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「救いがやって来た」ルカ19章1−10節  

 新約聖書の中、特に4つの福音書、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネによる福音書には、実際に、イエス様が人々に伝道された姿がその中に描かれています。そのイエス様が伝道された姿の中で、イエス様の出会いの物語を通して、あるいはイエス様が招いてくださっているという物語を通して、イエス様が一人一人を大切にし、関わりを持ってくださっていることを私たちは、感じ取ることができるかと思います。福音書には、そのようにイエス様と出会い、関わりを持つことによって、救いの中に入れられていった人々がたくさんいるのです。そのようなイエス様と出会った人々をひとりひとり取り上げて調べてみると面白い発見ができるかと思います。それに、それらの福音書に登場してきます人物を見てみますと、この人は、まるで私みたい、僕みたいと思われる人がいて、聖書に出てくる人物に親しみを感じるのではないかと思うのです。今日、読みました聖書ルカによる福音書19章の1節から10節のところにも、イエス様と出会い、イエス様と関わりを持つことになった一人の人物が出てきます。ザアカイと呼ばれる人物です。この聖書の箇所は、ザアカイの物語と呼ばれているところです。この物語は、教会学校では、子どもたちに大変親しまれているところです。教会学校の先生をされた方は、このザアカイの物語を話したり、紙しばいをしたりというような経験をお持ちではないかと思います。あるいは、このザアカイの物語を知らない人でもこのところを読むだけでなんとなくザアカイに親しみを感じるのではないかと思います。

  しかしながら、ザアカイという人が登場するのはこのルカによる福音書のこのところだけなのです。実に不思議な物語ではないかと思います。では、ザアカイとは一体どういう人物なのでしょうか。ザアカイという名前は、清い人、正しい人という意味の名前です。ですから、両親が清い人、正しい人となるようにと願ってザアカイと名付けられたと思います。私たち一人一人も名前を持っています。私たちも希望を持って、あるいは理想を持って、名付けられたと思うのです。名前負けをしていると思っている人もいるかも知れませんが、私たち自身も皆りっぱな名前を一人一人が与えられているということです。その正しい人となるように名付けられたザアカイは、2節で「徴税人の頭で、金持ちであった」と聖書は記しています。徴税人とは、税金を徴収する人、つまり人々から税金を取り立てることを仕事としていた人のことです。今の言葉で表すならば、税務署の役人ということがいえます。しかもその頭ですから、税務署長ということになります。しかし、ザアカイが仕事としていた徴税人と、今でいう税務署員とは違うのです。今でも、税務署員というものはあまり歓迎されないでしょうけれども、この当時の徴税人は、人々の恨みを買ういやな仕事でありました。

  その当時、ザアカイが住んでいたイスラエルは、大きな国であるローマ帝国が支配をしていました。ローマ帝国の支配者たちは、ずるいというか、悪賢いというか、とにかく政治に関しては頭がよかったものですから、ローマ人自らが、直接にイスラエルの人々つまりユダヤ人から税金を取り立てることはしなかったのです。そこで、税金の取り立ては同じ民族であるユダヤ人にさせて、その税金をローマ帝国の政府へと収めさせることをさせていたのです。その仕事をする人が徴税人と呼ばれていました。ですから、徴税人は同じユダヤ人から税金を取り立てるものですからローマ帝国の支配者の言いなりになっている手先同然だと人々から思われていたのです。しかも、ローマ帝国のために税金を取り立てるだけでなく、余分に税金を奪い取って、その余りを自分のポケットに入れ、お金もうけをしていたのです。徴税人たちは、平気で不正をやっていたということです。そのようなことから、徴税人は、人々から恨まれ、嫌われていました。それだけでなく、徴税人は犯罪者と同じように、罪人というレッテルを貼られ、ユダヤ人たちからは、差別をされていたのです。普通のユダヤ人は、徴税人の家に入ることも、食事を一緒にすることも、しなかったのです。しかも、徴税人ザアカイが住んでいたところは、エリコという町でした。そのエリコは、経済や交通の上で、豊かで重要な町でありました。そのエリコには、その地方中心の最大の税務署がありました。ザアカイは、その税務署の徴税人でしかも、署長いわゆる頭ですから、悪名高く、人々から白い眼で見られていたと思われます。正しい人である意味のザアカイの名前に似合わないものになっていました。

  では、なぜザアカイは、そんなみんなから嫌われるような徴税人のかしらなんかに、なったのでしょうか。聖書には、確かな理由は記されていませんけれども、先程の2節の言葉「金持ち」という言葉を記していることから、恐らくザアカイがこの世界で価値を置いていたものが、お金であったと思えるのです。それに、徴税人の頭ですから、地位も保証されていたということです。ですから、恐らくザアカイは、自分の人生に必要なものや価値をおいていたものが、お金であるとか地位であるとか、権力であるということを考えていたと思います。それで、ザアカイは、たとえ国を裏切ることも、不正をすることも、人を苦しめることも平気だったのです。そんな価値を見いだすザアカイにとっては、徴税人の頭とは、理想の仕事であったと思われます。特に、ザアカイは、お金だけが頼りの世の中、お金さえあれば思いどおりに人生を生きていくことができるという考えをもっていたのです。私たちも多かれ少なかれ、お金に執着する時があるのではないかと思います。信仰、信仰と言いながらも、お金がないと教会に行けない、神様を信じる生活もお金がないとできないのではないかとどこかで思っていないでしょうか。教会生活あるいは礼拝には、献金というものがあります。献金とは、神様から救われていることを感謝して、神様に捧げるお金のことです。決して、救われるため、願いが叶うようなお賽銭のように捧げるものではないのです。しかし、私たちは金だけが人生ではないということを知りながらも、神様に感謝をしているといいながらも、どれだけお金をささげたら、いいのかなと悩んでしまうこともあるでしょう。実際、私も、献金を捧げて生活ができるのかなという思いを持ちますし、あれもこれも、買わなければならないという思いに悩まされて、お金がたくさんあればというような思いを持ちます。そんな時、いっそ宝くじかなんかで当たってくれれば、という願いを持つものです。クリスチャンであっても、いえ牧師であってもこれが正直な気持ちではないかと思います。ですから、一見ザアカイという人物は、私たちに関係のないように思えますが、程度の差がありますけれども、私たち一人一人もまたザアカイのようなものなのです。

  さて、ザアカイは、お金も地位も持っていて、少なくとも、この世の中にとっては、幸せな生活をするだけの環境の中にいました。しかし、ザアカイには、何かが足りなかったのです。一番大切なものが欠けていたのです。それが、心の平安でありました。ザアカイは、人々から嫌われ、人々と関わることができずに、人々の冷たい視線の中に身を置いていたのです。ザアカイは、孤独であり、人生に真の安らぎがなかったのです。人は、誰からも相手にされない時、無視されたり、無関心でいられたりすると、だんだんと心が病んでくるのです。それだけでなく、生きることに対して、不満や不安が大きくなって、精神的にもおかしくなってくるのです。ザアカイは、お金があって物質的には満たされてはいましたけれども、心は平安ではなかったのです。そのようなザアカイに今、喜びが訪れました。それは、イエス様がエリコの町にやって来られるということでした。ザアカイが、果してイエス様のことをどこまで知っていたのかわかりませんが、エリコの町にイエス様のうわさが流れていたと思われます。そのうわさは、イエス様という人が、ザアカイと同じ徴税人をイエス様の弟子にしたり、徴税人や罪人と言われている人々と食事をなさったり、徴税人を毛嫌いせずに、同じ人間として接してくださるというものだったのです。ザアカイは、誰も見向きもしてくれない中で、孤独の中において、自分の方をむいてくださるかもしれないひとりの人がいることを思い、その人を是非この目で見たいと考えたのです。それが、イエス様でした。 

 そこで、ザアカイは、イエス様がどんな人か見ようとしたのです。ところが、そこにさえぎるものがあったのです。喜びの訪れに邪魔が入ったということです。一つは、ザアカイは、背が低かったということでした。背が低くてイエス様の姿を見ることができないということでした。これは、ザアカイにとってのコンプレックス、劣等感の表れでした。最初に、私がこのザアカイの物語を読んだ時に、妙に親近感を覚えた記憶があります。実は、とういよりも、見てわかりますように、私も背が低いのです。背が低いということに、劣等感を持っていた時がありました。思春期や20代の頃は、背が低いことに悩みながら、身長を伸ばすために、努力をしながら過ごしていたことがありました。また、その頃、ちまたでは結婚や恋人にするために、選ぶための条件として、3つの条件、いわゆる3高というものがありました。高収入、高学歴、身長が高い、という3つの条件です。このことから、私は、背の高さで、人の人生観が変わるのではないのか、あるいは背が低いことは人間とは思われていないとさえ考えたことがありました。このことは何も、背が低いことだけではなく、逆に背が高い人も劣等感を持っている人もいるでしょう。さらに、性格や容姿に劣等感を抱いている人もいるかもしれません。そのように、ザアカイにとっては、恐らく背の低さが劣等感になっていたのかもしれません。それで、ザアカイは背が低いということのために、イエス様を見ることができなかったのです。さらに、もう一つは、大勢の群衆が邪魔をしていたということです。税金の取り立てのため、たんまり儲けて、みんなから嫌われているザアカイに対して、親切に前を空けてくれる人はいません。前に出たいと願い、イエス様を見たいと思いながらも、誰も前に出してくれない。譲ってくれないのです。ザアカイは、今まさに誰からも相手にされない、孤独のどん底の中に陥っていたのです。ザアカイは、人から離れ、いえ神様からも遠い存在になっていたのです。

  けれども、そのように遮られるもの、邪魔をされるものに対しても、ザアカイはイエス様を見るために諦めなかったのです。聖書は、4節で、「それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。」と活き活きとザアカイの姿を描いています。なんと、ザアカイは、イエス様を見るために、木に登ったのです。このことは、私たちの意表をつくような行動と見ることができます。それだけでなく、ザアカイは、おっちょこちょいといいますか、なにかひょうきんな感じがしないでしょうか。子どもであるならば、木に登るという行動は、わかるかもしれませんが、大の大人が、それも税務署長をしている人が、このような行動をするならば、驚くと同時に、思いがけないものを見た思いで、なにか、滑稽な気がします。しかしながら、私たちの人間関係の中で、人が思いがけないことやひょうきんな姿を見せる時に、その人の本当の気質や性格を見たようでうれしくなることがあるのではないかと思います。それだからこそ、子どもたちが、ザアカイの物語に魅力を持ち、親しまれる場面がいいおじさんが、木に登っている姿ではないかと思うのです。けれども、ザアカイは、熱心にイエス様を見ることを求めていました。このことは、ザアカイがイエス様に救いを求めていたことの表れです。今の生活から抜け出せるものを、あるいは人間として生きるための本当の願いを求めていたのです。ザアカイが、少しづつではありますけれども、神様のことや信仰のことを考え始めていたということです。

  ザアカイは、木に登っています。そこを、イエス様が通り過ぎようとしました。しかし、ザアカイは、イエス様に見つかってしまい、声を掛けられたのです。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。」というイエス様がザアカイに向かって言われた5節の言葉です。この言葉は、ザアカイにとって、驚くべき言葉でした。なぜ、イエス様が自分の名前を知っておられるのか、不思議でした。それよりも、イエス様が、ザアカイのことを、そこの人とか、罪人よ、と呼ばずに、きちんと名前で呼んでいることです。イエス様は、ザアカイを、一人の人間として、一人の人格を持った人として、声を掛けて下さったのです。世界でただ一人のかけがえのない存在として呼んで下さったということです。このことはなにも、ザアカイだけでなく、イエス様は、私たち一人一人を知っていてくださり、呼び出してくださるのです。世の中の人が知らないわたしという人間をイエス様は知っていてくださるということです。さらに、イエス様は、「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」と声を掛けました。このところは原文ですと、「あなたの家に泊まらなければならない。」というような押しつけがましい言葉であり、非常に強引に聞こえる言葉なのです。イエス様は、「留めてもらえませんか。」と頼んでいるのではないのです。ザアカイの都合もなにもないのです。しかし、ザアカイは、イエス様を自分の家に招き入れました。恐らく、ザアカイは、何がなんだかわからないまでも、あるいはイエス様の言葉に驚きながらも、喜んでイエス様の言葉を受け入れて、従っていきました。そして、逆にイエス様をザアカイ自身の心の中に迎え入れたのでした。信仰とは、決断して、イエス様を信じることであり、イエス様を自分の中に迎え入れることなのです。このことは、イエス様という救いがやって来たことを自分自身の中に迎え入れることでもあります。

  ザアカイは、満たされなかった思いや孤独な人間であったこと、劣等感に苦しみ、平安ではない生活が、イエス様との出会いを通して、救いを受け取ることによって一気に変えられました。何よりも、ザアカイは、神様から遠い存在、失われたものであったことを自覚したのです。神様から離れていたこと、神様よりも大事なものを頼りにして生きていたことを自覚したのです。だから、自分の罪にザアカイは気がついたのです。自分の罪に気づくということは、ただ悲しいことではありません。そこから、神様の方に目を向けることによって救いを受け取ることができるのです。救いの喜びを受け取ることができるのです。救われたことに対して、ザアカイは、イエス様に信仰の告白をしました。「主よ、私は誓って財産の半分を貧しい人々に施します。」という言葉です。それまでのザアカイの人生にとって、価値あるもの、大事なものが、お金でありました。しかし、イエス様と出会い、イエス様の救いのすばらしさを迎え入れることによって、大事なもの、価値のあるものが変わったのです。イエス様を受入れ信じるという信仰こそが、大事なものであると変わっていったのです。そこに、救いの喜びがあったからです。最後にイエス様は、「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」と言われました。イエス様がこの世界に来られた目的は、ザアカイのように神様から離れている人を捜して、神様の方に目を向けさせて、救うためにやって来たのでした。私たちも神様から失われていたのです。隣人から失われていたのです。自分で自分を見失っていたのです。その私たちを救うために、イエス様はこの世界にやって来られました。このザアカイの物語の後に、実際にイエス様が十字架に架かり、私たちの罪を取り除いてくださり、罪をゆるしてくださったことが、記されています。イエス様は、私たちを救うために十字架に付けられたのです。いえ、あなたを捜してイエス様のところに迎え入れ救うための十字架だったのです。だからこそ、もう、救いはやって来たのです。イエス様によって救いはやって来ました。聖書は、ザアカイの家に入るイエス様の姿を見ながら、人々は「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」と呟いたと記しています。この呟きは事実を語っていて、正しいように思えます。しかし、この呟いている人々も、自分が罪人のひとりであると気がついていないのです。神様から遠い存在で、失われた者であると気がつかないのです。イエス様を迎えなければ、自分たちも救われないことに、人々は気がついていないのです。この人々も私たちの姿なのかもしれません。だから、私たちは、イエス様によってもう救いがやって来たことをしっりと受け入れて、喜んでイエス様を心の中に迎え入れて、生活をしていきたいと願っています。

     お祈りをしましょう。 天にいらっしゃいます父なる御神様 今日こうして、主の日に私たちを教会へと招いてくださいまして、礼拝の時を持ち、神様から御言葉をいだだき、新しい恵みに満たされたことを心より感謝を申し上げます。私たちは、神様から離れ、神様から遠い存在であり、失われた者でありました。しかし、そのような私たちをイエス様は十字架に架かって下さることによって、私たちの罪を取り除いてくださり、罪を許してくださいまして、救いをもたらしてくださいました。もうすでに、イエス様によって、救いがやって来ました。どうぞ、私たちがそのことをしっかりと受け止めて、イエス様を心の中に迎え入れて、イエス様の救いに与かっていくことができますように、導いてください。そして、ここに集う一人一人をイエス様が捕らえてくださいまして、祝福を与えてくださいますように、どうぞお願いいたします。また、イエス様が私たち一人一人を訪ねてくださっていることを、気がつかせてくださいますように、どうぞお願いいたします。そして、イエス様の救いを知らない人々を、教会へと導いてくださいまして、イエス様と出会い、イエス様の御言葉を受け入れて、イエス様を真の救い主と告白することができますように、聖霊の働きかけをお願いいたします。今、病の中、苦しみ悲しみの中にいる人々の上に、神様が共にいてくださいまして、平安と慰めを与えてくださいますようにどうぞ、お願いいたします。この祈りをイエス様の御名によって御前におささげいたします。アーメン

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