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「救いへの招き」ルカ8章40−56節  

 私たちの人生を考えた場合、予期せぬ出来事、予想もしないことが起こってきます。しかも、見通しのつないことに出会う度に、絶望感を抱くことがあります。人は、映画やテレビのドラマのように、幸せになって人生の幕を閉じる、いわゆるハッピー・エンドで、人生の最後を迎えたいと思っています。まるで、私たちが小説などの本を読む場合、きちんとした終わり方を期待しながらというようにです。映画やテレビのドラマ、小説にしても、いえそれこそ私たちの人生にしても、どこかで納得いかないものに、不安感や不信感を覚えてしまいます。そのことから、私たちは納得いかないものを受け入れることができない時があるのではないでしょうか。実は、週報にも記されていますように、教会員であります寄留き一郎さんが、9月27日水曜日に天に召されました。昨日、キリスト教の葬儀を行ってまいりました。遺族の方々、親しい方々に取りましては、悲しい出来事であり、予期せぬ出来事であったに違いありません。悲しみの中にあって、絶望感を抱いているのではないかと思うのです。人間は、必ず死にます。ここにいる一人一人の上にも死は訪れるのです。私たち一人一人はそのことをよく知っていると思うのです。けれども、人は、誰かの死に直面した時、それが親しい人であればある程、絶望を抱きます。立ち上がれなくなるような、悲しみ、辛さを覚えるのではないかと思うのです。

  では、なぜ、私たちは死ぬことに対して、絶望感を覚えるのでしょうか。それは、死という絶望的な状態に対して、救いを見いだせないからです。救いがやって来ないと考えてしまうからです。このことは、病気に対して、いえ苦しみや悲しみあるいは悩みに対しても、そうではないかと思います。そのように絶望感を持って、人生を歩んでいる時には、そこには少しも救いがないのです。あるいは、言うならば、無力感を持ってしまう時には、救いなんかないのではないかと考えてしまうのです。そのような時、私たちは、神様を信じる力、信仰の力も失われていくのではないでしょうか。親しい人の死、あるいは自分が病気で苦しんでいる、悲しんでいる時には、神様を信じることもできなくなっていくのではないかと思うのです。私たちが、一番厳しく、悲しく、惨めな思いを生むのは、そのような信仰の無力感です。神様を信じたって、何にもならないではないかと思う心であります。あの時、イエス様のことを信じますと言って、洗礼を受けて、信仰に生きてきたはずなのに、突然、信仰そのものが無力であることに気づかされるのです。絶望を抱いた人々にとっては、信仰は果して無力であるのか。死を前にして、信仰は何にもならないのか。救いなんかないのか。イエス様を信じて生きることは、無駄なのか。今回の葬儀におきましては、そのようなことを思いめぐらしながら、時間がない中で今日の説教の備えをして望んでいました。けれども、私は、今回の葬儀からも改めて、信仰に生きる時にこそ、救いがあることを知ることができました。死や病気の中にあっても、絶望から救いへといたる道があることを改めて、理解することができたのです。そのようなことを学ぶ機会である葬儀でありました。そのようなことから、今日示されています聖書の物語から新ためて神様を信じる信仰のことを考えていきたいと思います。

  さて、ルカによる福音書が伝えております二つの物語がここに記されています。その物語に二人の人物が登場しています。ひとりは、ヤイロという名前をもつ男性でありまして、もうひとりは、名前のない女性であります。この二人の人物を中心にして、ふたつの物語が展開しておりますが、まるで合わさってひとつの物語のように語り伝えられています。今日の聖書の物語をひとつの物語として見ることができます。この二人の人物に共通していることは、絶望の中にあったということです。しかも、予期せぬ出来事に出会ったということでありました。最初に出てきた人物でありますヤイロという人は、会堂長であったことが記されています。会堂長とは、各地にあります神様を礼拝するための会堂の責任者でありまして、ユダヤの人々にとても尊敬されていた人物でありました。恐らく、その地方で立派な地位があった人でしょう。このヤイロという名前がきちんと聖書に記されていることから、後の教会の人々も、この人物を知っていたことを意味しております。聖書は、42節で「12歳ぐらいの一人の娘がいたが、死にかけていたのである。」とその時の様子を描いております。病気か何かで、ヤイロの12歳のひとり娘が死にかけておりました。当時のイスラエルにおきましては、12歳とは、結婚してもいい年頃であると考えられていました。しかも、ヤイロにとっては、ひとり娘です。ひとり娘の幸せを願っていた父親にとって、娘がもう結婚してもいい年頃になっていたということは、とても大きな喜びだったのでしょう。私にも、幼いですが、ひとり娘がおりますので、人ごとではないと思っております。ヤイロにとっては、ここまでよくぞ娘が育ってくれたものだという思うがあったに違いありません。ところが、結婚できるまでに育ったひとり娘が突然、死ぬようなことになってしまったのです。イスラエルにとりましては、12という数は喜びを意味するものであり、輝かしい意味を持った数字でありました。それだけに、このヤイロという父親にとっては、ひとり娘が輝かしい12歳になって、これからという時になぜなのかという思いがしたのではないかと考えられます。ヤイロにとっては、深い絶望を抱えてしまったのではないかと思えるのです。「なぜ、こんな思いをしなければならないのか。」地位が高くりっぱな人でありましたが、絶望の中ではどうすることもできなかったのです。そのような絶望の思いから、イエス様に救いを願ったのであります。恐らく、イエス様が病気を癒される奇跡を行われるうわさを聞いていて、イエス様の救いを願い求めたのでしょう。それで、自分の家に来てくださるようにと願ったのです。

  しかしながら、ここで思いがけないことが起こってまいります。予期せぬ出来事が起こっていくのです。ヤイロの家に向かう途中でもう一人の人物にイエス様が関わりを持つことになっていったのです。ここで、名前も年齢も記されていない一人の女性が登場してきます。聖書は、この女性を43節で「12年このかた出血が止まらず、医者に全財産を使い果たしたが、だれからも治してもらえない女がいた。」と描いております。恐らく、この女性は、なにかの婦人病にかかっておりまして、出血が12年間も止まらなかったのでしょう。とにかく12年の間、この女性は病気で苦しんでいたのです。どれだけ財産があったのかわかりませんが、医療費を払い尽くして、だれかれも治してもらえずに、絶望の中にあったのです。不思議なことに、二つの物語を見てみますとヤイロの12歳の娘と12年の間病気であったというように12という数字が関わっています。この女性は、ヤイロの娘が生まれた時から病気を続けていたことになります。つまり、ヤイロにとっては娘の成長の間が喜びであった時に、この女性にとっては、病気のために苦しい年月でありました。対照的には、描かれてはいますけれども、ヤイロもまた娘が死ぬかもしれないという思いの中で力尽きていたのです。絶望の中にあったのです。人間は、今、この時、どのような状態になっているかによって、望みを持ちますし、絶望の中にも入っていくのではないかと思えるのです。もしかしたら、人は、苦しみの年月に関係なく、今、この時をどうにかしたいという思いを持つのではないでしょうか。しかしながら、この病気であった女性が12年間もの辛く苦しく誰からも癒してもらえなかったとしたらならば、悲惨なことではないかと考えられるでしょう。しかも、この女性が12年間の闘病生活の中で、体ばかりではなく心も魂もぼろぼろになっていた姿を連想することができるのです。病は、心をも蝕んでいくものです。しかも、この女性にとって、12年もの間、この病気は、解決できない問題でありました。もしかしたら、この女性は、自分自身を見失って、周囲を恨んだり、自分を恨んだり、あるいは神様のことを恨んでいたのではないかと考えられます。みなさん、人間にとっての最大の苦しみは、解決できない苦しみではないでしょうか。誰も解決してくれない苦しみや悩みこそがまことの苦難であるということです。しかも、神様がいない、神様を認めることができないことこそが、最大の苦しみであると思えるのです。人間の苦難に解決を与えて救うことができないものを見いだして諦める時に、絶望が生まれていくのです。

  そのような絶望の中にあった女性に人生の転機が生まれました。よくテレビなどで英語の言葉からターニング・ポイントであるという言葉を使っております。今まで進んでいた人生の道を変えられるということです。聖書は、44節で「この女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れると、直ちに出血が止まった。」とその時の様子を描いております。どうして急にこの女性がイエス様のもとに来たのかは、聖書は記していません。恐らくヤイロと同じように、イエス様なら何とかしてくださるだろうと考えていたのでしょう。けれども、イエス様に面と向かって、お願いすることができなかったのです。誰からも相手にされなかったこの女性は、ただイエス様の服に触るだけでよかったのです。苦しくて、耐えられなくて、ちょっとイエス様の服に触ってみただけでありました。自分の苦しみ、悲しみをただ、そのイエス・キリストの服の房に触るということで表しただけでありました。けれども、イエス様に関わりを持つことによって、ターニング・ポイント、転機が生まれたのです。女性は、病気が癒されて助かりました。救われたと言ってもいいでしょう。けれども、この女性の物語はこれで終わりではありませんでした。思いがけずに、イエス様によって救われて、病気が癒されただけではすまなかったのです。45節、46節で、イエス様が「わたしに触れたのはだれか。」、「だれかがわたしに触れた。わたしから力が出ていったのを感じたのだ」と語っておられます。イエス様は、服の房に触った人物を捜しておられたのです。この時、この女性は、その場をすぐに離れて、こっそりと家に帰ってもよかったはずです。けれども、それをさせなかったのがイエス様でありました。イエス様はここで、腹を立てていたのでしょうか。憤っておられたのでしょうか。

 女性のほうでは、イエス様が誰が触ったのかという問いに対して、私が触りました、だから救われたのですと、堂々と、人々の前に出て、告白したのではありませんでした。触ったことを恥じたのです。触ったことを恐れたのです。できることならば、隠されたままでいたいと願ったのです。すぐにもその場を立ち去りたいと願っていたのです。しかしながら、女性がイエス様に出会うことなくその場を立ち去ったのならば、この女性にとって、本当の救いはなかったのです。なぜならば、神様もイエス様もこの女性の癒しのために利用した道具にすぎないことになってしまうからです。願いが叶えばそれでいいというような御利益宗教になってしまうからです。人間中心なものになってしまうのです。もし、イエス様の方から声を掛けて下さらなかったならば、この女性はためらいもなく、その場所をすぐに離れていったのではないでしょうか。イエス様との関わりもなかったのです。転機あるいはターニング・ポイントすら起こらなかったでしょう。ここで、イエス様はこの女性を責めておられたのではありませんでした。イエス様は、自分の助けを必要としている者が誰であるのかを見極めようとされて、呼びかけておられるのです。イエス様の愛を必要としている者を捜し求めておられたのです。このイエス様の姿を見て、いたたまれなくなって、病気を癒された女性は思わず名乗り出たのです。この女性は、最初は、救いならなんでもいいと考えていました。病気が癒されれば、鰯の頭でもいいと考えていたのではないかと思えるのです。

   けれども、イエス様の方から声を掛けられることによって、変えられてしまったのです。確かに、この女性は、救いを求めていました。けれども、イエス様のほうから救いを与えてくださっていたのです。私たちは、私たちのほうから、神様との関わりを持つように考えてしまいます。私たちが神様を必要であり、救いが必要であるというようにです。けれども、そうではなく、まさしく、イエス様のほうから、私たちに関わりをもって下さるのです。ターニング・ポイントを生み出してくださるのは、まさに神様のほうであるということです。ですから、イエス様を信じる信仰とは、まさしくイエス様のほうから与えてくださるということが言えるかと思うのです。そのような機会を今、この礼拝を通して私たちに与えてくださっています。それに応えて、この女性は、47節で描かれていますように、イエス様のもとにひれ伏して、イエス様の服の房に触れた理由と癒された経過を人々の前で話したのです。このことをイエス様が受け入れて下さったのです。だからこそ、48節で、イエス様が「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きない。」と救いの宣言を与えて下さったのです。そのようにして、この女性にとっては、思いがけないことが起こったのでした。

  さて、会堂長でありますヤイロにとっても、真に思いがけないこと、予期せぬ出来事が起こっていきます。イエス様がこの12年間も病気であった女性と関わっていたために、ひとり娘が亡くなったのです。死んでしまったのです。その時の様子を49節で「イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人が来て言った。『お嬢さんは亡くなりました。この上、先生を煩わすことはありません。』」と描いております。この言葉を聞いたヤイロは、自分の娘が死んでしまったという知らせで心が一杯になっていたのでしょう。益々絶望の中に落ち込んだと考えられるのです。けれども、イエス様の答えは、「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる。」という50節の言葉でありました。このイエス様の言葉を聞いてのヤイロの反応は聖書には何も記されてはいません。「イエス様がおられるから、大丈夫だ」あるいは「はい、信じます。」という言葉もありませんでした。しかし、ヤイロは、イエス様を拒絶してはいません。もう家には来ていただかなくても結構ですとは、言わなかったのです。イエス様のこの「ただ信じなさい。」という言葉に引き込まれて、イエス様と共に娘が死んでいる家の中へと入っていったのです。イエス様を否定する時間もなく、思わず、イエス様の言葉に従っていっただけでありました。ヤイロは、まさに無力でした。神様を信じる力も残っていなかったでしょう。ただ、ヤイロは無力なままに、信じるのだと言われるイエス様に、自分自身を委ねただけでありました。まさしく、このことからも信仰とは人間が信じるということではないということです。人間中心のことではありません。まさしく、神様の側のことです。神様のほうから、私たちに語りかけてくださって、私たちを引き上げて下さったときにのみ、信仰が生まれていくということです。私たち自身も、ただイエス様の言葉に委ねるだけなのです。

  ところで、ヤイロの家には、娘が死んだことに対して悲しんでいる人々がいました。イエス様は、その死の悲しみに対して、いや娘は死んだのではない、眠っているだけだとおっしゃったのです。しかしながら、その言葉を聞いた人々は、イエス様をあざ笑ったのです。死に襲われた絶望の中で、どうにもならない現実の中で、人々はイエス様を笑ったのでした。力尽きた人々、絶望の中にある人々には、イエス様の言葉も届かない、何にも役に立たないと思われていたのです。この人々は、イエス様の言葉には無関心でありました。まるで、イエス様に関わりを持つことに対しても、傍観者であったのです。12年間病気であった女性の物語にも同じような場面があります。イエス様が、「わたしに触れたのはだれか。」という答えに対して、人々は、無関心にも知らないと答えていますし、イエス様の一番弟子でありますペトロもまた群衆が押し迫っているからだろうと答えました。ペトロも人々も、イエス様の奇跡には気がつかなかったのです。傍観者でありました。このことは、どれだけイエス様の近くにいても、傍観者である限り、無関心である限りは、救いに与かることができないのです。けれども、それでも、イエス様は私たちに、言葉を投げかけてくださいまして、救いへと招いてくださっているのです。「恐れることはない。ただ信じなさい。」というイエス様の言葉が私たちに響いて、私たちを救いへと招いておられるのです。なぜならば、イエス様は死を打ち破ってよみがえってくださったからです。ヤイロの娘は、イエス様によって、「娘よ、起きなさい」と呼びかけられて、死の世界から救い出されました。けれども、やがては、また死んだのです。奇跡によって、12年間の病気から救われた女性もやがては死んでしまったのです。けれども、その向こうで、イエス様が十字架に掛かってくださって死を打ち破って蘇ってくださいました。今も生きて働いておられるイエス様が私たちと共におられるのです。しかも、私たちにもよみがえりの命を与えてくださっているのです。ただ、私たちはイエス様の救いへと招かれて、イエス様の言葉を信じて、イエス様にすべてを委ねる時に絶望からも解放されるのです。

  お祈りを致します。 天にいらっしゃいます父なる御神様 私たちは、死を前にして、苦しみや悲しみを前にして絶望を抱きます。けれども、その中におきまして、私たちにイエス様の言葉によって、慰めと平安を与えて下さっております。イエス様の救いへと招いて下さっております。どうか、私たちが、ただその言葉に気づき、受け入れることができますように、神様の働きをどうぞお願い致します。イエス様が共にいてくださること、イエス様が私たちに声を掛けてくださることによって、私たち自身が、神様に感謝して、すべてを委ねていくことができますように、お導きください。死を打ち破ってくださったイエス・キリストの十字架と復活に生かされて、絶望の中から私たちを引き上げてくださいまように。復活の命に私たちが与かることができますように、お導きをお願いいたします。今、尚、悲しみ、苦しみの中にある人々の上に、イエス様の言葉を与えてくださいまして、生きる力を、絶望からの解放を、何よりも、イエス様の救いへと招いてくださいますように、どうぞ、お導きをお願い致します。この祈りをイエス様の御名によって、御前におささげ致します。 アーメン

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