| TOPへ 聖書のお話しMENUへ 「人生に嵐が吹く時」 ルカ8章22−25節 一人一人が生きている人生は人によって様々です。人生の中で、時には予想もしないことが次から次へと起こってまいります。石川では先週から降り続いた雪で、15年振りの大雪となりました。みなさんにとって、生活をする中で、この雪は予想もしなかったことであったでしょう。そのような中で、このような大雪によって様々な計画を乱されたことがあったでしょう。このように自然現象の中でも人生を揺るがすようなことが起こってまいります。はっきりと目に見える形として、具体的に生活を脅かすようなことが自分の身に迫ってくることがあるのです。ある人が人生とは、旅のようなものであると言いました。それも、船で旅をするようなものであると言うのです。大きな大きな海を船で渡っていくように、まさに人生を後悔にたとえる人は少なくないでしょう。相手が海ですから、すべてが順調に行くとは限りません。時には、ひとりぼっちであったり、暗闇に襲われたり、風が吹きつけたり、荒波が襲って来たりします。それこそ、嵐が押し迫ってくるようなことがあります。まさしく、人が生きる人生には、現実に嵐が吹くようなことが起こっていくのです。そのような時、私たちは恐ろしさのあまり自分でどうしたらいいか分からなくなってしまうことが時々あるでしょう。そのことから、生きることに戸惑いを感じたり、その場に立ちすくんだり、どのように自分を対処していいのか分からなくなってしまうことがあるのではないでしょうか。先程、読んでくださいました聖書の物語は、嵐の湖の出来事です。イエス様の弟子たちが経験した船の中の出来事でした。イエス様が、嵐を静めるということをなされた出来事でした。ここには、イエス様の弟子たちが具体的に現実に経験したことが記されています。弟子たちが自分の肌で感じた実際の嵐の中の経験です。そのような自然現象に対する中で、弟子たちは、イエス様の力を知ることになるのです。この物語は、たとえが語られているのではありません。具体的な出来事、自然現象の中にも神様の力が働いていることが記されている物語です。私たちが実際の生活で経験するすべてのこと、現実的なこと、心理的なこと、がここに描かれているということなのです。それだから、この物語から、イエス様を信じるということはどういうことか、信仰とは、何かということをみなさんと一緒に考えてみたいと思うのです。 さて、今日の嵐の中の物語では、弟子たちがイエス様と一緒に船に乗っている姿が最初に描かれています。このイエス様と弟子たちが船に乗っている姿を昔から教会の象徴的な姿として、人々に記憶されてきました。そのように、今日の物語を昔のクリスチャンたちは教会の姿として聞き取ってきたのです。先週は、内灘教会の創立記念礼拝を行い、「教会とは何か」ということをみなさんと共に考えました。教会とは建物だけではなく、イエス様によって呼び出された群れのことであるというようにです。イエス様に呼び出されて、イエス様を信じて、イエス様のものとなった人々の集まりを教会と呼ぶということでした。それだから、イエス様を信じる生活とは、信仰生活と呼びますし、教会生活とも呼ばれているということです。その教会生活は、まさしく船に乗っている生活です。人が生きる人生を船で旅することと同じようにです。しかも、このように主の日に礼拝をする時に、みんなと一緒に船に乗る体験をするということがむかしから言われているのです。今、みなさんは船の中にいるのです。それだから、讃美歌に酔ったり、時には説教中の揺れに気持ち良くなって眠ってしまうことがあるでしょう。旧約聖書の創世記に、「ノアの方舟」という物語があります。その物語には、人間が神様から離れてしまい、堕落してしまったものですから、神様が怒って、洪水という罰を下されたことが描かれています。その人間の中で、神様の前に一人だけ正しいノアという人が神様からの命令で方舟を造って、洪水から救われたという物語でした。このノアの方舟の物語をキリスト教の立場では、教会の姿として語り継がれてきました。このノアの方舟に入っていたのは、ノアとその家族でした。ノアは神様の前に正しい者であったのですが、家族は正しいかどうか記されてはいませんでした。しかも、方舟には、動物たちも入れられたのですが、清くないものまでも入れられていたのです。どうして、神様は清く無い者までも方舟に入れられたのか、不思議に思うばかりです。しかし、このノアの方舟が教会だとすると、教会には、クリスチャンの家族や清くないと考えている人々までも入れられているということです。実は、イエス様によっての救いが、あらゆる人々に届けられて、教会へと呼び出して下さっていることを意味していることであったのです。 そのように、いろいろな人々がこの教会に集まってきています。それに、この教会は船であると語ってきました。船とは、動くものです。足元が揺らぐ不安があります。昔からクリスチャンたちが教会を船にたとえたことは、人々が船に乗って海を渡っていくような不安を抱きながらも、この世の嵐の中に乗り出して行かなければならない定めが教会にあることを意味していたのです。教会の歩みとは、必ずしも安定してはいません。何となく頼りがいがないことが起こっていくものです。教会につながっていても不安で一杯になることがあります。この内灘教会が教会になって17年ですが、教会の歩みは決して順調ではなかったのではないでしょうか。むしろ、この世に関係がなく、教会独自の問題がある、それこそ、嵐が吹くようなことが教会にも起こっていくのです。私たちが生きる上で、遭遇する嵐のような出来事を、教会にいても体験するものなのです。イエス様を信じる信仰を持っていても、決して悩みや苦しみはなくならないことを思い知らされます。しかも、教会に、失望することがあるでしょう。教会の中に嵐が起こって、それこそ教会から離れていく人々が現実にはいるものです。しかも、現実に生きていても、様々な苦しみや悲しみを経験する度に、信仰があっても役に立たないということを思い知らされるのではないでしょうか。人々や教会だけでなく、神様にも失望を覚えることがあるでしょう。ましてや、神様の代理人のようなものと考えられている牧師にも失望することがあるかと思うのです。 最近、東京のど真ん中にある銀座教会に仕えておられたある牧師の説教集を読んでいて、驚いてしまったことがあります。約30年前に銀座教会の礼拝で実際に行われた説教を一冊の本にまとめたものです。良いのか、悪いのかわかりませんが、こんなことも、説教の中で語られていたのだと愕然としたということです。少し抜き出して、みなさんに紹介したいと思います。「実はね、私は皆さんに警告してお話してるんだ。皆さんはね、牧師を大変立派なご人格の人だと信じていらっしゃる。それで教会へ入ったら、話はちがうんですよ。キリスト教ってものは牧師のよさで入るもんじゃないんだ。そんなことを考えたら、とんでもないまちがいなんだ。私のところにこんなはがきを寄こした奴があった。『拝啓、私は、先生のいろいろな場所でのお話をきいて、ほんとうににがにがしく思っております。口に税金がかからないから言っているんでしょうが、あんまりなことを言うのは、どうも主イエス・キリストと教会の栄光にならんと思います。先生の病気がなさると思えばがまんもしますが、もう先生もあまり長くないはずだ。そのうちに神様のところにおいでになるでしょうが、少し気をつけたらどうでしょう。』こんなはがきを寄こすほど教会のよい信者はね、みんな牧師を偉いもんだと思ってるんだ。ところが牧師の側へ寄ってごらんなさい。そんなもんじゃない。俺は牧師なんだから信者の前ではこうなくてはならない。べらんぼうなことを言ってやがる。信者の前だから誰の前だからって、お体裁をかざるようなことをやれば、それは偽善者だ。偽善者ってのはね、役者ってことだ。」というようなことを語っておられたのです。あくまでも、私が語っているのではありません。教会にはいろいろな信徒がいます、牧師もそれぞれです。私も含めて石川地区を見てみればよくわかると思うのです。しかし、それでも教会という船は動いていくのです。荒波に揺れながら、2000年間も旅をしてきたのです。沈没することなくこの船が動いているのです。不思議なことではないでしょうか。信仰がまさしく生きているということです。 さて、聖書の物語を読み進めていきますと22節でイエス様を乗せた船は、湖の向こう岸に向かって船出したと記されています。その湖は、ガリラヤという名前の湖でした。その時、船の中では、イエス様が眠ってしまわれたのです。それだけでなく、イエス様が眠られた後に、突風が吹き下ろしてきたのです。嵐になって、船に乗っていた弟子たちが危険な目にあったのです。この嵐は、ガリラヤの湖にはよくあることでした。自然現象の一つでした。しかも、突然、高い山から激しい風が吹き下ろして、嵐となって、船を直撃していたようです。この時、弟子たちがどうしていたのか描かれてはいませんが、かなり動揺していたのではないかと思うのです。なぜならば、頼りにしていたイエス様は嵐の中でも眠っておられたからです。イエス様が眠っておられたということは、何の役にも立たないということです。ここで、イエス様は働いてはおられなかったのです。きっと、弟子たちは不安で一杯になっていたことでしょう。しかし、すぐにイエス様が目を覚まして、一緒に嵐に立ち向かって、弟子たちを励まして下さったわけではありませんでした。弟子たちがイエス様を起こすまで、眠っておられたのです。なぜ、イエス様はここで眠っておられたのでしょうか。疲れを覚えられていたのでしょうか。それもあるかもしれません。イエス様は神様でありましたが、人間でもありました。イエス様は私たちと同じように疲れを覚えられますし、眠ることによって、疲れを癒し、新しい活動の力を蓄えることもなされていた人間でありました。しかも、眠るということは、安心しているからできることです。私たちも不安や緊張があるとなかなか眠ることができないでしょう。神様を見失って、心配事の多いこの世の中、不眠症で悩んでいる人が増えていることもよくわかることだと思うのです。それだから礼拝の説教中に眠れる方は、安心しておられるからでしょう。 ここでイエス様は、弟子たちでなんとかできるのではないかと思って、安心して眠っておられたのです。たとえ、嵐になったとしても、弟子たちならば、なんとか船を沈ませずに、忍耐して、この嵐を乗り越えることができると任せておられたのではないでしょうか。弟子たちのことが心配であったのならば、イエス様は眠っておられるはずはなかったのです。 ここで、イエス様は、弟子たちが何か困るとすぐにイエス様に頼って、自分たちだけでは何にも出来ないようにならないために、イエス様は安心して弟子たちに任せられていたのです。しかも、嵐の吹きまくる中で、耐えるということ、しっかりと生きるということを、イエス様は求めておられたのです。私たちはイエス様を信じて生きる時に、どうもわがままを言い過ぎているように思えるのです。私もそうですが、イエス様を信じる時に、つぶやきが多すぎます、文句を言います。わがままだからです。わがままな信仰に生きることが多いのです。私たちがイエス様を信じて生きることは、ご利益信仰とは違うものです。わがままな祈りさえすれば、病気が治るとか、お金が儲かることで、私たちの生活が支えられているのではないというようにです。しかし、私たちが信仰に生きる中で、祈りが叶えられなかった時にどこかで神様に対して呟き続けることがあるでしょう。こんなにも、イエス様のことを信頼しているのに、何にもしてくれないではないか、私は裏切られたと叫んで、神様なんかもう信じないと考えてしまうのではないでしょうか。そうして、イエス様の考えがわからなくなるのです。神様の言葉がわからなくなって、聖書の言葉なんか必要ないと考えてしまうものです。 弟子たちは、眠っておられたイエス様の考えがわかりませんでした。それで、24節で、イエス様を起こして「先生、先生、おぼれそうです」と言ったのです。必死に助けを求めたのです。弟子たちがイエス様に対する信頼を持っていたからイエス様を起こしたのでしょうか。信仰があったからでしょうか。イエス様は、25節で「あなたがたの信仰はどこにあるのか。」と語られました。あなたがたの信仰は、どこへ行ってしまったのか。信仰がないではないかと言われたのです。実は、あなたたちが考えている信仰は、信仰ではないとイエス様が語っておられるのです。神様を信じて生きるとは、そんなことではないとここでイエス様が語っておられるのです。弟子たちは、イエス様のことを信じていなかったからこそ眠りから起こしてしまったのです。それでは、イエス様のことを信じていたら、弟子たちはどうしたのでしょうか。興味深い問いです。ある説教者が「もし信仰があったのなら、弟子たちはイエス様を起こさなかったであろう。嵐は続いていたであろう。弟子たちは歯をくいしばって、力の限り漕ぎ続けたに違いない。何も特別なことは起こらない。何も奇跡は起こらない。弟子たちがしたのは、人間として、当然なすべき必死の努力だけであった。それは難しいことであった。しかし、それこそイエス様が求めておられた、耐えること、そのものであったのではなかろうか。そこでは一見したところでは、信仰を持っていない者も持っている者もしていることは同じである。しかし、大きな違いがある。それは、ひたすらに船を漕ぎながら私はひとりではないと知っていることである。」と説明をしました。ひとりではない。ここで、弟子たちは、イエス様の存在を忘れてしまっていたのです。イエス様は、眠っておられる。まるで、イエス様がいないかのような場面であったのです。 私たちが、イエス様のことを信じて生きる時、信仰を持って生きる時に、しばしば勘違いすることがあります。信仰に生きることは、努力する必要もなくなる、忍耐する必要もなくなるということです。あるいは、苦しみや悲しみがなくなって、それこそ薔薇色の人生が待っているということです。そこに、私たちの落とし穴があるのです。確かに、イエス様を信じていても、努力する必要がでてきます。忍耐する必要も出てきます。しかし、大きく変わることは、その中で、いつもイエス様が共にいてくださるということです。まるで、神様がいないかのような時でさえも、神様が共にいてくださる。信仰に生きるとは、イエス様がどのような状況の中でも、共に居てくださることを感じることでなのです。現実に、イエス様が共に居てくださる。そのことを信じて生きることが信仰に生きるということなのです。それだから、私たちが、イエス様を信じるという信仰が揺れる時は、本当に教会の中に、神様がいるのか、この世界を本当に支配されているのか、私たちの生活の中に神様が居てくださって導いて下さっているのかという疑いが起こる時ではないでしょうか。しかも、信仰に迷いが出てくる時には、もう一つイエス様が誰なのかがわからなくなった時です。弟子たちは嵐の中の出来事を経験することによって、イエス様が誰なのか分かってきたのです。イエス様は、信仰がない者である弟子たちの祈りを聞いて下さって、嵐を静めて下さいました。イエス様は、信仰がない者の祈りに表れてくる嘆きや悲しみ、訴えに耳を傾けくださるのです。それだから、私たちもイエス様に訴えることができるのです。神様がまるでいないかのような時でさえも、私たちの信仰がまるでなくなっているような時でさえも、イエス様に祈ることできる。願いを訴え続けることができるのです。 イエス様は、私たちが信じてやっているから働かれるのではありません。信仰がない者の上にも、イエス様が働いて下さって、信仰を与えて下さるのです。イエス様を信じて生きる信仰とは、私たちの中にあるのではなく、まったくのイエス様からの呼びかけなのです。そのことに気づいた時に、弟子たちは、イエス様が誰なのかわかってきたのです。謎のようなことですが、私たちの中に信仰がないということから、イエス様によって、信仰が与えられたのです。だから、イエス様は「あなたがたの信仰はどこにあるのか。」とお聞きになって、弟子たちは、イエス様のことを恐れ驚いたのです。しかも、「いったい、この方はどなたのだろう。命じれば風も波も従うではないか」と弟子たちは互いに言ったのです。弟子たちは自然の中にも、神様の力が働いていることに驚いたのです。不可能であり、あり得ないことの中にも、まさに神様の力があり、この世界を支配されていることに恐れたのです。しかも、イエス様こそが神様の力を持っておられるお方であることに気づいていったのです。しかし、弟子たちにとって、この信仰は確かなものではありませんでした。この信仰が確かにされたのは、イエス様が人間の不信仰に対する罪のために十字架に掛かって下さって、その罪をおゆるしになり、人間が一番恐れている死を打ち破って、復活して下さったことを信じて受け入れたことによるものでした。イエス様は復活して下さり、永遠に私たちと共に生きるものとなったのです。イエス様は、私たちと共に生きて働いておられるのです。たとえ、人生の中で、嵐のような悩みや苦しみが襲ってきても、イエス様が共におられる。イエス様が共におられて、十字架による救いと復活による新しい命を与えてくださっているのです。しかも、イエス様を信じるという信仰を与え続けておられるのです。私たちは、絶えず、イエス様を信じている信仰に生きていることを確認して、イエス様が共にいて下さるこに気づいていくだけなのです。 お祈りを致します。天にいらっしゃいます父なる御神様 この世に、生かされている私たちに、苦難や困難、自然災害、悩みや悲しみ、それこそ、嵐が吹くような経験をして人生を歩んでいます。たとえ、イエス様を信じる信仰を持っていても、どうしようもない時があります。教会にいても、生活を揺さぶられ、神様のこと、人々のことを見失ってしまいます。どうか、そのような時でさえも、イエス様が共にいて下さいますことを、私たちが確認して、受け入れることができますように。絶えず、イエス様の御言葉を受け入れて、信仰によって生きるものとさせて下さいますように、どうぞお導きをお願い致します。また、私たちの一人一人の人生の歩みが、神様によって祝福されたものとなりますように。神様の働きによって、慰めと励ましを与えてくださいまして、安心して、この世界で生きていくことができますように。一人一人にイエス様を信じて生きる信仰を与え続けて下さいますように、お願い致します。この祈りをイエス様の御名によって、御前にお捧げ致します。アーメン |