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「ゆるされて歩む人生」  ルカ7章36−50節  

 内灘教会での月一回行っております伝道のための礼拝におきましては、最近は、ルカによる福音書の御言葉、それもイエス様の譬え話から神様の言葉を受け取っております。今日、御言葉を受け取りますルカによる福音書の7章36節からの物語には、新共同訳の聖書では、小見出しで、「罪深い女を赦す」と記されています。この物語の中においても、イエス様は譬え話をされています。41節、42節でイエス様が話されている譬え話です。恐らく、これは、イエス様の譬え話の中でも、最も短いもののひとつではないかと思えるのです。この譬え話の中で、41節に「帳消しにする」という言葉が記されています。この「帳消しにする」ということは、「ゆるす」ということを意味している言葉です。この物語の全体を見てみますと、小見出しが示していますように、イエス様が罪深い女の人をゆるしてやったという物語になっています。しかも、「ゆるし」ということがテーマとなって、話が進んでいるということです。

  みなさんは、日常の生活におきまして、「ゆるし」ということをどのように考えておられるでしょうか。人をゆるすということ程難しいと考えておられないでしょうか。自分に危害を加える人、あるいは批判をしたり、文句を言ったりする人をなかなか私たちはゆるしてあげるということはできないかと思うのです。逆に、「なんで私がゆるさなければならないの」と言いたくなってしまうことが日常の生活の中では、多いのではないかと思えるのです。先程、私たちは『主の祈り』をみなさんと一緒に唱えました。ある人が、「『我らに罪を犯す者を、我らがゆるすごとく』という言葉に差しかかると、この言葉が途端に言えなくなるというか、躊躇してしまう。」ということを言われました。それほどまでに、私たちにとって、「ゆるし」あるいは、「人をゆるす」ということが難しい問題であるということです。そのようなことから、この問題を解いていくカギはなんのかということです。それが何よりも、罪のゆるしであるということです。今日の聖書の物語では、その罪のゆるしのことが中心に描かれているいうことです。そのようなことから、今日は、イエス様の譬え話を含んでいる物語を、私たちの問題として考えながら御言葉をご一緒に受け取っていきたいと思っています。

  いつもそうなのですが、イエス様が譬え話しをされる時には、何かのきっかけがあったということです。ある舞台が用意されていたということです。その舞台であります場所は、ファリサイ派に属しているシモンと呼ばれている人の家でした。そのシモンの家に、イエス様が食事をするために招かれて、食卓に着いておられたのです。このファリサイ派とは、神様を信じて集まっている人々のグループのひとつです。しかも、このファリサイ派という意味は、ニック・ネームのようなもので「別け隔てをする者」ということを表していました。神様を信じているということに関しては、他の人とは違うということです。そのことから、「あの連中とは違うよ」という意味で、「別け隔てをする者」ファリサイ派というように名乗っていたのです。それに、このファリサイ派に属している人々は、とても真面目な人々でした。熱心な人々であったようです。神様のことを確かに信じていました。それにもまして、神様から与えられているおきてや戒めをきちんと守っていたのです。しかも、神様のことを真面目に信じているということから、自分たちには罪なんか持っていないと思っていた人々であったということです。さて、そのファリサイ派に属している人が、なぜ、イエス様を食卓に招いたのでしょうか。聖書には、理由は記されていません。けれども、40節でシモンがイエス様のことを「先生」と呼んでいますから、神様のことを教える先生として尊敬していたのであろうと思われます。それに、イエス様が病を癒したり、奇跡を行っていましたので、有名な人として興味本位に迎えたのかもしれません。

  いずれにしても、イエス様は、シモンの家に食事に招かれていました。そこに、一人の人物がイエス様に近づいてきて、ひとつの事件を起こしたのです。この人物は、名前は記されていませんが女性でありまして、シモンの家に招かれていた客ではありませんでした。けれども、この女性は、シモンの家に入ってきまして、イエス様を見つけると後ろから近づいて、まず自分の涙で、イエス様の足をぬらしたのです。その後で、自分の髪の毛でぬぐって、持ってきておりました香油を、イエス様の足に塗って、接吻をしたのです。何と、激しい行いでしょうか。この女性は、泣いていました。しかも、イエス様の足を拭うことができるほどに涙を流していたのです。人はそうは思わないでしょうが、私も、涙もろいところがありまして、悲しいドラマや映画を見るとすぐ涙を流してしまいます。それにしても、人の足を拭うほどに、涙を流したということはありません。みなさんは、いかがでしょうか。この女性は、多くの涙を流して、しかも、自分の髪の毛を使って、イエス様の足をきれいにしたのです。長い髪の毛であったと思います。しかも、髪の毛をきれいにあんで、結んでいたと思われるのです。その髪をほどいて、使用したのです。女性が、人前で髪の毛をほどくという行為は、当時におきましては、軽蔑される行いでありました。つつしみのある女性であるならば、してはならない行為だったということです。それが、世の中の常識であったということです。しかも、髪は、女性にとっては命だと言われていました。今もそのように思われているでしょう。その大切な髪の毛を、この女性は雑巾替わりに用いたのです。それだけでありません。この女性が持ってきました香油をイエス様の足に注いだのです。この香油は、かなり高価なものであると言われています。そのように、無駄遣いと思われても仕方がないような高価な香油をおしげもなく、イエス様の足に塗ったのです。私たちがここにいて、この女性を見たとするならば、異様なものを見たと思わないでしょうか。いやそれよりも、怪しいこの女性の行動に戸惑いを持つものだと思います。

  そのことから、この女性の行動を見ていたシモンも戸惑ったのです。戸惑いながらも、心の中で呟いていたのです。尊敬していたイエス様に失望をしながら呟いたのかもしれません。39節で、シモンは、イエス様に向かって、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに。」と心の中で思ったのでした。シモンは、神様の言葉を預かって人々に伝える預言者であるということをイエス様に期待をしていました。その期待が失われてしまったのです。シモンにしてみれば、どの人が良い人で、どの人が悪い人であるのか、すぐわかるではないかと、イエス様に期待をしていたのです。ましてや、この女が罪深いならば、その罪をすぐに見抜いて、ここから追い出すことができるではないかと思っていたのです。しかも、客ではない罪のある女の振る舞いをなすがままにさせているイエス様の姿にこそ、深い失望をシモンは抱いたのかもしれません。ところが、そのシモンの心の中に抱いている疑問を、イエス様はすぐに見抜かれたのです。いえ、イエス様はシモンの疑問を見過ごしにはなりませんでした。イエス様は、シモンに向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」と40節で言われたのです。「シモンよ、私の話を聞く気があるか」とイエス様は問われたのです。シモンがそれに対して、「先生、おっしゃってください」と答えました。

  このことから、イエス様が短い譬え話を話されたのでした。そのように、罪のある女の振る舞いを見ていたシモンの心の呟きがきっかけとなって、イエス様が短い譬え話を41節、42節で話されたのでした。譬え話の話は簡単なものです。「50デナリオンと500デナリオンというように借金の額が違いますけれども、同じ金貸しに金を借りていた人がそれぞれいたのです。しかも、ふたりとも金を返すことができませんでした。けれども、金貸しは、ふたりの借金を帳消しにしてあげたのです。」1デナリオンとは、その当時一日働いてもらえるお金です。ですから、今の日本の中で考えるとするならば、1万円ぐらいでしょう。そうすると、50万円と500万円を借りている人々が、金を返すことができなかったけれども、金貸しによって、借金がゆるされたということです。イエス様は、この譬え話をした後で、「二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」とシモンに問われました。私たちも、すぐに理解することができるイエス様の質問です。シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と正しい答えをしました。日本円で考えますと500万円を帳消しにしてもらった人が、この金貸しをより多く愛したに違いないと考えたことから、シモンは正しい答えをイエス様に告げたのでした。

  しかしながら、この時、シモンは、このイエス様の譬え話が何を意味しているのか理解していたのでしょうか。恐らく、シモンは、この譬え話と自分とがどんな関係にあるのかわからなかったと思うのです。一般には、500デナリオン借りていた人を罪深い女性であるとし、50デナリオン借りていた人をシモンとして、イエス様が譬え話を語られていると理解いたします。けれども、イエス様は何もここでは説明しておられません。確かに、シモンは、このイエス様の譬え話の中で扱われている借金の問題が、罪の大小であるということはわかっていました。借金が、罪の問題を表しているに違いないと感じていたのです。しかも、金貸しが、神様であるということはわかっていました。けれども、シモンにとっては、自分とは関係がない、自分が住んでいる世界とは違う話であるとそのように考えていたと思うのです。この譬え話が、罪人たちの世界での話だとそのように思っていたのです。だから、まさかシモンにとっては自分に向けられて話をされていることだということに気がつかなかったということです。まさか、自分も譬え話の中で、罪人の一人として、神様から借金をしている者のひとりとして語られていることなど考えられなかったのです。

  ところで、この物語に登場してきます女性は、「罪深い女」というように言われています。どんな罪を犯したのか聖書には記されていません。昔から多くの人々が推測していたことは、性的な犯罪、あるいは性的な過ちだということでした。おそらく、この女性は売春婦であろうと思われていました。そこまでいかなくても、次々と男の人を変えたり、不倫を繰り返していた淫らな女であろうと考えられていたのです。けれども、イエス様は、ここで改めてこの女性の罪が何であったのか調べて、問いただすようなことはしておられません。大きな罪があったということは事実であります。大きな罪があったということは、ファリサイ派であるシモンが指摘している通りです。けれども、シモンにも、罪があるということに気がつかなかったのです。それだからこそ、シモンはイエス様の譬え話が理解できなかったのです。私たちは、教会にやって来たら、罪のことを学びます。繰り返し、嫌になる程に、私たち自身が、罪人であるということを教えられていきます。けれども、やはり私たちは、自分も罪人だということはよくわかっているけれども、この女性ほどにひどい罪人ではないと、どこかで思ってはいないでしょうか。罪に大小があると思ってしまっているのです。いつの間にか私たちの罪の方が当然軽いはずであると思い込んでいるのです。ファリサイ派の人々は、先程言いましたように、真面目に熱心に神様のことを信じていた人々でした。今日でいえば、きちんと礼拝生活をしているような人々です。一週間を振り返っても、何も特別に悪いことをしたことがないと言えるような模範的なクリスチャンに似ている存在です。だからこそ、私たち自身も心してイエス様の言葉を聞かなければならないのです。いえ、牧師や伝道者がまず聞けなければならないでしょう。このファリサイ派のシモンにとっては、自分はあの女のような罪人ではないということによって、自分を支えることができました。私たちもいつもそのようなことを思っています。自分達にも、ずいぶんとだらしないところがあったとしても、あの人ほどではないと思ってしまうのです。あの人よりは、私の罪のほうが軽いのではないかと思ってしまうのです。特に、犯罪を犯した人々や性的な過ちを犯した人々に対しては、私たちは異常に関心を示して、人を裁くような態度を示さないでしょうか。ゆるせないという気持ちを持つものではないかと思います。私たちは、そのことから、あんな人達は、イエス様の救いになんかは与かることができないと思ってしまうのです。そのように考える時に、私たちは、いつの間にか、神様をみくびってしまい、神様から遠い存在になってしまっているということです。私たちもまた、このシモンと同じような考えを持つようになってしまっているということです。

   さて、イエス様は、譬え話を理解することができないシモンに向かって、44節で「この人を見ないか。」と言われました。この罪深い女性を見るようにイエス様は言われたのです。シモンは、この女性の振る舞い見ていたけれども、本当のところは見ていなかったのです。顔を背けていたのです。シモンは、この女性を受け入れることができなかったのです。いえ、この女性が行った振る舞いの中に、愛というものが見えなかったのです。だからこそ、イエス様は、シモンに対して、愛するということがどういうことなのかを44節から説明されたのです。それと同時に、「あなたは、この女性ほどにわたしを愛していない」ということを指摘されたのであります。あなたは、足を洗う水をくれなかったではないか、接吻の挨拶もなかったではないか、というようにです。このことは、単に客に対してもてなしをしなかったということを指摘されているのではありません。自分たち罪人のために、愛の歩みを進めておられるイエス様の働きに目を留めて、感謝をする心を忘れているではないかということを指摘されているのです。感謝をするということ、愛するということが、見えていないではないかということをイエス様は教えておられるのです。人間の罪という問題を考えていきますと、道徳的な罪、あるいは犯罪ということをすぐに思い浮かべると思います。確かに、人を殺す、人のものを盗む、性的な過ちを犯すということは、ゆるされないことかもしれません。けれども、少なくともこの物語の罪という問題は、イエス様を愛さないという罪として現れるということです。このことは、何よりも、神様を愛さないことにつながっていくことを指摘されているのです。神様を信じていると言っているが、あなたこそ、神様から遠い存在になっているということを教えておられるのです。なによりも、犯罪を犯すということよりももっと、大きな罪を犯しているということをシモンに問われているのです。 

 そこで、イエス様は、47節で「ゆるされることの少ない者は、愛することも少ない。」とシモンに語られました。実は、シモンにとって、自分自身もゆるされているということに気がつかなかったのです。ゆるしが与えられていることに気がつかなかったからこそ、イエス様を愛することができなかったのです。いえ、イエス様から本当は愛されているということが見えなかったのです。イエス様の短い譬え話をもう一度見てみますと、大きな疑問がそこに潜んでいます。なぜ、金貸しは、両方の借金を帳消しにしたのでしょうか。この疑問は、「なぜ、神様が両方の罪をおゆるしになったのでしょうか。」ということです。私たちは、人間の思いや考えで理由を考えてしまいます。私たちの価値や行いからゆるされたと思うということです。罪深い女が、イエス様のことを愛したから、罪がゆるされたと考えることです。けれども、神様の考えの中には、人間が考えるような理由はありません。いえ、ただ、ひとつだけです。神様は、人間を愛しておられたということだけです。それだからこそ、人間が神様に返すことのできない負い目や神様を愛さないという罪を神様御自身がゆるしてくださったということです。ゆるしを与えるために、神様は何をなされたのか。それこそが、神様の独り子であるイエス・キリストを十字架につけたということです。イエス様を十字架につけて、私たちに罪のゆるしを与えてくださったのです。このイエス様の十字架の恵みを受け取ることにしか、私たちの罪のゆるしはありえないのです。神様のもとに立ち返って、ゆるしをいただいて生きることでしか、私たちが人間として生きていくことができないということです。神様から離れていた私たちの心を神様の前に差し出して、申しわけありませんでしたと悔い改めて生きていく時に、イエス様によって、私たちがゆるされているということに初めて気がつくことができるということです。だからこそ、この罪深い女性は、イエス様の前に悔い改めの涙を流して、イエス様のもとへと立ち返ったのです。そのことから、イエス様は「あなたの罪はゆるされた」あるいは「あなたの信仰があなたを救った」とこの女性に宣言をされたのです。しかしながら、イエス様は、シモンに対しても、この譬え話をされながらも、イエス様のもとへと招いておられたのです。自分にも、罪があってもせいぜい軽いと思っていて、悔い改めなんか必要のないと思っている者に、あなたの罪はもっと深いものだと語られておられるのです。罪のゆえに人の悲しみが見えなくなる。イエス様の愛がわからなくなっている。その罪は、5百デナリオンよりももっと大きなものであるということを指摘されたのです。実際、この後、イエス様は、御自身の命までかけて、そのことを教えてくださいました。私たちにとって、イエス様の十字架によって、もうすでに罪がゆるされているということをです。ですから、私たちは、そのゆるしをしっかりと受け取って、神様のもとへと立ち返って、人生の歩みをしていきたいと思っています。私たちの罪がゆるされているということを受け取り歩んでいく時に、人を愛することができるし、人をゆるしていくことができるということです。なぜならば、私たち自身が、イエス様の救いによって、ゆるされて、愛されているからです。

 お祈りを致します。 天にいらっしゃいます父なる御神様 私たちを教会へと招いてくださいまして、礼拝を守り、神様の御言葉を与えてくださいましたことを心より感謝を申し上げます。私たちは、人の罪を責めながらも、自分の罪に気づかないものであります。神様から離れ、神様の愛を受け入れることができない弱い私たちです。けれども、あなたは、独り子であるイエス様をこの世界に送ってくださいました。イエス様は十字架について命を捨てるほどに私たちを救い、罪をゆるし、愛を示してくださいました。私たちは、イエス様の十字架の恵みによってしか、救いを受け取ることができないものであります。どうぞ、私たちが、イエス様によって罪がゆるされ、救われているということに気づいて、神様のもとへと立ち返って、生活をしていくことができますように、お導きをお願い致します。また、私たちが神様の愛によってゆるされていることをしっかりと受け入れて、人々を愛して、受け入れていくことができますように、なによりも、人をゆるし合いながら、人生の歩みをしていくことができまように、一人一人に恵みと祝福をお与えください。まだ、イエス様を知らない人々の上に、もうすでに、イエス様によって、救いがもたらされていること、罪のゆるしが与えられているということに気づいて、イエス様のことを愛していくことができますように、どうぞ、聖霊の働きかけを一人一人に与えてくださいますように、お願いいたします。今、病の中、悲しみ苦しみの中にいる人々の上に、イエス様が共にいてくだいまして、平安となぐさめを与えてくださいますように、どうぞお願いいたします。この祈りを、イエス様の御名によって、御前におささげいたします。アーメン

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