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「人生の喜びとは」 フィリピ人への手紙4章4−5節 4:4 主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。 私たち一人一人が、それぞれの人生の歩みをしています。人生の中の一時、現実に私たちは生きていて、今、内灘教会にやって来まして、ここで礼拝をしています。今、この時みなさんは、礼拝をして神様の言葉である説教を聞いているということになります。このように礼拝をしている方々の中で、クリスチャンである方と、そうでない方がこの中におられるでしょう。クリスチャンになるということは、イエス・キリストによって新しく生まれ変わるものであるということが言われております。では、果してクリスチャンである人々と、そうでない人々とどのように違うのでしょうか。クリスチャンとして生きるということと、そうでない生き方はどのように違うのかということです。クリスチャンとして日常の生活をしている時に、「クリスチャンとして生活をしているけれども、イエス・キリストを知らない人々とどのように違い、またイエス・キリストによってどのように変えられたのだろうか。」というような疑問を持たれた方はおられないでしょうか。もしかしたら、クリスチャンになっても同じ生き方をされているという方がいるかもしれまんせん。あるいは、クリスチャンになった方を見て、前と全然変わらず生活をしているなと思われている人もいるかもしれません。そのように考えると、クリスチャンとして生きるということは何か違いがあるのでしょうか。 さて、一人一人の人生を考える時に、多くの人々は幸せを望んでいます。喜んで生活をしたいと望んでいるということです。みなさん方もそうではないでしょうか。できるならば、病気や事故あるいは不幸と思えるような事を避けて、平安に過ごしていきたい、喜びのある生活をしたいという思いが本音ではないでしょうか。誰もが、喜びの生活を、幸せの生活をしたいという思いや願いがあるということです。私たちが生きるということは、人生に喜びを見つけて生きることだと思うのです。悲しみや苦しみいえそれよりも、不平や不満ばかり持っている生活には、喜びがないような気がします。しかし、それにしても、私たちが生きていく中においては、不平や不満というものは、次から次へと生まれていきます。それに、悲しみや苦しみというものも、避けることができないものとして、次から次へと襲ってきます。あるいは、人に言えないような悩みを抱えて生きておられる方もいるのではないでしょうか。このことは、たとえクリスチャンになってからも変わらないと思えるのです。私たちは、時々誤解を持つことがあります。クリスチャンになったら、きっと苦しいことや悲しいことあるいは悩みが全部なくなってしまい、安心して生きていくことができるというようにです。いえ、それよりも、私たちはどこかで、そのような苦難や困難がなくなることが幸せであり、喜びのある人生を過ごしていくことができると思い込んでいるということです。それだからこそ、クリスチャンになってからも、不幸と思えることが次から次へと襲いかかってくる度に、不平不満ばっかりを抱え込んでしまうということです。それだからこそ、ますます喜びのある生活から遠いものへとなっていくというこになります。それだから、クリスチャンになってからの生活は、苦難や困難を経験しないということではありません。たとえ苦しみや悲しみを経験しながらも、喜びのある生活をするということなのです。 では、このことは、一体どういうことなのでしょうか。普通は、苦しみや悲しみがなくなることが、幸せであり、喜びのある生活だと思っています。常識ではそのように考えるのではないでしょうか。だからこそ、苦しみや悲しみを取り除いてくださいと私たちは必死で願うのであります。確かに、病気が直ったり、願い事が叶ったりすると、喜びに通じるものあるでしょう。喜んで生活をすることができると思われます。あるいは、入学試験や入社試験に受かったりと何かうれしい出来事を経験すると喜びを感じます。クリスチャンになってからの生活は、そのような具体的なものを喜ぶということを決して否定はしてはいませんし、大いに喜んで生活をすることを望んでいます。けれども、それが本当の喜びかというと違うような気がするのです。違うというよりも、具体的な事柄の喜びは束の間で終わってしまうということです。それならば、本当の喜びというものは何なのでしょうか。実は、その本当の喜びが教会にあるということです。イエス様を信じて生かされているということこそが、本当の喜びであるということです。だからこそ、クリスチャンになるということは、喜びであります。喜びを持ってクリスチャンになっていると思われるのです。クリスチャンとは、イエス様を信じて生きる人々のことを指しています。このイエス様信じて生きるということが喜びであるということです。私たちがイエス様を信じて生きることが喜びにつながっていくということになのです。それだからこそ、イエス様を信じることが何よりも喜びに満ちた生活であるということになります。それは、イエス様の恵みを十分に受け取っているからです。しかも、私たちはイエス様を信じて生きるという喜びがあるからこそ、イエス様のことを誰かに伝えたいと思うのではないでしょうか。もし、私たちの中で、イエス様を信じて生きることに喜びを失っているのであるならば、その方はイエス・キリストの恵みを受け取っていないと感じておられるかもしれません。それこそ、もう一度この喜びのことを考えなければならないでしょう。 それならば、イエス様を信じて生きる喜びとはどういうことなのでしょうか。私たちクリスチャンは、イエス様を信じて生きるということを、信仰生活をするという言葉で表します。それならば、信仰生活の喜びとは一体どこにあるのでしょうか。その秘密が神様の言葉である聖書に記されているということです。その喜びのことを考えながら、クリスチャンとして生きることがどういうことなのか、あるいは人間が生きる喜びとは何なのかということを聖書を通して御一緒に考えたいと思います。 さて、今日示されています聖書の言葉は、フィリピの信徒への手紙の中に入っているものです。これは、手紙と書いてありますように、誰かが誰かのところへと送った手紙であります。フィリピの信徒へと書かれていますように、フィリピという町にあった教会の人々に向けて書かれた手紙であるということです。では、誰がこの手紙を書いたのでしょうか。それは、パウロという人が書いた手紙でありました。このパウロは、イエス様を信じて、イエス様の弟子となった人でありました。クリスチャンになった人であるということです。けれども、このパウロは随分と劇的な人生を歩んできた人でありました。このパウロは、ユダヤ人で、もとの名前をサウロと呼んでおりました。しかも、最初は熱心なユダヤ教の信者でありました。それに、ユダヤ教の指導者になるために教育を受けて、エリートの中のエリートとして育てられたのです。その当時、イスラエルにおきましてはイエス様を信じるキリスト教とユダヤ教とは対立をしておりました。キリスト教とユダヤ教の大きな違いは、イエス様を神様あるいは救い主と信じるか信じないかということでした。イエス様を救い主と信じるものがキリスト教でありました。それだからこそ、それまでパウロは、熱心にユダヤ教を信じて、指導者として育てられていましたので、キリスト教を嫌って、熱心にキリスト教を迫害するようになりました。パウロは、どうしてもイエス様が神様であり、救い主であるとは信じられなかったのです。しかも、イエス様を信じる人々さえも許すことができませんでした。クリスチャンを憎んでいたということです。それだからこそ、パウロはクリスチャンを捕まえては、牢屋に入れたり、罰を与えたりして迫害をしていたのです。 ところが、パウロはそのような中で、神様の不思議な導きによって、イエス様のことを救い主であると信じるようになりました。復活されて生きておられるイエス様に出会い、イエス様の言葉を聞くことによって、パウロはクリスチャンに変わっていったのです。まさに、驚くべきことがここに起こったのです。それまで、イエス様なんか信じることができないと思っていた人でした。パウロにとって、まさか、自分自身がイエス様のことを信じるとは夢にも思っていなかったのです。それにしても、人がこんなににも変われるものかというぐらいに、すっかりとパウロはイエス様を信じて生きるようになりました。しかも、イエス様のことを人々に伝えることを人生の喜びとしたのです。そのようにこのフィリピの信徒への手紙は、劇的に生き方がすっかりと変えられてしまった人であるパウロが書いた手紙であるということです。この手紙は、フィリピの町の教会の人々へ送った手紙ですが、今、この時、この手紙を受け取っている私たちに向けられた手紙でもあるということなのです。 このフィリピの信徒への手紙は、昔から「喜び」の手紙と呼ばれております。この手紙には、16回も「喜ぶ」という言葉が書き記されているからです。今日の聖書の4章の4節の言葉を見てみますと「主において常に喜びなさい。重ねて言います、喜びなさい。」という言葉の中にも「喜ぶ」ということが語られています。しかも、パウロは、私たちに熱心に喜ぶことを勧めています。この「喜びなさい」という勧めの言葉は、この手紙全体からも同じような表現を見つけることができるでしょう。2章18節には、「同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい。」という言葉が書き記されています。あるいは、3章1節には「では、わたしの兄弟たち、主において喜びなさい。」という表現があります。この手紙は、パウロの手紙の中でも短い手紙であります。この短い手紙の中で、パウロは、区切りをつけるたびに私たちに喜ぶようにすすめをしているように思えます。このことから、私たちの生活が区切りをつけるたびに喜ぶことができたら、どんなに幸せかということです。区切りをつけるということは、何かが行われる度に自分の生活を振り返ることです。自分が過ごして生きてきた人生を思い起こしてみるということです。それで、自分が生きてきた生活をかえり見て、喜ぶことができたらどんなに幸せでしょうか。それと同時に、自分自身の生活を考えてみて、喜ぶことができたとしたら、驚くべきことでしょう。 それだから、ぜひ、喜ぶことができるようにと私たちは願うのです。それだからこそ、パウロはその喜びの世界に聖書を通して私たちを招いているのです。 では、パウロがすすめています「喜びなさい」ということは、一体どういうことなのでしょうか。繰り返しになりますが、私たちは、日常において、具体的に嬉しい事や希望が叶えられた時、あるいは何かが満たされた時に喜びを感じると思うのです。精神的、あるいは肉体的にも嬉しく思える出来事にたいして喜びを感じるということです。逆に、辛いことが起こった時や希望が叶えられなかった時に、悲しみを覚えるのではないかと思います。私たちは嬉しい事柄を経験すれば喜び、不幸と思えるような出来事に出会うと悲しみを覚えるのが普通だと思うのです。最近、プラス思考を持つことや楽観主義に生きるという考えが流行しています。物事が悪い状態にある時、つまりマイナスにある状態の時に、プラスに物事を考えて変えていくというものであり、楽観的に思うということです。たとえば、病気の時には、考え方が悪い方向にありますので、良い方向にするために、楽しいことを考えるということです。病気の時こそ、たくさんの本が読めるとか、ゆっくりと人と話ができる、嫌な人と付き合わなくてもいいというようにプラスに物事を考えていくということです。では、パウロも同じようにここで、普通は喜べない状況の中でも、自分自身に言い聞かせて、喜びの状態になりなさいということを語っているのでしょうか。「そんなにむすっとしないで」、「眉間にしわをよせないでいつもニコニコとしていなさい」ということをパウロは語っているのでしょうか。笑顔をたやさず、喜びの顔を造って生活をしなさいということを語っているのでしょうか。実は、そうではありません。「常に喜びなさい」というこのパウロの言葉は、厳しい世の中を渡り歩くための知恵ではありません。世間の人々とうまくやっていくためのテクニックでもないということです。 ところで、アメリカの古い小説に、「少女パレアナ」という本があります。アメリカの少年少女が親しんで読んでいた本であります。日本語にも訳されている小説です。「アルプスの少女ハイジ」や「フランダースの犬」のようには、あまりよく知られてはいませんが、それらの作品と同じようなどちからというと青少年向けの本であります。15年程前には、テレビのアニメとして「愛少女ポリアンナ物語」として放送をしておりました。この小説は、信仰の本としてもクリスチャンの間で、親しまれているものです。ある貧しい牧師の家庭にパレアナという名前の幼い少女がいたのですが、両親とも死んでしまい、わずかなものを持って、大変気難しいおばさんのところへと引き取られていくという物語です。このパレアナのおばさんは、大変厳しくやかましい女性で、金や物が溢れているのですが、何も喜べない生活を送っていました。パレアナは最初は屋根裏に住まわされて、普通から言うと何も喜べない状態なのですが、その生活の中で喜びに溢れた生活をして、まわりの人々を喜びの世界に巻き込んでいくという物語であります。この少女パレアナは、亡くなった牧師のお父さから教えてもらった喜びの遊びというものを行っていました。どんなことからも、喜びを見つけていくということが喜びの遊びであるということでした。このことは、どこか、プラス思考を思い起こすかもしれません。ただ、この喜びの遊びが、聖書から出ているということでした。聖書の中で神様が喜びなさいということを語っているのだから、人間はどんなことからも喜ぶことができるという牧師であるお父さんの教えであったということです。聖書を通しての喜ぶことを遊びにしてしまったのが、この少女パレアナだったということです。 フィリピの信徒への手紙にもどって、聖書の言葉を見てみますとパウロが「喜びなさい」と語る時に、何を喜ぶのかというような、具体的な事柄や出来事については、一切書き記していないということです。ただ、漠然とした形で喜びなさいといういうことを書き記していることがわかると思うのです。 しかしながら、ただ漠然としたものではなく、一つの大切な条件がここに付けられているということです。パウロが語る喜びには、「主において」という言葉が付け加えられているということに気がつくでしょう。主にある喜びということです。では、「主」というものは何かということです。主とは、私たちの主人であります。私たちのすべてを任せて信頼して従っていくことができるお方であります。自分自身を捧げて委ねてゆくことができるお方が主人であるということです。日本では夫のことを御主人と言いますが、随分と意味がかけ離れているかもしれません。家庭によっては、妻のほうが主人かもしれませんね。いずれにしても、主とは、その方を中心にしてすべてを任せて生きていくことができるお方であります。聖書の中では、「主」とは、神様のことを表しています。イエス・キリストのことを表しているということです。イエス様のことです。私たちクリスチャンは、イエス様こそが「主」であるということなのです。ですから、主にある喜びとは、イエス様に結びつくことによって、与えられる喜びのことなのです。このことは、私たちがイエス様を信じて生きていく時に与えられる喜びだということです。イエス様の十字架と復活によって救われたことを信じて生きていく、いえ神様によって救われて恵みをいただいて生かされていくということです。それが喜びになっていくということです。もう少し具体的に表すならば、イエス様が私たちのために十字架に付いてくださり、私たちを苦しみから救ってくださり自分自身を主人としていたことから、救われたことによって神様を私たちの主人としてすべてを任せて生きるようにさせてくださったということです。さらに、神様がイエス様をよみがえらされたことによって、私たちにもよみがえることができるという復活の命を与えてくださっているということなのです。しかも、イエス様は今も生きて働いておられて、日常の生活の中にでも、私たちと共にいてくださいまして、私たちが人生を活き活きと生きるものとなり、必ずよき方向へと導いて下さるということなのです。 このことは、夢でも空想でもなく、現実に起こっていることなのです。だからこそ、たとえ喜ぶことの出来ないようなことや、悲しみや苦しみや不安の中でさえもイエス様に結びつくことによって、最終的には神様が私たちに喜びを与えてくださるということなのです。このことをある人が、「にもかかわらずの喜び」というように表しました。だからこそ、イエス様のことを救い主と受け入れている人の奥底には、イエス様が共にいてくださることを信じることができるし、喜びが常に与えられているということなのです。それだからこそ、パウロは、私たちに「主において常に喜びなさい」とおすすめをしたのです。 実は、このフリィピの信徒への手紙は、パウロが迫害されて捕まって牢獄の中で書き記したものでありました。迫害していた者が、今度は迫害される者となってしまい牢獄の中にいた時の手紙です。パウロはいつ殺されるわからない、明日もわからない命の中にいたということです。しかし、パウロは、イエス様を信じて生きていくことに喜びを感じていました。なぜならば、パウロは、5節で「主はすぐ近くにおられます。」と表していますように、イエス様が一緒に生きておられることを信じていたからです。このことは、たとえ殺されたとしても、イエス様が共にいて下さり永遠の命を与えてくださっていることを信じていたからです。私たちの人生を考えてみますと、いつ私たちが不幸と思えることや病気になるかわかりません。いえ命を奪われるかもしれないのです。 しかしそれでも、いつも喜んで人生の歩みをしていくことができるのです。イエス様を救い主と受入れ信じることによって、喜びの生活が待っているのです。イエス様は、私たちを必ずよい方向へと導き、守ってくださるのです。それだけではありません。私たちの命が、イエス様によって、終わることのない、永遠のものへと変えてくださっていることを受け留めることができるのです。この日曜日の、礼拝の時だけでなく、職場であれ、学校であれ、家庭であれ、イエス様はいつも共にいて下さり、喜びの人生を歩んでいくことができるのです。これこそが、イエス様を救い主と信じて変えられたものの生活となっていくということです。お祈りを致します。 天にいらっしゃいます父なる御神様 私たちは今、人生の歩みをしている中で、教会に集まってまいりました。私たちが生きる中で、悲しみ苦しみを抱えながら歩んでいることがあります。喜ぶことを忘れて過ごしていることがあります。どうぞ、神様の言葉によって、イエス様にある喜びを明らかにして下さり、喜びによって私たちを恵みで満たしてくださいますようにお導きください。何よりも、イエス・キリストの十字架と復活によって、救いの喜びを永遠の命を与えて下さっている喜びをしっかりと受け取って、神様に感謝をして人生の歩みをしていくことができますように、どうぞお願いいたします。また、イエス様のことを知らない人々の上に、聖霊の力を注いでくださいして、イエス様のことを救い主と受け入れることができますようにお導きください。イエス様のことを信じて、イエス様にすべてを任せて喜びのある生活へと変えてくださいますようにどうぞお願いいたします。この祈りをイエス様の御名によって御前におささげ致します。アーメン
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