んで葬られたということがどういうことになるのか喜びを持って説明をし たのです。「もはや、誰ひとり、ひとりぼっちで死ななければならないということはなく なったのです。まさに、この自分の死においても、主イエスの死を共にして死んでいくか らです。主イエスが私たちの死を、ご自身の中に受け入れて下さったことによって、私た ちの死そのものの意味が変わってしまっているのです。「主イエスと共に」と言えること によって、死はもはや望みなきものではなくなったのです。神様を軽んじていた私たちの 死、神様との交わりをすっかりないがしろにしていた私たちの死そのものを、主イエスが 一挙に取り除いて下さった。一切の命の根源である神様から、そのように切り離されてい たということこそ、死の厳しさがあったのです。しかし、主イエスが死んで下さった後に 、私たちの誰ひとりとして、そういう死に方をしなくても済むようになったのです。」

  ところで、内灘教会におきましては先月の終わりに教会墓地が出来上がりまして、今月 の11月3日のそれこそ嵐の中ではありましたが墓地奉献式を行うことができ、お祝いを 致しました。もしまだ見ておられないお方は内灘霊園の中にありますので、拝見されたら よろしいかと思います。立派な墓地であり、きれいに整ったものに仕上がっていると思わ れるのです。けれども、施工主には申し訳なのですが、私たち人間がどんなに美しい、立 派な墓を造ったとしても、それだけでは無意味なものとなっていくのです。ただ、墓は悲 しみのものでしかなくなっていくのです。ルカによる福音書の23章50節以下に記され ている主イエスのなきがらをヨセフという人が差し出した新しい墓に収められていく姿が 描かれています。このヨセフは、議員ということで、裕福でお金持ちで、信仰的にも正し い人であったようです。そのヨセフが主イエスにふさわしいと思われて誰もまだ葬られた ことのない墓つまり新しい墓を提供するのです。立派な墓です。50節においては、「家 に帰って、香料と香油を準備した」と記されていますように、主イエスのためにりっぱな 葬りをしようとしたのです。けれども、このヨセフにとっての死というものは絶望に過ぎ ないものでしかなかったのです。死の滅びを飾っているにしかなかったのです。けれども 、ここから主イエス・キリストは復活されるのです。望みの墓となっていくのです。それ は、なによりも、この私のためにも主イエス・キリストが死んで下さったということを受 け入れることから始まるものでしょう。多くの若者が、いえこれはなにも若者だけではな いかもしれませんが、宗教という言葉に拒否反応を示すようです。「宗教、なにそれ、キ リスト教、神様信じてどうするの」というようにです。けれども、死という言葉が入って いくと事は一転します。「死んだらどうなるの」という質問に対して、眼を見開いて「死 んだら魂になるとか」「幽霊になるとか」途端に宗教色豊かになっていくのではないでし ょうか。もし、人々が興味がないのならば、死後の世界や幽霊話を話題にするテレビ番組 は流行らないと思えるのです。

 なぜ、人間は、死ぬことに対して「あでもない。こうでもない」というように興味や関 心を持つのでしょうか。大きな原因は、死んだらどうなるのかわからないからだと思われ るのです。けれども、そのわからないものをなんとか克服していきたいと考えているので す。なぜ、人は死ぬことを克服しようと考えるのでしょうか。それは、なによりも死を恐 れているからです。死ぬことなんか考えられないというように無関心になることも、おそ らく死を恐れているからだと思われるのです。死ぬということは、この世界から切り離さ れてしまう。何もない中に落とされてしまうからだと思われるのです。だからこそ、私た ちの肉体は滅びても魂だけは生き延びるから安心だと思い込むのでしょう。霊魂不滅とい う信仰みたいなものに望みを置くのだと思われるのです。けれども、こんなことぐらいで は本当に死からの解放がないことを知っているのではないでしょうか。なによりも、死を 目の前にしている人々が気づくことは、ひとりぼっちで死を迎えるということなのです。 生まれた時にも、人は一人で生まれてきたと思っています。しかも、死ぬ時にもひとりで 死んでいくと思っているのです。だからこそ、死が怖いのです。どんなに愛するものが、 同時に死を選んだとしてもそれぞれがひとりぼっちで死んでいくしかないのです。ひとり ぼっちで死んでいくことは、変わりないのです。けれども、私たちの死をイエス・キリス トがご自身の中で受け入れて下さった時にこそ、私たちの死の意味が変わったのです。そ れはなによりも、主イエスが私たちと同じように死んで葬られたことによって、私たちが 死んで葬られることは、もはやひとりで死んで葬られるということではなくなったからで す。主イエス・キリストが共にいて下さるということです。死の中にでさえも主イエス・ キリストがいて下さる。もうひとりぼっちではないのです。

 多くの方々が洗礼を受けられる時におそらく学ばれるであろうと思われますハイデルベ ルク信仰問答の一番最初の問いは「生きている時も、死ぬ時も、あなたのただ一つの慰め は、何ですか。」というものでした。その答えの最初の言葉は「わたしが、身も魂も、生 きている時も、死ぬ時も、わたしのものではなく、わたしの真実なる救い主イエス・キリ ストのものであることであります。」というものです。生きている時だけでなく、死ぬ時 も、この私自身の全身全霊が主イエス・キリストのものであり、主イエス・キリストが共 にいて下さるということです。もし、他の信仰告白や信仰問答は難しくて受け入れられな いと思われたならば、この言葉だけでも覚えておかれるとよろしいかと思うのです。今一 度繰り返して語るならば「わたしが、身も魂も、生きている時も、死ぬ時も、わたしのも のではなく、わたしの真実なる救い主イエス・キリストのものであることであります。」 という言葉です。先日の内灘教会の墓地奉献式では、たった一人の埋葬式、納骨が行われ ました。家族の方は、一人だけだから寂しいのではないかと心配されていたようです。し かしながら、主イエス・キリストも私と同じように死んで葬られたのだという信仰を与え られた者は、知っているのです。そこでは自分はひとりではないということをです。死の 中にでも主イエス・キリストが共にいて下さっているということをです。だからこそ、死 の中においても望みがあるのです。恵みと希望が備わっているのです。神の子であるイエ ス・キリストにとってはふさわしくない言葉である「死にて葬られる」ということが、私 たちにとってのふさわしい言葉となり、喜んで告白していくことができていくのです。そ れは、なによりも主イエス・キリストが私たちの救いのために十字架に付いて下さって、 死んで葬られるという道を歩んで下さったからでした。そのことから、私たち自身が本当 に死んでしまい、本当に葬られるという事実を正しく受け入れることができていくのです 。死を見つめて生きることができるのです。ここにこそ、私たちが生きる時にも、死ぬ時 にも、望みが開けていき、慰めに満ちた信仰に生きることができていくのです。

 特に、ルカによる福音書においては主イエスが十字架で死んでいかれる様子を23章4 6節で「イエスは大声で叫ばれた。『父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言っ て息を引き取られた。」と描かれています。この霊というものは、決して肉体から分離さ れた魂ということではありません。肉体も魂も全部ひっくるめたまるごとのイエス・キリ ストを父なる神様にお委ねをするということを祈られたものです。この言葉は、神様を信 頼することなしには語ることができない言葉でありました。神の子であったイエス・キリ ストは、いうならば人類の罪の代わりとしてあえて父なる神様が十字架に掛けることをな されたのです。けれども、主イエス・キリストは死んで葬られていくにもかかわらずに、 父なる神様に信頼をしてすべてを委ねられたのです。そのようにして、主イエス・キリス トが自ら犠牲になりながらも、私たちの先頭に立って神様を信頼されて、委ねられて死ん で葬られていったのです。

  私たちは不安を抱くものです。死ぬことに対してあまりにも敏感になってしまい恐怖に 襲われてしまいます。その中で、自分の罪を考えないわけにはいかなくなるものでしょう 。罪とは何か。不信仰です。神様と正しいつきあいが、つながって生きることができない ということです。神様の御言葉を聞かない罪であり、御言葉に従うことができない罪です 。けれども、私たちの罪のゆるしと救いのために死んでくださり、葬られて、その後復活 して下さった。だからこそ、私たちも主イエスが祈られた「父よ、わたしの霊を御手にゆ だねます」という言葉を祈って、死んでいくことができるのです。なによりも、神様を礼 拝する時に、主イエス・キリストが私たちと共にいて下さることを受け入れることによっ て、生きる時、死ぬ時でさえも神様を讃美していくことができますし、神様に感謝を表し て歩んでいくことができるのです。

  お祈りを致します。 主イエス・キリストの父なる御神様 あなたは、あえて私たちと同じくなるために御子で あるイエス・キリストをお送り下さり、十字架で死んで下さり、葬れました。この主イエ の業を通して、わたしちの死、私たちが葬られることが全く意味が変わり、新しいものと なるように道を切り開いて下さいました。心より感謝を申し上げます。私たちが死ぬこと は、もはやひとりぼっちでありません。主イエス・キリストが共にいてくださいます。ど うか、主イエスと共に死んでいく幸いを深くあじあわてくださいますように。なによりも 、生きる時、死ぬ時でさえもいつの時でも主イエス・キリスト共にあることを思い起こさ せて下さい。望みを持って自分が死ぬべきものであることを受け入れて、主イエス・キリ ストにしっかりと結びついて、信頼して歩んでいくことができますように、お導き下さい 。このお祈りを救い主である主イエス・キリストの御名によって、御前にお捧げ致します 。アーメン

 11.「よみにくだったキリスト」  

 私たちが礼拝毎に告白しています使徒信条というものは、キリストの教会の信仰にとっ て欠かすことのできない聖書の真理をできるだけ簡潔に語ろうとしているものです。この 使徒信条を告白していた最初の教会においては、洗礼を受ける準備のために使用されてい たようです。教会では、この使徒信条の言葉一つ一つをよく理解して、信じて受け入れ、 口で言い表した時に、水を注いで洗礼を行っていたようです。それですから、使徒信条の 言葉一つ一つに教会の信仰の神髄がありますし、重要な事柄が示されているのかもしれま せん。使徒信条の言葉には、聖書が語る内容がぎっしりと詰まっているのですから、ここ に真理の言葉がある、本物の言葉があるのです。あるキリスト者の伝道講演を収めた書物 にこんな文章がありました。「以前、漫画でみたのですが、平和論争が盛んなころ、カフ ェに貼り紙がしてあって『平和問題だけは論ずることをおやめ下さい』と書いてあるので す。カフェ、外国のことですから日本の喫茶店をお考えになったらよろしいでしょう。あ る喫茶店に貼り紙がしてあって、ここで平和問題だけは論じないで下さいと注意書きがあ る。それはどうしてかというと、平和を論じ始めると、必ず争いになるからだというので す。」平和を論ずるだけでなく、信仰というものも同じように、ただ単に神学者のように 、机の上で考えて論じるものではありません。そもそも、主イエス・キリストを信じて生 きることは、頭の中で考えたり、空想したり、喫茶店で議論したりするようなものではな く、私たちの日常の歩みの中で学び、日常の歩みの中で表していくものです。信仰によっ て生活をするということが、日常の歩みの中で体験することではないでしょうか。それだ からこそ、信仰のエッセンスが詰まっているこの使徒信条もまた私たちが信仰を持って生 きていくための道しるべとなっていくのです。それこそ、使徒信条の言葉一つ一つは、神 様の救いについての教えを、私たちの日常の歩みとしっかりと結びついたところで指し示 されているのかもしれません。

 さて、今日受け取ります使徒信条の言葉は「よみにくだり」というものです。それこそ 、主イエス・キリストがよみにくだられたということを聞いたとしても、何処に神様の恵 みや愛があるのかよくわからないかと思えるのです。「よみにくだり」という信仰がどれ だか自分の救いにとって重みがあるのか、生活の中にまで染み通っているのかよくわから ないと思えるのです。正直に申しますと、私自身が使徒信条を唱えた最初の頃はこの「よ みにくだり」ということがよくわかりませんでしたし、同じことを繰り返して語っている かのように思えていたのです。使徒信条では、主イエス・キリストが十字架に付けられた ことを「十字架に付けられ、死にて葬られ、よみに下り」というように告げています。主 イエスが死にて葬られたことと主イエス・キリストがよみに下られたことは同じことを言 っているのではないかと思えるでしょう。それにしても、この「よみにくだり」というこ とは、主イエスが死んで葬られたという言葉をもっと丁寧に強調した言葉として語られて います。実は、最初に使徒信条が出来上がった時には、この「よみにくだり」という言葉 はなかったそうです。この言葉は、教会が各地に広がりつつあった4世紀頃に誰の手によ ってかはわかりませんが、書き加えられたものであると言われています。なぜ、この「よ みにくだり」という言葉が書き加えられたのでしょうか。信仰の基本の言葉を書き加えて 変更をするということは、余程のことです。これだけのことがわかったら洗礼を受けよう とする人々に教えている中で、誰かがふと思いついて「まあ、イエス様はよみにくだった という言葉を入れたほうがかっこうがつくだろう」とのんきな考えで追加するようなもの ではなかったものでしょう。ただ、この4世紀頃から「よみにくだり」という言葉を付け 加えなければならなかった教会の事情が考えられるのです。なによりもこの「よみにくだ り」という言葉を加えることによって、イエス・キリストの死の意味をより明らかにする ことは確かなことでありました。この私のために主イエスが死んで下さったことがどのよ うな意味を持って、救いをもたらしているのかさらに丁寧に説明をする。外側からも内側 からも、この主イエスの十字架の意味を見いだす時に、イエス・キリストはよみにまでく だられたのだと言わずにみおられなかったのです。

  ところで、この日本語になっている「よみ」という言葉は、日常の会話においてはほと んど使われてはいませんので、言葉そのものがわかりにくいかもしれません。よみという 言葉は文語文の中で使われていましたので、現代の人々は尚更通じない言葉であるのかも しれません。私自身は、最初からこの「よみ」という言葉をすんなりと受け入れることが できました。それは、今から25年以上前、小学校の上級生の時に「バビル二世」という テレビ・アニメを見ていたからです。ガッチャマンやデビルマンというアニメが流行って いた頃です。本当は、こういう話しのほうが盛り上げていくことができますが、オタクっ ぽくなりますので簡単に説明致します。そのバビル二世というアニメの主人公は聖書の中 に出てくるバビルの塔に住んでおりまして、地球の平和を守るという役目を持っていたの です。今思えば、聖書やギリシア神話をモチーフとして物語を展開しているものでありま した。その主人公の適役つまり悪役のボスの名前が「よみ」というものでありました。そ れで、私にとっては「よみ」という言葉は悪いイメージを持って理解していたのです。お そらく、みなさんも「よみ」という言葉を聞くと悪いところだと考えられるのかもしれま せん。実は、この日本語に訳されている「よみ」という言葉は外国では「地獄」と訳され ています。英語では、HELLというものです。主イエス・キリストは「地獄に下られた 」ということです。この地獄という言葉を聞いてみなさんは何をイメージされるでしょう か。おそらく、真先に地獄と極楽あるいは地獄と天国というように思い浮かべることがで きるものでしょう。しかも、悪いことをしたら地獄に行くのではないかと思われているで しょう。善い人間は天国に行き、悪い人間は地獄に行くというようにです。それですから 、恐らく自分はそんなに悪い人間ではないのだから地獄に行くはずはないと考えているの かもしれません。それこそ、地獄というものは、これは信仰を持っていない呪われた人間 が行くところで、信仰持って教会に来ている人々は、死んだら天国に行くのだから、主イ エス・キリストがよみにまで下られたということは関係のない話しだと思えるのかもしれ ません。

  それだから、信仰を持たずに死んでしまうと地獄に行くのではないのか、あるいは教会 から離れていった人々も今は大丈夫でも、死を間近にした時に、神様を裏切ったのだから 地獄に落ちるのだと考えられるのかもしれません。本来は、教会に来ない人や礼拝を休む 人は地獄に落ちるぞと脅かしたほうが、しかも、神様のために一生懸命に働きなさいと語 ったほうが伝道が進むのかもしれません。それこそ、悪いことをすると地獄に落ちるぞと 子どもにも躾けをしたほうがいいのかもしれません。けれども、聖書にはそれこそ善いこ とをしないと、神様を礼拝しないと、神様から離れずに生活をしていないと地獄に行くぞ と脅かすような教えは、熱心には語られてはいないのです。私たちがイメージする天国地 獄という考え方は、むしろ聖書以外のところから教会に入り込んできたということがいえ るのかもしれません。それですから、ヨーロッパにおいてもこの「地獄」というように訳 されている言葉が誤解されることがありますので、「死の国にくだられた」と使徒信条の 言葉を訳し直している教会もあります。この日本語になっている「よみ」という言葉は、 地獄やそれこそ閻魔大王が支配するところと理解されそうですが、国語辞典では、「死ん だ者の魂が行く所」と説明されています。しかも、この「よみ」という言葉は、闇に通じ ると言われています。闇の国、光が射していない国であって、暗黒が支配する国が「よみ 」ということになります。闇の世界では、自分自身は光を持って生きていくことはありま せんし、私たち自身が闇になってしまうということです。虚しいものになって、生きてい くことができない。つまり、滅んでいくだけだということです。聖書に従えば、死んだら すべての者が滅びの世界に行ってしまうということです。悪い人が行く地獄があるという 考え方はないといえるのかもしれません。それですから、日本語の翻訳は聖書の考え方に 基づいて「地獄」という言葉よりもむかしの言葉を使って「よみ」と訳したのです。いう ならば、「よみ」とは死の力が支配している世界であり、誰でもが行く死の国だというこ とです。闇の世界であり、無の世界です。そのような世界に主イエス・キリストは下さっ て行かれたということになります。  

 さて、本来、「よみ」という場所は、それこそ神様の手の届かないところと考えられて いました。神様から見放された人間が死んだ後に下っていくところと考えられていたので す。いうならば、神様から離れていった人間は、もう滅びるしかなかったわけです。私た ち自身も信仰を持っているから、主イエス・キリストを信じて礼拝生活をしているから安 心ができるというものではないものでしょう。誰でもが神様から離れてしまう罪を持って いる。神様に背き、自分中心に生きたほうがどれだけ安らかな生活をしていくことができ るだろうかと思ってしまうのです。けれども、神様から離れてしまった人間が一番恐れを 抱く時はどのような時でしょうか。今は何も恐れずに安心して生きているように見えても 、やはり死を考えた時ではないでしょうか。当たり前のようですが、人間は誰でも必ず死 んでしまいます。しかしながら、死を考えた時に、たとえ信仰を持っていても虚しさを感 じるのではないでしょうか。この肉体の命が終わる。生きていることの中に断絶が起こる からだと思われるのです。死んだら自分自身の存在がなくなるし、虚しさを感じてしまう からこそ恐れを抱くのです。いうならば、これから先私たち自身が死んでからわけがわか らない深い淵にまで落ちてしまうかもしれないと思うからこそ死に対して恐れを抱くので す。そのことから死を考えない生き方を選んだほうがましだという思いになるものでしょ う。けれども、考えてみますと私たちが生まれる前にも虚しさがあり、存在しなかった時 があったのです。けれども、何もないことろからこの世界に来たのだから、何もないとこ ろへと帰って行けばそれでいいということで死の問題を解決できるはずはありません。そ のことから、神様は私たちが生まれる前からも共にいて下さったし、死んでからも私たち と共に居てくださるという信仰がここに生まれていくのです。いえ、主イエス・キリスト はそのように私たちが考えている虚しさの世界に突き進まれたのです。主イエス・キリス トは、一番深い闇の世界まで下っていかれて、闇の世界を滅ぼして、私たちが死んでしま っても、虚しくなることなく神様と共に生きていくことができるようにさせて下さったと いうことです。いうならば、主イエス・キリストが「よみにくだられた」ということは、 私たちが今生きている世界と死の世界を結んで下さったということです。そこから、私た ちの信仰の歩みが、ただ生きている時だけなく、死んでからも主イエス・キリストと共に 生きていくことができるのです。まさに、現実に生きている私たちの信仰に関わることで ありました。

  特に、使徒信条の「よみにくだり」の別な面を示している聖書の言葉がありました。先 程読んでくださいましたペトロの手紙一の3章19節に「霊においてキリストは、捕らわ れていた霊たちのところへ行って宣教されました。」という言葉がありました。この聖書 の言葉を基にして使徒信条に「よみにくだり」という言葉が付け加えられたのです。捕ら われていた霊たちがいる場所こそがよみの世界のことです。滅びが人を捕らえている場所 のことです。死んで捕らえられている人々がいる場所です。死んだ後に滅びの中に入れら れている人々がいるのです。いわゆる救われていない人々がいるということがいえるでし ょう。その代表的な人々として聖書は、20節で「この霊たちは、ノアの時代に箱船が作 られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。」と説明していま す。ノアの箱船の物語は、旧約聖書の創世記の6章に記されている物語です。神様が人間 をお造りになったけれども、その人間がみな神様に背いて好き勝手にわがまましたい放題 であったので、ついに神様は人間を裁くために大洪水を起こして、人間を徹底的に滅ぼし たというものでした。その中で、神様に従い箱船を造ることになったノアの一家だけが救 われたという物語です。ノアは、神様のご命令通りに箱船を造って洪水に備えていたけれ ども、他の人々は裁きや滅びを気にせずに、神様に従わなかった人々でありました。しか し、この物語を聞いたとしてもどこかで、私たちはこのノアの箱船は神話じみているみた いで、ただこの時に洪水で溺れて死んでいった人々は気の毒だなあと思うだけなのかもし れません。むかし、むかしの話しだから自分には関係がないというようにです。けれども 、ここでノアの物語を登場させているのは、まさに神様の言葉を聞かなかった人々の代表 としてでありました。この捕らわれているとは、まさに滅びに、闇に捕らえられていると いうことです。ここには、救いの道は備えられてはいないと考えられるのではないでしょ うか。そのようなよみの世界にまで主イエス・キリストは下っていかれて、神様の言葉と 救いを伝えるために伝道されたのです。

 それだからこそ、死の世界にすでに捕らえられている人々もまた、主イエス・キリスト の恵みの中にあるのです。主イエス・キリストの恵みを聞くことができるのです。たとえ ば、キリスト教に関してある主婦がこのような質問をしていました。「自分の夫はちっと も教会に来てくれない。その夫が救われるために自分は一生懸命に祈ったけれども、とう とう信仰をを言い表さず、洗礼を受けないで死んでしまった。一体この夫は救われるので しょうか。神様はこの夫を見捨てられたのでしょうか。」この質問の答えこそが主イエス ・キリストが十字架で死んで下さった後に、よみにまで下さって行かれたということです 。主イエス・キリストは、生きている人間だけの救いを心配して下さっているのではなく て、死の世界を越えて、つまり滅びの世界であるよみにまでくださって行かれて恵みを明 らかにして下さったのです。そうだからといって、今は主イエスから救われなくてもいい から、神様から離れて、教会から離れて自分勝手に生きればいいやということを勧めてい るのではありません。確かに、主イエス・キリストの救いの福音を受け入れずに、つまり 神様を知ることなく死んでいった人々にも救いの道があることも大切なことでしょう。け れども、よみに下ってまでもすべての人々の救いを成し遂げようとなされておられる主イ エス・キリストの救い主としての偉大さ、いやむしろ、人類の救い主として自分自身をか えりみることのない恵みの深さを「よみにくだられた」という言葉は告げようとしている のてす。私たちの救いのために、私たちの罪のゆるしのために十字架に付けられて、葬ら れ甦ることになる主イエス・キリストが、よみにまで下られたのです。そのことから、私 たち一人一人が主イエス・キリストがひたらすに人間を救おうとなされたことを信じ深く 受け入れて使徒信条において主イエスは「よみにくだった」ということを喜んで告白して いくことができるのです。そのようにして、主イエス・キリストの祝福の広さと深さを示 していくのです。

  ところで、主イエス・キリストがよみにまで下って福音を宣べ伝えられたことを書き記 すことになったペトロの手紙は、殉教の危険にさらされているキリスト者に書かれた手紙 でした。いつ信仰のゆえに殺されるかわからない、不当な迫害を受けて殺されるか分から ない状況の中に生きている人々への手紙でありました。そのような中で、主イエス・キリ ストに従って生きることがどういうことなのか、信仰に生きる時の試練や苦難ということ はどういうことなのかを詳しく語るのです。けれども、主イエスを信じて生きる時に、喜 びと祝福、恵みがあることを伝え、人々を励ましている手紙なのです。けれども、自分た ちは正しく信仰の歩みをしているから、自分たちをいじめる連中や神様を信じない人々は 、皆地獄に行くから大丈夫だということを告げているのではありません。ノアの物語の時 の大洪水の時に、滅ぼされたような不信仰な人々が神様のもとに立ち返ることなく、意志 ももたず、死の世界であるよみに下っていったとしても、その人々をも神様の祝福の中に もう一度招き入れようとする大きなイエス・キリストの恵みがここに記されているのです 。ある人が「よみという場所は暗いところ、しかし、その暗さがよく分かるのは、そこに 光であるイエスが行かれたからだ」と語っています。確かに、私たちが暗いと感じるのは 光を知っているからだと思われるのです。つまり、主イエスが暗黒の世界であるよみにま で行かれたことによって、よみはよみではなくなったのです。それにしては今生きている 世界でも、死んでからの世界でも、地獄のように、闇のようにしているのが、神様ご自身 ではなく、私たち自身でありました。自分たちが神様に逆らうことでありました。現代に おいても、神様に逆らって、暗黒の世界を築いていることでしょう。その人類の歴史の中 で、具体的なこととして起こったのが、罪のない神の子である主イエス・キリストを十字 架で殺してしまったということです。いまでも、人間の手によって主イエスの愛を、言葉 を殺し続けている中で、この世界をよみのような暗黒に変えようとしているのです。

 けれども、主イエス・キリストが死んで下さったということは、そこで終わりではなか ったのです。主イエスがよみという最も深い淵までも下って行かれて、闇の世界を光ある 世界に変えて下さって、甦ってくださったのです。ペトロの手紙一3章18節で「キリス トも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦し まれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。」と語られているようにです。す べての人々が神様のもとへと導かれているのです。つまり、主イエス・キリストの救いと いうのは、小さなものではなく、大きな大きなものであったのです。それだからこそ、主 イエス・キリストがよみに下られたということは、私たちがただ死んでから後の自分の生 活について慰めを得るだけではありませんでした。今、現実の生活において、私たちを捕 らえている滅びの力あるいは死の力と、主イエス・キリストが向かい合って下さっておら れる。ただ、私たちはその主イエス・キリストの救いの確かさを信じて生きるしかないの です。ここにこそ、本物の真理と喜びがあるからです。今日から、主イエス・キリストの 御降誕を祝うクリスマスを待つ期間であるアドベントに入っていきます。「よみにまで下 って」行かれた主イエス・キリストの救いの確かさを使徒信条において告白しながら、私 たちの救いのためにこの世界に生まれて下さった主イエスの誕生日を喜びの中で待ち望み たい思うのです。

  お祈りを致します。 主イエス・キリストの父なる御神様 今、生きている現実の中で、滅びの力、闇の力を見 ることなく過ごしています。そのような中で、私たちはよみの正体が分からずに、いつの 間にか滅びの中に突き進んでいます。けれども、あなたは御子であるイエス・キリストを この世界に与えて下さり、十字架によって私たちを救い、よみにまでくだらさせて下さり 、救いの確かさを私たちに与えてくださいました。光を投げかけ、私たちが主イエスと共 に生きるようにさせて下さいました。心より感謝を申し上げます。どうか、あなたの御言 葉を受け入れず死の世界に行った人々をも主イエスがよみにまで下って行かれて御言葉を 宣べ伝え、救いの中に招いて下さっていることを信じて受け入れることができまよすうに 。なによりも、私たちが考えるよりも遙に主イエスの救いのすばらしさに気づかせて下さ いますように。その大きな信仰によって私たちが生きるものとさせて下さいますように、 一人一人に神様の恵みと祝福を与えて下さり、喜びをもって信仰の歩みをするものとさせ て下さいますように、お導きをお願い致します。このお祈りを救い主である主イエス・キ リストの御名によって、御前にお捧げ致します。アーメン

 12.「死人のうちより甦ったキリスト」

 2002年の最後の主の日の礼拝を行っています。今年、一年も神様に礼拝することが できましたこと、なによりも私たちが生かされている恵みを感謝したいと思うのです。私 自身の信仰体験としてこの一年を通して印象に残っていることは内灘教会の墓地完成に関 わりを持つことができたこと、それに先月行われました中部教区教師研修会に参加できた ことでした。特に、この研修会におきましては、自分が知らなかったこと、勉強不足とし てずっと無知でいたことに目を開かされるものとなったのです。研修会において学んだこ とは、東方正教会の精神性というものでした。みなさんもそうだと思われますが、東方正 教会と言われてもあまり馴染みがないかもしれません。普通、キリスト教と言えば誰でも がカトリックとプロテスタントと二つのものを思い浮かべるからでしょう。カトリックと プロテスタントは西のキリトス教と呼ばれていまして、一方東のキリスト教がギリシアや ロシアに渡っていった東方正教会と呼ばれているものです。実は、最初の教会は、東も西 もありませんで、もともとは一つであったのです。それが、西つまりヨーロッパにキリス ト教が広がっていく中で、その土地の文化や習慣などを取り入れましてカトリック教会が 出来上がっていきました。もともとこのカトリックとは、普遍という意味でありまして、 共通のものが広く行き渡っていくというものです。それに対して、ご存じのようにプロテ スタントは中世の時代のカトリック教会が利益主義に陥り堕落してしまい聖書や教会的で はない働きをしていたことに対してルターやカルヴァンという人々によって、プロテスト つまり抗議をしたことから始まって宗教改革が起こって分かれていったものです。それで すからプロテスタント教会ももともとはカトリック教会に属していたことになるのです。

  それでは、この東方正教会とは何かということです。先程言いましたようにもともとは 一つの教会であって、東方正教会だけしかなかったということです。つまり、簡単に言え ばヨーロッパにキリトス教が広がっていく中で、カトリック教会が東方正教会から分かれ ていったことになるのです。ですから、東方正教会というものは、西の教会に対して東方 という言い方をしていますし、正教会というのは、正統な教会という意味なのです。正し く伝統を守っている教会だいうことです。つまり、東方正教会というものは、オリジナル であり、古代教会そのものの伝統を守りながら建てられている教会であって、もともとこ の東方正教会のほうが普遍に広がっていくということでカトリックであったのです。いう ならば、東方正教会は本家ということになります。私たちプロテスタントに属している者 は、分家の分家に属していることになるのです。それで、本家がどのような教会形成をな しているか、礼拝とは何か、あるいは精神性これは、私たちがいう霊性ということですが 、それを東方正教会の神父様を招きまして、キリスト教の歴史の中で学ぼうというもので した。この時程、歴史の重要性というものを思い知らされたものはありませんでした。去 年の正教師試験で教会史を失敗してレポート提出になっていましたので、やはり学ばない ことには成長はないなということを思い知らされたのです。私たちが生きているこという ことは、歴史の中で生きているということになります。歴史を知らなければ私たち自身も 語ることができないということです。この内灘教会ももう少しで19周年を迎えますが、 その前の伝道所時代のことから考えてみると、長い年月が掛かってこの教会が出来上がっ ていった歴史があるのです。その歴史の中に私たち一人一人が洗礼を受けさせていただい て、あるいは教会に関わることによって教会の歴史の中に名を刻んでいるということがい えるでしょう。

 さて、東方正教会の話しをしますと、それこそ学んだことを伝えるならば2時間も3時 間も掛かるかもしれませんので、(ちなみに東方正教会の礼拝は最低でも2時間それも立 ちっぱなしで行うそうです)それですから、一つの特徴を語ります。東方正教会は、主イ エス・キリストの復活を重んじていると言われています。それに対して、私たちが属しま す西方の教会は、主イエス・キリストの十字架の救いを重んじていると言われているので す。それだから、特に東方正教会では、イースターつまり主イエスが復活されたことをお 祝いする復活祭は、徹夜してでもお祝いをするそうです。ちなみに、東方の教会では、ク リスマスは1月6日に祝っていることをご存じでしょうか。そのように、主イエス・キリ ストの十字架に重きを置くか、復活のほうに重きを置くかで、少しずつ教会形成や神学そ のもの、あるいは教会生活の仕方なども変わっていくでしょう。そのように十字架か復活 かのどちらかに信仰のタイプを分けることができるということはあり得るかもしれません 。けれども、この主イエスの十字架と復活を分けて考えるとしたならば、大きな誤りを犯 していくのです。本来、教会においては、私たちのために十字架で命を捧げて下さること になった救い主である主イエスの御降誕を祝うクリスマスを盛大に行い、復活されたこと をお祝いするイースターはおまけぐらいに祝おうというものではないのです。特に私たち の教会が、西方に属しているから十字架を重んじるあまりに、主イエスの復活はいわば十 字架信仰のおまけみたいにくっついていると考えたらとんでもないことになってしまうの です。もともとはこの十字架と復活は分けられるものではありませんでした。

  ところで、教会の歴史を見てみますと、大変不思議な気がします。実のところなぜ、教 会が出来上がったのかということを考えた時に、主イエスが復活しなければ説明できない ことなのです。それこそ主イエスを救い主と考えていた弟子たちはイエス・キリストが十 字架に付けられた時、がっかりするどころか、裏切って逃げてしまいました。十字架の下 には、十二人の弟子たちは誰もそこにはいなかったのです。けれども、後にその弟子たち を中心にして教会が出来上がっていきました。なによりも、このことは弟子たちが主イエ スの復活を信じたということから出発をしたのです。それだから、イエス・キリストの復 活なくしては新約聖書も書かれなかったし、私たちが信仰を持つことも、教会員として信 仰生活をすることもあり得ないということです。それで、先程読んで下さいましたコリン トの信徒への手紙一15章は、パウロという人物が復活というものがどういうものなのか を詳しく説明している箇所なのです。特に、パウロは15章14節で「キリストが復活し なかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。」と 語っています。パウロは、復活こそが信仰の一切の基本になるだけでなく、復活がなけれ ばキリスト教はなくなってしまうであろうと語っています。さらに、パウロは15節から 続けて「更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死 者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反 して証しをしたことになるからです。死者が復活しないなら、キリストも復活しなかった はずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あ なたがたは今もなお罪の中にあることになります。そうだとすると、キリトスを信じて眠 りについた人々も滅んでしまったわけです。この世の生活でキリストに望みをかけている だけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。」と語っています。  

 さて、パウロが手紙を送りましたコリント教会の人々は、イエス・キリストの復活を信 じないとは言わなかったかもしれませんが、復活はそれほど自分たちの信仰にとって重要 とは思ってはいなかったことでしょう。それだから、死人の中からの復活などないと断言 する人々がいたのです。そのことに対して、パウロは不思議なことに復活があるのかない のかそういうことから議論を展開しようとはしませんでした。普通、神様を信じない人々 が関心を持つことは主イエス・キリストが復活されたかどうかということだと思えるので す。私たち自身も、どこかでこんな科学が発展し、文明が栄えている時代に死んだ人間が 甦るなんてあり得るのだろうかということに戸惑いを持つものでしょう。けれども、この 復活信仰については教会が始まってからずっと戸惑いがあったのです。実際に、このパウ ロがギリシアのアテネに伝道しに行った時に、初めは神様の話しを聞いていたギリシア人 たちも、死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、「それについて は、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言って、パウロの話しに耳を傾けること はありませんでした。聖書の使徒言行録17章にはっきりと書かれていることです。けれ ども、パウロは主イエスの復活を証明することが信仰につながるとは考えてはいませんで した。そもそも、科学的に主イエスが死人のうちから復活させられたことを証明されて、 信じる人が呼び起こされても何になるのでしょうか。その復活が私たちに関わりを持たな ければ、信じたところで意味がないと思えるのです。最近、テレビ番組では、幽霊話が流 行っています。けれども、幽霊がいるのかいないのかを論じることは、私たちの人生や生 活にとって切実な問題にはならないことでしょう。結局、面白おかしく見ているだけであ って、幽霊を信じるか信じないかということと同じように復活話も意味を持たないものへ と変わっていくのです。

  それだからこそ、パウロは復活があるのかないのかを論じて、証明するようなことはな かったのです。それよりも、もし復活がなかったならば、どうなるのかということを信仰 の問題として提起するのです。それこそ、私たちが主イエスを救い主であると信じて信仰 生活をしていることは無駄ではないかと語ります。考えてみれば、洗礼を受けたことも、 ましてやこのように日曜日の朝早く起きて礼拝することも無駄になってしまうということ です。なによりも、主イエスが復活されたということを宣べ伝えていることがむなしくな りますし、神様に対しても嘘をついたということで申し訳ないことになっていくものでし ょう。それに、決定的なことが、私たち一人一人は救われることなく、滅びの中に入って しまうということです。しかしながら、最近はこのイエス・キリストの復活の信仰という ものが教会が出来上がっていく中での根拠を据えた信仰の事実であるということを誰もが 否定することができなくなりました。先程も語りましたが、世界中に教会が建っていると いうことは、主イエスの復活なしには考えられないからです。東方正教会がロシアの地に 渡って行き、それこそ社会主義体制になって滅びそうになっていきましたが社会主義から 民主化への動きの中で、教会はまた息を吹き返したのです。いえ、教会の迫害の時代の中 でも、信じられないことに教会はなくなることなく生きていたということです。それこそ 今年のトップニュースにも上げられる北朝鮮にも教会は存在していますし、アラブのイス ラム国家においても教会は存在し、キリスト者が生み出されていっているということです 。このことは、事実なことでありますし、すべては主イエス・キリストが復活されたこと を信じた弟子たちによってもたらされたことです。それこそ、このことを持ち出すのはお かしいかもしれませんが、もし主イエスの復活を否定するならば、日曜日が休みになんか なっていませんし、西暦も世紀もクリスマスもあるいは音楽や美術あらゆる芸術それこそ 科学や物理にいたるまでも否定することにつながっていくかと思えるのです。この世界の 文明はおろかそれこそ自分が何者であるのか、自分をも否定することにつながっていくこ とでしょう。

  さて、今年は私たちが唱えています使徒信条の言葉一つ一つを受け取りながら礼拝を捧 げてきましたが、実は今日はイエス・キリストが「三日目に死人のうちより甦った」とい う言葉を学んでいるのです。お気づきのように、この使徒信条というものも、主イエス・ キリストの復活がなかったならば生まれて来なかった文章でありますし、使徒信条を告白 していることもキリストが甦って下さったことを根拠にしているということです。ある神 学者がこの「三日目に死人のうちより甦ったキリスト」のことを解説してこのように語っ ています。「何よりも、よみがえりの出来事は、キリストへの信仰告白の歴史の出発点を 形作った。そしてこの出発点は、信仰告白の常に変わらぬ基盤である。歴史的な出発点で あり、信仰の本質の基盤をなすもの、それがここに一つになっている。」と説明をしてい ます。つまり、パウロのこの復活に対する言葉を用いるとするならば「イエス・キリスト の復活、甦りを信じることがないままに使徒信条を唱えていること程、私たちすべての人 の中で最も惨めな存在である」ということになるでしょう。まさしく、主イエス・キリス トの復活がなかったのならば、使徒信条を唱えるのもばかばかしくなりますし、こんなこ とを学んでも無駄であるということなのてす。本来、この使徒信条というものは、古代教 会が形成されていた時に生み出されていったものですからどのような経過でできたのかよ くわかってはいません。けれども、それこそ学者が一生懸命に信仰のことを考えて信仰は このように言い表すというようなものとして誕生はしなかったのです。ただ、信仰生活の 具体的な事柄としてこの信仰告白が生まれてきたようです。それですから、この使徒信条 は、これから主イエスを信じて生きていくための洗礼を受ける時つまり洗礼式の時に用い られていたのです。

  プロテスタント教会においては、この内灘教会でもそうかもしれませんが、クリスマス の時に洗礼を受けられる方が多いようです。この使徒信条が生まれた頃はそれこそクリス マスよりも主イエス・キリストの復活をお祝いするイースター復活祭のほうが大事であり ました。それで、洗礼式は復活祭に行われていました。その実態は、復活祭が行われる前 の夜に、洗礼志願者たちが教会に集まって一晩中眠ることが許されない厳しさがありまし た。それこそ、徹夜して聖書が繰り返し読み聞かせられ、御言葉についての説き明かしが 行われていたのです。やがて、主イエスが甦りになったとされる鶏が鳴く頃、使徒信条の 内容について改めて告白がなされて、これを受け入れた時に、洗礼を授けたということで す。主イエス・キリストの甦られた時刻に合わせて洗礼式が行われていたのです。私自身 もそうなのですが、むかしの人々に比べたらそんなに洗礼準備をしてこなかったし、洗礼 を受けてからも厳しいことはなかったなと思わされます。むしろ甘えた信仰があるのでは ないかと思い知らされるのです。そのようにして、主イエス・キリストの復活が、甦られ たことが、使徒信条の根拠になっていますし、信仰と生活のすべてが、それこそ救われて いることが、この使徒信条を通して支えられることになっていったのです。当然、この使 徒信条は、聖書の信仰に基づいたものであって、聖書の言葉、神様の言葉を凝縮して言い 表しているということになります。そのことから、私たち一人一人も洗礼を受けて信仰を 与えられたということは、聖書の信仰を受け継いでいるものであり、主イエスが甦られた ことに基づいているのです。本来は、わざわざこの主イエスの復活を取り上げて語らなく てもよいといことです。つまり、私たちが日曜日毎に礼拝していることこそが、主イエス の復活を祝って、その信仰に立って、新しく生かされていくことになっていくからです。

  ところで、私たちが主イエスの復活の信仰を信じて洗礼を受けて教会員になっていると いうことは、私の信仰を問題にして教会に加わったのではないということです。繰り返し 語ることですが、この私が信じているという信念というものと信仰とは明らかに違いがあ るのです。信念というものは、自分で勝手に思い込んでいることです。けれども信仰とい うものは、それこそ受け継ぐものです。私たち一人一人も代々の教会が受け継いできた信 仰つまり伝統の中あるいは歴史の中で引き継がれてきた信仰に生かされているのです。私 たち一人一人が勝手に生み出したものではあまりせん。それだから、洗礼を受ける時には 、あなたの信仰は何かということは問わないのです。この教会の信仰告白に同意しますと いって、教会の一員となっていくのです。それこそ、パウロという人物は、キリスト者を 迫害している中で、復活の主イエスの声を聞くことから、洗礼を受けてキリスト者になっ ていきました。劇的な体験をした人物です。それですから、パウロは誰も経験したことの ない特別な仕方でキリスト者になったものですから、教会の新しい教祖にでもなったらよ かったかもしれません。けれども、パウロ自身、コリントに送った手紙の15章3節で「 最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたことです。」と 語っています。この私が考えだしたものでも、経験したものでもない。私もこの主イエス を信じる信仰を受けただけでしかない。私も受け継いだものであって、あなたたちにもそ れを引き渡して行くということです。その受け継いだものとは何か。3節の言葉を続けて 「すなわち、キリストが聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬 られたこと、また、聖書の書いてあるとおり三日目に復活したこと」と語っています。こ のパウロの言葉に、「死人のうちより」という言葉を付け加えればそのまま使徒信条のキ リスト告白になるということです。おそらく、使徒信条は、パウロのこの信仰告白から受 け取ったに違いありません。神の言葉が書き記されている聖書が示す通りに、私はただ主 イエス・キリストが誰なのかを告白しているにすぎないとパウロは語っているだけです。 さらに、パウロは復活された主イエスがケファこれはペトロのことですが、ペトロに現れ て、十二人の弟子たち、それから月足らずで生まれたつまり未熟者であるこの私にも現れ て下さったということを告げています。なによりも、弟子たちや私たちの側で復活された 主イエスに出会ったのではなく、すべてが主イエス・キリストが尋ねてくださって近づい てくださったことだと語るのです。私たち一人一人にも、復活された主イエス・キリスト が近づいて下さって、声を掛けて下さり、復活信仰の中に引きずり込んで下さったのです 。しかも、死人のうちから甦ったという信じられない出来事を受け入れることができるよ うにして下さったのです。それこそが、信仰の告白をして洗礼を受けたということにつな がっていくのです。

 さて、教会においてはクリスマスが終わると何か寂しいような気がしてきます。折角、 洗礼を受けられた方がまた礼拝に出席されないようになるからです。正直な話し、私自身 牧師をやっていて4年目になると惰性でやっているのではないかという気持ちになります し、なかなか礼拝の出席率が上がらないとやはり物悲しくなっていくものです。むなしく なって、無駄なことをしてはいなかいと思えていくのです。そのような悶々とし思いの中 で、東方正教会の神父が牧師たちに向かって「あなたたちは灯台になりなさい」と語られ たのです。港に立っている灯台です。この灯台は、船が来ても、来なくても光を照らして 安全を呼びかけているものです。牧師は、世の光を与える者として人が来ても来なくても 教会に留まっていなさいということを語られたのです。落胆するこなく復活された主イエ スの救いの言葉を語り続けなさいという励ましの言葉を頂いたのです。これは、何も牧師 だけに語られた言葉ではありません。あるいは長老だけではない。教会員一人一人にも当 てはまる言葉であるとその神父は説明されたのです。パウロは、言います。4節「どんな 言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音に よって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと事態が、無駄になってしまうで しょう。」私たちに与えられた信仰は、無駄にはならないのです。なぜならば、私たちは 死人のうちよりよみがえられたイエス・キリストの命の中に生かされているからです。こ の復活の信仰をしっかりと抱いて御言葉に生かされながら新しい年も主イエス・キリスト と一緒に歩んでいくのです。

 お祈りを致します。主イエス・キリストの父なる御神様 あなたは主イエスを死人のうちより甦らせる力を持 って私たちに祝福と恵みを与えて下さっておられます。どうか、私たちに復活の信仰を与 え続けて下さい。この主イエスがよみがえられた信仰をしっかりと受け取って信じて、こ の先、無駄にすることなく新しい命の中で生きていくことができますように、お導きをお 願い致します。どうしようもなく、虚しさを感じてしまうことがなり、望みを持つことが できなずに嘆きを覚える時があるかもしれません。けれども、あなたは私たちを滅びにい たらせることなく、主イエスの復活の命に生きる望みを与え続けておられます。私たち一 人一人がこの信仰に生きるために捕らえて下さって、この主イエス・キリストに望みを置 いて生きる信仰へと引き上げてくださいますように、お導き下さい。この祈りを救い主で ある主イエス・キリストの御名によって、御前にお捧げ致します。アーメン

13.「天にのぼられたキリスト」

  キリトス教会は、三つの大きな記念日を持っています。大きな祭り、祝日があるという ことです。一番有名なものが、12月に祝っているクリスマスです。救い主である主イエ ス・キリストがこの世界に来て下さったことをお祝いするものです。主イエス・キリスト の御降誕をお祝いする記念日であり、祭りです。私たちは既に去年の暮れにお祝いをして 過ごしました。一般に12月25日がクリスマスと思われますが、これは西のキリスト教 いわゆるカトリックとプロテスタントの教会において祝われている日です。これに対して 東のキリトス教と呼ばれているギリシアやロシアに渡ったとされる東方正教会は、明日の 1月6日に主イエスの誕生日であるクリスマスをお祝いするのです。ただ、むかしの教会 においては1月6日はバプテスマのヨハネから洗礼を受けて、聖霊に満たされた主イエス ・キリストが神様の国を伝えていく活動が始められた日とされています。この日は主イエ ス・キリストが神様として現れていよいよ神様としての働きをされていった日ということ で、顕現日と呼ばれていました。そのことから、東方正教会、それよりも最初の教会は、 この顕現日と主イエス・キリストの誕生日を一緒に祝おうということで1月6日をクリス マスと設定していたのです。けれどもプロテスタントやカトリックにおいては12月25 日をクリスマスと設定した時には、1月6日は3人の占星術の学者たちが馬小屋で主イエ スにお会いした公現日と呼ばれる記念日となっていきました。いずれにしても、国によっ ては12月25日だけの一日をクリスマスとして祝っているところにおいても、1月6日 の公現日までクリスマスの期間としてツリーやクランツあるいはリースを飾ってお祝いし ているところがあるそうです。

  それにしても、このクリスマスのお祝いは、最初に教会が出来上がった頃にはまだお祝 いはされてはいませんでした。本来、長い間、キリトス教会は、たった一つの祭りにしか 祝っていなかったのです。たった一つの祭りこそが、今ではクリスマスよりも馴染みが薄 くなった教会の大きな祭りの一つである復活祭です。イースターと呼ばれているものです 。主イエス・キリストが甦られたことを記念としてお祝いする祭りです。なぜ、教会は、 復活祭イ−スターだけをお祝いしていたのか。そもそも、主イエス・キリストが復活しな かったならば、新約聖書も書かれなかったであろうし、教会も存在しなかったからです。 そもそも、主イエス・キリストが復活しなかったならば、キリスト教が世界に伝わらなか ったし、私たちが洗礼を受けてキリスト者になっていることもないということです。救い も恵みをないということでしょう。まさしく、復活は主イエス・キリストを信じて生きる 原点であり、キリスト信仰が始まる出発点になっているのです。そもそも、私たちが日曜 日の朝に教会にやって来て礼拝することが、主イエス・キリストの復活を祝っていること なのです。それは、主イエス・キリストが日曜日に復活されたからこそ、本来イスラエル においては土曜日が安息日であったものが日曜日が安息日に代わっていきました。主イエ スが復活された日曜日が休日となっていったからです。2003年が始まって、どこの家 庭においても新しい年のカレンダーを掛けているかと思います。ほとんどのカレンダーが 、仏滅とか大安という言葉を記しながらも西洋つまりキリトス教の影響を受けてカレンダ ーが造られていることをご存じでしょうか。なによりも、日曜日から一週間が始まってい ます。これこそが、日曜日から新しく始まるということで、主イエス・キリストの復活を 祝い、神様を礼拝することから新しく変えられて一週間が始まっていくという意味が隠さ れているのです。それに、もう一つ日曜日が祝日と同じように赤い文字で描かれていると いうことです。本来、休日ということであるならば、祝日と同じ色で表さなくてもいいの ではないでしょうか。実は、日曜日は、祝日であるということで赤い文字なのです。日曜 日は祭りであり、何かの記念を表しているのです。つまり、日曜日は、主イエス・キリス トの復活の記念日であり、祭りを表しているということになります。日本においては、不 思議なことにキリスト教を拒否しながらもいつの間にか知らず知らずのうちにキリスト教 を受け入れているということになるです。

  さて、3つの教会の大きな祭りであるクリスマスとイースターの残りが、日本ではあま り知られていないペンテコステというお祭りです。聖霊が弟子たちに下さってきまして主 イエス・キリストを伝えていく原動力となった記念すべきお祝いの日です。日本語で、聖 霊降臨日と呼ばれていまして、通称で教会の誕生日と呼ばれているものです。聖霊に満た された弟子たちによって、主イエス・キリストを信じる群れである教会が始まったという 日です。この教会の誕生日であるペンテコステの物語が新約聖書の使徒言行録の2章に描 かれています。この聖霊が主イエスの弟子たちに下さって教会が誕生していった出来事は 、主イエスが復活されてから実に50日目の出来事でした。ペンテコステとは50日目と いう意味からそのように呼ばれているのです。当たり前のことではありますが、クリスマ スからイースターそしてペンテコステに至まで主イエス・キリストの生涯に関わることを 記念日つまり祭りにしているということです。救い主であるイエス・キリストが誕生し、 死んで葬られた主イエス・キリストが復活された50日目に弟子たちに聖霊が降りて来て 教会が誕生していくというようにです。それにしては、教会の誕生だけがなにか主イエス ・キリストに関係がないような気がしていくものでしょう。しかし、そうではないのです 。先程読んで下さいました使徒言行録の1章8節で「あなたがたの上に聖霊が降ると、あ なたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、 また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」と主イエスが弟子たちに約束して下さ っておられたことが記されています。この聖霊が弟子たちに与えられることは、主イエス ・キリストの約束であったのです。「あなたがた」とは教会のことを指しているのです。 そのことから、それこそ地の果てまで、私たちが住んでいるこの内灘に至までも教会が生 まれていき、主イエス・キリストを伝えていく証人として私たちが洗礼を受けて教会の群 れの中に入れられているということになるのです。

  ところで、去年からずっと礼拝の中で信仰告白として唱えています使徒信条の言葉一つ 一つを取り上げて、聖書の御言葉から学びを繰り返しています。特に、使徒信条は、主イ エス・キリストが何をなさったのかが中心に描かれているものです。この使徒信条は、聖 書の言葉を凝縮しまして、そのエッセンスを絞り出しまして簡潔に語っているものです。 聖書そのものは主イエス・キリストを指し示しているものです。それだから、私たちが信 仰を持つということは、主イエス・キリストが何をなさって、私たちにどのようなことを なさったか、いわゆる主イエス・キリストと私たちがどのような関係があるのかがわから ない限りは、信仰というものがわからないし、信仰に生きることができないということで す。信仰とは、まさしく主イエスにお会いすることであり、主イエスを知ることです。し かも、主イエスを信じることであり、愛することだと思えるのです。それが、わからなく なるからこそ、神様からいえ主イエス・キリストから離れていくのではないかと思えるの です。それだからこそ、私たちが信仰を語る時には、主イエス・キリストなしには、主イ エスが行われた業を抜きにして語ることはできないのです。その主イエス・キリストの働 きが私たち一人一人にとって救いとなり、恵みとなり、祝福となっていくのです。そのこ とから主イエスが行われこと一つ一つを私たちが信じていく中で、喜びに満たされたもの となっていく。祝わずにはいらななくなっていくのです。特に使徒信条は主イエスのこと を表す時に「主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもと に苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうち よりよみがえり、天に昇り」というように告白していきます。まさしく、主イエス・キリ ストは私たちの救いのためにこの世界に人間として生まれて下さったし、私たちの苦しみ 、悩みを背負って十字架に付いて下さって、すべての人々をも救うためにも滅びの世界に も下さっていかれ、完全に死を滅ぼして、よみがえって私たちに復活の命を与えて下さっ た。それだからこそ、クリスマスもイースターも私たち一人一人に関係するものとして喜 びの中でお祝いをしていくことができるのではないでしょうか。しかしながら、復活され た主イエス・キリストが天に昇られたということがどのような喜びがあるのかわからない かと思えるのです。

 さて、実は、ヨーロッパにおいては主イエスが天に昇られたことをお祝いする昇天の祝 日というものがあるそうです。しかも、この主イエス・キリストの昇天の祝いつまり祭り は、ちょうど教会でクリスマスをお祝いする頃と同じ時期に祝われるようになりました。 つまり、教会にとってはクリスマスやイ−スターと同じように主イエスが天に昇られたと いうことは、いわゆる昇天の日はお祝いであって、祭りの日なのです。それだからこそ、 主イエス・キリストが天にのぼられたことを、心から喜びを持って言い表しているのかが 問われるのではないでしょうか。果して、その喜びとは何か。恵みとは何かということで す。使徒言行録の1章3節によると、よみがえられた主イエス・キリストが弟子たちと一 緒に過ごす期間が40日間であったと描かれています。3節の「イエスは苦難を受けた後 、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって 彼らに現れ、神の国について話された。」という言葉が示しているようにです。主イエス によって選ばれて、主イエスを愛し愛されていた弟子たちでありました。それこそ、どこ までも主イエスと共に従って歩んでいく決心をしていた弟子たちでした。ところが、主イ エスが十字架に付けられた時には、誰もその十字架の下には残ってはいなかったのです。 人々を恐れて、主イエスを裏切って逃げてしまいました。それだけではなく、ある者は、 救われる前の仕事である漁師にもどって、故郷に帰っていたのです。安心できる場所と思 えた自分の家にもどっていたけれども、弟子たちは喜びに満たされることはなかったので す。主イエスがいないということが弟子たちにとって、どんなに寂しいことであり、悲し いこと、不安なことであるのかをこの時程、嫌という程思い知らされたことがなかったこ とでしょう。ところが主イエスは三日後に復活されてから弟子たち会って下さいました。 しかも、40日間にも渡って神様の御言葉を与えて下さって、共に過ごすことができたの です。喜びの時、幸せの時、平安の時をまた再び弟子たちは主イエスと一緒に過ごしてい たと思われます。  

 けれども、また主イエスは天に昇っていかれたのです。弟子たちにとっては寂しい時、 辛い時が始まると考えたのです。だからこそ、使徒言行録の1章9節で「イエスは彼らが 見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。」という 状況の後に10節で「イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた」とそ の時の様子を描いています。淋しさや不安から主イエスが天にのぼられたところにたたず んでじっと見つめていたのです。自分たちの目の前から再び主イエスがいなくなってしま ったことから無気力に襲われて何もする気がなっかたことでしょう。果して、弟子たちに とって主イエスが天にのぼられたことが喜びになるのでしょうか。実は、弟子たちは主イ エスとの約束をこの時すっかり忘れていたのです。それは何か。1章4節で「エルサレム を離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。」と主イエスが語 っておられます。さらに、8節では「あなたがたに聖霊が降ると、あなたがたは力を受け る」と語られていました。それに、白い服を着た二人の人が11節で「ガリラヤの人たち 、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天 に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」と語られていま す。主イエス・キリストがいつの日か再び来て下さる。いえ、それだけではない。聖霊を 送って下さるということを約束して下さっていたのです。聖なる霊のことであり、目で見 ることはできませんが、神様が共に居てくださる、主イエスが共にいて下さることを感じ ることができるとういうことです。宗教改革者であるルターが主イエスの昇天についてこ のように説明をしています。「主イエスが近くにおられた時、主イエスは私たちから遠く あられた。主イエスが私たちから遠い時、主イエスは私たちに近くにおられる。」これは 、謎のような言葉に思えていくでしょう。一体、これはどういうことなのか。

  もしも、主イエスが天にのぼられずに、人間の目に見えるお方として留まり続けていた としたならば、多くの人々に救いは訪れなかったと思われるのです。私たち一人一人は、 悩み苦しみの中で喜びに満たされずに不安の毎日を過ごさなければならなかったことでし ょう。なぜか。つまり復活された主イエス・キリストがイスラエルかどこかの国において そこに留まり続けられておられたならば、救いや恵みを受けたいと思う人すべてがエルサ レムに集まらなければならなくなるからです。日本に住む私たちですと、救われるために はイスラエルに行かなければならなくなるものでしょう。それこそ飛行機代はばかになり ませんし、ましてや救い主を探さなければならないものでしょう。救われる人はほんのわ ずかなものになってしまうのではないでしょうか。いずれにしても、主イエス・キリスト が地上におられた時には、私たちから遠かったのだけれども、今は近すぎるくらいに近く にいて下さるということです。特にマタイによる福音書の最後の最後28章の20節で主 イエスが天にのぼられて弟子たちに別れを告げる時に「わたしは世の終わりまで、いつも あなたがたと共にいる」と語られています。本来、別れですから「もうこれからはいつも あなたがたとは一緒にいない」とおっしゃてもよかったはずです。しかしながらそうでは ない。なによりもこの弟子たちと共にいてくださった主イエスが天にのぼられた後に、今 度は聖霊をお送り下さることによってより身近に感じることができるお方として弟子たち と一緒にいて下さるということです。

  まさしく、この天に昇っていかれた主イエス・キリストが私たちと共に居てくださる、 どんな時にもいつも一緒にいて下さるということです。主イエス・キリストが私たちにも そのように約束して下さるのです。だからこそ、この後弟子たちは聖霊に満たされて教会 が始まっていくのです。今日取り上げています使徒言行録という書物は最初の1章の1節 で「わたしは先に第一巻を著して」と記されています。この第一巻が新約聖書の中にあり ますルカによる福音書でした。この使徒言行録は、ルカによる福音書を書いた人物が続け て書いた書物であります。ルカによる福音書の最後には、主イエス・キリストが天にのぼ られたところで終わっています。使徒言行録においては、主イエス・キリストの物語は続 いているということで主イエスが天にのぼられるところから物語が始まるのです。本来、 主イエス・キリストの救いの業は、十字架と復活そして昇天という形で終わったと考えら れるものです。しかしながら映画やテレビのドラマを見た時のように、「あー面白かった 」という余韻に浸ってこれでお終いということではないです。いわゆる主イエス・キリス トの救いのドラマは、ここで終わりを迎えたということではなかったのです。新しい時代 が主イエスが天にのぼられたことから始まっていくのです。これが、弟子たちが聖霊を与 えられて始まっていく教会の時です。それこそ、主イエスが遠くにいってしまって、教会 が登場するということではありません。この新しくなった教会の姿に、主イエス・キリス トが生きて働いて下さって、主イエスが中心になって新しく歩み始めていくのです。それ だからこそ、教会は、イエス・キリストの体と呼ばれていますし、主イエス・キリストを 中心とした群れであると言われているのです。

  しかも、その新しく始まった救いのドラマの中に私たち一人一人が入れられているとい うことです。私たちの信仰の歴史が始まったのです。それこそ、私たちが主イエス・キリ ストによって救われていることを信じて受け入れた時に、洗礼を受けようと決心したので はないでしょうか。ただ、私たちが洗礼を受けた時に、私たちの救いが始まったのではな く、主イエスの救いの中に入れられていることを信じたということなのです。いえ、信じ させられたことを受け入れたということがいえるでしょう。洗礼を受けてキリスト者にな っているということは主イエス・キリストの救いのドラマの中に入れられていることを受 け入れたのです。舞台の側で見ている傍観者ではなく、主イエス・キリストの働きに参与 するものとなった。この教会の歴史は、ずっと続いていくのです。主イエス・キリストが この世界に再びこられる日まで続けられていくということです。その一員として私たちは 教会に加わっているのです。それだからこそ、私たちキリスト者は、卒業ということはな いのです。もしかしたら、私たちの側でキリスト者を止めたくなったら止められると思っ ているかもしれません。けれども、洗礼を受けたら、キリスト者はずっと続けられていく ことなのです。卒業クリスチャンというものはあり得ないということがいえるのです。な ぜならば、主イエス・キリストが私たち一人一人を選んで下さってその救いのドラマに引 きずり込んで下さったからです。しかも、喜ばしいことに恵みと祝福を与え続けておられ るからです。それに、決定的なことが主イエス・キリストが共にいて下さっておられるか らです。確かに、主イエス・キリストは天にのぼられました。しかし、この「天」という 場所は上ではない。地上から離れた宇宙の遠い場所ではない。天とは神の国であり、神様 の世界です。神様が支配されている場所です。まさしく、この神様の世界と私たちが今生 きている世界とが主イエスが天に行かれることによって一つとされたのです。それだから こそ、主イエス・キリストが私たちと共にいてくださる。この教会に、私たちの群れの中 にいてくださるということです。そのことから、教会から離れてしまうと私たちは神様を 見失ってしまうのです。主イエス・キリストの救いがわからなくなってしまうということ でしょう。けれども、主イエス・キリストはどのような時においても、一人一人の行く末 をじっと見ていて下さっておられる。日曜日の礼拝の時だけではない。しかも、クリスマ スやイースターの特別な祝日の時だけ主イエス・キリストが救いを与えて下さり、共に居 てくださるのではないです。悩みや苦しみの中にあっても、いえ死の中にあっても主イエ ス・キリストが共に居てくださる。なぜならば、私たちの仲間として人間となった主イエ ス・キリストが天に居てくださり、私たちも既にその天に入れられているからです。

  お祈 りを致します。 主イエス・キリストの父なる御神様 十字架に付けられたあなたの御子である主イエス・ キリストが復活してくださり、天に昇って行かれた。このことを喜びを持って受け入れて 信じることができますように。なによりも、主イエスが天にのぼられたことによって、私 たちが思うにはるかに近くにいてくださる。この教会にまさに主イエスが生きて働いてお られることを信じて、主イエス・キリストと共に歩んでいくことができますように、一人 一人に恵みと祝福を与えて下さい。なによりも、私たちの心や魂をも、そしてこの肉体を も天に引き上げてくださいまして、主イエス・キリストと共にあって、天においても、こ の地上においても恵みにあずかることができますように。特に、この新しい年の上にも、 生きる時に、死ぬ時にも主イエス・キリストが共に居てくださり、守り導いてくださいま すようにどうぞお願い致します。このお祈りを救い主である主イエス・キリストの御名に よって、御前にお捧げ致します。アーメン

14.「神の右に座すキリスト」

 今、神様の招きによって礼拝生活を行っています。特に、聖書についての学びやキリト ス教のことを知りたいと考えたり、人間関係の悩みや苦しみの中から、いえ、様々な理由 を持って教会を尋ねて礼拝の生活をしばらく続けていきますと、不思議なことに神様を信 じてみようかなという思いが沸き起こっていくものでしょう。キリトス信仰に入ってみよ うかなというような思いに駆られるかもしれません。その時に、洗礼を受けたいという思 いが与えられるかもしれないのです。そのようにして、キリスト者、クリスチャンになっ ていくものです。洗礼を受けてキリスト者になったものは、いわゆるキリスト信仰を与え られたということがいえるかもしれません。それでは、そもそも信仰とは何でしょうか。 信仰とは、簡単にいえば神様を信じることです。神様を信じて生きていくということです 。キリスト教会の場合では、厳密にいうと、神様を信じる思いを与えられて、神様によっ て生かされていることを受け入れるということになるでしょう。しかも、キリトス信仰は 、私がこう信じるという信念とははっきりと区別しているものです。信仰は、自分勝手に 信じている信念ではないのです。そのために、キリスト信仰を与えられる時には、「あな たは何を信じているのか」というような個人の信念を聞かずに、「この教会が受け継いで きた信仰に同意しますか」という言葉を持って、本人が同意した時に、洗礼が与えられる のです。いわゆる聖書の言葉に基づいて教会が受け継いできた信仰の告白を受け入れるこ とによってはじめて洗礼を受けることをゆるされキリスト者として生かされていくのです 。この内灘教会では、聖書の言葉を簡潔に言い表した使徒信条の言葉を同意し受け入れる ことから、洗礼を与えられるということがいえるかもしれません。それだから、たとえ洗 礼を受けてキリトス者になっている方でも礼拝において、使徒信条を告白しますし、なに よりも学びを深めて自分自身の信仰を成長させなければならないものでしょう。

 さて、信仰とは、神様を信じて生きるということですけれども、特に、キリスト信仰に おいては、イエス・キリストを信じて生きるということがいえます。なぜならば、イエス ・キリストこそが救い主であり、神様であるからです。特に、聖書に描かれていることは 、イエス・キリストが神であり、救い主であることです。聖書は、イエス・キリストを証 ししているものです。それですから、イエス・キリストを知ることなしには、私たちは神 様のことがわかりませんし、神様の救いや恵みあるいは祝福もわからないことになるので す。先程取り上げました使徒信条においても、中心に語られていることはイエス・キリス トです。それもそのはずです。聖書が語る言葉を凝縮して簡潔に語られているならば、イ エス・キリストがどういうお方であるのかがはっきりと語られているからです。「主(イ エス・キリスト)は聖霊においてやどり、処女マリアより生まれ、ボンテオ・ピラトのも とに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のう ちよりよみがえり、天に昇り」というように、既にこの言葉一つ一つをこの礼拝の中で丁 寧に解き明かしを行ってきました。特に、今日取り上げています使徒信条の言葉は、主イ エス・キリストが今、どこにおられるのか、何をしておられるのかが語られているもので す。私たちの救いのために十字架に付けられた主イエス・キリストが死んでから三日目に 復活されて、天に昇っていかれた。その天に昇られた主イエス・キリストは今どこにおら れるのかということです。主イエス・キリストを信じて生かされているけれども、信仰の 対象であるお方が一体どこにおられるのかがわからないと私たちの信仰もすぐに揺らいで しまうものです。しかも、神様を信じなくても生きていけると思い込むのは、まさしく主 イエス・キリストがどこにおられるのかがわからなくなるからでしょう。見失ってしまう からではないでしょうか。それですから、ある人は、「使徒信条のこの言葉によって信仰 の姿勢を正しくさせいただく。信仰を持っているか持っていないかわからない猫背で覇気 がないような姿勢から、背筋を延ばしていただくようなものだ。」と語っています。

  この言葉こそが、使徒信条の中で告白しています「全能の父なる神の右に座したまえり 」という言葉です。天に昇っていかれた主イエス・キリストが父なる神様の右に座ってお られるということです。この父なる神様の右というのは、明かなことに一つの場所を示し ている言葉です。いわゆる父なる神様の右という場所をお定めになって、主イエス・キリ ストがそこに座り続けておられることを意味しているのです。けれども、主イエス・キリ ストが神様の右という場所を定められたということだけではありません。この右に座って おられるということは、むしろ主イエス・キリストの働きを表しているものです。一般的 に、家族の主人の右側は、大事な場所だそうです。右というものは、王様を中心にして、 その中心人物の次の座に付く人がいる場所であると考えられていました。日本の結婚式や 葬儀あるいはいろんな式典においても、座る順序というものがあります。多くは、権威あ る人の右側のほうがまず大切な席だとされているようです。それでは、なぜ右が大切なの か。教会においても左利きの人がいるようですが、世界中の多くの人々は右利きです。ど こかの民族だけが左利きが多くて、左手を上手に使うということはありません。つまり右 というものは、利き腕がある側だということです。たとえば、誰かと戦わなければならな い時には、剣を握るのは右手です。敵を攻めるのも右、あるいは自分の身を守る時にもま ず右手を使って守るものです。それですから、多くの人が右手を自由に使えるようにして いるのではないでしょうか。右利きであるならば、腕時計を左手に付けて、右手を使いや すいようにしているものでしょう。余計なことかもしれませんが、ある時期、私は腕時計 を右手にはめていましたので、「左利きですか」と問われたことがありました。その時期 は、武道家気取りでいましたので、「右手を使って人を殴らないように戒めのために右側 にはめているのです」とかっこよく言っていました。

  いずれにしても、右手は自分の身を護る役目をします。だから、この人はとても大切な 人だと思い、その人を守ろうと思ったときはまずその人の右側に立つ、あるいは右側に座 るということです。それだから、この当時のイスラエルにおいては権威者である王様や御 主人を護るための護り手が一番右側に付かなければならないとされていたのです。そのこ とから、この権威者の右に位置する人は、その権威者の身代わりのようになって仕えて働 くのです。つまり、権威者と同じように重んじられる代理人がこの右に座しているという ことになります。それだから、主イエス・キリストが父なる神様の右に座っておられると いうことは、そこで座りっぱなしではなく、神様の支配、神様の御心、神様が考えておら れることを主イエス・キリストが取りなして下さるということです。いわゆる父なる神様 が主イエスを右に座らせておられるのは、この世界を支配させて下さるのを独り子である イエス・キリストに委ねておられる。お任せになっておられるということです。神様のお 考えである御心を主イエス・キリストによって実現させておられるのです。つまり、主イ エスが神様の右におられるということを私たちが信じて告白をすることは、その主イエス ・キリストを通して、いつでも神様が支配してくださることを確信して生きるということ になるのです。この「神の右に座すキリスト」の姿が先程読んで下さいました使徒言行録 2章29節からの言葉に描かれています。特に、34節、35節でイスラルの偉大な王様 であるダビデが作ったと信じられている詩篇110編1節の言葉を引用して語られていま す。「ダビデは天に昇りませんでしたが、彼自身がこう言っています。『主は、わたしの 主にお告げになった。「わたしの右の座に着け。わたしがあなたの敵をあなたの足台とす るときまで。」』というようにです。

 「主は、わたしの主にお告げになった」とダビデが語っています。この「主」とは、父 なる神様のことを表しています。それに、「わたしの主」とは、王様のことです。使徒言 行録においては、つまり聖書においては、この王様こそが主イエス・キリストのことを指 していると理解されています。父なる神様が独り子である主イエス・キリストにお告げに なって、右に座りなさいということを命じられたということです。つまり、ダビデの預言 に従えば、主イエス・キリストは天に昇って、ご自分の父なる神様の右に座っておられる 。王様としてそこに座っておられる。王様としてということは、この世界の人々を支配す るためにです。主イエス・キリストが父なる神様の右に安心して座っておられて、何もさ れておられないということではなく、王様としてこの世界を支配なさっておられるという ことです。それだから、使徒信条において「天にのぼられ、全能の父なる神の右に座した まえり」と告白した途端に、私たちからずっと遠くなった王様であるイエス・キリストを お送りしてしまったのではなく、私たちとイエス・キリストが深い繋がりをもっていくの です。深い結びつきがあるのです。あるいは関わり、関係を持っていくのです。この関係 という言葉は、日本においても重要な言葉になっています。夫婦関係、家族関係、あるい は友達関係、学校関係、会社関係というように使われるものでしょう。それこそ、よく言 われることが、「この社会で生きてゆくためには、人間関係が大事だ」というようにです 。それこそ、私たちは人間関係に疲れるといって、人間同志の関係を捨ててしまってたっ た一人で生きていくということはできないものでしょう。関係の中において、人と人との 関わりの中において生きているということがいえるものです。どこにおいても、関係が係 わってくる。しかも、この関係がわからないことには、なかなか受け入れることができな いものでしょう。それこそ、私たちとイエス・キリストがどのような関係があるのか、関 わりがあるのかがわからなければ、信じることも、受け入れることもできないかもしれま せん。

  ところで、今日取り上げています新約聖書の使徒言行録2章は、主イエスの直接の弟子 でありました使徒ペトロが語っている説教の一部分です。この2章の最初において、弟子 たちに聖霊が下ってきまして教会が誕生したことが描かれていました。それにしても教会 は、建物ではなく、主イエス・キリストを信じて生きていく群れのことを指しています。 聖霊が一人一人に注がれて、主イエスを信じる人々によって生み出された共同体が教会と いうものです。その教会が誕生した直後に使徒ペトロが最初にした説教の言葉がここに描 かれているのです。主イエス・キリストのことを説き明かしをした言葉でありました。そ れこそ、聖霊が注がれて、聖霊の導かれるままに語った教会の最初の言葉であり、明らか にこの後に教会が語り続けていった言葉です。もう一度32節から読んでみます。「神は このイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。それで、イ エスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あな たがたは、今このことを見聞きしているのです。ダビデは天に昇りませんでしたが、彼自 身こう言っています。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着け。 わたしがあなたの敵をあなたの足台とするときまで。」』だから、イスラエルの全家は、 はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主 とし、またメシアとなさったのです。」特に、ペトロが強調したかったのは、説教の一番 最後の「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさっ たのです。」という言葉でした。この「あなたがた」とは、イスラエルの人々のことを指 していますし、ペトロの話を聞いていた人々です。いえ、この聖書の読み手であり、私た ち一人一人にも語られている言葉だということです。それよりも、ペトロ自身は自分はイ エスを十字架に付けることに関係がないとは考えてはいなかったと思われます。  

 ここでペトロは勇ましくイエス・キリストのことを救い主であり神様であることを実証 しながら語ってはいます。しかしながら、実はペトロは大胆に主イエスのことを語れるよ うな弟子ではなかったのです。主イエスを尊敬し、従っていた一番弟子のペトロではあり ましたが、いざ主イエスが十字架に付けられた時には、「あの人のことは知らない」と真 先に裏切って逃げてしまったのです。本来ならば、主イエスの弟子である資格もないし、 主イエスのことをこんなにも大胆に語れるはずもなかったのです。けれども、復活された 主イエスがペトロに出会って下さり、裏切ったことをゆるして下さり、この先も主イエス を伝えていく弟子として再びお立てになったのです。しかも、天に昇っていかれた主イエ スが聖霊をペトロたちに送って下さって、主イエスを救い主であることを語る勇気を与え て下さったのです。それだから、ペトロ自身は、主イエスを十字架につけて殺したのは、 自分自身の責任でもあると感じていたのです。私たちは、どうでしょうか。多くの人々が 、二千年前に起こった出来事しかもイスラエルという遠く離れた場所で起こった出来事が この私とどういう関係があるのかということを考えるかもしれません。二千年前の世界の 片隅であるイスラエルにおいて何の罪もない一人の人が十字架に付けられた。確かに、同 情すべき、哀れみ思う出来事だけれども、人々にとっては、切実な問題、関わりのある問 題とはならないのです。実は、このことが主イエスを十字架に追いやって殺してしまった ことになるのです。まさに、無関心になることがイエス・キリストを十字架で殺すことに なってしまったのです。もしも、私たちがこの時代、この国において主イエス・キリスト の十字架を前にした時に、そこにいた人々と同じように十字架に付けることに賛成したか もしれません。助けることなく、裏切ったりあるいは傍観者になっているだけだったのか もしれません。まさしく、憎しみと無関心から今でも主イエスを十字架に付けて殺そうと しているのです。なによりも、主イエス・キリストを受け入れることができないというこ とが物語っているような気がするのです。

 それだから、主イエス・キリストを裏切ってしまうまでに至ったペトロが言うのです。 そのイエス、他のイエスというわけではありません。私たちがよってたかって十字架につ けて殺してしまったイエス・キリストを父なる神様はよみがえらせて、私たちの「主」と してお立てになられたのではないか。そこに、私たちに対する恵みの支配を確立しておら れるではないかと語るのです。そのようにして、キリストの教会が建てられていったので す。主イエス・キリストが支配されておられる姿を見ることによって、教会の歴史が始ま ったのです。まさしく、キリスト信仰を受け入れる、洗礼を受ける人々が呼び起こされて いったのです。それにしても、主イエス・キリストが父なる神様の右に座しておられるこ とを信じることは、この主イエスが支配者であることを認めることになります。私たちの 全生活において認めていくことになるのです。なによりも、主イエスが支配されておられ る場所こそが、この教会だということがいえます。教会こそがイエス・キリストの支配を 受け入れている集団、共同体ということがいえるものでしょう。教会に生きている私たち 一人一人がこのイエス・キリストの支配を受け入れて生きていることになるのです。けれ ども、私たちはどこかで支配しておられるということに抵抗を持つものではないでしょう か。支配されるということはまるで自由がないような気がするからです。それに、ペトロ が語った「イエスを神は主とし」という言葉は、イエスというお方がご主人ということに なります。主イエスをご主人として生きるということは、私たちは僕であり、別な言葉で は奴隷であるということです。それだから、「支配」や「主人と奴隷」という言葉に何か 人間が押さえつけられていて何もできないような状態に置かれているような気がしてしま うものでしょう。まさに主イエス・キリストが全能の父なる神の右に座しておられるとい うことが、王様として君臨されて私たち人間を蔑んでいるような気がするからでしょう。

  しかしながら、考えてみますと私たちの生活は、誰かに何かに関係を持ちながら過ごし ているのと同時に何かに支配されながら生きているのではないでしょうか。何かに縛られ て、何かの奴隷となって生きているということです。それこそ、忙しいから礼拝に出席で きないと口に出してしまう人は、時間に縛られているのです。時間に支配されているとい うことがいえるかもしれません。時間の奴隷となって生きているのです。それに、普通の 生活をしていていも、この世の価値観に支配されていたり、お金に支配されていたり、あ るいは情報に支配されて生きているということがいるのではないでしょうか。なによりも 、自分を支配しているものが自分であることになかなか気づかないのです。誰かの奴隷に はなりたくはない。誰かに支配されるのは御免である。という人に限って、自分を王様の ようにしてしまっているのです。自己中心の生活から自分の王国を築いて、自分の部屋に 閉じこもってしまって不安な生活をしてしまうのです。そこには、神様の愛や神様がいて くださらないことがどんなに不安なことかがわからなくなるからです。神様がこの世界を 支配されて、この人間をお造りになって支配され続けていることがわからなくなることか ら、人間同志で傷つけ合っても、人間を憎みつづけても平気になっていくのです。しかし ながら、私たちのために主イエス・キリストが十字架に付けられて、私たちが神様から離 れる思いや人間を憎み続ける思いをおゆるしになって、究極的には、死を打ち破って甦っ て下さり、私たちにも復活の命を、神様と共に生きていくことができる永遠の命を与えて 下さることを受け入れることによって、私たちは平安を持って生きていくことができるの です。

  さて、それこそ、主イエス・キリストと共に生きていく中で、しかも教会生活で一番難 しいことは自分のわがままと闘うことではないでしょうか。教会の生活なんて、自分の思 うままにできると考えることがあります。信仰は、それこそ一人一人の自由だと思えてし まうのです。あるいは、神様を信じるのは私の勝手だという考え方がどこかにあるのです 。それだから、自分で行きたい時には、教会に行く。行きたくなければ教会に行かなくて もよい。結局、キリスト者になっても自分勝手な信念しか持てなくなるのです。これでは 、イエス・キリストの支配が成り立っているとは言えないものでしょう。教会は大変不思 議なところです。毎週日曜日の朝に人々が集まってくる。この世で考えられる利益は、目 に見える形では何一つないかもしれません。しかも、毎週同じことをしている。こんな寒 い朝にわざわざ出てきて、長いと思えるような時間硬い椅子に座って、時には難しい話を 聞き、歌えないような歌を歌って一体何をしているのか。それこそ、私たちを救って下さ ったイエス・キリストこそが王様として支配して下さり、私たちの「主」であるというこ とを明らかにして、このことを受け入れなければ、この世もまた歪んでしまう、私たち自 身も平安に生きることができないことを言い表すためではないでしょうか。今、ここに私 たちはイエス・キリストの支配を明らかにするために集められているのです。ここにこそ 、真実の平和があるからです。まさしく、父なる神様の右に座すキリストが私たち一人一 人を支配されておられる姿を見つめることによって、心から礼拝して主イエス・キリスト と共に歩んでいくのです。

  お祈りを致します。主イエス・キリストの父なる御神様 あな たの御子であるイエス・キリストがあなたの右に座していて下さり、この世界を、この教 会を私たち一人一人を支配することを明らかにして下さっていることを感謝申し上げます 。けれども、私たち自分勝手な思いや信念においてすぐに神様から離れてしまうものです 。しかも、神様の支配に嫌気がさして、自分の王国を作ってしまいます。けれども、それ にもかかわらず主イエス・キリストが私たちに愛を注いでくださり、救いを与えて下さっ ておられることを信じて受け入れていくことができますように。主イエス・キリストの支 配の中で生きていくことが喜びに変えられることを確信することができますように。どう か私たちの信仰の姿勢を正して下さり、主イエスを見失うことがありませんように、お導 き下さい。このお祈りを救い主である主イエス・キリストの御名によって、御前にお捧げします。アーメン

15.「再び来られるキリスト」

 今から4年前の1999年、その数年前からある人物が起こなったことがブームになっ て、日本の人々を恐れさせました。それは、ノストラダムスという中世の人物が未来のこ とを予測して書いたというものを研究している人々によってもたされたブームでありまし た。ちまたでは、ノストラダムスの大予言という呼び方がなされていました。これは、明 らかに教会用語である神様の言葉を預かるいう預言ではなく、未来についてのことを語る 予言というものです。その内容は、1999年の7月にこの世界があるいは人類が滅びて しまうということでした。この1999年7月の少し前からテレビにおいては特番や雑誌 にも取り上げられまして、人々を恐怖に陥れていたのです。多くの者が、人類が滅びるこ とはないだろうと考えてはいましたが、それでも不安を抱える人は少なくなかったのです 。実際に、1999年7月に人類が滅びるのだから、生きていたってしょうがないと思う 人やそれこそ人生を放棄して、できるだけ自分の財産を使って勝手気ままに遊んでしまお うという人々がいたということでした。それこそ、1999年7月になりましたけれども 、人類滅亡は行われずに終には2000年を迎えることになってノストラダムスの大予言 のブームは終わったのでした。このブームが終わってあおりたてた者の責任問題が問われ ていたのです。

  しかしながら、この人類が滅びるとか、この世界が滅びるという問題は何も今に始まっ たことではなく、いつの時代でも考えられていたことでありました。それこそ、今から8 年前の1995年においては、一つの新興宗教、カルト集団と呼ばれている団体がまるで 自分たちが神様の使いのように思い込んで、いえそれこそ自分たちが神様だと思うことに よって、人類を自分たちの手で抹殺してしまおうと考えて事件を次々と起こしたのでした 。それが、社会問題となり、宗教団体のあり方をも左右してしまった「地下鉄サリン事件 」というものでした。ここでこのカルト宗教の問題点を詳しく語るということはしません が、実は私たち教会が語ることにも慎重になられなければならないことであったのです。 去年の暮れですが、あるキリスト教と名乗ってはいますが、教会にとっては異端とされて いる宗教の方々が来られまして、話をして行かれました。教会では、その人々が行ってい ることはキリスト教ではありませんということを語ってはいるのですが、なぜか教会にも 教えを伝えにやって来られるのです。その方々を批判するのは、同じような聖書を使い、 神様のこと、イエス・キリストのことを間違って伝えようとしているからです。それで、 世界情勢あるいは戦争や軍事問題が伝えられている中でありましたので、やがてこの世界 は滅びることを語っておられたのです。その方々が言われることは、世界の滅びは、19 70年ぐらいから起こっていて、まもなく人間の滅びがやって来るということでした。そ れだから、神様のことを信じなさい、神様に従いなさいということを語っておられたので す。私が意地悪くその根拠は何ですかと聞きますと、聖書を読んで計算すればそのように なるということでした。果して、聖書を読んでいくならば、いつ人類が滅びるのか、この 世界が滅びるのかが示されているのでしょうか。この人々もただ恐怖をあおることによっ て、不安をもたせるだけのような気がするのです。実は、このノストラダムの大予言を研 究する人々もカルト宗教を作り上げていく人あるいはキリスト教と名乗りながら別なもの を神様として拝んでいく人々は決まって熱心に聖書を都合のいいように研究しています。

 特に、この信仰とは呼べないような自分たちの信念におきましてはやがては神様がこの 世界にやって来ましてこの世界を滅ぼすということを主張されるのです。いわゆる神様の 裁きがこの世界に起こる日が近いというようことでした。確かに、旧約聖書においても、 新約聖書においても神の裁きということが描かれています。それだから人々を恐怖に陥れ るためにやがてこの神様の裁きがやって来て神様を信じない者、耳を傾けないものは滅び に至ることが語られているのでしょうか。私たちは、先に救われているけれども、家族の 中であるいは友人の中でまだ主イエス・キリストを信じていない者は、神様の裁きに立っ た時に、滅ぼされてそれこそ地獄のようなところに落とされてしまうのでしょうか。それ だから、そのようなことにならないようになんとか強制的にもキリスト者へとしなければ ならないと思うのでしょうか。もっというならば、せっかく洗礼を受けてキリスト者にな ったけれども、今では礼拝生活をおろそかにする人々は、神様のことを裏切っているのだ からもっと重い裁きや罰が下るということでしょうか。そのことからそのような人々に裁 きがあるから教会に来なさいと働きかけて恐怖をあおりながら教会生活を強要しなければ ならないことなのでしょうか。この神の裁きというものは、時には「最後の審判」という 呼び方がなされますし、有名な絵にもなっています。この最後の審判と言われるものは、 この世界を支配されておられる主イエス・キリストがこの世界に再びやって来られて裁き を行われるということです。この「最後の審判」の絵を見た人はお分かりだと思いますが 、圧倒的な迫力でこの主イエス・キリストの審判者としての姿が迫ってまいります。まる で仏教でいうならば地獄の閻魔大王の姿です。

  さて、私たちは礼拝の中で信仰の告白を致します使徒信条の言葉一つ一つを取り上げて 学びを深めてまいました。特に、主イエス・キリストがどういうお方であるのかを中心に 考えてきましたが、今日学んでいく使徒信条の言葉は主イエスに関する最後の言葉です。 「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審きたまわん」という告白の言葉です。 「かしこ」とは、あそこからということで、まさに主イエス・キリストが天に昇られて、 父なる神様の右に座しておられるところから、再び来て下さるということです。審きをな さるために来て下さるということです。これは、イエス・キリストの再臨と裁きについて の信仰と教会では呼ばれているものです。使徒信条が聖書に従った教会の教えであるなら ば、聖書そのものが示している信仰ということがいえます。当然、このことは主イエスの 救いを受け入れ洗礼を受けてキリストのものとなったものは、主イエスがこの世界に再び 来てくださった時に、もう既に死んでしまっている人も、その時たまたま生きていた者も 、とりあえず地上に生きていたすべての人々がそのイエス・キリストに裁かれてしまうこ とを信じるというものです。この状況を示している教会用語の別な表現で終末という言い 方をしています。この世が終わりを迎えるということです。もう一つの表現として「主の 日」がやって来るという言い方がなされます。多くの人々が、終末思想やこの世界が終わ りを告げると聞いた時に、この世界が目茶滅茶になる、それこそ人類滅亡になって、神様 のことを信じている人々だけが救われるというような利益主義、人間のご都合主義を考え て受け取るのだと思えていくのです。それでは、先程から語ってきましたように主イエス ・キリストがこの世界に再びやって来られることは、私たちにとっては恐ろしいことなの でしょうか。

  さて、最初の教会の基礎を作り上げながら、ヨーロッパまで伝道を展開していった使徒 パウロがギリシアの町であるコリントに送った手紙の中でこのように語っています。先程 、読んで下さいましたコリントの信徒への手紙ニ5章10節の言葉です。「なぜなら、わ たしたちは皆、キリトスの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みか としていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。」このパウロ という人物は、キリスト者を迫害している中で、それこそイエス・キリストと敵対してい る中で、復活された主イエスと出会って、劇的にキリスト者に変えられた人物でありまし た。それだからこそ、神から離れて過ごすことがどんなに哀れであるのか、どんなに神様 を悲しませていたのかをよく知っていったのです。そのイエス・キリストを信じる信仰を 与えられたパウロ自身は、やがてはイエス・キリストの裁きの座の前に出て行くのだと信 じていたのです。その時、自分が行ったことに応じて報いを受けること、つまり今自分が やっている事、自分が心の中で考えている事、すべてが最後にイエス・キリストの裁きの 座において評価されることを神様によって示されていたのです。当然、パウロが生きてい るうちにキリストが再びやって来られるということはなかったことでしょう。けれども、 パウロは今この時、自分には関係がないこととしてただ単に幻を見ていただけではなく、 自分が死んでから後に起こるかもしれないイエス・キリストの再臨の時を待ち望みつつ信 仰の歩みをしていたことになるのです。もしかしたら、私たちは主イエスがかしこから、 つまり父なる神様のもとから再び来られて私たちを裁かれる、その時なおも生きている者 も、死んでしまった者もすべての人が裁かれてしまうという信仰は、私たちが日々生活し ていく中では、途方もなく離れた、空想の世界の信仰であると考えているのではないでし ょうか。まさしく主イエス・キリストの終わりの裁きによって私たちの生き方が定められ る、一人一人の人生が暴露されるようなものであるならば、こんな信仰は私たちには関係 がないといって片づけたほうがいいような気がするからです。

  確かに、主イエス・キリストが父なる神様のもとからいつやって来られるのか、どんな ふうに私たちを裁かれるのかよく分かってはいません。聖書は、本来はそんなことには興 味がない程に描いてはいないのです。それだから、聖書が示している主イエスの再臨や裁 きについての言葉も、具体的なイメージを伴った言葉が語られてはいますけれども、パウ ロ自身も幻のような言葉をもっしか語ることができなかったのです。それこそ、主イエス ・キリストが再び来られる時には無数の人々がいるはずなのに、その中で一人一人をどの ように裁かれるのか。この自分がどのように裁かれるのか。今でさえも群衆の中のたった 一人であって、人々の中に紛れ込めば紛れ込んでしまうはずなのに。主イエスの裁きの座 に自分のようなちっぽけな者が目に止まるはずないと思われる。一体どうやって主イエス は裁かれるのだろうか。このようなことを考えるかもしれません。このことに対しての答 えも聖書は示してはいません。ただ、明らかなことには聖書の信仰に基づいた使徒信条で は主イエス・キリストが「全能の父なる神の右に座したまえり」という言葉の後に「かし こより来たりて」と表現していますように、全能の父なる神様から任されておられるイエ ス・キリストが私たちを裁かれるということです。全能でありますから、神様はどんなこ とでもおできになるにちがいないということです。それだから、私たちはその全能の父な る神様の子であるイエス・キリストの前に立つ時が、わたしたちの最後であるということ をわきまえて、その時を待ち望みつつ今ここにおける自らの生活の拠点を造っていかなけ ればならないことでしょう。それでも、私たちはこの主イエス・キリストの再臨といわゆ る最後の審判というものがまだはっきりとイメージしにくいかもしれません。それこそ、 すぐに人類滅亡あるいはこの世界が破滅するということを聞くならば、不安は募るけれど も同時に具体的な感覚で信仰を捕らえることができるかもしれないからです。しかしなが ら、それでも、私たちは自分自身の終末というものをはっきりと捕らえることができるの です。それは、私たちは必ず死ぬ人間であるということです。自分はいつ死ぬのかわから ないけれども、やがてはこの肉体が滅びてしまって命が終わってしまうということが考え られるのです。それだからこそ、私たちはいつ死んでもいいように神様の御前に備えをし ておかなければならないものでしょう。

  特にこの手紙を書いていた使徒パウロは、キリスト者を迫害する中で今度は迫害される 側であるキリスト者に生まれ変わった者ですから、自分の死を絶えず見つめて過ごさなけ ればなりませんでした。自分が信仰に生きている生活をしながら過ごす中で、自分の人生 の終わりを見つめて歩んでいたパウロでありました。その生活の中で自分の終わりを見続 けていた時には、いずれは自分は神様の前に立たなければならないことを確信していたの です。これこそが、永遠の始まりであり、神様と共に生きていく永遠の命をいただくとい う信仰であったのです。まさしく、主イエス・キリストが再び来られて、裁きを行い自分 のすべての歩みに決着をつけて下さる時がやって来るという信仰でありました。私たちは この使徒パウロみたいにいつ殺されるのか、間近に死が迫っているということは考えられ ないかもしれません。けれども、繰り返してもいい程に語らなければならないことですが 、私たちはいつかは死んでしまうのです。それが、今日か明日かということはないかしれ ませんが、必ず死はやって来るのです。それだからこそ、人間の生活が死で終わり終末を 迎えるとするならば、死の後についての信仰こそが大切になっていくのではないでしょう か。そうだからと言って、主イエスが再び来て、裁きをなされるということを信じること は、びくびくする思いで待つということではないでょう。いえ、むしろパウロは、死に対 して絶望感を抱いて生きていたのではありませんでした。死の向こう側にも希望があるこ とを確信して、神様と共に生かされていたのです。それだから、5章の6節から神様に対 しての信仰の言葉を語ります。「それで、わたしたちはいつも心強いのですが、体を住み かとしているかぎり、主から離れていることも知っています。目に見えるものによらず、 信仰によって歩んでいるからです。わたしたちは、心強い。そして、体を離れて、主のも とに住むことをむしろ望んでいます。」というようにです。

  確かに、肉体をすみかとしている地上の生活をしている間は、なにげない日常の生活を している時には、主イエスから離れて生活をしているような気がします。実際に、神様か ら離れて、神様が本当に共にいて下さらないような気がする時があるのです。それこそ、 神様を信じていることは、目に見えるものではありません。神様の御業は見えるでしょう が、神様そのものは目にすることができません。ただ、私たちは信仰を持って、見えない ものを信じて生きているだけなのです。ただ、神様を信じさせていくだことによって生か されているということです。それは、なによりもこの肉体が滅びても、神様のすみかに、 神様のもとに生きていきたいと望んでいるからにほかならないことでしょう。けれども、 このことは利益を優先すること、それこそ神様を信じればただ幸せになれる、自分の都合 のいいように生きていくことができるということではないのです。多くの人々がそれこそ 神様を信じればいいことがあるのかなぐらいにしか思っていないのではないでしょうか。 私たち自身もいいことがあれば、幸せになったら、病気や苦しみがなくなったならば神様 のことを信じてあげてもいいよ、神様のことを礼拝してもいいかなぐらいにしか思えない ことです。使徒パウロは5節ではっきりと語るのです。「わたしたちを、このようになる のにふさわしい者としてくださったのは、神です。神は、その保証として、霊を与えて下 さったのです。」まさしく、私たちが神様のことを信じて信仰を持って生きているのは、 私たちの側にはありません。繰り返し語ることではありますが、信仰とは、自分はこう信 じていくという信念ではありまん。私が信じれば神様がいてくださり、私が信じなければ 神様はいないということではないのです。そもそも信仰とは、神様を信じることではあり ますが、その信じる心さえも神様に与えていただく、保証していただくということです。 それだから私たちを支えるために、神様が聖霊を、私たちが生きるための命の息を与えて 下さることによって、神様と共に生かされていく歩みを保証して下さっているのです。そ の確信をパウロ自身がしっかりと受け止めて信仰の道を歩んでいたのです。

  そのことから、パウロは9節で「だから、体を住みかとしていても、体を離れているに しても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい。」と語りました。わたしは主イエスに喜ん でいただく。それこそ、主イエス・キリストが再び来られる最後の時、この自分が神様の 前に出た時にも主イエス・キリストが自分のことを見て喜んでくださる。主イエスにお会 いすることが今から楽しみだ。パウロ自身、その信仰にひたすら生きていたのです。その ことから10節につながっていくのです。「なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁き の座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに 応じて、報いを受けねばならないからです。」けれども、このことを聞けば聞く程に私た ちは不安をつならせるのではないでしょうか。それこそ、パウロがうらやましいと思い込 むものでしょう。喜んでイエス様の前に出ていくことができるからです。私たちはどうで しょうか。もしかしたら、それこそ今この時、主イエスがこの世界に再びやって来られた ら困ると考えているのではないでしょうか。しかも、自分が今死んでしまって神様の前に 立った時に、どう取り繕うかと考えているのではないでしょうか。よく親が子どもに注意 することですが、「お天とうさんが見ているのよ」という言葉があります。神様が見てい るから悪いことをしては駄目よということです。それこそ、私たちの行いや心の中にある ものすべてを神様の前にさらけ出したら、自分はたまったものではない、それこそ神様に 裁かれて悪者というレッテルを張られて、滅びてしまうと考えるのではないでしょうか。 もしも、今主イエスの再臨が起こって裁きの座の前に立った時に、自分一人で立つのなら 良いけれども、自分の一番身近な人が「あんなふうに立派にしていたけれども、本当はあ の人はね」と告げ口をしたら困ってしまうものでしょう。

  けれども、繰り返すことですが、主イエスが再び来て下さり、裁きをなされることを信 じて生きるということは、おどおどして不安や恐怖をあおることではありません。気難し やで信仰に対して厳しい人であると思われていた宗教改革者であるカルヴァンが自分で書 いた信仰問答の中でこう答えています。この主イエスの再臨と最後の審判は私たちを慰め てくれる。なぜか。私たちを裁きになる主イエス・キリストは同時に弁護人でもあるから だ。裁判の席において、裁き主である裁判官もいるのですが、弁護人も必要なことでしょ う。その弁護人を裁き手である主イエス・キリストご自身が引き受けて下さる。確かに、 このことは常識では考えることはできません。けれども、本来私たちがどうあがいたとし ても裁かれて呪いに掛けられて滅びてしまう者であったものを主イエス・キリストが十字 架に付いて下さって、自分自身をお裁きになったのです。呪いを受けて死んで下さったの でした。私たちが受けるべきを裁きをもう既に主イエスが受けて下ったのです。そのこと から気難しやで厳しさの信仰の代表であるパウロが5章の4節で「死ぬはずのものが命に 飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです。」と語りま す。天から与えられる住みかを上に着るということは、恵みであり、愛であり、救いであ る主イエスと共に生きることに包まれるということです。まさしく、主イエス・キリスト が再び来て下さって、裁きの座に立った時に、私たちが神様によって裁かれて、滅びの中 に叩き込まれるようなことが起こるのではなく、イエス・キリストの救いと恵みが覆って しまうということです。さて、この手紙の中の5章6節と8節でパウロは二度も「心強い 」という言葉を繰り返しました。「心強い」ということは勇気を出すということです。そ れだから、神様の恵みを知ることによって、勇気を持ってイエス・キリストの愛と救いを 受け入れさせていただくのです。たとえ裁きの座にたったとして、それこそ喜んで主イエ スが再び来て下さることを、たとえ私たちが死ぬ時が来ても御言葉によって主イエスと共 に生かされていくのです。再び来て下さるキリストを仰ぎ見つつ、喜んで御言葉を聞き、 神様のことを礼拝していくのです。

 お祈りを致します。主イエス・キリストの父なる御神様 私たちは、御子イエス・キリストの裁きの座の前に 立つことができないものです。けれども、なによりも主イエス自らが十字架に付いて下さ り、既に裁きを行い、私たちに救いを与えてくださいました。どうか、あなたがこの世界 に再び来て下さることを望みつつ、主イエスと共に生かされていくことができますように 。どうか、確固たる信仰を私たち一人一人に与えて下さいまして、深い恐れと慎みを持っ て、なによりも勇気を抱きつつ主イエスが再び来て下さることを仰ぎ見て信仰生活を歩ん でいくこができますように、お導きをお願い致します。また、たとえ私たちの命が滅びに いたることがあったとしても、御言葉によって支えられて、喜んで主イエス・キリストと 共に歩んでいくことができますように、一人一人を捕らえて下さり励まして力づけを与え てください。このお祈りを救い主である主イエス・キリストの御名によって、御前にお捧 げ致します。アーメン

16.「聖霊を信ず」  

  多くの人々にとって、キリスト教や聖書は馴染みにくいものであり、近寄りがたいもの と思い込んでいますが、すでに日本語となったキリスト教の言葉はたくさんあります。多 くの人々が、キリスト教や聖書の影響から造られた言葉だということを意識していないで 、使っているようです。たとえば、愛という言葉は聖書が翻訳する時に使われだしました 。カタカナ言葉になっているバイブル、カリスマ、アイドル、タレントあるいはことわざ のようなものとなっている「迷える羊」「目からうろこ」「目には目を」「十字架を負う 」ここで、一つ一つの言葉を取り上げて説明しだしたらそれこそ霧がありませんし、時間 も要するものでしょう。それにしても、これらの言葉は聖書が語っていること、神様が意 図されていることから大きくはずれて、日本語として使われているようです。これは、人 間の便利さによって、悪く言えば人間の都合のいいように使われてしまうので仕方のない ことなのかもしれません。特に、ここで取り上げたいのは日本語に定着をしている言葉で 教会用語である「三位一体」というものです。日本語においては今では「三者が一体とな って、つまり三つのものが一つとなって、あるいは三者が心を合わせること」という意味 で日常でよく使われています。たとえば、戦争の時、陸から海から空からというように三 位一体の攻撃を仕掛けたというように使われることがあるでしょう。しかも、三つの関係 がどうのようであれ、気に留められずに使用されているようです。桃太郎は、三位一体で あるイヌ、サル、キジを連れて鬼退治に行ったというようにです。けれども、教会用語で ある「三位一体」は、三つのものが一つであり、それぞれが関係を持っていることを言い 表しています。この三位一体は、父なる神様、子であるイエス・キリスト、聖霊なる神様 というように、三つの神様が結びついて一つになっていることを表しているのです。決し て、このことは三人の神様がいるということではなく、それぞれの働きの違いを表してい るだけなのです。三にして一であること、一にして三であること、このことを受け入れる ことは難しいことなのかもしれません。

  いずれにしても、この「三位一体」のことを説明しだすと、難しい議論になって、神様 を信じて生きることに困惑を覚えるかもしれません。それよりも、この「三位一体」とい うものは、聖書には書かれていないものでありまして、後々に神学用語としてあるいは教 会用語として造られた言葉でありました。けれども、聖書においては父なる神様のこと、 子であるイエス・キリストのこと、聖霊なる神様のことがたくさん登場してきて、説明を されています。あるいは、それぞれが結びつけられて関係を持っているということです。 そのことから、父なる神様、子であるイエス・キリストなる神様、聖霊なる神様が結びつ く関係の中で一つであることを受け入れることが必要となっていくでしょう。特に、礼拝 の中で信仰の告白をしています私たちは御言葉を聞き続けてきました。この使徒信条は、 最初に父なる神様のことを信じると告白し、次にイエス・キリストがどのようなことをな されたのかを語り、そのイエス・キリストを信じると告白をしています。更に最後におい て聖霊なる神様のことが語られて、聖霊なる神様が私たちにどのようなことをなさってお られるのかを告白して、信じて受け入れるということが語られていくのです。いわゆる聖 書のことを簡潔に語るために、そのエッセンスを告白するためにも後に教会用語になりま した「三位一体」のことを説明するように、使徒信条が三部構成になっているのです。け れども、繰り返して語ることですが、それぞれの神様がおられることを受け入れることで はなく、父なる神様、子であるイエス・キリスト、聖霊なる神様が三つにして一人のお方 であることを信じて受け入れるということになっていくのです。

  さて、既に御言葉として受け取っています父なる神様のこと、イエス・キリストのこと 、今日から学びを進めていく第三部である「聖霊なる神を信ず」ということで使徒信条の 言葉が告白されていきます。「我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の ゆるし、身体のよみがえり、永遠の生命を信ず」というようにです。この言葉を告白する 中において、聖霊なる神様が一体どのようなことをなさるのかがここに語られているので す。つまり、聖霊なる神様を信じることは、主イエス・キリストを信じる集まりである教 会を信じることであり、キリスト者を中心とした交わりの関係を生み出し、さらに主イエ スの十字架によって神から離れる思い、神と人と憎む傾向である罪からのゆるし、あるい は主イエスが復活されたことによって復活の命である身体のよみがえり、最後に神様と共 に生きていくことができる永遠の命を頂くことを信じていくということになります。従っ て、私たちがキリスト者として生きていくためにより具体的なこととして関係を持ってい くということです。この聖霊なる神様が私たちの具体的な生活を形作っていくために働い て下さるということです。先程から語っていますように、この聖霊は、父なる神様と等し い方であり、子なる神様であるイエス・キリストと等しい神様であられます。つまり、こ の聖霊も神様そのものなのです。それだから、この聖霊なる神様が人間の具体的な生活に おいて働いていて下さるということは、今ここでこの生きている私においてその神様が生 きておられ、働いておられるということになります。その今、まさに生きて働いておられ る神様のことを信じて生きるということが信仰の歩み、私たちが神様を信じて歩んでいく ことになっていくのです。それだからこそ、この聖霊というものは、別の表現では神様の 霊ということになります。しかしながら、多くの人々が霊という言葉から幽霊や亡霊とい った得体の知れないものを思い浮かべるか、あたかも人間から抜け出た魂のようなものを 想像するかもしれせん。けれども、そうではなく、聖霊は神様の霊ということで、神様が 与えて下さるものであり、決して私たちの内側からあるいは私たちが持っている所有物で はないのです。自分たちの思いのままに自由に操ることができる霊的な力というものでも 、神秘的な力というものではないのです。この聖霊は神様そのものですから信ずべきもの であり、尊ぶべきもの、拝まれるべきものであるということです。そのようにして、神様 として存在されておられる聖霊でありますから、私たちが自由にすることができないもの です。そのことから、この聖霊が私たちと共にいて下さり、生きて働いておられることを 信じるということになっていくのです。

  ところで、なぜ、そのように信じることができるのか。なによりも、聖書の言葉が、主 イエスの言葉を私たちに示して下さり、約束をなさっておられるからです。特にこの聖霊 なる神様の働きのことがヨハネによる福音書において主イエス・キリストが弟子たちに向 けて説明をなさっておられるのです。先程、読んで下さいましたヨハネによる福音書14 章15節から聖霊なる神様というものが私たちにどのような働きをして下さるのかが語ら れています。特にこのヨハネによる福音書14章の場面は、主イエスが十字架に付けられ る前日の出来事として、ご自分の弟子たちに語っておられるものです。主イエスがこの世 からいなくなる、弟子たちの目の前から消えてなくなる状況の中で語られた言葉でありま した。いわゆる主イエスの別れの説教であり、遺言であったのです。弟子たちは折角、今 まで師匠として主イエスを頼りにして信じて従っていたのに、それなのに、突然十字架に 付けられると言われる。死んでいなくなってしまうと言われる。この時弟子たちは危機感 を持って、絶望していたことでしょう。孤独になり、目の前が真っ暗になっていたのです 。頼りにしていたお方であり、この人ならばどこにでもついて行くことができると考えて いたお方なのに、弟子たちは寂しい思いで一杯でありました。しかしながら、主イエスは 別れの説教の中で14章18節で「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。 あなたがたのところに戻って来る。」と慰めの言葉を語られていました。主イエス・キリ ストは今別れを告げておられます。残された弟子たちは、親に捨てられたみなしごのよう な寂しさ、せつなさに耐えることができないような深い悲しみを抱いていたことでしょう 。けれども、主イエスは「あなたを放ってはおかない。あなたがたのところに戻って来る 」と約束して下さいました。これはどういう意味なのでしょうか。19節においては「し ばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。」と語られ ています。これは、明らかに主イエスが十字架に付けられて殺されるけれども、蘇られる ことを弟子たちに告げておられるのです。

  ところが、この後、弟子たちは主イエスの別れの説教を聞いていたにもかかわらずに、 主イエスが十字架に付けられる様子を目の前にしてみんな裏切って逃げてしまいました。 自分と主イエスとは何にも関係がないと考えてしまって、神様を見捨てることになってい ったのです。それなのに、弟子たちが主イエスこそが救い主であると信じて教会を形作っ ていったのは、復活された主イエスが弟子たちに姿を表して下さったからです。主イエス の約束通りに再び会うことが出来たからです。いえ、復活された主イエス自らが弟子たち を訪問して出会いを呼び起こしてゆるしを与えて下さったからです。けれども、私たちに してみれば、主イエスが復活されたことは何も関係がないような気がしてきます。実際に 、この目で私たちは主イエスの姿を見ることができないからです。自分の肉体の目で見て 、主イエスの肉声を聞くことができた弟子たちを私たちはもしかしたらうらやましがるか もしれません。けれども、復活された主イエス・キリストは弟子たちに再び出会って下さ ったけれども天に昇っていかれて、この地上から完全に姿を消してしまわれました。聖書 にはそのことがはっきりと語られ、また使徒信条においても主イエス・キリストは「天に 昇り」ということを告白をしています。このことから、再び弟子たちは主イエスとの別れ を経験しなければならなかったのです。けれども、この後弟子たちは落胆し、悲しみに明 け暮れることはなかったのです。それよりも、益々力づけられて主イエスのことを救い主 であると告白して伝道をするようになっていくのです。しかも、世界中に主イエス・キリ ストのことが知らされて、私たちが住む日本まで届けられていったのです。どうしてその ようなことがいえるのか。そもそも、私たちが神様を知るということは、神様と出会うこ とであり、その神様を愛していくということになります。これが、信じることであり、信 仰を持つということになるでしょう。一体、このことはどのような体験から起こるのでし ょうか。

  ヨハネによる福音書14章16節、17節で弟子たちに向けて、主イエスがこのような ことを語られています。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠 にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この 霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがた はこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内に いるからである。」弟子たちに向かって、主イエスがいなくなった後、明らかに違う別の 弁護者が与えられることをここで約束しておられます。このことは、主イエス自らが父な る神様に向かって私たちのために別の弁護者を派遣して下さることを願っておられるので す。この弁護者という言葉は、もとの言葉で「呼ばれて側にいてくれる者」という意味が あります。なぜ呼ばれるのかと言えば、助けてほしいからです。そばにいてもらいたいか らです。慰めてほしいからでしょう。なによりも独りでは耐えることができないからこそ 、弁護者が必要になっていくのです。厳しい世の中を生きて行く中で、自分独りでは戦い 抜くことができないからこそ、代わりに弁護してくれる助けが必要になっていくのです。 この弁護者は、真理の霊であると言われています。26節においては「弁護者、すなわち 、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊」というように呼び方が換えられています 。つまり、この弁護者こそが教会用語である聖霊であるということです。この当時の主イ エスの弟子たちは、いつも主イエスと一緒にいることができました。主イエスの肉声を聞 くことができました。いつも弟子たちの側にいて下さって励まし、慰めて下さったのてす 。その慰めであり、助け手であり、弁護者であった主イエスがいなくなってしまう。十字 架に付けられて殺されて復活なさったけれども、また天に昇ってしまわれた。この時、明 らかに違う形で聖なる霊、聖霊を送って下さると約束して下さったのです。  実際に聖霊は、この世界に遣わされてきました。この聖霊なる神様によって、主イエス を信じる人々が呼び起こされていったのです。そのようにして、主イエス・キリストを信 じる群れである教会が誕生していきました。まさしく、世界中に教会があるのも、いえ、 この内灘教会が生み出されたのも、まさに聖霊なる神様が生きて働いておられるからです 。この聖霊が私たちと共におられて、私たちの中で生きて働いておられるからです。それ に、主イエスは「永遠にあなたがたと一緒にいる」と約束して下さいました。途中で姿を 消すことはなくなると約束して下さったのです。私たちが生きている時、いつも一緒にい てくださる。それだけはない。死んでも一緒にいてくださり、私たちの弁護をして下さる 。神様から離れる思いや過ちを犯し続けてきたことに対して、ゆるしと慰めを与え続けら れるのです。19節後半においては「わたしが生きているので、あなたがたも生きること になる」と主イエスが弟子たちに語って下さっておられました。主イエスが生き続けられ るように、私たちもこれからもずっと生き続けていくという意味です。ここで用いられて いる言葉は、「ずっと生きられるでしょう」と未来形で語られています。しかしながら、 私たちの存在を語る時には、いつも未来形で語られることはありません。ましてや現在形 でも語られることもありません。あの人は生きていたと必ず過去形で語る時が必ずやって 来るのです。死を目の前にしては、人間一人一人は過去の人になってしまい、どうしよう もない思いがするものでしょう。けれども、主イエスは生きておられると語られる。主イ エスは復活されて永遠に生きる者となって下さった。だからこそ、主イエスだけが語られ るように、あなた方を生かすものとして永遠に生きていくことができることを約束してお られるのです。永遠の命とは、主イエス・キリストと共に生き続けることです。たとえ、 私たちの肉体が滅びようとも、死を越えるものとして主イエスと共に生き続けるのです。

  まさしく、主イエス・キリストが生きて働いておられることを受け取るとができるのは 聖霊なる神様が私たちを助けて下さっておられるからです。それだけではありません。こ の聖霊なる神様は第一に私たちに何をしてくださるのか。主イエス・キリストが25節、 26節で語られます。「わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。し かし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたに すべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」聖霊 なる神様が、私たちに主イエス・キリストのことを教えて下さり、一人一人に主イエスの ことを思い起こさせて下さるということです。それだから、今、このように礼拝において 説教をしていることも、聖霊の助けなしには語ることができないです。ここに聖霊がまさ に働いて下さっていることを信じて、御言葉を語っているのです。主イエス・キリストを 示す言葉を語っているのです。それこそ、みなさん一人一人は、今聖霊に満たされて、主 イエスが語られた言葉を思い起こしているのです。しかも、一人一人がその聖霊の働きが あることを信じて期待されることが許されています。けれども、もしかしたら、みなさん 方の中で、『私はどうも聖霊を受けてはいないのではないか。今、聖書の言葉がわからな いから、あるいは主イエスを信じる気にはなれないから。』もしかしたら、そのような思 いに駆られる方がおられるでしょう。けれども、聖書のことが、主イエスのことがすぐに は分からなくても、確実に聖霊は一人一人の中に住んで下さって、主イエスの働きを示す 助けをして下さっています。それにしても、この聖霊を受けるということは何か一時的に 陶酔状態に陥ったり、感情が高まってしまうということではありません。何かに取りつか れて踊り狂うことではないのです。この聖霊の働きは、もっと冷静で、心に深く入って、 継続的なものです。それでも、もしかしたら、この教会に聖霊が果して働いているのだろ うかと疑問を持たれる方もおられるでしょう。しかしながら、はっきりしていることは、 この教会にも聖霊が働いておられるのです。なぜならば、日曜日毎に、礼拝が行われてい ますし、主イエスを信じる人々が呼び集められているからです。

 ある人がなぜ、日曜日毎にわざわざ教会に集まって来るかと言えば、私たちの救いのた めに十字架に付けられ、三日目に復活された主イエスのことを思い起こすためであると言 いました。私たちは繰り返し、繰り返し、教会においてイエス・キリストのことを、神様 のことを語る言葉を飽きる程に聞いています。しかし、私たちは忘れっぽいのです。主イ エスの御言葉を忘れてしまいます。それだから、礼拝において聖霊の力を受けて、主イエ スのことを思い起こさせて頂くのです。それだけでははく、私たちが気がつかなかったこ と、知らなかったこと、新しいこともまでも思い起こさせて下さるのです。私たちが生ま れる前から、神様が主イエス・キリストを通して、私たちのために何を語り、何を成し遂 げて下さったのかということを思い起こすのです。この言葉は、決して過去の言葉ではあ りません。死んだ言葉ではないです。今、生きて働いておられる主イエス・キリストが私 たちにして下さったことを聖霊なる神様を通して、知らせて下さるのです。しかも、この ことは私たちは忘れてはならないことであり、思い起こして人生の歩みをしていくものな のです。私たち自身が本当は神様に見捨てられるはずであったことを忘れていたからです 。このことは、私たちの命に関わることでした。それだから、自分自身が神様から離れる ことにおいて、つまり神様を信じなくても生きて行くことができると考えることの中で、 私たちが神様を知らずに生きていたことを、ここで思い起こすのです。そのことを思い起 こすことから主イエス・キリストを知ることにおいて、神様の恵みと救いを受け取ること ができるのです。まさしく、主イエスの御言葉によって私たちは生かされ続けるのです。 それだからこそ、ただ、私たちを助けるために、御言葉を聞いて生かされてるために、聖 霊が私たちと共におられて、私たちの中で生きて働いておられることを信じるだけなので す。たとえ、聖霊が働いてはおられないのではないかと思えたとしても、ただ聖霊を信じ て生きるだけなのです。いえ、聖霊を信じることも聖霊なる神様の力である助け、励まし 、慰めによって信じさせていただくということになるのです。

 お祈りを致します。主イエス・キリストの父なる御神様 私たちは神様の働きを見ることができないことがあ ります。主イエス・キリストが共にいて下さらないと思える時があります。けれども、そ の中においてでも、あなたは私たちに聖霊なる神様の導きを通して、神様を示し、イエス ・キリストを示して信じさせて下さっておられます。どうか、益々聖霊の力によって、主 イエスが私たちと共にいて下さって、慰めと助けを与えて下さっておられることを知るこ とができますように、お導きをお願い致します。なによりも、主イエスが私たちの外に、 内に、あるいはただ中に共に生きて働いて下さっていることに気づかせて下さって、生き る時、死ぬときにも永遠に主イエスと共に生きていくことができますように、お導き下さ い。また、絶えず御言葉を与え続けて下さいまして、忘れることなく受け入れていくこと ができますように。聖霊を信じることを私たちに与えて下さい。このお祈りを救い主であ る主イエス・キリストの御名によって、御前にお捧げ致します。アーメン

17.「教会を信ず」  

 イエス・キリストを信じて生きる人々は、キリスト者あるいはクリスチャンと呼ばれて います。そのキリスト者あるいはクリスチャンとなる人々は、教会生活をすることにおい て、つまり教会において神様を礼拝することにおいてしか呼び起こされないものです。い うならば、一人の人がキリスト者へと変えられていくことは、教会にやって来まして、神 様を礼拝し続けることから、神様を信じる信仰が呼び起こされるものです。従って、キリ ストの教会においてしか、イエス・キリストを信じて生きる信仰を持つことができないこ とになります。はっきりといえば、教会生活のない信仰生活はないということです。しか も、この教会生活こそが礼拝に生きる生活だということです。神様を礼拝することによっ てキリスト者として生かされているのです。厳しい言い方かもしれませんが、教会から離 れてしまうならば、いえ神様を礼拝しない生活であるならば、それは信仰を持って生かさ れていないということです。そもそも、私たちが洗礼を授けられてキリスト者へと変えら れていくということは、教会においてしか呼び起こされないものでしょう。もともと、こ の洗礼を受けるということは、イエス・キリストを信じて生かされていることを受け入れ ると同時に、教会の中に入ることを意味しているからです。教会に入会をしていくことに なります。それだから、ある教会においては、洗礼式と呼ばずにわざわざ洗礼入会式と名 乗ってところがあります。それに、私たちの教会においても信者や信徒と呼ぶよりも、教 会員と呼んでいるのはそのためなのです。教会に入会をした会員を教会員と呼んでいるの です。

  ところで、ある人の質問に「もし、クリスチャンになって、クリスチャンが嫌になった り、神様のことを信じられなくなったらクリスチャンを止めることができますか。」とい うものがありました。このことは、多くの人々が抱えている疑問なのかもしれません。そ れと同時に、私たちですら陥りやすい問題ではないでしょうか。そもそも信仰が呼び起こ されということが教会においてしか起こらないということを語ってきましたが、多くの人 々が思うことは私が神様のことを信じ込めばキリスト者になれると思い込んでいることで す。私の信仰ということを常に話題にするのです。けれども、本来は、あなたが信仰と思 い込んでいるもの、信念というものはどうでもいいということです。あなたが神様をどの ように信じているか、どのような理想を持って教会に入っていくのかは関係がないという ことがいえるのです。もともと、洗礼を受ける時には、教会が受け継いできた信仰の告白 に同意をして教会に入会していくからです。教会の信仰に同意して受け入れるということ です。つまり私の信念ではなく、教会が受け継いできた信仰を私自身の信仰として受け入 れて生きるということです。しかも、この教会の信仰というものは、神様から与えられな ければ受け入れることができないものです。神様を信じる心さえも神様から与えられて、 神様を信じて生きるということになるのです。それだからこそ、キリスト者が嫌になった ら、教会が嫌になったら勝手にキリスト者を止めてもいいということにはならないのです 。洗礼を受けてキリスト者になったとしたならば、いつまでもキリスト者のままなのです 。教会に入会をしたらならば、退会をすることができないということになるのです。死ぬ までも、いえ死んでからもキリスト者として生き続けるということになるのです。

  けれども、実際、教会というのは洗礼を受けた人々が呼び起こされていきますが、その 洗礼を受けた人達がすべて死ぬまで教会に留まるわけではありません。悲しいことですが 、洗礼を受けた後に、教会を去っていく人々がいるのです。どうして、教会から去ってい くのか。離れていくのか。様々な原因が考えられるものでしょう。理由があるかと思える のです。一つの原因は、教会に失望したからではないでしょうか。教会の誰々に、いえ長 老に、牧師に失望するからでしょう。いえ、教会を信用できなくなっていくからです。私 自身も、教会を信用できなくなり、洗礼を受けた直ぐに2年間教会から離れてしまった者 ですから、偉そうなことを語ることができません。それにしても、多くの人々が教会とい うものを、誤解して受け取っているのかもしれません。私たちの教会の礼拝においては、 使徒信条の言葉を信仰の告白としています。つまり、この使徒信条の言葉を受け入れて信 仰生活を送っているのです。恐らく、洗礼を受ける時には、使徒信条を含んでいます日本 基督教団の信仰告白を告白の言葉として誓約をしたと思うのです。「あなたは聖書に基づ き、日本基督教団信仰告白に言い表された信仰を告白しますか。」「告白します」という ようにです。いうならば、私たちの教会が属しています日本基督教団の信仰告白が聖書が 示している内容に基づくものであるならば、その中に含まれている使徒信条の言葉を基本 として信仰を生活を送っているのです。その使徒信条の最初においては、父なる神様のこ と、子であるイエス・キリストのことを礼拝において既に学びを深めてきました。父なる 神を信ず、その独り子である主イエス・キリストを信ずというようにです。そして、最後 に「聖霊を信ず」ということが告白されていきます。今日学びを深めています「教会」に ついてはその聖霊なる神様の項目として取り上げられているものです。「聖なる公同の教 会」というようにです。けれども、この教会のことは単なる聖霊なる神様のこととして告 白していきますけれども、ただ告白をするのではなく父なる神様を信じる、子であるイエ ス・キリストを信じる、聖霊を信じると同じように、教会を信じるということになるので す。「聖なる公同の教会」と告白する時に、信じて生きるということが付け加えられてい るのです。「われは教会を信じる」ということです。教会は、信じるべきものであり、い うならば信頼をおくもの、信用するものであることを礼拝の中で告白をしているのです。 それでは、教会を信じるということはどういうことなのでしょうか。いうならば、人間の 集まりである教会を信じて生きていくこと、教会を信用して生きるとはどういうことなの でしょうか。多くの人々が教会を信用できなくなる中で、教会生活に疲れを覚えていく中 で、教会を信じて生きることがどういうことなのかその意味をさぐっていかなければなら ないものでしょう。

  それで、今日は、使徒言行録の20章の17節からの物語を取り上げています。小見出 しに「エフェソの長老たちに別れを告げる」と記されていますように、この物語は使徒パ ウロがミレトスという港に立ち寄った時に、伝道の拠点を造っていましたエフェソの教会 の長老たちを呼び寄せて、別れの説教を語ったものでした。この物語は、使徒パウロの訣 別の説教と呼ばれていまして伝道者を志すものは特に知っておかなければならない聖書の 箇所だといわれているのです。しかも、ここに私たちの教会の姿が描かれているのです。 特に教会を信じるということがどういうことなのか、そもそも教会とは何か、教会の命に 関わることが使徒パウロによって指摘をされているのです。ご存じのように教会というも のは単なる建物ではありません。組織や制度というものでもありません。しかも、ひとり の伝道者がいるだけでそれで教会が成立するというものでもありません。教会は、いわゆ る人々の集まりです。しかしながら、好きなもの同志、気に入った者同志が、それこそ趣 味や興味の対象が同じ人々が集まってつくるものではありません。ましてや、何かの社会 運動や政治活動を支援するためのものでもありません。使徒言行録の2章において最初の 教会が誕生していく様子が描かれています。しかも、使徒言行録全体を読んでみますと、 そこから教会が増え続けていく姿が映し出されているのです。つまり、教会が成り立って いくには聖霊なる神様の力が働いていることに気づいていくのです。偉大な伝道者と呼ば れるようになった使徒パウロは、伝道旅行を重ねていく中でそれこそイエス・キリストの 救いの出来事をヨーロッパまで伝えていって伝道の拠点として教会を生み出していきまし た。ここに別れの説教をするために長老たちを呼び寄せたのもパウロが力を注いでいたエ フェソ教会の人々だったのです。けれども、パウロ自身はっきりとしていたことは、自分 自身の力で教会を形造り、人々をキリスト者にしたのではないということでした。常に背 後には主イエス・キリストの祝福と恵みがあるいは聖霊なる神様の力が働いていたからで した。それだからこそ、パウロは危険を省みても、人々に主イエスのことを救い主である と伝えていくことができたのです。教会の歴史の中で、もしパウロがいなかったのならこ こまて教会は発展しなかったであろうと言われますが、パウロ自身も神様の使者でしかな かったのです。それですから、パウロをあまりにも英雄視することから聖書が語る本質的 意味を見失ってしまうのかもしれません。

  なによりも、パウロ自身は、聖霊が告げて下さる通りに行動をしていただけでした。そ れですから、たとえ危険が迫っていたとしてもエルサレムへと帰っていかなければならな かったのです。もともと、このパウロはユダヤ教の熱心な信者でありました。しかも、復 活された主イエス・キリストに出会うまでは、教会の迫害者であり、キリスト者をいじめ にいじめぬいて、死刑にする命令までも出していたのです。それだから、今は、逆にキリ スト者に変わってしまって、主イエスの救いの出来事を伝える者となっていましたので、 熱心なユダヤ教の信者がいるエルサレムには、危険が潜んでいたのです。自分自身、殺さ れに行くようなものでありました。それでも、22節で「わたしは、霊に促されてエルサ レムにいきます。」とパウロが語っています。24節では「自分の決められた道を走りと おし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果 たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。」とまで語ること ができたのです。このことは、パウロの個人的な思いや考えではなく、聖霊の導きを信じ 、神様の御心を、御言葉を聞いていたからこそいえる言葉でありました。それにしても、 なぜ、エフェソの長老たちに別れを告げて、エルサレムに行かなければならないのか。未 練や自分がやってきたことに対して誇りや自慢というものはなかったのか。パウロ自身が 語る決定的なことは、自分自身が伝道して、力を注いで出来上がったエフェソの教会を自 分のものだとは考えていなかったことです。特に、28節でパウロが「聖霊は、神が御子 の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの 群れの監督者に任命なさったのです。」とエフェソ教会の長老たちに語っていることです 。「エフェソの教会は、あなたがたのものではない。神様のものだ。神様が御子であるイ エス・キリストの血をもって買い取ったものだ。神様のもの、神様ご自身のものである」 とパウロは強調をするのです。

  教会は、人間の手によって造られたのではありませんでした。神様がいえ主イエス・キ リストが聖霊をお送り下さることによって教会は誕生していったのでした。いうならば、 教会は神様が始められたものでありました。しかも、父なる神様が御子である要するに独 り子である主イエス・キリストを十字架に付けて血を流されるという尊い犠牲の上に成り 立っているのです。つまり、私たちひとりひとりをその御子イエス・キリストの十字架上 のあがないによって買い取って下さって私たちを教会の中に入れて下さったのです。私た ちが神様から離れて、神様を知らずに生きていくことがどんなに苦しいことなのか、悩ん で自由に生きることができない生活の中で、神様を憎み、人を憎み続け、どんなに人を傷 つけて生きていくのかという、その生活を向きなおして、神様に従っていく道を示すため には、イエス・キリストを十字架に付ける以外には方法がなかったということです。その ために、御子イエス・キリストによって生きることができるように神様を信じて生きる群 れである教会を私たちにお与えになったのです。というよりも、父なる神様の子どもとし て生きるように教会へと招いて下さっておられるのです。それだから、教会は単に建物で はなく、一人一人が主イエス・キリストを信じる群れとして神様のものとなっているとい うことです。教会は、決して人間のものではなく、神様のものなのです。牧師のものでも 、長老のものでもましてや教会員全体のものでもありません。神様のものです。それだか らこそ、「神の教会」ということをパウロは強調して語るのです。特に、それまでパウロ が伝道をして神様の働きによって出来上がった教会の人々に向けて手紙を送っています。 多くの手紙が新約聖書の中に取り上げられています。その中には、この物語に登場するエ フェソ教会にあてられた手紙がありました。

  けれども、私自身はコリントの教会を忘れることができません。このコリントの教会は 、道徳的にあるいは信仰的にも乱れに乱れていた教会でありました。それだから、パウロ 自身は、このコリント教会に向けた手紙には、厳しい言葉や怒りながら神様の裁きを語っ ている姿が写しだされています。私がこの教会に赴任する前、神学校を卒業する時、学長 からしばらくはコリントの信徒への手紙を連続して説教しないようにと釘を指されたので した。「パウロ自身の怒りを自分自身の怒りと捕らえて、教会のいやみや人々を裁きかね ないので、それこそ信頼関係ができた時に、説教を行いなさい」と助言をされたのでした 。しかしながら、パウロはどんなにみだれた教会であっても、どんなに教会らしくないよ うに見えたとしても、怒ることや腹を立てることがあったとしても「神の教会」というこ とを信じていたのでした。この手紙の最初に「コリントにある神の教会へ」と書き記され ているようにです。ということは、どのような教会であれ、神様が支配し、聖霊が働いて おられる神様のものである教会だということです。もちろん、この内灘教会が乱れに乱れ た教会であり、これでもキリスト者であるのかという人々が多く集まっていることを強調 しているのではありません。一人一人が教会とは誰のものであるのかということ、教会と は何かということを認識しておかなければやはりそこに誤解が生じていくのです。そのこ とから、人間の集まりである目に見える教会は駄目だと思って失望へと変わってしまうの です。嫌な人がいる、嫌なことをされるということで教会から離れていくことが実際に起 こっていくのです。それに、牧師もまた様々な試みや判断で教会が大きくなった時には、 自分自身の手柄で大きくなったと思い込んで、自分の教会のように考えてしまう危険があ ります。しかも、自分が牧師として仕えていた時に何人洗礼を受けたということばかり気 にするようになるのです。そのことから、「〜先生の教会」というようにその牧師の教会 でもあるように呼ばれることを望みますし、偉い人にでもなったかのように思えていくの です。牧師もいつの間にか教会を私物化し、理想だけを追い求めるということをするもの でしょう。これは、長老に対しても、教会員に対してもいえることなのです。

  そのために、パウロが29節から指摘するように「わたしが去った後に、残忍な狼ども のがあなたがたのところへ入り込んで来て群れを荒らすことが、わたしには分かっていま す。また、あなたがた自身の中からも、邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする者が現 れます。」と語っています。外からまるで狼のような敵が襲ってきて教会を壊していくと いうことです。それだけでなく、もっと危険なことには教会の中から違う思想つまり主イ エス・キリストの福音とは違うものによって救いを得ようとするような人々によって教会 が壊される危険が潜んでいるのです。考えてみますと、教会が神様のものであるならば、 たとえ牧師が変わったとしても、教会の中にどのようなことがあったとしても教会は立ち 続けていくものです。確かに、教会においては信仰熱心と思えた人が教会から去っていく ことがあるでしょう。いつの間にか礼拝に出席されないようになった人々がいるものでし ょう。病気などで出席出来なくなった方々は別としてあらゆる理由で出席されないように なったと思われるのです。けれども、やはり教会というものが信じられるものであるなら ばどのようなことがあったとしても、たとえ別の教会において結びついていくことができ ていくものです。本来、教会が神様のものであると考えるならば、人に左右されることな く救いに預かって信仰の歩みをされると思われるです。確かに、教会に連なっている方々 も、牧師も長老も反省し、悔い改めなければならないことがあるかもしれません。けれど も、本当に救われたいと望んでいるならば、どのようなことがあったとしても礼拝への招 きに答えていくことができるのではないでしょうか。それでも、無理やり礼拝へと連れて 来るということはできませんし、私自身も二年間教会から離れたことがありますので、無 理強いするということはできものものでしょう。けれども、思い出してもらいたいのです 。キリスト者になろうと決断した時のことをです。救われた喜びから洗礼を受けたことを です。それに、いつも主イエス・キリストが共にいて下さって、守り導いて下さっている ことをです。

  実は、キリスト者として選ばれた者はすでに知っているのです。礼拝によって神様を賛 美し、御言葉を受け入れて過ごさなければ本当は豊かに生きられないことをです。今の生 活において、特に礼拝から遠ざかってしまうと、魂の危機に陥っていることさえも考えら れずに、身も心も頑になって鈍感になっていきます。もちろん、救われるための礼拝では ありません。礼拝は救いの条件ではありません。救われていることを受け入れているから こそ神様を礼拝するようになっていくのです。その礼拝が中心に行われている教会も信じ て生きることができるようになっていくのです。パウロはエフェソ教会の長老たちに告げ ます。31節、32節「だから、わたしが三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流 して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい。そして今、神とその恵みの 言葉とにあなたがたをゆだねます。」パウロは涙を流す程に主イエスの福音のこと、すな わち「イエスというお方が主であること」「私たちのために主イエスが十字架に掛かって 下さって罪の贖い、ゆるしを与えて下さったこと」「死を滅ぼすために三日後蘇って下さ り、今も生きて働いて下さって共にいてくださり、復活に生きる希望を与えられているこ と、永遠の命を受け継ぐこと」そのことを中心に説き明かしをしてきたのです。それだか らこそ、主イエスの御言葉を受け入れて、すなわち聖書の言葉に生かされて歩んで行くこ とができるように神様にお委ねをするということです。恐らく、二度と会うことのない人 々に向けてパウロ自身「神に委ねます」と語ったのです。新しく始まったこの一週間。私 たちにどのようなことが待っているのかそれはわかりません。もしかしたら、死ぬような ことがあるかもしれません。それだから、礼拝は、もう二度と会うことのない人々に向け て行われているようなものです。けれども、その中でも確かに主イエスの救いがあること を信じて信仰の歩みをしてくのです。それだからこそ、教会を信じて生きること、私たち が教会生活を続けていくことは最終的には神様にお委ねすることになっていくのです。た だ、教会を信じ、神様に信頼して自分自身を神様に委ねることから新しい生活が再び始ま っていくからです。

 お祈りを致します。主イエス・キリストの父なる御神様 あなたから 信仰をいただき、教会の群れとして加えられている私たちですが、時には、教会に対して 、不信を抱くことがあります。疲れを覚えてしまうことがあります。けれども、そのよう な私たちの頑な心を打ち破るように、御子である主イエス・キリストが十字架において血 を流してくださり、教会を呼び起こして下さいました。私たちに恵みと祝福を与え、贖い 出して、救って下さいました。どうか、神様にすべてをお委ねして神様のものである教会 を信じて生かされていくことができますように、お導きをお願い致します。なによりも、 あなたから主イエスを信じる信仰を与えられて、洗礼を受けて教会へと迎え入れられてい ることを思い起こして新しく信仰の歩みをするものとさせて下さい。一人でも多くの方々 をこの教会へと呼び集めて下さって、洗礼を受ける決断を持って、教会を信じて生きる群 れの一人となることができますように、お導き下さい。すべてを神様の御手に委ねます。 このお祈りを教会の頭である主イエス・キリストの御名によって、御前にお捧げ致します。アーメン

18.「聖なる公同の教会」  

  先日の3月7日の金曜日は、世界祈祷日でした。この日、石川にありますカトリックや プロテスタントの様々な教派に属している女性の方々が一同に集まって神様を礼拝し、祈 りを共にすることができました。このように一年に一回ではありますけれども、カトリッ クとプロテスタントの様々な教派が集まって一緒に礼拝を捧げるということはこれは画期 的なことです。ご存じのようにプロテスタント教会は、カトリック教会より生み出された ものです。しかも、中世の時代においてローマ・カトリックのやり方に否を唱えたその当 時修道士であったルターが抗議つまりプロテストを行ったことから宗教改革が起こり、プ ロテスタント教会が生み出されていきました。しかし、ルターはあえてプロテスタント教 会を造るために、いわゆるカトリック教会から分裂させるために宗教改革を行ったわけで はありませんでした。ただ、ルターは聖書を読む中で、信仰を考える中で、神様の正さと は何かということを追い求めていった結果が、宗教改革を起こすものとなっていったので す。この後、カルヴァンという私たちの改革派教会の理念や神学の基礎を形作った人の影 響によって、益々プロテスタント教会を生み出す宗教改革が盛んになっていくのでした。 その後、カトリック教会とプロテスタント教会との間に血を流すような争いが起こってい きました。今でも、争いを行っているところもあります。しかし、30年前にようやくカ トリックとプロテスタント教会との歩み寄りをしたのです。いうならば、仲直りをしまし て、お互いを認めあおうということをしたのです。そのようなことからカトリックとプロ テスタントの諸教会が合同になって祈り、神様に礼拝を捧げことができるということは幸 いなことなのかもしれません。特に、今年の石川地区におけます世界祈祷日の会場はカト リック金沢教会の会堂でありました。それに、カトリックの神父の説教で礼拝を守ること ができたことも、大変意義深いものがありました。

  さて、私たちはこの礼拝において使徒信条に言い表されている一つ一つの言葉について 意味を探り求めてきました。この使徒信条は、最初の教会が出来上がっていく中で生み出 された信仰の告白です。まだ、カトリックやプロテスタントが分かれるずっと前、いえ、 東の教会と呼ばれている正教会もまだ誕生していない中で教会の中で告白されていた一番 古い信仰告白あるいは信条と呼ばれているものでした。いうならば、この使徒信条は、教 会の教派の枠を越えまして、全世界の教会において、信仰をあるいは神様とは誰なのかと いうことを言い表している基本的な信仰告白であるということです。もちろん、この使徒 信条は、聖書の言葉を基礎として生み出されました。聖書の言葉そのもののエッセンスが 凝縮されて詰まっているものです。それですから、この使徒信条は、信仰教育におきまし て、あるいは洗礼を受けるための準備期間として用いられてきました。それこそ、この使 徒信条の言葉を信じ受け入れた時にこそ、主イエスを信じて生きるしるしである洗礼を授 けることをしていたのです。それだから、私たちの教会においてもこの使徒信条が信仰の 事柄を簡潔に言い表しているということで、毎週礼拝の中で告白しているのです。それで 、今日は、「聖なる公同の教会」という言葉をこの礼拝において学ぼうとしております。 厳密に言いますと「聖なる公同の教会を信じる」ということです。この教会という言葉は 、父なる神様、子である神様であるイエス・キリストを信じることを言い表した後に、聖 霊なる神様を信じる項目の中に入れられているものです。それだから教会は聖霊なる神様 と結びつけて考えなければならないものでありまして、聖霊なる神様を信じると共に教会 を信じるということがいえるものでしょう。

  特に、教会というものは、建物や会堂を表しているのではなく、集団や共同体表してい るものです。いわゆる主イエスを信じる群れで造る人々のことを教会と呼んでいるのです 。教会は、人間の集まりであるということがいえるかもしれません。けれども、しばしば 人間の集まりである教会においてつまずきを覚えていくことがあります。会社や学校ある いは家庭において人間関係に疲れてを覚えて、教会にやって来たけれども、またここにお いても人間関係があるということで尚更煩わしを覚えるかもしれません。それこそ、教会 に中においても居心地が悪くなって、こんなとこ信用できるか、教会なんか信じることが できるかと思われることがあるかもしれません。「その中において、教会にやって来てい る人々はお互いに信用することができるのだ。世間の人が考えている人間の集まりとは違 うのだということがどうして言えるのか」そういう思いにも捕らわれている方々もいるの かもしれません。この「聖なる公同の教会」の公同と訳されている言葉は、そのままの言 葉で表すならば「カトリック」ということです。つまり、ここで言い表されている言葉は 、教会がカトリックであることを信じるということです。しかし、私たちはカトリック教 会の教会員ではありません。それでも、私たちの教会も、もともとはカトリックでありま した。このカトリックという言葉は、普遍的ということを意味していますし、全体として という意味があります。いうならば、教会が全体としてひとつであるということです。国 や民族の違いを越えて、あるいは階級やすべての違いを越えて、教会がひとつであること を信じるということが公同の教会を信じるということです。では、教会がどこにおいて全 体としてひとつであるといえるのでしょうか。なによりも、それは私たちがひとりの神様 を信じているからです。教会は、ひとりの神様の働きによって始まったからでした。

  この使徒信条が出来上がっていった頃の教会はそれこそカトリック教会と呼ばれていま した。教会は広がりを持つけれども、同じ神様を信じることにおいては一つであり、その 神様の働きによって人々が生かされているからです。先程読んで下さいましたコリントの 信徒への手紙一の12章12節、13節でこの手紙を書いたパウロはコリントの教会の人 々に向けてこのように語っています。「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべて の部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。つまり、 一つの霊によって、私たちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろう と自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませ てもらったのです。」少し前の12章3節においては「聖霊によらなければ、だれも『イ エスは主である』とは言えないのです。」と語っています。つまり、キリスト者になって いく人々は、聖霊の働きによって、イエス・キリストを救い主と告白し、洗礼を受けて、 一つの体である教会に入れられていくということです。それが、どこの教会であったとし ても、そこは一人の神様が働いておられ、主イエスによって救われ信じている人々で造ら れているのです。この一つの体とは、27節で示されていますように、イエス・キリスト の体ということです。イエス・キリストの体である教会に私たち一人一人が入れられてい るのです。それですから、確かに教会は人間の集まりではありますが、聖霊なる神様が働 き、神様そのものが御業をなさっておられるイエス・キリストの体ということがいえるか もしれません。それこそ教会においては人間関係が無視されるわけではありませんし、嫌 なこと気に入らないことがでてくるかもしれませんが、しかし、なによりもイエス・キリ ストが中心にいて下さるところが教会ということになるのです。教会は、神様が私たちに 与えて下さったものであり、イエス・キリストが共にいて下さるキリストの体であるとい うことです。しかもこのことを受け入れるということは、この私が自分でこの教会を選び とったのではく、神様に選ばれて、神様に召されて、呼び出されてこの教会で生きること をゆるされていることになっていくのです。しかも、まずこのことを信じることが公同の 教会を信じることへとつなっがっていくのです。

  しかしながら教会が一致して同じ神様を信じていきながらも、残念ながら教会の歴史の 中で、しばしば争いを繰り返してきました。先程語りましたようにカトリック教会とプロ テスンタト教会だけの争いだけでなく、プロテスタントの諸教会の間においても争いをし てきたのです。今現在でも、教会の中でも争いが起こっているのです。いえ、教会の中に も闘いが存在しているのです。それこそ、ルターやカルヴァンという人々が宗教改革なん かを起こしたことから、教会の中に分裂が生まれていきました。折角公同であるカトリッ ク教会として全世界の一つの教会であったものが、これらの人々のお蔭でばらばらになっ たのです。けれども、今現在、プロテスタント教会が数限りなく分かれていったとしても 、教会はひとつであることを信じ続けるのです。そもそも宗教改革を行った人々は、教会 が一つであることを信じることを止めて、これから自分たちだけの信じるものはこれだと 考えていたのではありませんでした。自分たちの教会が真実にひとつであることを願って 、そのことを信じることにおいて闘いが生まれていったのです。私たちの教会においても なかなかお互いが一致しないことを思わされます。それはそうでしょう。私たち一人一人 は違う人間だからです。性格も違えば、家庭環境も違いますし、生まれた場所や時代さえ も違うものです。職業も違えば、年齢も違う。考え方も違いますし、一人一人が抱えてい る問題や悩みも違うということです。それだから、とてもお互いが一致しないような個性 豊かな違う人間が教会に集ってきているのです。しかし、それは、何をするためでしょう か。それは、主イエスを礼拝し、主イエス・キリストに仕えるために、教会に呼び集めれ ているのです。もし、人間的な気持ちだけ考えるならば、お互いに非常に違いますし、共 通しているものはないといえるでしょう。ただ、聖霊の働きによって、同じ神様を礼拝し 、同じ信仰を持って生かされているということだけなのです。いうならば、神様の御言葉 によって、聖書の言葉によって私たちが生かされて信仰の歩みをしているのです。それだ から、主イエスによって救われていることから、神様の御言葉を聞き続けて礼拝する時に こそお互いが一致していことがはっきりとわかっていくのです。

  実は、新約聖書そのものが闘いの中で生まれていった書物でありました。今日取り上げ ましたパウロの手紙でありますコリント教会の現実をみてもそれがよくわかるものだと思 えるのです。この教会がありましたコリントという町は倫理的、道徳的にみだれた人々で 造られていました。それだけでなく、コリントはギリシアの町でありまして人間主義に陥 り、人間の知恵や知識こそが最高だと思われていたのです。その人間を中心にした思想が 教会の中にも影響を与えていたのでした。いわゆる人間の理性や知恵によって神様のこと を判断し、いつの間にか自分たちの考え方が正しいと思い込んで、イエス・キリストが示 す福音とは違うものを信じようとしていたのでした。それに、イエス・キリストを信じる よりも、自分たちの思い描く神様を考えて、それこそ自分のことを信じて生きようと考え て分裂が起こっていたのです。それこそ、争いが絶え間なく続いていたのです。そのよう な教会にパウロはあえて闘いを挑んだのです。けれども、パウロは自分の主張こそが正し いということを用いずに、いつも神様の正しさ、聖書の御言葉を持って語ることを基本と していました。主イエス・キリストの十字架によって救われて、主イエス・キリストが復 活なされたことによって生かされていることをはっきりと語らなければならなかったので す。これこそが、同じ信仰に立ち、同じ神様を信じることになる、まさしく公同の教会だ からです。それだから、たとえみだれにみだれていた教会であったとしても、意見が食い 違って争いが起こるような事態になったとしてもパウロはそこが教会だということを認め ていたのです。この手紙をパウロが送る時に1章2節で「コリントにある神の教会へ」と 書いているようにです。どのような人々がいたとしても、教会は主イエスに呼び出された 群れであり、神様を信じる共同体であり、なによりも主イエス・キリストの体を形成して いるものであるということです。

  そのことからパウロは教会というものを、人間のからだにたとえながら12章14節か ら丁寧に説明をするのです。人間のからだとそれぞれにくっついている部分との関係につ いて詳しく語ります。その内容は、足が手ではないとか、耳が目ではないというように、 まるで子どもに話すようにたとえで説明されています。さらに、体の部分が手であれ、足 であれ、「お前は要らない」とは言えないということから、それぞれの部分がかけがえの ないものとして説明しています。体に属している部分が一つ一つ大切なものであり、よき 働きをしているということです。これと同じように、それぞれ違った人々によって造られ ている教会に属している人々もまた、一人一人がかけがえのない人であるということにな ります。それにしても、この体の中には、22節、23節で指摘されていますように、弱 く見える部分や恰好が悪い部分、見劣りがする部分があるということです。このたとえに よると、教会に集う人々は、みんなが同じように強くて、恰好が良く立派ではないという ことになります。このことは、主イエスを信じて生活をしている人々の中には、弱い人、 恰好が悪い人、見劣りがする人がいるということです。いわゆる教会を形造っている人々 の中には弱い人々が存在するということになります。この弱い人々ということは、当然な がら信仰が弱いということです。イエス・キリストを信じて生きることにおいて弱さを持 っているということです。このことは、すぐに神様から離れたり、礼拝なんかしなくても いいという思いを持って神様を中心にした生活をしない弱さをもっているということでし ょう。この信仰の弱さは、不信仰ということに結びつくものです。しかも、不信者という 言い方がなされるかもしれません。それでは、どのような基準で信仰が弱いと言えるので しょうか。だれが、どのような人が信仰の弱さを持っているのでしょうか。

  ある有名な無教会の指導者であった人がある本の中に「信者、不信者を見分ける法」と いう項目で書いています。その最初の出だしは「洗礼を受けた者、必ずしも信者ではない 、立派な牧師から立派な洗礼を受け、聖書を読み、教会の政治を語り、殊に祈祷などまこ とに上手であるが、その思うところ、なすところにおいて、立派な不信者は沢山いる。だ いたい牧師だからと言って油断はできない。その奉ずる信仰至って堅固、その雄弁全会を 圧するに足りて、しかも信者でない牧師がいると思われる」と語られていました。それで は、一体信者、不信者の区別をどこでするのか。「それは、聖書を読むこと、祈ること、 他人の悪事を語らぬこと、人を哀れむこと、最後に働くこと」と書かれています。この方 にとっては、まるで牧師は怠け者の代表のように書いています。このような書物を読むと 、確かに面白いし、興味を持つものでしょうが、教会の中で人を見る時に、この人は信者 か不信者かを見比べて、この人の信仰はあやしい、この牧師もおかしいのではないかと疑 ってしまい、逆に人を裁くことになりかねないと思えるのです。教会において、人を陥れ たり、相手を非難したり、裁きを伴うということは、まさに自分がさぞ信仰があって、信 仰に熱心になっていると思えている時だと思えるのです。あるいは、この人こそがまこと の信仰者だと思い込んで、自分と比較をしている時ではないでしょうか。ある説教者が「 イエス・キリストを信じる信仰の群れである教会の中には、弱い者がなくてはならないの である」と語りました。それは、自分が弱い者であることを受け入れる時にこそ、弱い人 々の存在を認めることができるからです。この手紙を書いたパウロは、コリントの信徒へ の手紙ニのほうの12章9節で「喜んで自分の弱さを誇る」と言いました。キリスト者は 、自分の弱さを知った時に、はじめて神様の恵みを知ることができるのです。自分が弱い からこそ、主イエスの救いなしには生きられないと思えていくのです。

  このことから、パウロはさらに弱い人について22節の「それどころか、体の中でほか よりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。」という言葉から懇切丁寧に説明を加 えます。「もっと恰好よく」とか「もっと見栄えよく」とか「いっそう引き立たせ」とい うように、信仰の弱い人が教会の中にいる必要性や弱さに対する配慮がそこに示されてい るのです。このように、教会の中で、信仰の弱い人々の存在が無視されずに、大切にされ ていることは、私たちにとっては大きな慰めとなっていくのです。なぜならば、私たちは 誰でもが弱いからです。信仰の弱さを持っているからです。神様から離れたり、あるいは 教会を信じないという信仰の根源に関わる弱さを持っているからです。パウロは、25節 で「からだに分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合う」ためであると語り、26節で は「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべ の部分が共に喜ぶ」と語っています。それだから、この教会が主イエス・キリストによっ て、ひとつのからだにさせられているということは、お互いに配慮しながら、愛し合うこ とができるからだということです。それは、なによりも私たち一人一人が、主イエスによ って救われ愛されている一人であるからです。イエス・キリストの十字架によって罪それ こそ不信仰や不信者の烙印を押されそうなことに対して許しを与えて下さっているからで す。さらに主イエスの復活によって新しく生きることができたかけがえのない私という一 人の人間がこの教会に入れられているからです。そのことから、パウロは27節で「あな たがたはキリストの体であり、また一人一人はその部分です。」と語るのです。このこと から、イエス・キリストによって救われたことを受入れ洗礼を受けたものが、この教会に 関わっていくのです。それだから「キリストの体」と呼ばれているところに入れられて、 教会を造らされているこの恵みと祝福に満ちている事実を信じていくのです。

  確かに、洗礼を受けたキリスト者にはいろいろな人々がいます。教会から離れていった 者、教会が嫌になった者、あるいは熱心に信仰生活を送っている方々もいるでしょう。そ れこそ、不信仰だと言われてもしょうがないような人々、牧師もいるかもしれません。た だ、私たちの側で誰が不信仰だと決めつけることはできないのです。最終的には神様がそ の判断をなさるということです。それだから、私たちの側で、不信者になってしまうので はないかと不安をあわるのではなく、こんな私でさえもイエス・キリストの体である教会 で生かされていることを信じて生きるということです。それこそ、教会は、私たちが建て たものではなく、私たちが造ったものではなく、私たちが支配しているのではないからで す。使徒信条は、「合同の教会」という言葉の前に「聖なる」という言葉を付け加えてい ます。このことは、聖なるものの教会ということです。聖とは清さを表す言葉です。しか し、私たちの側の清さを表しているのではなく、神様の清さを表しているのです。もとも と、私たち一人一人は清くはなかったのです。清さを失ったのです。それだから、イエス ・キリストに結びつくことにおいて清くされていくのです。聖なるものとされていくとい うことです。それですから、私たち一人一人がそれこそ清くない者、信仰に弱い者、神様 からすぐに離れてしまう者、不信者だったことを思い起こして、キリストの体なる教会に おいて自分の弱さを受け入れると同時に、人の弱さを受け入れながら、イエス・キリスト に結びついて教会を信じて信仰の歩みをしていきたいと望むのです。この教会こそが、主 イエス・キリストが生きて働き、どのような時にも共にいて下さる「聖なる公同の教会」 だからです。

  お祈りを致します。主イエス・キリストの父なる御神様 私たちはあなたの 救いの中にあって教会の中に入れられて、教会を信じて生きているものです。けれども、 私たちはお互いに一致することがなく、不信仰に陥ってしまう弱さを持っています。それ でも、ただあなたの御子であるイエス・キリストの十字架と復活の福音によって生かされ ているに過ぎない私たちです。どうか、この教会が聖なる公同の教会として、イエス・キ リストの体として信じきることができますように。この教会に生きる一人一人を生かして 下さいますように。それにお互いに弱い部分を配慮しながら、弱さを認め受け入れて、イ エス・キリストに結びついて歩むものとさせて下さい。一人一人を励まし、恵みと祝福、 あわれみと慰めを与えて下さいますように、どうぞお願い致します。この祈りを教会の頭であられる主イエスキリストの御名によって御前にお捧げ致します。アーメン

19.「聖徒の交わり」  

 キリトス教や教会においては、そこで使われる独特の言葉があります。いわゆるキリト ス教用語、あるいは教会用語として使われている言葉です。教会での生活あるいは礼拝生 活をしていく前までは、知らなかった、理解することができなかった専門の言葉がしばら く礼拝の生活をするとある程度は馴染みやすい言葉となっていくものでしょう。それにし ても、聖書に触れる前あるいは教会にやって来る前からもう既に日本語として市民権を持 っている教会用語やキリスト教用語もあります。いわゆる日常用語として使われている言 葉であり、キリスト教が広がっていく中で定着していった言葉です。たとえば愛や西暦あ るいは教会という言葉を使ったとしても多くの人々が理解することができる言葉だと思わ れるのです。それに対して、あまり日常の中では使われないし、それこそ学ばなければ理 解できない言葉があります。一つは聖霊という言葉ではないでしょうか。北陸学院の短大 といういわゆるミッションスクールにおいて聖書やキリスト教に馴染んでいると思われて いるところでもこの聖霊という漢字を書く時に妖精の精を使って精霊というように理解し ている学生がいました。それだけに、特殊な教会用語は何度も繰り返しながら学ばなけれ ば自分自身にとっての日常の言葉とはならないかと思えるのです。特に、しばらく使徒信 条の言葉を学びながら今日示されている言葉が「聖徒の交わりを信ず」という言葉です。 この言葉そのものが教会で使われる独特な表現なのかもしれません。それこそ、初めて礼 拝にやって来まして「聖徒の交わりを信ず」と言われても何を語っているのかよくわから ないかと思えていくものです。

  さて、今日学んでいきます使徒信条の「聖徒の交わり」と訳されています言葉は、原文 では「聖なるものによって作られる交わり」と表現されているものです。つまり、聖なる もの、これは人と物という二つの意味があります。聖なる人々によって作られる交わりと いうこととと聖なる物質によって作られる交わりということです。しかし、日本語におい ては聖なる者たちの交わりという言葉で聖徒と教会用語として訳されています。聖徒と表 現されている言葉はもっとはっきりといえば、聖人と言ってもいいかと思います。使徒信 条においては「聖なる公同の教会、聖徒の交わり」続いていますので、教会においての説 明がなされているのです。つまり教会は、聖人の共同体であるということです。この内灘 教会に集まっている人々も聖人の集まりであると言ってもいいでしょう。その聖人の集ま りである人々が形作る交わりを信じるということです。けれども、この聖人という言葉に 私たちは戸惑いを覚えるのではないでしょうか。普通、聖人君主という言い方がなされま す。「あの人は聖人君主のような人だ」時には、皮肉にも使われることがあるでしょう。 誰もが喜んでするようないたずらはしないとか、違反やくだらい話はしないとか、いうな らば、真面目にきちんとしていて、身なりも立派でいて、人の陰口を言わないとか人に親 切にするというイメージがあるものです。聖人というものは、いわゆる品行方正と結びつ いくものだと考えられます。それですから、多くの人々が私は品行方正には生きることが できないからとてもキリスト者にはなれないと思い込んでいるものです。しかも、キリス ト者同志であったとしてもあの人は品行方正ではないから、とても付き合うことができな い、こんな人は排除してしまったらいいのではないかという思いにさらされるものでしょ う。けれども、使徒信条が語り、私たちが告白している言葉は絵に書いた餅のような理想 を追求するものではないのです。ここではっきりと教会の中で生きる一人一人は、聖なる 者として生きているということです。いえ、自分自身が聖なる者であることを信じて生き るということになるのです。

  それでは、本来、聖徒つまり聖なる者として生きるということはどういうことなのでし ょうか。今日取り上げていますローマの信徒への手紙12章1節、2節で「こういうわけ で、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖な る生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。あなた がたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていきだき、何 が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえ るようになりなさい。」と語られています。ここに、聖なる者として生きる生き方が具体 的に語られています。それは、自分の体を神様に喜ばれるものとして、しかもいけにえと してつまり犠牲として献げなさいということです。ここだけを読み取っていきますと、や はり聖なる者として生きることは何か自分を犠牲にして、つまり自己犠牲をして生きなけ ればならないのかと思われるかもしれません。いうならば、自分自身だけが悟りかなにか を開いて、聖なる者として生きなければならないと考えるものでしょう。しかも、聖書が 続けて示す言葉である「この世に倣ってはならない」とか「心を新たにする」とか「自分 を変える」とか「完全なこと」という言葉から尚更、自分自身でなんとか聖なる者になっ て、聖なる者として生きる生き方を確保したり、努力をしなければならないのではないか と考えるのではないでしょうか。そのことから、うっかりするとこの世の中はしょうがい ないものだ、今現実にアメリカとイラクが戦争状態にあるようにすぐに人は争ってしまう から、せめて自分だけは聖なる者として聖人として生きなければならないと思い込んでし まうものです。そのことから、聖なる者として生きるということ、聖人というものは、ま わりのこの世である俗なる世界あるいは罪の世界に生きる人々から自分だけ抜け出して、 聖なる世界に出ていって、生きなければならないと考えるのではないでしょうか。

  ところで今日取り上げています聖書であるローマの信徒への手紙を書いたのはパウロと いう人物でありました。このパウロは、もともとはキリストの教会を迫害していた人物で ありました。いえ、キリスト者を迫害し、イエス・キリストそのものを嫌い、憎み続けて いた人物でした。いうならば、パウロ自身は何もキリトス者を迫害することやイエス・キ リストを憎み続けることが悪いことであると考えていたのではなく、むしろ自分こそは聖 なる者として、善いことをしていると思って行っていたのです。自分たけが聖なる者とし て生きていると思い込むことから教会を迫害していたのです。いわゆる神様に仕え、神様 に献身していると思い込んで熱心になっていたのです。けれども、このパウロは復活され たイエス・キリストに出会うことによって、圧倒的にそれまでの生活が変えられてしまっ たのです。イエス・キリストの恵みによって生かされるキリスト者として生まれ変わった のです。それだから、そのイエス・キリストの恵みのことをすべての人々に語らずにはお られなかったのです。このローマの信徒への手紙はイエス・キリストの恵みと祝福に満ち ている手紙でありました。特に、このローマの信徒への手紙は、これから行きたいと願っ ている教会に向けて語られた自己紹介の手紙だと言われています。しかし、その中には自 分の主張ばかりを語っているのでなく、イエス・キリストに捕らえられた者として、その キリストの福音の真理についてのことを語り尽くしているのです。この福音とは、神様が 私たちに与えて下さる喜びの知らせということです。しかも、なによりも、この手紙の中 心に描かれていることは、信仰によって義とされるということです。このことは、イエス ・キリストを信じることから正しいものとさせられるということです。いうならば、イエ ス・キリストの恵みと祝福を信じ受け入れることから聖なる者とさせられるということに なります。決して、このことは私たちが良い行いをしたからというものではないのです。 私たちが品行方正に生きようとか、聖なる者にならなければならないと考えて、聖人とな るということではないのです。

  実は、私たちの側には聖なる者になる根拠や条件はないのです。いえ、むしろ聖なる者 になる聖人になることから離れてしまった。既に私たち自身で聖であること、聖さを失っ たということが考えられるのです。それですから、パウロ自身は自分が聖でないことを自 覚したのです。イエス・キリストを知ることによって、自分が聖なる者ではないことを知 ることができたということがいえるでしょう。そもそも、キリスト者として生きることが できない、神様のことを信じて生きられないと考えている人々は、自分たちこそが聖なる 者であると思い込んでいるのです。この場合の聖なる者とは、自分が正しいということで す。それはそうでしょう。もし、私は聖人ではないという人々に向かって、「それはそう ですね。あなたは、聖人でもなんでもないですね。不真面目に生きて、何も一生懸命に生 きていない」そんなことを言えば誰だって怒りだしますし、否定するのではないかと思え るのです。そこまでは悪くはないし、そんな生き方はしてはいないというようにです。し かし、そのことは自分の聖なる者としているに過ぎないということになります。それです から、あえて聖人となる道があるとするならば、条件があるとするならば、それはイエス ・キリストを知るということです。イエス・キリストがこの私のために、神様から離れる 思い、神様と人とを憎む傾向にある罪から救われていることを知った時にこそ、言い換え るならば信じて受け入れた時にこそ私たちは聖人となっていることを自覚するということ です。いえ、むしろ主イエス・キリストの救いは、既にあの十字架に付いて下さった時に 起こっていたのです。ただ、それを私たちは信じさせていただく。ただ、受け入れて洗礼 を受ける決断をすればいいということです。それだから、パウロは12章1節で「神の憐 れみによってあなたがたに勧めます」と「神の憐れみ」を条件に付けて語りはじめるので す。この「憐れみ」という言葉は、心の苦しみ、苦しみ中で憐れんで下さることを意味し ています。つまり私たちの苦しみ悩みを共にしてくださることによってということです。 この神の憐れみこそが、イエス・キリストの十字架の苦しみによって私たちに救いを与え て下さったことです。それですから、パウロは私たちを救って下さった神様の恵みによっ て勧めをなしているのです。

  しかも、3節においては「わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言 います」とパウロはこのことを言い換えて語っています。この恵みによってということは 、恵みを通してという意味です。恵みを通り抜けて、イエス・キリストの恵みを通してあ なたがた一人一人に言いますということです。しかも、原文ではすべて例外なく、一人一 人に訴えて語る意味が強調されています。例外なくすべての人々に訴えたいとパウロは語 っているのです。なぜならば、どの人も皆、私が受けている恵みを受けている。主イエス ・キリストの救いの恵みによって生かされているではないかと語るのです。それだから、 主イエス・キリストの救いの恵みによっての聖さに生きてほしいと訴えているのです。こ れは勧めの言葉と同じですけれども、励ましの言葉でもあるということです。しかしなが ら、このことは、決してパウロが強制したり、しっかりしろと言って命じているのではあ りません。むしろ、パウロは主イエス・キリストによって救われていることから、恵みを 与えられている者に向かって慰めの言葉を語っているのです。特にキリストの教会が語っ ている「聖なる」ということは、神様のものとなるということです。イエス・キリストの ものになるということを意味しています。それですから、イエス・キリストに結びつくこ とによって、聖人となるということなのです。言い換えるならば、イエス・キリストなし には私たちは聖人と成り得ないということです。どうかすると、私たちはイエス・キリス トのことは別に於いて、一人一人が持っている性格や性質あるいは生活環境によって、あ の人は聖人だということを考えるのではないでしょうか。よい性格に生まれ変わった、こ れからよい行いをするようになったことから自分がまるで聖なる者として清められたと思 い込むのです。そのために、人間が考えるよい行いをしなくなったら、キリスト者として あるいは教会では生きてはいけないと勘違いしていくのではないでしょうか。

 それこそ、教会は「いい人の集まりである」ということを考えていくものです。いい人 の集まりが聖なる教会であり、聖徒つまり聖なる者が集っているところというようにです 。このことは、教会での生活もまた学校や会社あるいは家庭での生活の延長と考えている のではないかと思えるのです。つまり、いつもいい子でいなければ神様の恵みや祝福がな いと思っていることです。私自身も友人知人に対して、あるいは子どもに対して「いい子 、いい人であること」を願って望過ちを犯すものです。そのために、あんなことをしてそ れでもクリスチャンなのか、あの子は駄目だというように思って裁きの対象にしてしまう ということになります。そのようなことから、教会においてキリスト者として生きる時に 、聖なる者である人間になったと思い込まなければならない。いい子の振りをして、いい 人であるようにお芝居をしなければならないということです。そこで、パウロは聖なる者 の生活がどのように作られていくのかを3節後半で「自分を過大に評価をしてはなりませ ん。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべき です。」と語っています。聖なる者の生き方は、自分自身を評価することです。ただし、 神様から与えられた恵みによって、与えられた信仰によって自分自身の正さを考えて、イ エス・キリストの恵みに生かされている自分自身をしっかりと受け入れるということです 。信仰に生きること、聖なる者として生きていくことは、これは主イエスから与えられな ければ受け取ることができないことだからです。しかも、信仰に生きるとか、聖なる者と して生きる生き方を形作っていくには、教会においてしかできないのです。いうならば、 教会が行っている礼拝においてしか養われていくことができませんし、聖なる者の共同体 を作っていくことにはならないのです。つまり、たったひとりでは聖なる者となることは できない。聖なる者であること、聖人であるということは、むしろ他者と共に、隣人と共 に生きることにらって成り立つのです。

  これが、交わりを生み出していくということになります。従ってその主イエス・キリス トによって聖なる者とさせられた教会において私たちが交わりを深めていくことが使徒信 条で告白する聖徒の交わりを信じるということになります。しかしながら、冒頭でもお話 ししまいしたが、この「交わり」という言葉は、教会の中でしか使わないものであると思 われます。あるいは男女間において、秘め事のようなものと誤解して使われることがある かもしれません。この「交わり」は教会独特の表現ではありますが、単純にいえば「交際 」あるいは「お付き合い」ということになるでしょう。人と関わりを持って生きるという ことになるのではないでしょうか。日本語に訳されている交わりということは、人と人と が交差をするということです。互いが仲良くなると言ってもいいかもしれません。教会に おいても、交わりがないということはお互いが無関心でいるか、いくら一緒にいても親し みが沸いてこないということになるでしょう。当然ではありますが、お互いが仲良くする とか、お付き合いをするということは喧嘩をしたり、争っては交わることができないもの です。しかしながら、教会には様々な人々がいます。集っています。それだから、あの人 とならば話が合うけれども、どうもあの人とはうまくいかない。あるいは、どうもあの人 は好きにはなれないから仲良くする気がないと思ってしまいます。それだから、教会にお いて酷いことをされた、悪口を言われた、教会員同志でいざこざがあった、牧師と教会員 とのトラブルがあったということからこの教会は交わりがないということで教会から離れ てしまう人がいるものでしょう。よくご存じのように石川地区の牧師の間でも犬猿の仲と 言われている人たちがいて、会えばいつもお互いの悪口を言っている人々もいます。この 牧師たちは交わりはないのでしょうか。

  本来この交わりというものは、人間同志が造る交わりではないのです。人間同志の趣味 や気が合う同志によって生み出される交わりではありません。実は、この「交わり」と訳 されている元の言葉の意味は「一つのものを共有する」ということです。一つのものを分 け合うということです。分け与えることによって安心してお互いと親しくなくことができ るということになります。しかも、この「交わり」はあずかるということも表現されるの です。一つのものにあずかるということです。一つのものを分け与えていただくというこ とです。この一つのものというものが教会においてはイエス・キリストの体であり血であ るということです。イエス・キリストの恵みそのものと言ってもいいかもしれません。そ のイエス・キリストの恵みを与えられたことによって生み出される関係ということが教会 が語る「交わり」ということになるでしょう。このことは、なによりも一人一人が神様と の正しい関係、正しい交わりによって生み出される関わりによって生きていくようになる ということです。その交わりをお作りになったお方こそがイエス・キリストであるという ことになるのです。本来は、神様と仲良しの関係を造ることなしには私たち一人一人は生 きていかれなかったのです。もし、神様との交わりをすることなしには、いつまでたって も私たち自身が神様と関わりを持つことができなかったし、それよりも人々を憎み続けて いたと思われるのです。それこそ、自分が気に入った人だけを対象にしてお付き合いをし 、自分に利益をもたらしてくれる人とだけ関係を持っていたと思われるのです。それこそ 、自分中心に生きていくことでしょう。  

 そのために、イエス・キリストは私たちと神様との関わりを保つために、仲直りをする ために十字架について死んで下さったのです。私たち人間を無視されたのではなく、私た ちを愛するがゆえに、それこそ憐れんで下さったことによって私たちに救いを与えてくだ さった。恵みと祝福を与えて下さったということです。それですから、イエス・キリスト に結びつくことによって初めてこんな私でも聖なるものであることを確信することができ ていくし、他者と共に交わりを深めていくことができていくのです。特に、パウロは聖徒 の交わりの姿がどういうものなのかローマの信徒への手紙12章6節から詳しく具体的な 生活として語っていきます。それこそ、神様の恵みを与えられた、聖なる者とさせられた 、神様との交わりの中で生きているということは、教会の中でそれそれに皆かお互いに違 っているけれども、それぞれに相応しい賜物が与えられていることを確認するのです。そ の神様から与えられた恵みと信仰の実である賜物がこんな私にも与えられていることから 、この賜物を使うことから教会のために生きる。神様のために生きていくということです 。これはなによりも私たちがイエス・キリストによって救われていることを信じて受け入 れたことによって初めてわかることなのです。イエス・キリストを知ることから出発をす るということです。そこから、祝福が広がっていくのです。それだからこそ、私たちはも う既にイエス・キリストによって聖められている、神様のものになっていることを一人で も多くの方が気づいてもらいたいと願うのです。この教会において聖徒の交わりがあると 信じさせていただいて告白しているからです。

 お祈りを致します。 主イエス・キリストの父なる御神様 私たちはあなたの御前に聖なる者ではありません。 けれども、あなたの御子であるイエス・キリストの恵みを通して聖なる者として下さいま した。心から感謝して聖なる者であることを信じ受け入れて信仰の歩みをしていくことが できますように。なによりも、主イエスによって救われ聖徒として生きる時に、教会の中 でお互いを受け入れて、主イエスにおいて結ばれて一つであることを信じて、よき交わり を造っていくことができますように、お導きをお願い致します。時に教会の姿に絶望し、 共に生きる人々に対して心悩む時にも主イエスが共にいて下さっていること、救われてい る一人一人であることを信じて、主イエスの恵みと祝福を分かち合って、新しい交わりを 造り挙げていくこができますように、励ましと力づけを一人一人に与えて下さい。このお 祈りを救い主である主イエス・キリストの御名によって、御前にお捧げ致します。アーメン

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