| TOPへ 聖書のお話しMENUへ 「愛がなければ」 コリントT13章1−13節 職場や学校、近所において、あるいは私たちが関わるすべての人々において、好きな人、気にいった人がいます。その反対に、嫌いな人、気に入らない、気にくわない人がいます。この教会だけではなくあらゆる教会の中においても、そのように気にいった人、あるいは気に入らない人というように選びながら私たちは、接しています。けれども、クリスチャンであるということから、自分の気にいらない人達に対しても愛をもたなくてはならないと思ってしまいます。このことは、あるいはクリスチャンになるということが、気に入らない人に対しても、好きにならなければならない、好意を持たなければならないと、考えてしまうということです。そのことから、聖書の中で、愛について書かれているところを読んで、愛のことを思えば思う程、落胆してしまうことが、ないでしょうか。 私たちは、無理に自分の心を偽りながらも人を愛さなければならないのでしょうか。この考えから、聖書が示す愛というものをどう考えていいのかわからなくなると思います。 先程読んでくださいました、コリントの信徒への手紙一の13章全体は、「愛の讃歌」と呼ばれています。愛を褒めたたえている歌であるということです。愛についての讃美歌といってもいいでしょう。この全体を見てみますと、愛というものが語られていることは、クリスチャンでなくてもよくわかるかと思います。イエス様のことを知らなくても、イエス様を信じなくても、この13章の全体を読むだけでも、感動し、あるいは13章の最後の13節「最も大いなるものは、愛である。」という言葉の偉大さに、心を引かれるのではないでしょうか。そのように、この箇所は、だれにでも感動を与えるところであると言えます。しかも、この箇所があまりにも偉大過ぎて、読むだけで、愛というものが、自分には分かりきっていると思い込んでしまいます。そのために、私たちが持っています、愛に対する考え方で、この箇所を読もうとすれば、ここで語られている愛というものの本当の意味を見失ってしまうでしょう。キリスト教は、愛の宗教であると一般的には、そのように言われています。イエス様自身も「愛」のことについて、説明されたからです。それに、聖書全体が、愛について語られているからです。そのようなことから今日は、聖書が告げています、愛について、御一緒に考えていきたいと思います。 それでは、愛とは一体何でしょうか。特に、愛とは、こういうものであるということが4節から7節のところに記されてあります。ここで示されている愛というのは、実際に人が生きる生き方あるいは、生活の態度を説明しているのです。このコリントの信徒への手紙は、パウロという人がギリシアの町であるコリントの教会に送った手紙であります。パウロは、愛というものが、人が行い、その生活の中に生かす以外には、あらわしようがないと思ったのです。それで、パウロはこの手紙の中に愛というものがどういうものであるのかを記しました。しかし、愛は具体的にこういものであると言うことはできませんが、愛が生かされると、こうなるということをここで語っているのです。4節のところを見てみますと、いきなりパウロは、「愛は忍耐強い。」ということから、愛について書きはじめます。このことは、愛についての一般の説明をくつがえすものではないでしょうか。普通、愛というものは、美しいものであるとか、楽しいものであるとか、喜ばしいものであるとか、情熱的であるというように考えられていると思います。ですから、真先に愛は忍耐強いとは私たちは言わないと思います。しかし、私たちも、愛というものが忍耐に通じていることを知っています。もしかしたら、みなさん方の中でも愛という名のゆえに、忍耐しているという方もおられるでしょう。けれども、私たちの場合は、もしかすると愛とは名ばかりで、嫌で仕方ないけれども、我慢している、というのではないかと思います。しかし、ここで言われている忍耐とはそういことではありません。この忍耐とは、気を長く持つという意味です。自分の愛する相手、自分の隣人は、いつでも自分に気に入ることを言ったり、したりするとは限りません。嫌なところが目立つこともあるでしょう。ましてや、好きでもない人に対しては、嫌なことが気になったり、感じたりすることも多いのではないでしょうか。しかし、そういう人を愛するということは、愛するというよりも、その人々に対して、気を長く持つということが一番大事であるということをパウロはここで言っているのです。 それに続いて、「愛は情け深い。ねたまない。」というよう記されてあります。考えてみますと、ねたまない愛があるのでしょうか。私たちは、愛すれば自分のものにしたいと思ってしまいます。独占したいと考えるということです。従って、私たちは、愛にねたむことが当然だと考えているのです。次に「愛は、自慢せず、高ぶらない。」と記されてありますが、このことは愛については、考えにくいことであり、無関係だと思ってしまいます。ましてや、5節で記されていますように、愛は礼を失せずということぐらい理解できないものはないでしょう。それは、私たちが、人を愛したら、礼儀などは無視してもいいと思っているからです。愛が深くなればなる程、多少の礼儀は許され、礼儀がなくなくことが、愛が深まったしるしであると考える人も少なくないだろうと思われるからです。このように、考えていくとすれば、どうもここでパウロが言っております愛というものが、私たちが普通考えている愛とは、違うということがわかってくるかと思います。つまり、ここで言っています愛とは、愛情ではない、ということです。また、愛は恋愛や好きであるという気持ちとも違うということです。そのことから、愛には、非常に高い愛があるかと思えば、汚らわしいといいたくなる愛もあるということでしょうか。私たちは、愛はだれでも持っていると思っています。しかし、私たちは、自分の愛が完全だとは思わないし、もっと愛されたいと思っているのではないでしょうか。しかも私たちは、本物の愛について説明しようとすれば、難しいと思いますし、説明するのに困ってしまうと思います。 この4節から7節までの愛についてのことを注意深く見てみますと、まるで人間のように、愛のことが記されていることを発見するでしょう。愛のある人、愛する人、愛される人というようには、記されていないということです。ただ、愛は〜であるというのです。ですから、私たちは、このことが謎のように思えてきますし、人がついていないだけに、美しいものに見えてくるのです。このことから、主語が、わたしやあなたというような人間を表していないということから、いろいろなことを考えて、ある人が、この愛という字は、実は、イエス・キリストのことではないかと言うのです。愛とは、イエス様のことであると言うのです。愛のことが人間のように記されていますので、愛という主語は、イエス様のことを指していると言うのです。パウロが、これだけ愛のことを語っているのに、ここにはイエス・キリストの名前が一つも記されていないということからです。このことから、「愛」のかわりに「イエス様」の名前を入れてお読みになってもらいたいと思います。イエス様は、忍耐強い。イエス様は、情け深い。ねたまない。イエス様は自慢せず、高ぶらない。というようにです。そのようにすると、この言葉がなんとすばらしく、この愛という言葉が、真実であるというように心に響いてくるかと思います。 しかし、もしかしたら、どうもそうは思えないという人々もあるかと思います。そのような時は、愛という字の代わりに、自分の名前を入れて読んでみるのです。たとえば、恥ずかしいのですが、私の名前は、はやとですので、愛の代わりにはやとを入れて読んで見たいと思います。はやとは、忍耐強い。はやとは情け深い。ねたまない。はやとは自慢せず、たかぶらない。ここまで、語ってくるだけで、何とも恥ずかしさで一杯になります。それと同時に、自分自身の名前を入れることがなんと不自然であり、嘘に満ちたことであろうと思います。あるいは、大きな罪悪を犯している気がいたします。みなさん方も愛の代わりに御自分の名前を入れてみるとよろしいかと思います。それで、お読みになると、そのことに耐えられるでしょうか。きっと、耐えられないと思えるのです。そこで、この箇所を自分のこととして読むと愛のことが随分とよくわかるのではないでしょうか。ですから、私たちは、ここをこのように読むでしょう。私は、忍耐強くありません。私は情け深くありません。ねたむことばかりしています。わたしは、つまらないことを自慢し、高ぶっています。礼儀を知らず、自分の利益ばかりを求めています。いらいらしています。恨みを抱いています。不義を喜び、真実を嫌っています。そして、すべてのことに忍耐できず、すべてのことに不信感を持ち、すぐに絶望的になり、なげだしてしまいます。というように、少なくともわたし自身にとってはこのように言うことが正直であると思えるのです。このことから、わたしは、益々、愛には値しない人間であることを思い知らされます。従って、この愛というものが、イエス様のことを指しているということです。 けれども、パウロ自身は、恐らく本当の愛、真実の愛というものが、イエス様御自身であるということを十分わかったものとして、ここに記したのだと思います。だから、やはりこの4節から記されていることは、私たちの愛の生活を実際に行っていくことになるのです。しかし、パウロがそのようなことを語っても私たちは、こんなことはできないと思えるのです。けれども、できない愛に、イエス・キリストによって真実な愛が与えられているということです。従って、イエス様の愛というものを知らなければ、真実の愛というものもわからないということが見えてくるのです。イエス様の愛なしには、愛に生きるということも、できないということがいえるでしょう。だから、イエス様の愛ということを知らなければこの13章の愛の讃歌も、ただの美しいもので終わってしまうのです。あるいは、幻想や理想のものとして、こんなことはできないが、こういうような愛の生活ができたらいいなというようなことで終わってしまうのです。では、イエス様の愛とは何でしょうか。それよりも、そもそも神様の愛とは何でしょうか。このことが、本当に自分のものにならないと、愛もあるいは13章の言葉も自分のこととして、はっきりと受け取ることができないということです。 聖書では、ヨハネの手紙一の4章9節から10節にかけて、神様の愛ということがどういうことなのかを示しています。新約聖書の445ページのところです。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方(独り子)によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちに示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」と聖書は語っています。神様が私たちを愛して下さったということです。そのために、神様の大切を独り子であるイエス様が私たちのために十字架について下さって、私たちの罪のつぐないとして、いけにえになったということです。これこそが、愛であるということです。私たち人間のためにイエス様が死なれたということこそが、本物の愛であるということです。 ところが、パウロは、コリントの信徒への手紙一の13章の3節で、「全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。」と語っています。私たちは、全財産を貧しい人々のために差し出すことは、愛ではないのだろうかと、考えてしまいます。全財産を出してしまえば、生きられなくなるかも知れません。あるいは、全財産を投げ出すことは、自分の生命を捨てることになるかもしれません。それでも、愛がないとういうことがあるのだろうかと思ってしまうということです。しかも、自分自身を死に引き渡すということは、愛ではないかと思ってしまいます。誰かのために、死ぬことは、愛ではないかと思ってしまうのです。しかも、イエス様も私たちのために死んでくださったので、同じではないかと考えてしまうのです。しかし、あえて、この新共同訳の聖書では、自分自身を誇ろうとしてと、記されてあります。誰かのために、死ぬということの中にも、自分の美しい行いとして、自分で満足したり、それを誇ろうとする思いがひそむということです。しかしながら、私たちは、何かの犠牲の死に関して、愛を感じ心を動かされるということもよく知っていると思います。たとえば、海や川で溺れている人を助けようとして、助けようとした人の代わりにその人が死んでしまった話であったり、あるいは、車に引かれそうになった自分の子どもを助けようとして、死んでしまった母親の話であったり、そのような愛の話というようなものに、本当の愛を見いだすのではないでしょうか。そのような、ニュースにクリスチャンであるなしに関わらずに、そこに真実な愛を感じるのではないでしょうか。 ましてや、神様の愛、イエス様の愛は、このことよりもはるかに究極な愛なのです。どうして、そのようなことがいえるのでしょうか。関係がないと思えるような私たちのためにも、イエス様は十字架についてくださって私たちの罪を取り除いて下さったからです。私たちは、神様から、離れ自分勝手な生き方をしていたのです。愛するということも、自分の気にいった人を愛すればいいと考えて自分中心の愛に生きていたのです。生きるということも、愛するということも自分がまるで神様のようになって自分中心に物事を考えていたということです。そのように、自分中心に考え、神様なんか必要がないと思っていた私たちの罪を取り除くために、神様は、独り子をこの世界に送ってくださいました。しかし、私たちは、その独り子であるイエス・キリストを十字架につけて殺したのです。このことは、私たちには、関係がないと思われる方もおられるでしょう。しかし、そのような私たちの考えが、イエス様を十字架につけたのです。ある人が、愛の反対は、憎いや嫌いということではなく、無関心であると言いました。私たちの無関心が、イエス様を十字架につけたということです。イエス様は、自分が憎まれても、嫌われても、しかしそれでも、尚、イエス様は、私たちを愛してくださいました。それは、神様が、かけがえのない人間として私たち一人一人を愛されたからです。具体的な目に見える形として、神様は、大切な独り子であるイエス様を十字架につけて、私たちに愛を示されたのです。 そのことから、神様の愛とは、イエス様に救われて、私たちの罪がゆるされたことになるのではないでしょうか。愛とは、ゆるしであるということもいえるでしょう。自分がゆるされる必要がないと思っている人は、決して、人をゆるすことができません。このことは、神様から愛される必要がないと思っている人は、神様も愛せないし、人も愛せないということです。しかし、それにもかかわらずに、神様は、私たち一人一人に、愛を注いで下さっているのです。ですから、私たちは、神様が私たちを愛して下さっていること、私たちの愛がイエス様によって与えられていることを信頼して生活をしていきたいと思います。私たち人間が求める愛は、決して自分達の努力によって何とかなるようなものではありません。なによりも、すべての人に愛を持って接することは、イエス・キリストなしにはありえないのです。あるいは、私たちが神様に愛されていることを実感することは、イエス様を通してしかありえないということです。そのことから、イエス様の愛がなければ、たとえ、嫌な人々がいたとしても、愛を持って接していくことができないということです。まだ、イエス様の愛にきづいておられない方は、イエス様がどんなに私たちを愛して下さっているのかを聖書を通して知ってもらいたいと思います。そして、私たちは、神様が私たちを愛して下さっていることを受け止めて、イエス様の愛にこたえて、さらに、神様から力をいただきながら、人々を愛して、愛の生活をしていきたいと願っております。 お祈りをしましょう。 天にいらっしゃいます父なる神様 主の日に私たちを教会へと招いてくださいまして、愛する兄弟姉妹の方々と共に、礼拝を守り、神様の御言葉によって、新しい恵みをいただき、心より感謝を申し上げます。私たちは、日頃の生活の中で、愛が足らないことを覚えて過ごしています。時には、自分中心の愛や考えから、人々をきずつけ、いらだちながら、生活を繰り返しております。しかし、そのような私たちでさえも、神様は、私たちに愛を与えてくださいまして、何よりも私たちを愛してくださいました。神様の大切な独り子であるイエス様を十字架につけるほどに、私たちに愛を示してくださいました。どうか、私たちが、神様の愛を受け入れて、イエス様のことを信じていくことができますように、導いてください。また、神様のことを愛して、その愛によって、好きになれない人々をも、愛していくことができますように、どうぞ神様の働きかけをお願いいたします。まだ、イエス様の愛を知らない人々にも、イエス様がどんなに私たちのことを愛しておられるかということを気づかせてくださいますように、どうぞお願いいたします。そして、イエス様の愛を受けながら、愛の生活を行っていくこができますように、お導きください。今、病の中、悩みの中、苦しみ悲しみの中にいる人々にも、神様の愛を示してくださいまして、平安となぐさめを与えてくださいますように、どうぞお願いいたしすます。この祈りをイエス様の御名によって御前におささげ致します。アーメン |