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「あなたは、神の招きをどうしますか」

  新約聖書のルカによる福音書には、他の福音書と比べてイエス様が話されたたとえ話が多く載せられています。今日受け取ります聖書が示す物語は、そこに小見出しで掲げられていますように、「大宴会のたとえ」と呼ばれているイエス様が語られたたとえ話です。ルカによる福音書の14章16節で「ある人が盛大な宴会を催そうとして」という言葉が語られています。宴会という言葉から、決してこれは日常の食事ではないことがわかります。しかも、楽しい、うれしい響きがするものではないでしょうか。ここにおられる人の中でも、宴会と聞いて、心を踊らせながら楽しい気分になる方もいるのではないでしょうか。実際に、宴会が趣味という人もいますから。イエス様は、そのように、「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き」とたとえ話を始められました。たくさんの人を招いていることをここで告げておられます。この当時、イスラエルの習慣では、誰かを宴会に招待する時には、正式の招待に先立ってあらかじめに声を掛けていたそうです。「あなたを、今度、宴会にお招きします」と声を掛けて人々を誘うのでした。その招きに応えて「どうも、ありがとうございます。是非喜んで伺います。」と言っていた人々が宴会に招待されたお客でありました。しかも、そのあらかじめ声を掛けられ招待されるお客の返事によって、宴会の準備が進められていくのでした。

  この当時のイスラエルでの習慣の説明を聞かないでも、日本でも、パーティにしろ、宴会にしろ、前もって招待状を出しておいて、その返事によって、準備を始めていくと思われるのです。あらかじめに準備をして招待客が決まっていくものです。しかも、この招待状に応えるかのようにお祝いの客が集まって来てくれるものです。招かれる客にとっては喜ばしい時です。それよりも、招く側の喜びがそこにあるのではないでしょうか。たとえば、結婚式や披露宴をしたとします。その時、それぞれの家庭が、あるいは新郎新婦が大変忙しい準備をしているに違いありません。しかし、当日、多くの人々が結婚式のためにお祝いに駆けつけてくださる。その時、招かれる客にとっては喜ばしいことではありますけれども、おそらく招かれる者よりも、招く家庭や新郎新婦の喜びの方が大きいと思われます。そのように、この盛大な宴会を開いた主催者、ホスト役の人の喜びは大きかったに違いありません。17節には、「宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に、『もう用意ができましたから、おいでください』と言わせた。」とイエス様が語られました。宴会を開催する家の御主人が、遣いをやって、招待客に声を掛けさせたのです。「もう準備ができている、これから盛大な宴会が始まる、さあ、これからごちそうをいただき、楽しい時が用意された」と、その家の御主人の言葉が僕によって、伝えられたのでした。この時、この主人の心は、喜びに溢れていたと思われます。ここに、招く側の喜びが表されていたのです。

  この「大宴会のたとえ」話は、15節に描かれていますように、この時、実際に食事会が開かれていました。その中で、ひとりの人がイエス様に語ったことから、イエス様がその人に答えるようにたとえ話を語られたのでした。客のひとりの「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」という言葉によってです。イエス様は、このたとえ話で、「神の国」とはどういうものなのかをたとえを用いて話されたのでした。ここで語られる「大宴会」こそが、神の国のたとえだと言われているのです。私たちは、この神の国という言葉を聞いて、まるで別世界のことであると考えないでしょうか。しかし、神の国とは、どこか遠くにある国ではありません。ましてや、私たちが死んでからでないといくところではないのです。神の国とは、神様が支配されているところであります。この私たちの世界も、神様が支配し、私たちと共に住んでくださっている神の国であるということです。その神の国は、私たちが神様と共に食卓につくのに似ているのです。食事をする時には、どんなことをするよりも、大変くつろぎを感じます。いろいろなことから解放されて、自由を感じますし、喜びがあります。よく、小学生に学校で何の時間が楽しいかと聞いて、「給食」と答える子どもがいることもわかるような気がするのです。それに、悩みや患っていることがあると、食事をする気がしないでしょう。人によっては、「食べている時が、一番幸せ」と感じる人もいるでしょう。そのように、神の国とは、宴会をやるような場所であり、くつろぐことができ、自由な場所でありまして、喜びが溢れているところであるということです。ここで、イエス様は、大宴会のたとえを用いて、神様が私たち一人一人を神の国に招いておられることを語っておられるのです。私たちは、いつでもこの神様の招きの言葉を聞くことが求められているのです。私たちが招きの喜びを受け入れていくことが求められているのです。私たちが日曜日ごとに集っておりますこの礼拝は、まさに神様の招きによって集まって来ているのです。直接には、神様が招いているとは言えないかもしれません。あの人が、あの本が、教会員の方が、と招いてくれた人々を思い起こすことがあるでしょう。しかし、それは、神様の招きの呼び出し手として声を掛けられたということです。このたとえ話に登場する僕のように、神様の使いを通して声を掛けられたことになります。

  さて、この大宴会のたとえは、神様の招きに生きることが示されています。それだから、このたとえ話こそが私たちの教会の姿なのかもしれまんせん。教会こそが、神の国であるからです。神様が支配し、神様が私たちと共にいて下さることを信じている群れであるからです。けれども、この大宴会の物語は、悲しい場面を迎えていくのです。招きが次から次へと断られていくからです。イエス様は、18節で「すると皆、次々に断った」と語られました。招きを断った人々には、それなりにみんな理由がありました。最初の人は、「畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください。」と言って断りました。恐らく、土地を売ってくれた人と、その土地を見に行く約束をしていたのでしょう。次の人は、「牛を二頭づつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼されてください。」と断りました。この5組の牛は、大きな土地を耕すために使われていたと思われます。もうひとりの人は、「妻を迎えたばかりなので、行くことができません。」と言って断ったのでした。この当時、宴会には、妻は招かれないのが普通でした。男の人だけが招かれたようです。ところが、結婚したばかりのこの人は、自分の妻を家に残して置くのは、切ないと考えたのです。それよりも、新婚生活のほうが、宴会の席にいるよりはましであると思ったに違いありません。ここに3人それぞれの断り方が示されています。この後も、断る人々が次から次へと続いていたのでしょう。恐らく、この3人は、断る理由の代表的な人々だったのかもしれません。この断る理由は、はっきりしていて、筋が通っているように思えます。果してそうでしょうか。最初の人は、「見に行かねばなりません。」と理由をどうしても、そうしなければならないと語っています。宴会に行きたいのだけれども、どうしても、こうしなければならないというようにです。次の人は、「調べに行くところです。」と理由が現在進行の形となっています。宴会に行きたいのだけれども、これこそが現実な問題だ、今進行していることだから、ほかにどうしようもないというようにです。次の人は、「行くことができません」というように、理由を不可能だからと語っています。宴会に行きたいのだけれども、それは不可能ですというようにです。

  この3人に代表されるように、人間の側の断り方が、「ねばならない」、「している最中です。」「できません。」といつも理由づけているのではないでしょうか。言い訳をしている、弁解していると捕らえられるでしょう。これと同じように私は、断る理由のキー・ワードがこの日本の社会において存在しているような気がするのです。私も使いますが、みなさん方も使われるのではないでしょうか。「忙しいから」という理由です。自分もそうですが、相手も納得してくれるような理由の言葉です。「忙しいからできません。」、「忙しいから行くことができません」というようにです。いずれにしても、この人々は、宴会の招きに応じるよりも、他のことをしていたほうがよいという判断をしています。この宴会に招かれていた人々は、招待を受けるのはこの時だけではないでしょうから、「また、この次に誘って下さい」と言うことができると考えていたのかもしれません。15節に登場してくる客の一人はファリサイ派の人ではなかったのだろうかと言われています。このファリサイ派の人々は、神様から選ばれたイスラエルの人々の代表です。神様のことを誰よりもよく知っていて、熱心に神様のことを信じていました。当然のように、神の国に招かれるのが、自分たちだと考えていたのです。神様が、最も心に掛けて、最も期待していた人々の代表でありました。その人々が、神様の招きを断っていくのです。それだけでなくイスラエルの人々も、神様の招きを断っていったのです。誰よりも、神様を身近に感じていた人々が、神様の招きを断っていくのです。最初に神様の招きを喜んで受け入れながらも、もう次には様々な理由を付けて、断っていくのです。しかし、神様はいつでもこのイスラエルの人々が自分の招きに気づくことを、心から願っていたと思われるのです。それが、拒否された時に、神様の怒りが激しいことは、当然のことだろうと思われるのです。この宴会を催した家の主人は、24節で「言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない。」と厳しいことを語っています。

  このことは、何もイスラエルの人々やファリサイ派に限ったことではありません。私たち、クリスチャンの問題でもあるということです。クリスチャンは、イエス・キリストの者となった人々です。いわゆる、神様の招きを聞いて、それに答えて、洗礼を受けて、教会生活を始めた人々です。神様の御前に、神様に従っていく道を歩んでいくことを約束した人々なのです。洗礼を受けることは、実に重いものなのです。けれども、現実には、教会から離れていく人々や礼拝生活から離れていく人々が出てきます。しかしながら私たちも、もしかすると、教会生活をしていると言いながら、これをしなければならない、このことをしている最中である、と言って、しばらくは教会には行くことができませんと言いながら、神様の招きを断り続けていることがないでしょうか。この言葉は、厳しい言葉ではありますが、私たちがいつも心に留めて置かなければならないと思うのです。私も、様々な理由をつけて礼拝を休んだことがありました。はりきって、一生神様に従って歩んでいきますと告白しておきながらも、神様の招きを2年間も断ったのです。このようにざんげをしながら今ここで牧師になったから、偉そうに礼拝に出席するようにと説教をしているのではありません。まず、牧師である私がこの聖書の言葉を受け止める必要があるということなのです。今、悲しいことに、牧師になった人々でさえも、様々な理由を付けて神様の招きを断る人々が多くなっています。ご存じでしょうか。日本キリトス教団の場合、牧師をやめても、教会員にはもどれないのです。教会に行かなくなっても、牧師は牧師であり続けるのです。けれども、神様の招きを断り続けているのだから、責任は重いものだと私自身は考えています。そのことから、まず、伝道者として仕えている者がなによりも、神様の招きと言葉を聞かなければならないと考えています。私たちは、たとえ伝道者であっても、誰でもが神様に対して罪があるということです。ここで言う罪とは、神様が人間を招いて下さっているのに、それを断るという罪です。このことは、私たち人間の根深いところに存在している罪だと思うのです。現代の人間は、神様の招きがなくても、自分たちでやっていけると思い込んでいます。神様の言葉なしでも、自由に悩みなく喜んで生活をしていくことができると思い込んでいるのです。なによりも、神様の招きを聞きながらも、神様の招きを受けるのは、また今度のこと、少し生活が楽になったら、あるいは反対に大変になったら、受け取りましょうぐらいに思っているのです。それだから、今、現実の生活は、自分たちの力で間に合っていると考えられています。今は、救われる必要はない、神様なんか必要はない、神様の招きなどいらないと思っているということです。少し厳しく言うならば、礼拝に招かれなくても、神様の言葉を聞かなくても、この私の魂の救いや生活は平安で恵み豊かであると思っているということです。

  ところで、招かれるはずであった招待客が断ったことによって、その宴会に誰が招かれていったのでしょうか。様々な理由で断った人々の報告を僕から聞かされることによって、この主人は怒りました。そこで、再び僕に21節で「急いで町の広場や路地へ出ていき、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。」と言いました。招かれたのは、貧しい人や体に何らかの障害を持つ人々でした。この当時、これらの人々は差別や偏見を持たれていまして、一般の宴会には招待されないばかりか、関係がない者とされていました。しかも、この主人はまだ席があるから、通りや小道に出ていって、人々を連れて来なさいと命じています。「通りや小道」ということは、外の世界ということです。イスラエルの人々からすれば、異邦人、つまりユダヤ人以外の外国人のことです。この外国人たちも、ユダヤ人たちから差別と偏見を持たれた人々でした。この当時、ユダヤ人たちの間に差別意識がありました。ユダヤ人たちの間で、自分は最も低い人間だと嘆いていた者も、外国人を見ると、「いくら私でも、あの人よりはましだ」と思ったのです。私たち人間は、いつも、何からの差別をして、あの人よりはましだという考えを持っています。そのように、ここで招かれた人々は神様に祝福されていないと思われていた人々です。神様の招きなどないと思われていた人々です。その差別や偏見を受けている人々が招かれていくのです。なぜ、この差別されている人、最も低い人々が招かれていったのでしょうか。イエス様がこのたとえ話をされる前に13節、14節で「宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しできないから、あなたは幸いだ。」という教えを語られていました。

  イエス様のこの言葉を聞くと、貧しい人や虐げられている人々にとっては、「いくら差別されていても、お返しぐらいはできるものだ」と怒ってもよい言葉のような気がするのではないでしょうか。最初に、招かれた客は、差別している側、高いところにいる人々です。その人々が断ると、今度は、差別されている側、低い人々が招かれます。イエス様もやはり、差別を肯定しながら、人々を招くのかと思われるでしょう。だからこそ、教会こそが、差別されている人々のために生きなければならないと思い込んでしまうのです。この時、私たちは、自分自身が低い者であると思っていません。自分は賢く、自分は富んでいると思っています。自分自身を高いところから見て、あの人もこの人も救われなければならないと思っているのです。実は、私たちこそが、貧しい者であり、人々から虐げられている者なのです。神様から招かれて救われなければならない低く弱い人間なのです。それよりもイエス様は、私たち人間のために、自分自身を最も低い者として、犯罪者となって十字架に掛かって下さいました。私たちの代わりに神様の怒りと罰を受け止めて、死んでくださり、私たちの罪をおゆるしになったのです。しかも、父なる神様がイエス様をこの世界に送って下さり、イエス様の十字架と復活によって、神の国に私たちを招く準備をして下さったのでした。神様がイエス様によってすべてを整えて待っていてくださるのです。この大宴会のたとえは、すべての人を神の国に招き入れるたとえでありました。みんなが、神様に招かれているのです。むしろ、差別されることなく、私たちの側にどんな資格も、何にもいらないのです。しかも私たちは本当は、神様にお返しなんかできないのです。一人一人の体や心すべてが神様のものだからです。このたとえ話で、神様の招きを断った人々がいました。それは、自分こそが神様に招かれるのが当然だと思っていた人々です。誰よりも、先に自分が招かれるものだと思い込んでいた人々です。招かれるのが当然だと思っている時、その招きの重みがわからなくなって、平気で断ることができると思っていました。それに対して、自分が宴会に招かれる資格もなければ、用意もないと思っている人々が招かれていくのです。この家の主人は言います。「無理にでも人々を連れて来て、この家をいっはいにしてくれ。」神様の招きは激しいのです。強引にということではなく、この主人が真剣になって招いてくださることを表しているのです。イエス様は真剣です。熱心になっていて下さいます。それだから、私たちは神の国に招かれる資格がないことに気づくことから、イエス様によって招かれて、救いと恵み、平安や祝福を受け入れることができるのです。今、私たち一人一人は神の国である教会へと招かれています。あなたは、この神様の招きをどうするのでしょうか。  

 お祈りを致します。 天にいらっしゃいます父なる御神様 あなたは、低く弱い私たちをいつも招いておられます。しかしながら、時には、その招きを様々な理由において、断り続けている私たちです。自分の力で生きていると思い込んでいる私たちです。どうか、いつもあなたが変わることなく、神の国である教会へと招き続けておられることを、私たちが知ることができますように。私たちの心を神様のほうへと向けて下さいまして、神様の招きの言葉をいよいよ深く受け入れることができますように、お導きをお願いいたします。なによりも、あなたの招きを最も必要としている人々を、あなたの力と恵みによって、無理にでも引き寄せてくださいますように。あなたがイエス様をこの世界に送ってくださり、十字架につける程に私たちの救いのため、招きの準備のために、真剣になって下さっていることに私たちが気づいていくことができますように、神様の働きかけを一人一人にお与えください。毎日の生活において御言葉を受け入れて、安らぎを覚えて、過ごしていくことができますように、お導き下さい。この祈りをイエス様の御名によって御前にお捧げ致します。アーメン

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