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「十字架による救い」       ルカ23章32−43節

  私たちは、今、内灘教会に集まってきております。教会にやって来ているということです。考えてみますと世界の至る所に教会が建てられております。教会は教会でも、キリストの教会であります。みなさんが、旅をされている時に、こんなところにもキリストの教会があるというように思われたことがあるでしょう。特に、ヨーロッパやアメリカを旅行されるならば、いくつも教会を見つけることができると思うのです。いろいろな建物に混じって、教会を見つけることができるということです。今は、当たり前のようになってはいますけれども、ここが教会だということが、一目見て、私たちはわかるものです。イエス・キリストのことをあまりよく知らない人々でさえも、教会という建物が、他の建物に混じっていても、違いがわかるものです。この内灘教会も、一目見て教会であるということがわかるのではないかと思います。

   それでは、なぜ私たちは、ここが教会であるということがわかるのでしょうか。それは、教会であるということがわかる一つの大きなシンボルがあるからです。教会を示すものがその建物にあるからです。もちろん、看板が掲げてあるところには、〜教会というように記されてはいますけれども、遠くから見てもそこが教会であるということを示すものがあるということです。少しもどかしく説明をしてきましが、言うまでもなく、それは十字架であるということです。教会には、大抵が建物の屋根の上に十字架がつけられております。この内灘教会にも屋根の上に十字架が付けられています。その十字架を見れば、そこが教会であると気がつくことができます。それでは、なぜ教会に十字架が立てられているのでしょうか。それは、教会にとって、十字架がとても大切で必要であるからです。このことは、何よりも人間が生きていく上で、十字架が大事であり、重要なものであるということだからです。特に、クリスチャンは、この十字架に望みをおいて、救いを見出して生きている人々であります。この十字架は、神の子であるイエス・キリストが、おかかりになったものでありました。救い主であるといわれていたイエス・キリストが十字架によって、人々に殺されたものでありました。しかし、なぜ、その十字架に望みがあるのか、救いがあるのか、理解できない人々が多いのではないかと思います。けれども、それでも十字架についてくださったイエス様に希望の光を見つけて生きていくということが人間が生きる道であるということです。ここに私たちが生きる秘密が隠されているということです。その秘密とは何か。十字架の秘密とは何か。人は、その十字架のことがわからなければ、イエス様の救いを受け入れることはできないし、神様によって恵みをいただいて生かされているということに気づかないと思うのです。

   そのことから、今日示されております聖書の物語に目を留めていきながら、新たな気持ちで十字架による救いのことを考えていきたいと思います。  今日の聖書の物語は、まさしくイエス様が十字架に付けられた場面でありました。神様の子であるイエス様が十字架に付けられたということです。クリスチャンである私たちは、イエス様が十字架に付けられたということを当たり前のようにして聞いていることがあります。何だ、また十字架のことか、というようにです。そのようにして、私たちは、イエス様の十字架による救いの意味がよく分かっているような気がしているのです。果してそうでしょうか。イエス様が十字架に付けられたということは当たり前の出来事だったのでしょうか。イスラエルの当時の人々にとっては、十字架に付けられるということは決して当たり前のことではありませんでした。十字架につけられるということは、処刑されるということです。罰を受けるために、十字架につけられて殺されるということでした。そのように、十字架とは、死刑のための道具でした。しかも、この十字架の処刑は、刑罰の中でも最も重い犯罪人が掛けられるというものでありました。その当時、死刑にするための最も最悪なものが、十字架だったということです。そのことから、イエス様は、極悪人として、十字架で殺されていったということがいえるのでしょう。イエス様は、本来は、何も悪いことはなさいませんでした。なによりも、神様の目から見てということです。イエス様の活動は、貧しい人々を助けたり、病気の人を癒したりということでした。それよりも、イエス様は父なる神様のことを伝えていき、神様の愛と救いを教えられていました。ただ、イエス様は、神様のことを伝えるだけではありませんで、自分が神様である、救い主であると主張していたのでした。そのことから、イスラエルの人々もイエス様こそが救い主であり、イスラエルの王様であると考えるようになっていきました。けれども、当時、神様のことを熱心に信じていたイスラエルの指導者や権力を持っていた人々は、イエス様のことを憎んでいたのです。それは、イエス様が救い主であると主張することによって、自分たちの立場や国自体も乗っ取られると考えていたからです。イエス様を恐れていたのです。それだから、その人達は、イエス様が邪魔になり、殺そうと考えていたということです。  それだけでしたら、この当時の刑罰のことを考えると、自分を神様と主張する罪として、石を投げて死刑にするという石打ちの刑で罰せられるということでした。いずれにしても、神様を汚しているという冒涜の罪でイエス様は殺されるということでした。しかしながら、石打ちの刑よりも最も惨めな刑罰で、人々はイエス様を死刑にしたかったのです。特に、神様のことを熱心に信じていると思い込んでいたイスラエルの指導者たちが自分たちの神様のことを汚したということで、イエス様を最も悲惨な刑罰である十字架の刑にしたかったということです。それほどまでに、人々はイエス様のことを憎んでいたということになります。この十字架の刑は、まずイエス様を十字架の上に寝かせて、くぎで両手、両足を十字架に打ちつけて、柱に立てかけるという方法を取りました。私たちが想像しただけでも、痛々しい気がしてなりません。イエス様は、血がしたたる中、太陽が照りつける中で、苦しみと渇きと疲れに悶えながら十字架の上にいたのです。

   そのようにして、イスラエルの人々は、イエス様を最も恐ろしく、苦しく、惨めなものになるように十字架で殺したいと考えたのでした。しかも、この十字架は、イスラエルの人々にとりましては、最もいみ嫌われるものでありました。「木にかけられた者は神にのろわれた者だからである」という神様の教えがあったからでした。それだから、イエス様は、神様に呪われた者として十字架に付けられたということでした。「お前みたいな者は、もう二度と生まれてくるな」というように、イエス様はこの世界に必要がない者として殺されてしまったということなのです。  ところが、このルカによる福音書の十字架の出来事を読んでみますと、イエス様が十字架の上でどんな痛みを経験なされたか、あるいはどんな苦しみを持たれたのかは記されてはいません。私たちが悲しみをあるいはセンチメンタルを覚えるような言葉は、この十字架の物語には出てきていないということです。私たちがイエス様に同情を覚えるような姿を聖書は描かなかったということです。ただ、イエス様が十字架につけられる様子だけを記しています。イエス様が十字架につけられたという事実だけをあっさりと描いているということです。それよりも、聖書は十字架に掛けられたイエス様に関わった人々の反応を詳しく記しました。なぜ、聖書は、イエス様の苦しみや痛みを表すことをせずに、人々の反応を描いたのでしょうか。それは、この人々の反応こそが、人間の本来の姿だということを悟ったからでした。この福音書を描くことになった教会が、自分たちの姿が、そのイエス様の十字架の物語に現れていると感じたからでした。それに、十字架に関わった人々の姿を描くことによって、イエス様の十字架による救いの意味がよくわかると思ったからでした。実は、聖書の物語を受け取っている私たちの姿がこの十字架の出来事の中に描かれているということです。けれども、誰もが一度はこういうことを思うのではないでしょうか。疑問を持つということです。「2000年前にイエスという人が十字架に掛けられたという出来事がなぜ、私と関係をしているのか。この出来事はむかしむかしのことではないか。ましてや、遠い国であるイスラエルという国で起こったことではないか。」というようにです。イエス様が十字架に掛かってくださったことが、一人一人のためであった。人間のためであった。そんなことをいくら強調しても、私たちは、このことを受け入れることができません。あまりにも、身近ではなく、日常の生活においては、かけ離れているからです。この私とどんな関係があるのかと思ってしまうからです。今、テレビのニュースや新聞では、やたらと十代の若者による犯行が取り上げられております。次から次へと嫌になるほどにマスコミが取り上げています。私たちは、そのニュースを聞くたびに、被害者に対して「かわいそうに」という同情や「恐ろしい世の中になったもんだ」と思いながらも、どこかで安心していることがあります。身近なことではないから、自分とは関係がないからということで、傍観者になることが多いのではないでしょうか。ただ、ニュースを見ているだけでは、哀れみの気持ちや怒りを持つことはありますが、すぐに忘れてしまうことが多いと思うのです。3か月もすれば、さっぱりと忘れ去られてしまうでしょう。ましてや自分と関係している人ではなかった、自分の身内ではなかったという安心感のほうが強いのではないかと思うのです。

  このイエス様が十字架にかかって死んだという出来事は、実際には軽んじられていきました。その当時、イスラエルを支配しておりましたローマ帝国の歴史の中には、イエス様の処刑の出来事を記しませんでした。人間の歴史の中で無視されていったのです。関係のない出来事として消されていったということです。けれども、なぜ、イエス様の十字架の出来事が人間に関係しているものとなったのでしょうか。それは、イエス様が復活されたからでした。よみがえられたからです。イエス様の働きは十字架の出来事では終わらなかったからです。イエス様は、ただ十字架につけられて敗北したのではありませんでした。十字架でお終いではなかったのです。よく知られていますように、イエス様が復活されたことによって、新約聖書が書き記されるようになっていきました。人間の歴史が神様によって造り直されたのです。イエス様の十字架の出来事が、やがて人間の歴史の出来事となっていったということです。それに、イエス様は復活されて、今も生きて働いておられるのです。この世界で生きて働いておられるのです。そのことから、イエス様が十字架に付いてくださったということが単なる過去の出来事ではなくなってしまったのです。それだからこそ、イエス様の十字架が私たち一人一人に関係をしているということになるのです。それだけでなく、聖書が生きた言葉となりました。そのことから私たちが、この聖書を読む時に、今も働いておられるイエス様の姿を見ることができるということです。それだからこそ、イエス様の十字架の出来事は、決して遠い存在の出来事ではありませんでした。イエス様の十字架が私たち一人一人に関係している出来事として私たちに救いと恵みを与えて下さるものになったということです。そのことから、このイエス様の十字架に関わった人々を私たち一人一人の姿として見なければならないと思うのです。その姿をよく知ることによって、私たちの救いの道が開けていくということです。

  ところが、イエス様の十字架の出来事に登場している人物に自分の姿を重ねて見てみますと悲しい現実を思い知らされます。35節には、民衆と議員たちが登場しています。36節には、兵士たちの姿が見えます。この物語に登場している人物は、イエス様が十字架に付けられた姿を見て、あざ笑ったり、侮辱したりしています。十字架を目の前にした人々すべてがイエス様をばかにして笑ったのです。イエス様は誰からも尊敬されずに、十字架に付けられてついには殺されてしまいました。それも、人々にばかにされた言葉を投げ掛けられてです。この言葉は、いつも同じ内容を持っていました。「あなたは、救い主と言っていたではないか。イスラエルの王様であると言っていたではないか。それなのに、自分自身を救うことはできないのか。」イエス様は、時には、人々の病を癒し、死んだ人を生き返らせておりました。このイエス様の十字架の出来事を見ていたすべての人が、議員たちのように考えていたでしょう。「どうして、この人は、今、みっともない死に方をしていて、自分を救い出すことができないのか。他人を救うことができる救い主が、自分を救うことができないということはおかしいことではないか。」というようにです。あるいは、イエス様と一緒に十字架に掛けられていた犯罪人の一人がののしった言葉がこの物語には記されています。39節の「お前はメシアではないか。自分自身を救ってみろ。」という言葉です。メシアとは救い主のことです。やはりこの犯罪人が言うには、救い主のくせに何にもできないではないかということです。そのことから、人々の考えには、イエス様が死に直面している土壇場において、自分を救うことができないような救い主はもはや救い主ではないと考えていたということです。もし、この時私がイエス様の十字架の姿を見ていたならばやはりばかにして同じような言葉を言っていたかもしれません。少なくとも、人々の考えや思いを受け入れていたと思うのです。いえ、もしかしたら、今も私たちはイエス様の十字架をばかにしてののしってはいないでしょうか。そのようにして私たちの本来の姿がこのイエス様の十字架を目の前にして浮かび上がっていくということなのです。現実に、私たちは人間同士で、あざ笑い、侮辱しあい、ののしりあいをしているものです。神様に対しても同じようにです。このようにして、私たちがイエス様の十字架を見つめる時に、悲しく何とも言いようがない寂しいものを感じてしまうのではないかと思うのです。絶望しか見えてこないということです。

  さて、十字架の上のイエス様は、ずっと黙っていました。沈黙をされていたのです。けれども、イエス様は十字架の上で、ついに重要なことを語られました。ルカによる福音書は、そのイエス様の言葉をどうしても書き記さないわけにはいきませんでした。救いの言葉、恵みの言葉として書き記したのです。34節の「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」という言葉です。この言葉は、父なる神様に対しての祈りの言葉でありました。ここであざ笑い、侮辱し、ののしっている人々に向けて、イエス様が父なる神様にゆるしを求めているのです。この「ゆるす」という言葉は、解き放つとか取り去るということを意味しています。神の子であるイエス様を十字架につけてしまったという大きな荷物を取り去ってくださいということを意味しています。自分のことを憎み、十字架において悲惨な目にあわせ、苦しめている人々に向かって、イエス様はこのようにゆるしの言葉を投げ掛けられたのです。何よりも、この言葉は、すべての人間に向けられたゆるしの言葉であるということです。私たちに向けられた言葉であります。ほかでもなく、この十字架の上のイエス様の言葉は、あなたのために祈られたゆるしの言葉であるということです。けれども、私たちは十字架を目の前にしていた人々と同じように、イエス様に対して何をしているのかわからないのです。現実には、私たちはイエス様なしでも生きていくことができると思っています。イエス様の十字架のことなんか考えなくても、喜んで幸せに生きていけると思っているということです。そのようにして、私たちは、いつの間にかイエス様を無視してしまっているのです。憎んでしまっているのです。まさか、私たちはそんなことぐらいでイエス様を憎んでしまっているなんて思わないかもしれません。けれども、知らず知らずのうちに、私たちがイエス様を憎み、十字架につけてしまったのです。その私たちに、イエス様は、ゆるしを与えてくださるのです。これこそが、救いであるということです。死刑の道具である十字架だけを見ている限りにおいては、死の恐怖と絶望しか見えないかもしれません。けれども、このイエス様の十字架が、何よりも私のためであったということに気がつく時に、イエス様のゆるしと救いを知ることができるのです。  今日のイエス様の十字架の物語で、一番最初にゆるしと救いに気がついた人がいました。それは、イエス様と一緒に十字架につけられた二人の犯罪人のうちの一人でした。この人はどのような犯罪を犯したのかわかりませんが、十字架によって死刑にされるということから、何人も人を殺していたのかもしれません。しかし、この犯罪人は、イエス様と一緒に処刑されることによって、イエス様を知ることができました。イエス様のゆるしと救いを知ることができたのです。自分が今まで、神様を恐れず生きてきたこと、神様を知らずに生きてきたことを振り返って、最後の最後でイエス様に救いを求めたのです。イエス様のほうに向き直って、救いを求めたのでした。「わたしを思い出してください。」とイエス様に望みをおいたのです。これに対して、イエス様は、43節で「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われました。楽園とは、高いところにあるすばらしい庭で、喜んで幸せに生きていくことができる特別な場所です。本来は、神様から造られた人間は、美しい姿のままで死の恐怖を考えずに楽園で生き続けていくものでありました。しかし、人間は自分勝手なわがままから、楽園を失ってしまったのです。その楽園にイエス様は招いておられるのです。このことは、イエス様と一緒に生きていくことができるということです。死の恐怖からも救われるということなのです。ここで、この犯罪人がイエス様を信じるようになりました。ある人が、「イエス様の十字架の救いを信じることが、本当のクリスチャンであるならば、この犯罪人こそが歴史上最初のクリスチャンである」と言いました。驚くべき言葉ではないでしょうか。誰も十字架の上のイエス様を救い主と信じない中で、この犯罪人が最初のクリスチャンになり、キリストの教会を造っていきました。私たちはこのイエス様の言葉を受け入れる時に、こんな私にも救いが投げ掛けられているということに気がつくことができるのです。イエス様の十字架による救いということです。お祈りを致します。 天にいらっしゃいます父なる御神様 イエス様の十字架による救いを見つめることができました。けれども、私たちは、この十字架による救いを忘れ、消え去りながら生活をしていることを覚えております。それでも、イエス様は、こんな私たちにゆるしを与えてくださいまして、救いを与えてくださっております。心より感謝を申し上げます。どうか、日々の生活において、イエス様の十字架によって救いが与えられていることをしっかりと受け入れて歩んでいくことができますように、お導きをお願い致します。

    また、イエス様の十字架から溢れてくる恵みと平安に支えられて、望みと喜びを持ち続けて生きることができますように、どうぞお願い致します。まだ、イエス様のことを救い主と信じられない人々の上に、まさしくイエス様の十字架が自分のためであったということに気づいて受け入れていくことができますように、どうぞお願いいたします。今、悩みの中、心をわずらわせている人々の上に、イエス様の救いと癒しを与えてくださいますように、どうぞお願いいたします。この祈りをイエス様の御名によって御前におささげ致します。アーメン 

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