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「あなたは招かれている」 マルコ1章16−19節 「出会い」とは、不思議なものです。人は、何かに出会い、誰かに出会いながら、人生の歩みをしています。みなさんの人生を振り返ってみますと、恐らく出会ったものが、すべて予想されていたものではなかったでしょう。そもそも出会いとは、予想なんかできないものです。予想して何かに出会うということは、とうてい不可能なことです。だらかこそ、出会いとは面白いものであり、不思議なものであるといえるでしょう。しかも、たった一つの出会いの出来事を通して、それこそ人生が変えられるということが起こっていきます。今日の聖書の物語に記されています4人の人達こそが、一人の人物に出会うことによって、人生が大きく変えられた人達でありました。その人物こそが、イエス・キリスト、イエス様でした。イエス様に出会って、人生が変えられた最初の人達がこの物語に描かれているのです。しかも、イエス様に出会うだけでなく、イエス様に招かれていくことによって、それまでの生き方が変えられていったのです。このことは、何もこの人達たちだけでなく、私たちに向けられた神様の招きの言葉なのです。それだからこそ、今日の聖書に描かれていますイエス様と出会い、イエス様に招かれていった人々の物語を通して、私たち自身の物語として受け取っていきたいと思います。 さて、イエス様が2千年前のイスラエルにあるガリラヤという湖を歩いておられたところから、今日の物語が始まりました。このガリラヤ湖のすぐ近くには、人が何もしないでも浮くことができるという有名な死海という湖があります。死の海と書きます死海です。ガリラヤ湖から、この死海に向けて川が流れています。しかし、この死海は、塩が溶けている量つまり塩分が多く濃いために、魚はそこに住むことができません。魚は、一匹も死海にはいないのです。けれども、逆にガリラヤ湖というのは、塩分を含まないまったくの真水でありますので、魚がたくさんいました。それで、そこに住む人々は、魚を捕る漁をすることを営んで、生活をしていたのです。ガリラヤ湖の近くには、漁師が多かったということです。そこに、一組の兄弟がいました。名前は、シモンとアンデレであると聖書は記しています。その兄弟は、やはりガリラヤ湖で生活をしておりました漁師であったのです。その二人の兄弟に、湖のほとりを歩いておられたイエス様が近づいていかれたのです。そこで、イエス様は、その兄弟に、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」という言葉を投げかけました。この言葉は、イエス様のところへと招いておられる言葉でした。招きの言葉でありました。 けれども、この兄弟がイエス様の招きの言葉を聞くことになるには、あまりにも突然でありました。まったくの突然のことであり、予想もしていなかったことでありました。それもそのはずです。この二人の兄弟が、イエス様の招きの言葉を聞くことになった時が、「網を打っていた」時であると聖書は記しているからです。網を打って魚を捕らえていた時、つまり働いていた時に、イエス様から声を掛けられたのです。しかも、もう一組の兄弟にも続けて、イエス様が声を掛けて招いてくださっています。その時は、船の中で網の手入れをしている時であると聖書は記しています。この二組目の兄弟の名前は、ヤコブとヨハネという名前でありました。漁師にとって、網の手入れをすることや網を打って魚を捕まえることは、仕事をしていたということです。イエス様の招きが行われたのが4人の漁師が仕事をしていた時でありました。不思議なことではないでしょうか。イエス様が招きの言葉を投げかけられたのが、決して、教会の中でも、神様を礼拝している中でも、ましてや神様の言葉を話しておられた時でもなかったからです。このことは、シモン、アンデレ、ヤコブ、ヨハネという4人の人々が神様と関わりを持っていた特別な時ではなく、日常のありふれた時間の中で、イエス様から声を掛けられて、招かれたということです。私たちにとっても、イエス様の招きを受けるところは、教会や神様がいる特別な場所だけではありません。いわゆる日常の生活から離れたところだけではなく、学校の中、職場の中、友達の中、家族の中においても、イエス様の招きは起こるということです。このことは、イエス様は、日常の生活の中にでも入り込んで恵みと祝福を与えてくださるお方であるということがいえます。 私たちは、今、礼拝へと招かれて、神様の言葉を聞いています。私たちが最初に教会にやって来た理由はいろいろと考えられると思います。聖書やキリスト教のことに興味を持って、あるいは知り合いに誘われて、またミッション・スクールなどで教会に行くことを勧めれて、礼拝出席が宿題だということでやって来た人もいるでしょう。しかし、実は、このことは、日常の生活においては、間接的ではありますけれども、イエス様に出会い、イエス様に招かれたということです。自分自身では気づいておられないかもしれませんが、日常の生活において、なんらかの神様の働きによって、招かれたということなのです。イエス様の招きは、日常の生活の中でも行われることなのです。このことは、何でもないように思えるかもしれませんが、よく考えてみますと大切な問題であることが分かってきます。というのは、普通の人々は、いえクリスチャンにおいても、イエス様が働いておられるのが、教会という特別な場所であるとか、クリスチャンという特別なグループの集まりにおいてであるとか、あるいは特別なキリスト教という宗教の環境の中においてであると考えてしまうことです。そうではなく、ごく当たり前の、日常の生活のただ中において、しかもありのままの人間に対して、神様と共にイエス様が働いておられ私たちを招いておられるのです。ですから、イエス様と出会い、イエス様の招きによってイエス様のことを信じた人々は、日曜日だけクリスチャンになって、後は普通の人間にもどるということではないのです。日曜日の朝、教会にやって来て、そこの会堂の入口で、クリスチャンに変身して、礼拝が終わって会堂の出口で、魔法か何かが解けて、普通の人にもどるということではありません。そのような人は日曜日クリスチャンと呼ばれています。まあ、日曜日牧師という人もいますけれども。 実際は、クリスチャンになったら、ずっとクリスチャンのままなのです。そうだからと言って、逆に毎日毎日を、聖人君主のように、品行方正にして、誰とも争いをせず、文句を言わず、きちんとした、いわゆる厳格な生活をすることではありません。もちろん、クリスチャンは、日曜日の礼拝を大切にして守ってきました。それは、イエス様によって招かれて、イエス様の救いに気づいて喜びと恵みに満ちて生かされていることに対して、私たちが神様に応えるために、神様を讃美したり、ささげものをしたりして、感謝を表すために行われるものだからです。しかも、人間は弱いものですから、救われている確信を持ち続けるためにも、神様が備えてくださる道をまっすぐにしてくださるためにも、礼拝が私たちにとって必要とされるいくからです。そのために、私たちはイエス様が復活された日曜日を大切な日として、イエス様の体である教会に招かれて、イエス様のこと、神様のことを礼拝しているのです。しかし、本来は、ほかの人間とちっとも違わない当たり前の人間として、毎日の当たり前の生活のただ中を歩んでいくのです。けれども、ただ一つ違うことは、イエス様によってゆるされて、イエス様によって生かされていることを信じて受け入れることによって、新しい人生をイエス様によって与えられて歩んでいるということです。それが、クリスチャンの姿なのです。このクリスチャンの意味が分かれば分かる程に、表面は、敬虔そうに見えても、実は、内側は、神様から離れる思いと醜さに満ちているということを思わずにはいられなくなるでしょう。そのことから、やはりイエス様の十字架のゆるしと救いあるいは神様の愛なしには生きられないことに気がついていくのではないかと思うのです。このことから、クリスチャンの生活や教会生活がもっともっと生き生きとなって喜びに満ちたものになるのではないでしょうか。 ところで、今日の物語で、イエス様の招きを受けた二組の兄弟たちは、漁師でありました。この漁師という職業は、この当時は、あまり重んじられてはいませんでした。イエス様の時代においては、漁師は軽蔑されていたのです。ところが、このように軽蔑された人々が、まずイエス様に呼びかけられて、「私にについてくるように」と、招かれるのです。イエス様に招かれた4人は、イエス様についていきました。従っていったのです。イエス様に従うとは、弟子となったということです。ここに、最初のイエス様の弟子たちが誕生したのです。世間の常識からいえば、予想外のことではないでしょうか。驚くべきことではないかと思います。その当時、世間から嫌われていたような仕事をしていた人々を、イエス様がはじめに選ばれ、招かれたということは異様なことに違いありません。けれども、イエス様から招きを受けるということは、当時、軽蔑されていた仕事である漁師ということは、何にも妨げにはならなかったのです。いえ、むしろその人の身分や立場に関係なく、しかも、世間では一番嫌われていた人々、一番軽蔑されていた人々をイエス様は声を掛けてくださり、イエス様のもとへと来るように招くのです。そうなのです。イエス様が私たちを招いてくださり、イエス様に従って弟子になるようにとお選びになるのは、私たちに何か見どころがあったり、私たちに何かましなところがあるからではないのです。聖書や神様の知識をよく知っているとか、知恵があるとか、上品な生活をしているとか、性格がいいとかの理由によって、イエス様から招きを受けるということではないということです。 しかし、それでも、私たちは、イエス様の弟子となっていく理由を考えてしまいます。この私がクリスチャンなれる根拠や理由を考えてしまうということです。私たちが聖書を読んでいく時に、いろいろと自分の思いや考えで、いろんなものを聖書に付け加えていきます。そのために、聖書の物語が見えにくくなっていくことがあるのです。みなさんは、この物語で、シモンたちが、イエス様の弟子となっていったのが、あらかじめイエス様のことを知っていたからではないかと思われたのではないでしょうか。あるいは、シモンたちが、イエス様を信じる信仰が少しぐらいはあったから、イエス様の弟子となったのではないかと思われたのではないでしょうか。しかしながら、イエス様は、シモンたちに神様を信じる信仰があるかないかを見て、弟子にするかしないかを決めておられたのではありませんでした。聖書には、明らかにイエス様が4人の漁師を選ばれた理由は、記されていません。このことは、イエス様の弟子となる理由なんかないのです。私たちも同じことなのです。クリスチャンとなっていくことは、私たちの側には、理由はありません。根拠や条件なんかないのです。逆に言えば、このことは、なんと恵みと喜びに満ちているのでしょうか。私たちに特別な能力はいらないし、いろんな条件を付けられることなく、イエス様に招かれ、イエス様に選ばれて弟子となっていくからです。つまならい、くだらない人間であると思っていても、あるいは弱い人間であっても、イエス様は私たちをご覧になって、「わたしについて来なさい」と声を掛けられ、招いて下さるのです。このことは、クリスチャンとして生きつづけることにも当てはまると思います。どうかすると、いつも私たちの側に救われている根拠を追い求めていくのです。それだから、神様や教会のために何もできなくなった時に、信仰を捨てようと考えてしまうのではないかと思えるのです。 さて、私たちが招かれている根拠や理由はないと先程言いました。ただ、理由があるとしたら、それは、私たちが神様によって造られた人間であるということだからです。私たち人間は、最初から神様のものだからです。イエス様のものだからです。3月で番組が終わりましたけれども、3年B組金八先生という番組が放送されていました。その番組の後に続きますニュースも楽しみで見ていたのですが。それに、私が高校時代にこの金八先生の第一回目のシリーズを放送しておりまして、もう20年前になりますけれども「あんな先生いないよ」と言いながら、その当時は涙ぐんで夢中で見ておりました。なつかしさから今回も夢中で見てしまったのですけれども、その金八先生の中で、こんなシーンがありました。3年B組の生徒の中で、引きこもりのお兄さんがいることから家庭が崩壊して悩み苦しみのストレスからクラス中を引っかき回して暴力事件やゆすりをしていた一人の生徒がいました。金八先生は、相変わらず一所懸命になって、その一人の生徒の救いために力を尽くすのです。何度も何度も問題解決のためにその生徒と格闘を繰り返すのです。そんな中、その生徒が言うのです。「なんでですか。なんで僕のためにそこまでするんですか。僕は3Bをぐちゃぐちゃにしたのに。」それに対して、金八先生は、「君は、君が私の生徒になってくれたからだよ。理由はそれだけだよ。」このシーンを見た時、これは聖書的だなあと思いました。それと同時に、聖書には、金八先生以上のいえ人間の思いをはるかに越えたお方である救い主であるイエス様の姿が描かれているのです。このイエス様が、私たち一人一人を招いておられるのです。イエス様のものとして、救いと恵みに満ちた中に招いておられるのです。本来は、私たちすべての人間が神様のものであり、イエス様のものなのです。イエス様が私たちを招く理由は、私たちが神様にとってかけがえのないものであるからです。他に理由は何もないのです。いえ、繰り返すようですが、人間の側には理由は何もないのです。 さて、聖書では、イエス様の招きの言葉に対して、4人の漁師は、すぐに網を捨てて、一切を捨てて、イエス様に従っていった様子が描かれています。イエス様の招きに対する4人の反応は、以外にもあっさりとなされました。4人は、弟子となる決断を迫られたのです。しかし、イエス様に従う、弟子になるという決断がすぐになされたということです。何かを決断するということは、あれこれと考えたり思ったりすることと別なような気がするのです。しかも、この決断が、イエス様の招きに応えていくために重要なものとなっていくのです。私たちにも、イエス様の招きに対して決断を迫っておられます。イエス様の招きにどう応えていくのか求めておられているのです。私たちの側にしてみれば、このイエス様の招きに対して、それを断る言い訳は、いつでも用意できるということです。たとえば、若い人であるならば、決断するには早すぎるから、もっといろいろと経験をしてからであるとか、壮年になると、言葉はよく理解できますが、今は、この生活に満足していますから、その生活が終わり次第考えてみますとか、さらに高齢者になりますと、あなたに従うには、年を取りすぎて、今更、この人生を変えられませんというようにです。このように理由づけは何とでもできるものなのです。神様の側の招く理由はなんにもないにもかかわらずに、私たち人間の側においては、いつも断る理由を持ちつづけているのです。けれども、イエス様は、このことをよくご存じであります。イエス様に従うとは、その弱さを含めてということであり、イエス様の招きとは決して特別なことではありません。ある宗教団体のように、仕事をやめ、生活を捨てることではなく、日曜日ごとの礼拝に招かれ、新しく変えられて、イエス様を信じて生活をすることが、イエス様の招きに応えていくことになるのです。 聖書の物語には、2千年前の出来事が描かれています。しかし、私たちにとっては、今の出来事なのです。なぜか。それは、イエス様が私たち人間の救いのために、この世界に人として降りてくださって、神様から離れる思いや人間中心に生きていこうする罪を取り除いて下さるために、十字架に掛かってくださったからです。しかも、十字架で命を捨てて下さった後に、死を打ち破って、よみがえってくださり、今も生きて働いておられるからです。今も、イエス様は生きておられるのです。イエス様は私たちと共に生きて、私たちと出会い一人一人に声を掛けてくださり、招いておられるのです。イエス様の弟子になるように、あるいはイエス様のことを信じるようにと招いておられるのです。聖書には、神様、イエス様に出会い招かれていった人々がたくさん登場しています。いろんないきさつを通して、イエス様に出会い、イエス様に招かれて、イエス様のことを信じていった人々です。「えっ、こんな人が」と思いえるような人達ばかりです。今日の物語に登場してきましたシモン、別の名前でペトロは、イエス様の12人の弟子の中でもリーダー的な存在でしたが、おっちょこちょいで、弱い人間であることか聖書を読むことによってわかっていきます。今、みなさんは、イエス・キリストに出会い、招かれているのです。あなたはイエス様に招かれているのです。このイエス様の招きにどのように応えていくかは、みなさん方の問題です。このイエス様の招きが神様に祝福されますように、お祈りをささげたいと思います。 祈ります。 天にいらっしゃいます父なる御神様 ここに呼び集められた人々は、イエス様の働きによって、イエス様に出会い、イエス様に招かれている人々です。どうぞ、この人々が、イエス・キリストの招きに応えていくことができますように、神様の働きを一人一人にあたえって下さいますように、どうぞお導きをお願いいたします。なによりも、イエス様のことを真の救い主と信じる信仰を与えてくださいまして、絶えず神様の御言葉によって、生かされていくことができますように、お導きください。また、イエス様の十字架と復活によって救われている喜びと感謝を持って、また、「あなたはかけがえのない人である」というイエス様の声を聞きつづけて、私たちが新しく人生を歩んでいくことができますように、一人一人に励ましと力づけをあたえてくださいますようにお導きをお願いいたします。この祈りを救い主でありますイエス様のお名前を通して、御前におささげ致します。 アーメン |