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「驚くべきことを見る」 5章17−26節  

    「今日、驚くべきことを見た」と聖書は、語っております。この言葉は、今日これから受け取ります聖書の物語に関わった人々の最後の言葉です。いわゆる、ある出来事を見た人々が反応した言葉でした。この「驚くべきこと」と訳されております言葉は、元々の意味を英語で表すならばパラドックスという言葉です。日本語に訳しますと、逆説という意味になります。私たちは、日常の生活において、こんなことはありえないなという考えを持ちながら過ごしております。私たちの考え方が日頃の常識に捕らわれて生活をしているということです。私たちは、自分自身の判断や思い込みを持ちながら過ごしているのです。その私たちの常識や思い込みに逆らうような、あるいは矛盾するような出来事が起こることをパラドックスと言っています。思いがけないことであり、びっくりすることが起こることです。ですから、ここで私たちが考えをもしなかったことを、今、見たんだということを人々が語っているということです。  

    しかも、この人々の反応の言葉である「今日、驚くべきことを見た」の前に、聖書は、26節で「人々は皆大変驚き」と人々の反応の姿を描いております。ここで使われている「驚き」という言葉も大変面白いもので、元々の意味を英語で表すならば、エクスタシーという言葉になります。反応が敏感な方は、意味がすぐにおわかりになるだろうと思います。エクスタシーとは、我を忘れて何かにうっとりと浸ってしまうことです。しかも、日常の生活には起こらないことを体験することであります。それだから、ここで使われている「驚き」とは、日常の生活をしている自分というものを忘れてしまうような異常な驚きのことをさしています。私たちは、日常の生活、朝から晩まで、平凡なことを繰り返して、世の中には、こんなことしか起こらないと思い込んで生活をしています。人間というものは、こういうものでしかない、あるいはこんな考え方しかしないものだと思い込んでしまっています。そのような思いや考えに逆らうようなことが、今日の聖書の物語の中で起こっているのです。「今日、驚くべきことを見た」と言って、思いがけないほどの、我を忘れるほどの驚きが人々を捕らえてしまったのです。これが、今日受け取ります物語の最後の部分であります。  

    さて、私たちは、こうして今日、礼拝に集まってきております。もしかしたら、初めてあるいは数回しかこの礼拝に出席されたことがない方もいるかもしれません。その方々が今、礼拝に与かりながら、驚くべきことを体験しておられるかどうかそれはわかりません。しかし、長く礼拝に与かりながらも、礼拝において、もう驚くべきことは体験しなくなった、神様の恵みは、もうこれぐらいだという思いを持っておられる方もいるのではないでしょうか。礼拝にあずかる生活をする中で、「聖書の話は、もう聞かなくてもよく分かっている、何度も何度も同じ話しで、聞き飽きた、何も心を動かされるようなものはなくなってしまった。」そのような思いに駆られることもあるかもしれまんせん。しかし、考えてみますと日曜日ごとの礼拝は、決して、日常の生活の中で、繰り返されているものではありません。むしろ、礼拝をするということは、非日常の出来事です。まさしく、教会にやって来て礼拝を行うということは、日常の生活から離れた特別な時間を過ごしていることになります。それだから、この礼拝に与かることは、本来は私たちの思いや考えを越えるものをいつも繰り返し体験することができるものなのです。ある人が、「イエス・キリストの恵みはいつも新しい、まえから知っていた恵みを、今日経験することはない」と言われました。今、イエス様の恵みを知ったということは、いつも新しいことが起こっていることであります。まさしく、驚くべきことが起こっていることになるでしょう。神様の恵みを新しく知る、神様の思いがけない働きを知ることが、驚くべきことを見るのであります。26節の「驚き」という言葉の続きを見てみますと、「神を讃美し始めた。」と記されてあります。神様の驚くべきことや恵みを受け入れることによって、神様をあがめ、ほめたたえないわけにはいかなくなるのです。神様の前に進み出て、神様を礼拝しないわけにはいかなくなるのです。イエス様が働いておられる姿は、決して私たちには、関係のないことではありません。私たちと共にいてくださいますイエス様ご自身の姿がこの物語にも描かれているのです。なぜならば、イエス様はよみがえになられたことによって、今も私たちと共にいて生きて働いておられるからです。聖書の物語は、復活されたイエス様の姿をいつも忘れずに、描いてきました。この物語を読んでみますと、イエス様の日常の姿を描いているものです。しかし、この日常のイエス様の姿を通しても、私たちに驚くべきことを見せておられるのです。今日の聖書の物語から新たに驚くべきことを私たちは見て、神様の言葉を受け取っていきたいと思います。 

  さて、17節で、「ある日のこと」という書き出しで物語が始まりました。イエス様は、神様の力が働いて病気を癒しておられました。それで、イエス様のまわりには人々がたくさん集まっていたのです。そこに、一人の人物が登場してきます。聖書は、「中風を患っている人」と描いております。この中風というものは、脳の出血によって、手足が麻痺してしまって、動けなくなる病気のことです。恐らく、この人は病気で寝込んでいたのでしょう。しかも、この当時では、病気で動けなくなった人々は、社会からは、必要のない人間であるとみなされていました。ただ、今日の物語に登場してきます病気の人には、幸いにも、心を配る友人がそばにいたのです。ここで取り上げているルカによる福音書の物語は、マタイによる福音書とマルコによる福音書にも少し描き方は違いますが、同じ物語を書き記してあります。聖書には「中風の人をいやす」という小見出しの下に、括弧書きで、それぞれの聖書箇所を示しておりますので、参考にしたらよろしいかと思います。マルコによる福音書の物語を見てみますと友人たちは、4人の男であると記されています。この4人の友人は、イエス様がどんな病気でも癒して下さっているといううわさを聞いていたに違いありません。それで、この4人の友人は、イエス様にこの病人の病気を癒して頂くために、床に乗せて運んできたのです。この友人たちは、動けなくなって、用なしとなっていた病気の人に心を傷めて見守っていたのでしょう。あるいは、恐らく、この人達は病人の不自由な生活を、自分のこととして、思い悩んでいたのだと考えられます。だからこそ、この人達は本当に、イエス様に、病人の癒しを求めていたのです。ところが、イエス様は、家の中におられて、その回りには、人々で溢れていて、病人をイエス様のもとに連れて行くことができませんでした。この病人が救われる道が閉ざされてしまったのです。しかし、この4人の友人たちは、あきらめませんでした。何とかして、別の方法、別の道を探したのです。どんな方法だったのでしょうか。  

 聖書は、19節で、「運び込む方法が見つからなかったので、屋根に上って瓦をはがし、人々の真ん中のイエスの前に、病人を床ごとつり降ろした。」とその時の様子を活き活きと描いています。この様子を想像しただけでも、驚くべきことです。屋根に病人を運んでいって、瓦がはがされる様子が見える。これを見ただけでも、びっくりすることでしょう。家の中にいた人々は、驚いたと思うのです。それだけでなく、病人が寝ている床が天上から降りてくる。恐らく、寝床の4つの隅をロープで縛って、4人の男の人が、一斉にゆっくりと降ろしたと思われます。家の中は、人々で混雑している中での出来事でした。この行動は、サーカスでも、見せ物でもありませんでした。それにしても、この人達の行動は、激しい行為です。人の家の屋根に穴を開ける、人を押し退けてでもイエス様に癒してもらうとするこの大胆な行為は、いささか、無作法であるし、失礼でもある。いわゆる、常識はずれの行為です。常識を越える行動をしてしまったのです。誰もが、考えないような行動をしてしまったのです。そこにいた人々は、この時、どのような思いを持っていたのでしょうか。「なんて非常識なやつらだ」、「なんと無礼な男たちだ」と思って見ていた人々もいたでしょう。クリスチャンの人々もそのように、「なんて非常識な人達だ」というように見られることがあるかもしれません。実際、牧師が一番非常識なのかもしれません。  さて、この時、イエス様は20節で、「その人たちの信仰を見」られたと書き記されてあります。屋根から友人たちが病人をつりおろす激しく無礼とも思えるような行動に、イエス様は信仰をごらんになったのです。一体信仰とは、目で見ることができるのでしょうか。信仰とは、心や魂の問題であると思っていますので、見ることができないと考えてしまいます。しかし、確かにイエス様は、この人達の信仰を見られたのです。それにしても、イエス様は、この人達のどのような行動に信仰を見たのでしょうか。ここで、不思議にも、イエス様は、この友人たちの愛を見ておられないということです。友人たちが、この病人を気づかっている様子や哀れみを持っている心を見てはおられなかったということです。人間同志の友情や愛情には、目を留めておられないということです。それよりも、イエス様に対する信仰を見ておられて、それを喜んで受け入れておられるということです。信仰を見るとは、その信仰がわかって受け止めるということです。ここで、イエス様がこの人達の信仰をわかって受け留めて下さっているのです。では、この人達の信仰とは何でしょうか。どこに、信仰が現れていたのでしょうか。単純に、信仰とは一体何かということです。教会で表す信仰とは、イエス様を信じるということです。イエス様を求めるということです。この友人たちは、中風で患っているこの病人を、イエス様なら必ず治して下さるという思いに生きたのです。とにかく、イエス様に病気を治してもらいたいという切実な願いに生きたのです。そのために、イエス様に救いを求めたのです。イエス様なら治して下さるという信頼をして、どんなことがあっても、イエス様にその願いを叶えて下さるように考えました。この人達は、「イエス様ならなんとかして下さる」というイエス様を信じて願いを求めた信仰に生きたのです。この信仰をイエス様は、見られて受け入れて下さったということです。 

  ところで、私たちは、教会に来るようになり、聖書を学び、イエス様の教えというものが何かということを知ることによって、信仰のことが段々とわかっていきます。しかも、神様に祈ることもできていきます。いえ、もしかしたら、信仰のことがわかっていくと、祈ることが難しいものと考えてしまうかもしれません。それは、祈りの中で、神様にお願いすることをためらってしまうからです。神様に祈ることが、願いだけではないことに気がついていくからです。教会で祈ることが、世間で祈られているようなものとは違うという思いに陥ってしまうからです。私たち日本人は、祈りが願いだということをよく知っています。一般には、祈りとは、神仏にお願いすることだと思っています。「苦しい時の神頼み」ということをよく知っているのです。病気になったら、苦しかったら、また、欲しいものや何かに合格したいと思ったら一生懸命になって、神仏に言うことを聞いてもらおうと思ってお願いをするのです。そのような御利益主義に走ることもよく知っているのです。けれども、私たちがイエス・キリストの神様のことを知っていくと、そんな勝手な願いはしてはいけないと思いはじめるのです。自分の願いで、神様を動かそうとすることは、これは神様を信頼していないことだと思い込んでしまうのです。だから、願いを持つというような祈りはやめたほうがいいと思ってしまうのです。自分の願いよりも、神様の御心通りになりますようにと、御心だけを大切にしなければならないと考えてしまうのです。確かに、このことは、祈りの正しい筋道なのかもしれません。しかし、このことから、結局は、祈りは難しいと考えて、祈ることをやめてしまうのです。イエス様に願い求めることを忘れてしまう。神様を信頼することも、やめてしまうのです。しかも、神様にいくらお願いをしても、この現実は変わらないと思ってしまうのではないでしょうか。私も実のところ、祈りの中で願い求めることを躊躇することがあります。しかし、イエス様は、自分を信頼して願い求めることを受け入れてくださっているのです。「お前の信仰は病気を治してほしいというだけの御利益信仰だから駄目」とか「もっと聖書を学んでから求めなさい」とか、そんなことは言われません。ですから、神様が私たちの祈りを本当に聞いてくださるお方だと信じて、神様に信頼して、これでは困ります。どうぞ、お心を変えてくださいという願い求める祈りが必要になっていくのです。それだから、具体的に、今、みなさんが悩んでいる問題や信仰や教会の問題、人間関係の問題を、イエス様なら何とかしてくださると信頼して、願い求めていくことが必要であるということです。とにかくイエス様のところに行こうという信仰を必ずイエス様は受け入れて下さるのです。イエス様に願い求めることから信仰は始まるのです。いえ、もっともっと素朴に、神様に信頼することが、信仰の中心だということに気がつかされていくのです。  

    さて、イエス様は、病人たちの信仰を見て、不思議なことを言われました。「人よ、あなたの罪は赦された」という言葉です。決して、「あなたの病気は癒された」という言葉ではありませんでした。もしかしたら、この病気の人や友人たちは、「罪がゆるされた」という意味がわからなかったのかもしれません。ましてや、罪がゆるされるために、イエス様を求めていたのではなかったと思われます。罪のゆるしよりも、病気の癒しのほうを願っていたと思うのです。私たちも、そうではないでしょうか。教会に救いを求めていく時に、どうかこの私の病気を治してくださいとか、この悩みを解放して下さいということを願っていくのではないかと思います。最初から、私は、罪人だから、この罪をおゆるし下さいという願いを持って、教会には行かないと思うのです。特に、教会のことやイエス・キリストのことを知らない人々が考えることは、人間的に、あるいは精神的に弱い人々が教会に行って、強くなれるところであるというように思っていることです。だから、悩みがない人、精神が強いと思い込んでいる人は、教会には行かなくてもよいと思っているのです。確かに、教会は、悩みがある人や精神的に弱い人々が多く集まるところかもしれません。けれども、悩みを解決されたり、病気を癒されたりしたというだけであったら、果して私たちの救いは本当に果たされるのかということです。イエス様は、23節で、「『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。」と語られました。みなさんは、どちらだと思われますか。恐らく、多くの人々は、罪が赦されるということがどういうことなのか、また罪が赦されるということはどうせ目に見えませんので、「あなたの罪はゆるされた」という言葉のほうが易しいと思うのではないでしょうか。  けれども、考えてみますと、一体罪のゆるしとは何なのでしょうか。イエス様が「罪は赦された」ということを聞いていた人々が、「ただ、神のほかに、いったいだれが、罪をゆるすことができるだろうか。」と語っています。この罪のゆるしは、神様しかできないことでありました。ここで取り上げています罪とは、的外れや脱線という意味があります。思い違いをすることであり、道から離れることです。ですから、この罪というものは、神様から離れることであり、神様なんか信じなくても生きていくことができると思い込んでいることです。

    しかし、注意して頂きたいのは、この中風という病気を患ったという不幸なことが、罪の結果ではありません。私たちは、誰でもが、罪を持っているのです。神様を中心とした生き方をせずに、自分中心にして生きたいと望んでいるのです。自分の考えが正しいと考えているのです。そのために、自分の思い通りにならないことに腹を立てるのです。私たちは、行動や言葉を通して、物事を自分中心に考えて結局は、神様から離れて、神様に背いていくのです。その罪がゆるされたとイエス様が言われるのです。それだけでなく、この中風の人に24節で「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」と言われました。この結果、病人は癒されたのです。この病人の癒しは、罪のゆるしの結果でしかないのかもしれません。しかし、この病人の癒しの奇跡を見ることによって、ここで私たちがイエス様に従っていくことができるかどうかをはっきりとさせて下さっているのです。私たちが、神様に背いている罪がわかるようにさせて下さっているのです。イエス様のことを信じるようにさせて下さっているのです。イエス様なしには、生きられないものとなっているのです。これが、「今日、驚くべきことを見た」ということでした。いえ、私たちは、もっと驚くべきことを見ているのです。神様の言葉である聖書を通して見ているのです。それは、イエス様が私たちの救いのために、自らが十字架について、命を捨ててくださったことです。それだけでなく、罪を滅ぼして、三日後に復活されて、今も生きて働いておられるということです。私たちは、イエス様の十字架と復活によって、罪がゆるされていることを見ているのです。そのことから、日曜日の礼拝において、私たちに「あなたの罪はゆるされた」とイエス様が告げておられるのです。このゆるしを受け入れることによって、私たちの生き方が変わっていきます。神様に生かされることに、生き甲斐を感じ、人生を歩んでいくことができるのです。それに、イエス様が救い主であると受入れ、信頼していく生活が始まっていくのです。驚くべきことを見る生活が始まるのです。

    お祈りを致します。 天にいらっしゃいます父なる御神様 私たちは、あなたから離れて、自分勝手な生活をしております。しかし、あなたは、私たちの救いのために、イエス様をこの世界に送ってくださいました。私たちの罪をゆるすために、イエス様は、十字架に掛かって、命を捨てて下さいました。しかも、復活してくださって、今、こうして私たちと共にいて下さいまして、救いと罪のゆるしを与えてくださっております。私たちは、驚くべきことをこの礼拝に見ております。どうか、私たちが、その罪のゆるしを受け取って、我を忘れるほどの驚きをもって、神様を讃美して、人生に歩みをしていくことができますように、導いてください。また、イエス様を信頼して、あらゆることを願い求めていくことができますように、お導き下さい。この教会に、多くの人が集まり、神様を礼拝することができますように、導いてください。まだ、あなたのことを知らない人々がおりますが、教会へと招いてくださいまして、イエス様を真の救い主と受け入れて、ゆるされて、活き活きとした生活をすることができますように、どうぞお願いいたします。この祈りをイエス様の御名によって、御前におささげ致します。アーメン

 

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