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「思い悩まず生きる」 ルカ12章22−34節

 私たちは、毎日の中で、生きていて、生活をしています。当然、私たちは死んでいるのではなく、今、こうして現実に生きているということがいえます。生きているからこそ、今、教会にやって来て、礼拝をしているということがいえるでしょう。その生きている現実を目の前にして、私たちは、様々なことで思い悩みを抱きます。不安を抱きます。心配事をたくさん持っているということが言えるかと思うのです。人間の生活をする中で、毎日の暮らしをしていく中で、多くの思い悩みがあります。みなさん方の中にも、おそらく様々な思い悩みがあるのではないかと思います。主婦であるならば、毎日の献立や掃除、洗濯、買い物、子育てなどに、思い悩むことがあるでしょう。子供のことだけでなく、夫に関しても思い悩みをもっているかもしれません。学生であるならば、勉強や将来のことを考えながら忙しく毎日を過ごしていることでしょう。学校においては、次々に新しいことを学び、様々な知識を吸収していき、宿題もやっていかなければなりません。入学試験や入社試験がある場合は、そのことに、思い悩みを抱くことがあるかと思います。あるいは、社会人であるならば、仕事の段取りや計画で思い悩まなければならないでしょう。この仕事は、予定通りに進むのだろうか、今、やっている仕事は私にふさわしいのだろうかと、そのように、心配することもあるかと思います。このようなことは、ほんの一例に過ぎないかと思うのです。それだけでなく、私たちは、もっと心の奥底で、思い悩みを抱いているのではないかと思えるのです。「人は、私のことをどう見ているのだろうか」、「私のこと、この人は、嫌っていないか」、「私は仲間はずれになってはいないだろうか」というように、人間関係に対して、深く思い悩む私たちではないかと思います。さらに思い悩みは、これだけではないでしょう。もっと、もっと、人にとっては小さいと思えるようなことに、私たちは、思い悩みを抱いているということがいえるのではないかと思うのです。人にとっては、「なんだ、あなたそんなことに悩んでいるの」というようなことに、私たちは、思い悩みを抱いているということがいえます。そんな時、「あの人は、私の悩みをわかってくれない」というような嘆きに変わってくることもあるでしょう。私たちは、大きな悩みよりも、むしろ、人にとってはどうでもいいような悩みを抱えながら生きているのではないかと思うのです。しかしながら、考えてみれば、悩んでいる本人にとっては、悩みに大きいも小さいもないのかもしれません。私も、今思い悩んでいることがあります。それは、今週の木曜日に行われます聖書セミナーのことです。その聖書セミナーにおいて、一時間半もの講義をしなければなりません。一時間半という長さを話すということは、今まで経験したことがありませんので、今から思い悩んでいるということです。このことは、みなさんにとっては、私の悩みは人ごとでありますから、そのことで思い悩むということはないかと思うのです。つまり、自分にとっての思い悩みというものは、人にはとうてい理解してもらうことのできないことであるということです。

  そのように、毎日生きている中で、私たちは、心の深いところで、魂を揺さぶられながら、思い悩んで過ごしているのではないかと思うのです。このことは、イエス様を信じていても、同じように悩みが襲ってくるかと思います。いえ、イエス様を信じることにおいて、違った思い悩みを抱くということが場合によっては、考えられるかと思えるのです。人が生きている限りは、思い悩みはなくならない、と私たちは思っています。たとえ、私たちは、神様を信じる信仰を持っていたとしても、思い悩みを抱きながら、生きていかなければならないと、そのように受け取っているのではないかと思います。果してそうでしょうか。ある牧師がこのようなことを嘆きながら語りました。その内容は、「ある方が、よく礼拝を休むようになっていましたので、その方と親しい人に『あの方は、どうされたのですか』とその牧師は尋ねたそうです。するとその人は、『あの方なら大丈夫です。礼拝にいけない程、悩んでいるだけですから。悩み事が解決したら、礼拝に出られますから。』と言ったそうです。」笑い話にもなりそうな話です。しかし、この言葉を聞きまして、私は、立ち止まってしまいました。実は、私も、そのように考えていることがあるのではないだろうかということです。いえ、考えたことがあったということに気がついたのです。思い悩んでいるから、教会に行くことができない。思い悩みを解決して、すっきりとして心が軽くなったら、礼拝に参加しようとか、教会に行こうというように、思っていた時があったということに気がついたのです。みなさんは、そのように思われたことがないでしょうか。あるいは、教会生活そのものが、重荷になったり、信仰生活、礼拝生活が思い悩みになっているということも考えられるかと思うのです。教会にやって来て、礼拝にやって来て、尚も疲れてしまう、思い悩みを抱え込んでしまうということは、おかしな問題だということがいえるかと思います。本来、礼拝において、神様の御言葉をいただき、イエス様によって救われて生かされていることを感謝して、喜びの生活に変えられていくのに、やはりおかしいことであるのかもしれません。人がそのように思うということは厳しい言葉ですが、教会あるいは、牧師に対しても、悔い改めを求めておられる神様の働きなのかもしれません。あるいは、私たち自身が神様の言葉によって信仰のことを改めて見つめなおさなければならないのかもしれません。それが、今日のイエス様の御言葉であるということです。

  さて、今日の聖書ルカによる福音書の12章22節から34節までの箇所で、イエス様は「思い悩むな」という言葉を繰り返し語っておられます。まさしく、神様を信じて生きるということは、思い悩まずに生きていく生活のことであるということを、ここで、イエス様は語っておられるのです。信仰に生きるということは、思い悩みから解き放たれて生きる生活であるということを語っておられるということです。このイエス様が語られた御言葉は、そこにいた弟子たちに話されていました。イエス様の後を追いかけて従っていた弟子たちに話されていたのです。いわゆる、神様を信じて信仰を持っている人々に話されたのでした。このことは、何よりも私たちにも語られているイエス様の御言葉だということです。それだけでなく、神様を信じて生きるということが、どのようになるのかをイエス様が語っておられるということです。ここで、イエス様は、二つの生きている物、生き物をたとえに使いながら、「思い悩むな」ということを説明されました。24節の「烏のことを考えてみなさい。」と27節の「野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。」という言葉です。この「考えてみなさい」という言葉は、もっと注意深く観察して、考え、研究することを求めている言葉です。ですから、イエス様は、烏のこと、野原の花のことをようく見て、考えるように私たちに訴えかけられているのです。烏の場合は、「種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。」と説明しておられ、野原の花の場合は、「働きもせず紡ぎもしない。」というように説明しておられます。烏や野原の花は、人間のように忙しく働いたりはしません。種まきや刈り入れの労働をするわけでもありません。それなのに、烏は、ゆうゆうと空を飛んでいますし、野原の花は、美しく咲いているのです。このことは、当然といったら、当然かもしれません。「まったくその通りです。」とイエス様に答えることができる言葉ではないかと思います。もしかしたら、イエス様のこの言葉を聞いて「あー鳥はいいなあ。鳥になって自由に空を飛びたい。」とか「あー花になりたい。あの花になって美しくなりたい。」というように思っている人もいるかもしれません。ましてや、「神は烏を養ってくださる。」、「草でさえ、神はこのように装ってくださる。」という言葉から、このように神様が小さな生き物を養ってくださっているのだから、安心して、生きていくことができるというように考えられます。それだから、尚更、「鳥だったらなあ」とか、「花だったらなあ」というように、強くあこがれを持つのではないかと思います。

  しかしながら、イエス様は、ここで鳥のようになりなさいとか、野の花のようになりなさいということを言っているのではありません。当たり前ではありますが、イエス様の言葉は、鳥や野の花に向けられて語られているのではありません。人間に向けられて語っておられるということです。私たちに向けられている言葉であるということです。だから、イエス様は、24節で「あなたがたは、鳥よりもどれほど価値があることか。」と語られました。神様が、鳥や野の花を大切にする以上に、人間を大切にしてくだり、養ってくださることをイエス様は語っておられるということです。なぜならば、神様は、鳥や野の花を造られたと同時に、私たち人間を造って下さったお方だからです。私たちに、命を与えてくださっているお方であるからなのです。けれども、この神様は、私たちを造りっぱなしで、あとは無責任に放り出してしまうようなお方ではありません。常に、私たちを養い、必要なものを与えてくださるお方であり、愛に満ちたお方であるということです。ですから、22節で、イエス様は、「命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな。」ということを語り、父なる神様が私たちが生きていくために、何が必要なのかをよくご存じであるからだということをイエス様は語っておられるからだということです。神様が必要なものを私たちに与えてくださるということです。

  ところで、ある科学者が、人間と他の動物では一番何が違うのかという問いを出しました。いろいろな答えが考えられるでしょう。その科学者が言うには、人間と他の動物が一番違うところは、人間は神様を知ることができるということでした。もしかしたら、他の動物の中で神様を知っている動物もいるかもしれません。それは、私にはわかりません。ただ、現実に、人間は神様を知ることができるということです。神様を信じる信じないにもかかわらずに、人間は、神様を知っているのではないかと思えるのです。この神様を知るということが、神様を信じていくことにつながっていくということです。それだからこそ、神様を知ることによって、人間がただ単に生きているのではなく、神様によって生かされているということにはじめて気がつくことができるということです。私たちは、神様によって、命をいただき、生かされている存在だということなのです。その神様に頼っていく生き方が、まさしく思い悩みから解放される道であるということなのです。神様に自分自身のすべてを任せて生きていくことが、思い悩まず生きていくことであるということです。しかしながら、私たちは、このようなことを聞いたとしても、思い悩みに惑わされるのではないでしょうか。ゆったりとした心の余裕がある生活がしたいと考えていても、それがなかなかできない現実があります。よくご存じのように、日本語の忙しいという言葉は、心が亡くなるというように書きます。それだからこそ、忙しさにまぎれて、余裕がない生活になっている現実があるということです。実際には、私たちは心配したところで何も変わるわけではないけれども、胃を傷めながらも、思い悩みを抱きながら生きている現実があるということです。

  しかしながら、イエス様は「思い悩むな」ということを繰り返し語られておられるのです。心配しなくてもいいと語られるのです。けれども、それでも私たちはイエス様に「私たちの置かれている世界は、真に厳しい」と言いたくなる、心配し、苦労をし、不安になって生きていかなければならないと思えてくる。「イエス様、そんな理想を私たちに押しつけないでくれ。」とまで言いたくなっていくのかもしれません。そのような私たちに、イエス様は、28節で「信仰の薄い者たちよ」と厳しい言葉を語られるのです。この「薄い者」という言葉は、小さいということを意味しています。あなたたちの信仰が小さいということをイエス様が指摘されているのです。確かに、イエス様はここで「あなたたちには信仰がない」とは言われませんでした。神様を信じている信仰は持っているのです。けれども、イエス様は、「信仰が小さかったら困る」と言われているのです。本来、信仰とは、大きなものであるということをイエス様は指摘されているのです。信仰が小さいとなぜ、困るのでしょうか。それは、思い悩みを抱くからです。これでは、神様を信じて生きていない人と同じようなものだからです。それだったら、神様なんか信じて生きていたとしてもばかばかしいと考えるのではないかと思います。だからこそ、イエス様は、思い悩みに打ち勝つ信仰へと招いておられるのです。あなたたちの信仰を大きくしようというように、イエス様が招いておられるということです。その招きの言葉が、31節の「ただ、神の国を求めなさい。」という言葉です。神の国とは、神様が支配されているところです。私たちが生活をしている地上ではありません。私たち人間の生活は、真に自分勝手で、自分のことばかりを考えて生活をしているということです。そのような生活ではありません。自分自身を中心にして生活をしていてはだめなのです。神様が支配されているところを見上げることを私たちに求めておられるのです。つまり、イエス様は、私たちに神様を中心とした生活をするように求めておられるということです。しかしながら、考えてみますと私たちは、そう簡単に、神様を中心とした生活をしていくことができないだろうと思います。

  ところで、このルカによる福音書の「思い悩むな」という物語は、聖書の小見出しの下に括弧で記されていますように、マタイによる福音書の6章にも同じ物語が記されています。この当時の教会の人々が、おそらくイエス様が語られた「思い悩むな」という言葉を深く心の中に刻んでいたと思われるのです。そのためにマタイもルカもその言葉を深く心に刻みながら福音書の中に描いたのです。しかしながら、ルカだけが、イエス様が語られた言葉として、22節「小さい群れよ。恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」という言葉を重要なものとして伝えたのでした。神様を中心とした生活をするためには、あるいは思い悩まず生きるためには、どうすればいいのかということを、この22節でイエス様の言葉を思い起こしながらここに記したのです。特にそれが、「恐れるな」ということです。このルカによる福音書の12章には、イエス様が繰り返し「恐れるな」ということを語っておられる場面があります。しかも、実は、思い悩むなということは、恐れるなということなのです。この「恐れる」という言葉は、本来は、「逃げる」という意味でありました。自分が恐れているものを目の前にして、ただそこに立ってびくびくとしているだけではないのです。そこから、逃げたくなる。恐ろしくて、逃げたくなるということです。私たちも、恐ろしい目に遭っている時、あるいはひどい目に遭っている時は、そこから逃げだしたくなるのではないでしょうか。病気が恐ろしい、死ぬのが恐ろしい、人の目が恐ろしい、自分が置かれている立場が、恐ろしいものだら、現実から逃げだしたくなる。しかも、考えないようにすればする程、私たちは、恐ろしさの前で、思い悩んでしまうのではないでしょうか。けれども、そのような、私たちに、恐れなくてもよい、逃げなくてもよいとイエス様が語られるのです。逃げずに、あなたが立っているところに立ちつづけなさい。恐れを抱いてしまう自分自身を受入れなさい。とイエス様は私たちを励ましておられるのです。深い安心を持って、恐れている自分自身を受け入れればよいではないか。とイエス様が私たちに語っておられるということです。自分が小さいこと、自分が弱い者であることを受け入れること、自分自身が神様から生かされている人間にしかすぎないということを受け入れること、その信仰へと私たちを招いておられるのです。「ありのままのあなたでいいではないか」このことから、イエス様は恐れるなと私たちに告げられるているのです。

 なぜ、イエス様は私たちに「恐れるな」と言われるのか。なぜならば、イエス様は、人間を恐れさせることによって支配しようとはなさらなかったからです。恐れさせることによって、自分の言うことを聞かせようとなさった方ではなかったからです。私たちの恐れを取り除くために、恐れを使わずにイエス様は苦しみ、悲しみを背負われたのです。それが、十字架であったということです。しかも、イエス様は、十字架上で死んだあと、三日後に復活されました。私たちの一番恐れている死をも打ち破ってよみがえってくださり、私たちに復活の命を与えて生かして下さっているのです。そのイエス様の十字架と復活によって、私たちは、恐れを取り除かれ、救いに与かり、神様を中心として、神様に安心して、自分自身を委ねて生きていくことができるということなのです。そのイエス様の十字架と復活の救いによって、新たに私たちが生かされていることを受け入れる時に、喜んで神様の支配の中に入ることができるのです。それだから、私たち自身が神様から愛されていること、また、そのままの自分自身を受け入れて、思い悩まず信仰の歩みをしていきたいと願っております。

 お祈りを致します。 天の父なる御神様 私たちを教会へと招いてくださいまして、神様の御言葉によって、新しい恵みを与えてくださいまして、心より感謝を申し上げます。私たちは、日常の歩みにおいて、思い悩みを抱えながら生きております。また、様々なことに、心を奪われながら、逃げだしたくなるような恐れを持って生きている私たちです。しかし、あなたは、私たちの恐れや思い悩みを打ち破るために、救い主であるイエス・キリストをこの世界に送ってくださいました。私たちのために、イエス様を十字架につけ、復活させて下さり、恐ろしい死から解放させてくださいました。どうか、私たちがそのイエス様の十字架と復活の喜びをしっかりと受け入れて、生活をしていくこができますように、導いてください。また、私たちが神様から造られ愛されているありのままの人間であるということを受け入れて、神様に委ねて生活をしていくことができますように、一人一人に恵みと祝福をお与えてください。また、神様のことを知らない人々に、信仰を持っていない人々の上に、イエス様こそが、人間の思い悩みから解放してくださる救い主であるということを信じさせてくださいますように、どうぞ聖霊の働きを一人一人に注いで下さいますように、お願いいたします。この祈りをイエス様の御名によって御前におささげ致します。 アーメン

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