| TOPへ 聖書のお話しMENUへ 「生き方が変わる」フィリピ人への手紙第3章5−9節 3:5
わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人で す。律法に関してはファリサイ派の一員、 私たちは、それぞれのきっかけで、イエス様と出会い、こうして教会に招かれて礼拝をしています。人によって、性格や考え方が違いますように、イエス様に出会うということもまた、それぞれ違いますし、様々な場合が考えられると思います。苦しみや悲しみの中にいた時、逆に喜びに溢れていた時、あるいは偶然聖書を読んでとか、キリスト者である家族や友人に誘われて、あるいは何らかの働きによって教会に行くことを勧められて、イエス様に出会うということが考えられます。ここにいるみなさん方は、どのようにしてイエス様に出会ったのでしょうか。ここに、一人の人物がいます。その人物こそ、このフィリピの信徒への手紙を書いたパウロという名前を持つ人です。パウロは、その当時、もうひとつの名前を持っていました。 サウロという名前でした。その当時のイスラエルは、ローマ帝国の支配の中にありまして、パウロは、イスラエルの民つまりユダヤ人でありました。それで、ユダヤ名をサウロと呼んでいました。しかし、サウロは、ユダヤ人でありましたけれども、恵まれたことに支配をしている国の市民の権利を持っていました。ローマの市民権を持っていたということです。このことは、当時の社会では、特別な階級であり、裕福な家庭に生まれたということです。それで、ローマ市民として、この人は、パウロという名前があったのです。しかし、先程も言いましたようにイスラエルにおいては、このパウロは、サウロという名前で呼ばれていました。このサウロは、イエス様に出会う前は、イスラエルの人々が信じているユダヤ教の熱心な信者でありました。そのサウロがイエス様に出会うことによって、キリスト者へと変えられていく事件が新約聖書の使徒言行録の中には、三回も記されています。最初のものが、使徒言行録の9章の表題に「サウロの回心」と記されているところです。 この物語はサウロが、何とイエス様の弟子であった人々を捕らえて、牢獄の中に送っていた時から話しが始まります。そのように、サウロがキリスト者を迫害し、攻撃をしていた時の出来事なのです。そのサウロがさらに、イエス様の弟子たちを迫害し、殺そうとしてダマスコという場所に行こうとしました。そのダマスコに行く途中で、サウロは復活されたイエス様の声を聞くことになるのです。「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。」というイエス様の言葉を聞いて、サウロは、地面に倒れて、3日間も目が見えず、食べることも飲むこともしなかったと聖書は告げています。その後、サウロは、復活されたイエス様との会話から、イエス様自身を迫害していることに気づき、イエス様と出会い、イエス様を知ることによって、目を開かされて、洗礼を受け、イエス・キリストを信じる者となりました。しかも、今度は、熱心なキリスト者となり、イエス様こそが救い主であると世界に伝える人となったのです。キリスト者を攻撃し、迫害している中で、イエス・キリストに出会うという大変劇的な物語が聖書の中には記されているのです。 このサウロ、ローマ名ではパウロですけれども、パウロにとっては、ユダヤ教の信者からキリスト者になるということは、大事件であって、それこそ人生を変えるほどのものになったということはいうもまでもありません。パウロは、イエス様に出会うことによって、イエス様がどういうお方であるか知ることになりました。しかも、自分では絶対だと思っていたことが、イエス・キリストに出会い、イエス様のことを知ることによって考え方が逆転したのです。このことは、パウロの回心と呼ばれています。回心とは、心を改めるという漢字ではなく、心が回ると記します。心の向きが変えられたという意味の言葉です。180度心が変わったということです。そのパウロの回心は、教会にとって、いえ私たち一人一人にとっても、大事件のこととして、今も聖書で語り継がれているのです。ということは、私たちにとっも、イエス様に出会い、イエス様のことを知るということは、大変な事件であるのです。今日の聖書の箇所は、このパウロがイエス様と出会い、イエス様のことを知ることによって、どのように人生が変わったか、生き方が変わったのかということをパウロ自身が告白しているところです。私たちは、このパウロの告白の言葉を受け取りながら、自分自身に向けられた言葉として、イエス様を知ることによって私たちがどのように変わるのかということを、聖書の言葉から受け取っていきたいと思います。 パウロは、このフィリピの信徒への手紙の3章の7節から8節のはじめにかけて、「わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。」と告白しています。パウロは、今までイエス様のことを知らないで生きてきたことに対して、パウロ自身が有利であると思っていたもの、大切だと思っていたもの、価値があると思っていたものが、イエス・キリストに出会い、イエス様のことを知ることによって、そのものが、損である、価値なんかないという考えに変えられてしまったことをここで、告白しています。では、このパウロがイエス様のことを知るまでに、価値があると思っていたものは、一体何だったのでしょうか。それが、前の節の5節、6節に記されていることです。パウロ自身が今まで、それらを自慢するように、誇りとしていたものでありました。しかも、役に立つ、救いにつながると思っていたことです。それは、生まれて八日目に割礼を受けたことであるとか、イスラエルの民族でベニヤミン族の出身であるとか、ヘブライ人の中のヘブライ人であるというように、パウロにとっては生まれながらにして与えられていた資格であり、身分でありました。 イスラエルの人々は、神様から選ばれた民族であるという誇りがありました。そのために、子ども、特に男の子が生まれると、八日目に男の子の性器の皮を切り取る儀式である割礼をして、神様から選ばれた民族であるというしるしをつけたのです。そのように、パウロは、生まれながらにして、神様から選ばれた民族の一人だったのです。しかも、ベニヤミン族の出身でもありました。このベニヤミン族というのは、イスラエルの最初の王様であるサウル王という人の出身の民族であり、非常に血筋がいい家系にパウロは生まれたということです。それに付け加えて、生活においても、性格においても、完璧なイスラエルの人である、ヘブライ人の中のヘブライ人であったのです。このことはすべて、パウロがどのようなところでどのような人として生まれたのかというパウロの生い立ちを示しているものです。 考えてみますと、私たちの生い立ちは、自分で決めることのできないものです。ある人は、男の人に生まれ、ある人は、女の人に生まれます。生まれた家の職業も経済も、家族もまた私たちが決めることができないものです。そればかりか、生まれた国も生まれた時代も自分たちでは、選ぶことができません。私がこうして生まれているということは、私たちの意志によって生まれたのではないのです。そのような命の誕生というのは、私たちでどうすることもできないものなのです。ですから、「命」というものは、自分のもののようであって、実は自分のものではないということです。その時、誰かが私たちに命を与えてくださったことに気がつくのです。それこそが、神様なのです。そのことから、私たちの生い立ちというものが、決して偶然ではなくて、神様の恵みによって与えられていたことになります。しかも、私たちが神様の存在に気がつく時に、私たちが生きている意味が分かってくるのです。いえ、神様によって生かされていることの意味が分かってくるのです。 さて、パウロは、自分の生い立ちを語りながら、イエス様を知る前には、神様から与えられていたものが当然だと思っていて、誇りを持っていました。裕福に育った環境が、パウロ自身の命を支えてくれると思っていたのです。神様にではなく、その生まれながら与えられていたものが、救ってくれると思っていたのです。神様のことを信じていると思いながらも、自分の命を支えるものが、自分の生い立ちであると信じていたのです。結局このことは、自分自身を頼りにしていると言い換えてもいいでしょう。そればかりではありません。さらに、パウロ自身の努力や熱心さによって獲得したものが自分自身を救ってくれると考えていました。それが、律法に関しては、ファリサイ派の一員であり、熱心さの点では教会の迫害者であり、律法の義については非のうちどころのない者であったということです。律法、それは旧約聖書の時代に神様が与えた戒め、規律であり、教えでありました。有名なものに、モーセという人が生きていた時代に、神様から10個の戒めを頂いたというものがあります。いわゆる十戒というものです。旧約聖書の出エジプト記20章に記されているもので、「あなたは、わたしをおいてほかに神があってはならない」とか「殺してはならない」というように神様から与えられた戒め、教えが二枚の石の板に10項目記されているものです。 特に、パウロが入っていたファリサイ派というグループは、この神様の教えを守ることに熱心でした。しかも、神様の教えを守ることが神様に救われることであると信じていたのです。救いの条件が、神様の教えを守ることだったのです。要するに、きまりさえ守れば救われると考えていたのです。本来、神様は、人間がどのように生きたらいいのか、神様が戒めを与えることによって、人間が生きる道を示されました。それが、本来の律法だったのです。しかし、いつの間にか人間は、勝手な思い込みから、神様の教えをどんなことがあっても守るということが救われると思ってしまったのです。パウロもまた、神様の教えを熱心に努力して守っているから救われていると思っていました。そのために、神様の教えである律法ではない救いを伝えていた教会を徹底的に攻撃したというのです。そのような、パウロの生い立ちやパウロ自身の熱心さを、人生にとって役に立つものであると思っていました。ところがパウロは、イエス様に出会い、イエス様を知ることによって、役に立つと思っていたものが損失である、価値なんかないと思えるようになったのです。 しかも、そればかりではなく、8節においては、「ちりあくた」とさえ言っています。「ちりあくた」とは、食べ物を食べた後、体の外に出す排泄物であるとか、食べ物の残りである残飯であるという意味の言葉です。パウロは、これまでの大切と思っていたものを、もう二度と手を触れようとも、見ようともしない、汚いものであるかのように、語ります。今使っている聖書では、「ちりあくた」と訳されているものが、ひとつ前の口語訳の聖書では「ふん土」と訳されています。10年以上前、まだ口語訳の聖書を使っていた頃、私はこの「ふん土」という言葉を聞いて衝撃を受けたことがあります。それと同時に、なぜ今まで、パウロが大切だと思っていたものが、ふん土と思えるようになったのか不思議でなりませんでした。考えてみますと、パウロは、どうでもよかったものを汚いもののように言っているのではありません。むしろ、その当時の世界においては、最も価値があるとされていたことを、どうでもいいことと言っているのです。恵まれた家庭に生まれ、社会的地位も高いし、教養も知識も随分と高い人でありました。しかも、厳格にユダヤ教という信仰を守っていた人でありました。ですから、私は、逆にパウロがうらやましい気がしました。そのために、パウロはなぜ、そのようなものを捨てたのだろうかと疑問をもったものです。あるいは、心の中で、イエス様に出会い、イエス様のことを知ったぐらいで、それまでの価値ある生活を捨てられるだろうかと考えていました。みなさん方の中にも、心の中でそのような疑問が沸いてはいないでしょうか。 この疑問に答えるように、宗教改革者のカルヴァンという人が沈みかけている船のたとえを使いながら、このように説明しています。船が沈没しそうな危険にさらされた時、船やその中にいる人々の命を助けるためには、船に積んでいる荷物を海に捨てる必要があります。貴重な荷物を海に捨てなければ人々が助かる見込みがないのならば、それを捨てることさえいたします。荷物そのものは、決して少しも悪いものではありません。軽蔑すべきものでも、つまらないものでもなく、かえぢて、それは大切な、貴重な品物が荷物として積み込まれているかもしれません。荷物そのものは、悪いものではありません。しかし、今、船が沈没の危険にさらされ、人の命が危険にさらされている時、人が救われるためには、それらの荷物は役に立たないどころか、かえって邪魔でさえあります。その時、人は、その荷物を海に捨てて命を守ることが出来るのです。というたとえであります。パウロの場合は、その荷物がパウロ自身の生い立ちであり、パウロ自身の情熱であり、熱心さだったのです。そのものは、悪いものではないのですが、それに信頼して救いが得られると考えるならば、本当の救いというものが得られませんし、命まで危なくなってくるということなのです。私たちにも、捨てられないもの、自分の宝だと思っているものがあると思います。しかし、それによって、私たちが救われると思っているならば、私たちの命まで危なくなってくるのです。だからこそ、イエス様を知ることによって、救われていることを信じて生きていくことが本来の人間が生きていく姿なのです。イエス様を知ることによって自分たちの命を活き活きと輝かせて生きていくことができるのです。 ある人々は、キリストを信じるだけで救われるのならばこんな都合のいいことはないと言います。しかし、考えてみますと、私たちが日常の生活の中で、イエス・キリストだけを信じて生きることがいかに難しいことなのかがわかると思います。私たちはキリストを信じると言いながらも、他の物を付け加えて、救くわれていることを確実にしようと努力してはいないでしょうか。それが、財産や名誉や地位ばかりでなく、聖書の知識をどれだけ知っているか、あるいは自分自身の考えや誇りになるものを付け加えて、救われていることの条件としようとすることです。このことを、ある人がキリストプラスアルファ−の信仰と言いました。イエス・キリストだけの救いだけでは十分ではないから、もう一つ何か行いや目に見えるものによって、救いを補っていかなければならないと考えることなのです。 パウロは、ここで自分自身のことを告白し語りながらも、結局、イエス様のことを信じて生きることこそが、救くわれると主張しました。それが、私たちの人生の目的であると共に、イエス様を知ることにつながると語ります。このことから、私たちが、イエス様を信じて生きていく目標が、イエス様のことを知ることであり、イエス様を得ることになるのです。イエス様のことを知るとは、イエス様が私たち一人一人のために、十字架に掛かってくださって、罪を取り除いて下さったということ、イエス様が復活されたことによって、私たちも永遠の命に生きることができるという恵みを与えてくださっているということを知るということなのです。しかも、イエス様を得ることによって、イエス様がいつも一緒におられて、私たちが新しい命に生かされているといういことなのです。本当の命に生かされ、守って下さっているということです。私たちは、環境や能力によって、あるいは性格を変えようとして、生き方を変えようと試みます。自分たちの努力よって、何とかその決まりきった生活に終わりをつげて抜け出そうとします。けれども、現実的にいって、努力すればする程、変われない自分を発見し落胆するのです。しかしそのような中でも、私たちは何とか生き方を変えようとするのです。その中で、やはり私たちは、イエス様を信じて生きる以外にはないということを発見するのです。ですから、イエス様によるしか救いはないこと、イエス様に生かされるしか望みがないことをもう一度思い起こして生活をしていきたいと思います。確かに、目に見えて一瞬にして生活が変わるわけではあません。しかし、確実にイエス様に恵みをいただいていること、生かされていることによって生活が変えられていることを信じていきたいと願っています。イエス様をまだ本当に知らない人もまたイエス様を知ることができるように、信じられるように願っています。 お祈りをしましょう。 主イエス・キリストの父なる神様 今日もこうして、私たちを教会へと招いてくださいまして、礼拝を守ることができ、御言葉によって新しい恵みを与えてくださったことを心より感謝を申し上げます。私たちは、自分の生き方がわからず、どのように人生を歩んでいいのか悩みを抱えている者でした。しかしながら、神様は私たちにイエス様との出会いを通して、イエス様を知り、信じることによって、真の命を与えてくださり、生き方を変えてくださいました。どうぞ、私たちが、どのようなことがあってもイエス様のことを信じて人生を歩んでいくことができますように、神様の力と励ましを与えてくださいますように、どうぞおねがいいまします。また、イエス様が私たちを救ってくださったということを確信し、イエス様こそ真の救い主として信じて歩んでいくことができますように、どうぞ導いてください。まだイエス様のことを知らない人々がこの世には、多くいることを覚えております。どうぞ、その人々を神様が捕らえてくださいまして、教会へと招いてくださいまして、イエス様のことを真に知り、生き方を変えて、イエス様のことを信じて生きていくことができますように、聖霊の働きをお願いいたします。今、病の中、悩みの中、苦しみ悲しみの中にいる人々がいましたら、神様が共にいてくださいまして、平安となぐさめを与えてくださいますように、どうぞお願いいたします。この祈りをイエス様の御名を通して御前におささげいたします。アーメン |