| TOPへ 聖書のお話しMENUへ 「神様の愛がわかりますか」 ルカ15章11−32節 新約聖書のルカによる福音書には、イエス様によって語られた譬え話が、多く記されています。私たちは、11月には、10章に記されています「よいサマリア人」の譬え話を学び、12月のクリスマス前には、15章の「見失った羊」のたとえと「無くした銀貨」のたとえの物語を一緒にして学んでまいりました。「よいサマリア人の譬え話」や「見失った羊の譬え話」は、あまりにも有名な譬え話と言われています。それと、同じように有名な譬え話が、今日学びます15章の後半に記されているのです。それが小見出しで記されていますように「放蕩息子の譬え」と呼ばれております物語です。おそらく、聖書に記されております物語の中で、世界中で最もよく知られているものではないかと思います。それだけでなく、いつも人々が心を引かれながら読むことができる物語ではないかと思うのです。初めてこの譬え話を読まれた方も、心を踊らされると言いますか、何かこの物語に引き込まれてしまいそうなそんな思いがするのではないでしょうか。世界の文学や彫刻、絵画といった美術に関わる人々が聖書の中からしばしばこの「放蕩息子の譬え話」をテーマとして取り上げて、いろいろな形として描いてきました。神様のことを信じている文学者だけでなく、神様に疑いを抱いているような人々でさえも、この放蕩息子の物語については、どうしても一度は書かなければならないようなそんな思いにかられたようであります。それ程に、この物語は、人々の心を引きつけて夢中にしてきたのだと思うのです。それだけに、この物語は、イエス様の譬え話として、完成されていて、最高のものであると言えるのかもしれません。それに、この物語全体が、私たちにとってもわかりやすいものになっているということがいえるでしょう。それだからこそ、下手に牧師が説き明かしをするよりも、この物語を朗読するだけで、説教をしない方がいいのではないかと思うのです。しかしながら、そうは思いますが、今日の礼拝において、みなさんと一緒にイエス様が語られたこの放蕩息子の譬え話を聞き取りながら、ここでイエス様は何を語っているのか、そのことに注意を払いながらこの物語を受け取っていきたいと思っています。 さて、イエス様は、11節で「ある人に息子が二人いた」というようにこの「放蕩息子」の譬えを話し始められました。いつもそうなのですが、イエス様が譬え話をされた時は、現実に離れたような、空想的、想像的などこか遠いようなところで行われているような話をたとえには用いませんでした。その当時みんながわかるように、現実の問題として起こっていたことをもとにして、譬え話をされたということです。それに、イエス様の譬え話は、人間に向けられて話されたということです。当たり前と言ったら、当たり前かと思われます。つまり、この「放蕩息子の譬え話」は、私たちに向けられた話であるということです。だからこそ、多くの人々がこの物語に感動し、心を引かれたのです。それに、イエス様の譬え話でありますので、何かがそこに譬えとして話されているということです。ここで話されていることが、神様の姿が描かれているということです。神様の物語がイエス様の譬えとして鮮やかに描かれているということです。神様と人間の姿をイエス様が譬えとして、この放蕩息子の物語の中に描いているということです。それだからこそ、私たちの物語であるということです。自分自身がそこに描かれているからこそ、私たちは、その物語に心を引かれるのではないかと思うのです。ある人が、この物語は、働かないで、遊んでばかりいて、自分自身の身を崩してしまった放蕩息子の物語というわけでなく、「失われた息子の物語」であると言いました。この物語には、兄と弟という二人の息子が登場してきます。弟の方が家を出ていって、自分のお金を遊びに全部使ってしまって、自分の身を崩してしまう話です。放蕩息子と言えば、働かないで遊んでばかりいる世間で言う「ドラ息子」のことです。だから、放蕩息子と言えば、当然この弟の方だと考えられます。しかし、この物語は、昔から、「二人の放蕩息子の話」あるいは「もうひとりの放蕩息子の話」という題が付けられてきました。つまり、お兄さんの姿もまた放蕩息子であったというように描かれてきたのです。お兄さんは、父親に仕えて一生懸命になって働いていました。しかし、実は、この二人の息子、弟もお兄さんも、父親から遠い存在であったということをイエス様は話されているのです。ということは、兄も弟も父親から失われていた息子であったということです。だからこそ、イエス様は、この譬え話の最初に息子が二人いたということを強調されました。そのことから、この放蕩息子の物語は、兄の物語、弟の物語と分けることのできない譬え話であると思えるのです。しかも、兄の姿、弟の姿の両方に、私たちの姿を思い起こすことができるものもしれません。 そこで、まず、イエス様は二人の息子の物語の中で、弟の姿を語られました。12節からの言葉です。この弟は、父親に、お父さんが死んだ時に、もらえる財産を分けて頂けるように頼みました。この当時、財産の分け前が、長男であるお兄さんが、3分の二に対して、弟は、3分の一でありました。そのように、ユダヤの掟では決まっていたのです。しかし、ユダヤのおきてによりますと、父親が生きている限りにおいては、勝手に財産を分けることができませんでした。つまり、財産を頂けるということはなかったのです。しかし、ここで、イエス様は、驚くべきことに「父親は財産を二人に分けてやった」と語っています。この父親の寛容さ、心の広さをここでイエス様はお示しになりました。では、ここで、語られている父親とは誰なのでしょうか。先程、イエス様は、譬え話を用いながら神様の話をされているということを言いました。つまり、ここで言われている父親とは、父なる神様のことを示しています。この父親が、父なる神様であり、神様がなさることであるとすれば、不思議なことをされるのは、当然だと思われるのです。ある人が、「父なる神様は、人間をロボットのように操つって動くような者ではなく、まったく自由な意思を持った者としてお造りになられた」ということを語りました。人間に与えられた自由というものは、人間自身が重んじるよりも、父なる神様が重んじておられるということなのです。けれども弟は、ここで父親から離れていくという自由を求めました。少なくとも、弟自身は、自由になりたいと思っていたのです。理由はわかりません。もしかしたら、お兄さんよりも、財産の分け前が少ないので、はやく父親から逃げだしたかったのかもしれません。それに長男というものは、人間的な習慣たとえば家を継ぐとか、そのようなものに縛られていたから、次男こそが自由になれると考えていたのかもしれません。 とにかく、この弟である息子は、財産をお金に変えて、イエス様が語るように、「遠い国に旅立った」ということです。つまり、お父さんから離れていったのです。お父さんの目が届かないところまで、お父さんの力が及ばないところまで、行ったということなのです。その場所で、この弟は、やりたい放題のことをやりました。この弟は、父親のもとから離れて、自由を求めてひとりで生きたのです。父親から離れて生きることこそが、自由であると思い込んでいたということです。もしかしたら、私たちもこの弟の生き方に心を打たれる思いがしないでしょうか。この弟の生きる姿がまことに人間らしい生き方をしているとそのように思うということです。実際に、この放蕩息子である弟の姿を文学作品にする時に、いささか英雄的に描いた人々がいたということです。私たちも、しばしばこの弟である放蕩息子の姿をうらやましく思えるのではないかと思います。今、日本の中で、会社にしろ、学校にしろ、様々なことで縛られています。自由、自由と言いながらも、自由がない社会であると思えるのです。ですから、自由を求めて旅立ったこの放蕩息子になにかしらの愛着が沸くのではないかと思います。確かに、ここでイエス様が語られたことは、信仰の話です。神様についての話です。しかしながら、神様を信じることにおいても、どこかで私たちは引け目を感じているのではないかと思います。神様を信じなければ、生きて行けない自分の弱さに、どこか惨めさを感じるということです。だから、「本当は、神様を信じないで生きて行かれる人間の方が強いはずだ。自由だ。」と思えるのです。実際に、世間には「私は、神様なんか信じなくても生きていける」という誇りを持って生きている人々が多いのです。その方がより人間として当たり前の生き方であると思っているのです。今時、神様を信じるなどとは、愚かなことだと思っている人の方が遙かに多いのではないでしょうか。このことは、男の人の方がそのように考えるのではないかと思います。私も、どこかで、人間的に弱いからこそ教会に行き、神様を信じているのだと思っていました。しかし、何となく教会に行っていることに引け目を感じていたのです。人に弱さを見せることが恥ずかしかったからです。そのことから、教会に行っていることを隠して、クリスチャンであることをおおぴらにすることができませんでした。友達にでも話すならば、「どうせ、女性目当で、教会に行っているのではないか」という反応が返ってくるばかりです。これは、一つの誘惑です。このような誘惑が、私たちの心の中にもあるということです。 ところで、この弟である放蕩息子は、財産をすべて無駄遣いしてしまいました。さらに、不幸なことにこの放蕩息子の上に飢饉という災害まで襲ってきたのです。食べることにも、苦労して、ついには、豚の世話をするという仕事までいきついたのでした。この当時、豚の世話をするということは、ユダヤ人から最も軽蔑されていた仕事でありました。さらに、食べる物に困ってしまって、豚の餌さえも食べたいというところまで落ちてしまったのです。このことは、この放蕩した弟息子が、人間としての誇りさえも失ったことを意味しています。ここで、この放蕩息子は、お父さんのことを思い出すのです。しかしながら、ただ、この息子は、放蕩の中で身を持ち崩しただけでした。この息子は、それでも強く生きればよかったのに、生きることができなかったのです。いや、たとえ惨めな状態になったとしても、後悔なんかしなければよかったのです。今更、そんなところで、お父さんを思い出して、帰ろうなどと思わないで、やるだけやって駄目だったら、死んでもいいと思えばよかったのです。それだけ、開き直った生き方のほうが、いくらかは人間的なような気がするのです。最後の最後で、お父さんのところへ帰ろうと思うことは、人生の敗北でしかありません。情けないと思う人があっても当然かもしれません。けれども、イエス様は、この譬え話の中で、この放蕩した息子が心を変える場面を「彼は我に返って言った」という17節の言葉で表現されました。「我に返る」という言葉は、正気を取り戻すということです。本来の自分に返るということです。自分が本当は誰であるのかということに、今やっとこの放蕩息子は気がついたということです。だから、この放蕩息子は、本当の自分はどういうものなのかが分かった時に、自分が実際に返るべきところが、父親のところであるということを知ったのです。自分が誰であるか。放蕩息子は、ここで本当に自分は人間であるということを知ったのです。弱くて、愚かな人間であるということを知ったのです。それだからこそ、18節で「天に対しても、お父さんに対しても、罪を犯しました。」と表現したのです。このように、罪とは、神様に対して、遠い存在になってしまうことです。それだけでなく、肉親のお父さんに代表される隣人に対しても、遠い存在になってしまうということです。だからこそ神様との関わりを捨てている間は、私たちも、自分たちが誰であるのかわからないということになります。このことは、神様から離れ、隣人から離れているということになります。そのように、放蕩息子は、飢えて死ぬような思いになって初めて、神様から、隣人から、ずっとずっと遠いところにいたということを知りました。 そのことから、放蕩息子は、家に帰って、父親に謝るべき言葉を、お詫びをする言葉を考えたのです。神様から離れ、お父さんから離れていたのだから、もう息子と呼ばれなくてもよい、雇い人の一人として使ってもらおう。何度も、何度も、謝るべき言葉を口に出して繰り返していたのかもしれません。このお詫びの言葉は、筋が通っています。道理に合っています。本当ならば、父親に会うだけでも、これは贅沢な話です。勝手な話だと言われても仕方がないと思われます。だから、「雇い人の一人にしてください。」とまで、放蕩息子はお詫びの言葉を考えて筋を通そうとしたのです。ところが、父親は、この息子が帰って来るのを見つけると、走ってかけつけて、首を抱いて、接吻をする、キスをしました。首を抱いてキスをする、これは、父親の強い愛情表現です。それから、父親は、この息子のお詫びの言葉を聞いてあげるのでした。しかしながら、「もう息子と呼ばれる資格はありません。」の後に続く、「雇い人の一人にしてください。」という言葉は、聖書には記されていません。父親が、この言葉を押さえたのです。消してしまったのです。この父親は、「お前は雇い人ではない」と表現するように、24節で「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。」と語りました。それから、この放蕩息子に、上等な着物が着せられ、帰ってきたことを喜ぶ宴会が始まります。ところが、このことを聞きつけたお兄さんは、怒ってしまって家の中に入ろうとはしませんでした。喜んで受け入れることができなかったのです。このお兄さんは、父親のもとで遊びもせずに、働いていた人です。私たちの常識から見ると、これは当然だと思えるのです。喜ぶのはおかしいと思えるのです。私たちの中の誰が、このお兄さんの立場だとするならば、無条件に喜んで、「お父さん、よくやりました。」と言う人がいるでしょうか。これでは、しめしがつきません。これでは、筋が通らないのです。そんなことは、世間の常識ではありません。私たちもよく使います。「こんなことは、非常識だ。」この弟である放蕩息子の方がずっと筋を通そうとしたのです。父親もそのように筋を通せばよかったと私たちは、思います。この弟が思っていたように、父親がこの放蕩をした子どもを息子としてではなく、雇い人として扱えば、あるいはお兄さんは納得したかもしれまんせん。あまりにも、父親の弟に対する愛し方が異常に描かれているのです。誰が、この非常識な愛し方を受け入れることができるでしょうか。 この「放蕩息子」の譬えは、15章の初めに記されていますように、ファリサイ派の人々や律法学者たちに向けられて話されたものでした。この人々は、世間の常識を最もよく身に付けていた人々だったのです。しかも、神様のことをよく学び、神様の愛をよく知っていると思っていた人々だったのです。このお兄さんは、ファリサイ派や律法学者の姿でした。イエス様が、お兄さんの姿としてたとえを話されたのです。これらの人々も、イエス様が罪人を招いて食事を共にしいてることを喜びませんでした。しかも、このイエス様の譬え話がわからなかったのです。その結果、後に恐ろしいことが起こったのです。イエス様を十字架に付けて殺してしまったのです。この人々は、正しいと思うことを正しいと主張して、筋を通したのです。世間の常識、人間の常識を振りかざして、イエス様を十字架に追いやったのです。この譬え話は、人々の心を引きつけるようでいて、実は、私たちもよくわかっていなかったということになります。ところで、なぜこの放蕩息子である弟は、父親から迎えられたのでしょうか。それは、父親が愛したからです。父親が帰ってきたことを喜んだからです。どのような姿の息子でも、父親は愛しておられたからです。何度も言うようですが、この父親は、父なる神様のことです。ですから、この譬え話に出てくる父親の愛は、世間の常識である父親の姿ではありません。世間の父親として、私たち人間が真似ができるようなものではないのです。だからこそ、この世の常識を破るような愛をもって愛してもらわなければ、私たちは生きることができないのです。それ程までに、私たちを生かすために、神様が愛しておられるということです。 それだからこそ、父なる神様は、子であるイエス様を十字架に付けて愛を示されたのです。本当の父なる神様の愛がわからない人々や受け入れることができない人々のためにも、イエス様の十字架が必要だったということです。この譬え話の中の父親は、お兄さんのところに駆けつけて、28節で「なだめた。」ということをイエス様は語っておられます。「なだめる」という言葉は、慰めるという意味です。父親がお兄さんに向かって愛を持って慰めたのです。そのような慰めの思いで、父親が31節で「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。」と語っておられるのです。律法学者たちにも、どうかこのような神様の愛をわかってほしいとイエス様は願っておられるのです。しかも、この人々を排除することなく、イエス様の喜びの食事の中に招いているのです。それと同じように父親の近くにいながらも、遠いところに行ってしまった、もうひとりの兄である放蕩息子が帰ってくるようにと愛を持って招き続けるのです。不思議なことに、この譬え話は、父親の言葉で終わります。お兄さんがこの後、どうしたのか記されていません。招きに入って喜んだのか、そうでないのかわからないということです。しかし、父親の愛だけははっきりしているということです。父親は、兄も弟も愛しておられたのです。私たちも、神様から愛されているのです。だから、この愛を受け入れるかは、私たちの問題だということです。この譬え話に出てくるお兄さんがどうなっていったのかは、私たち一人一人の問題だということです。その答えをイエス様が私たち一人一人に求めておられるのです。 お祈りを致します。 父なる御神様 日曜日の朝に、私たちを教会へと招いて下さいまして、神様を礼拝し、神様の御言葉を聞くことが許されましたことを心より感謝を申し上げます。神様の愛は、私たちの常識でははかり知ることのできないものです。そのために、私たちは、神様が愛されていることを受け入れることができずにいます。それでも、神様は私たちを愛しておられるのです。あなたの子どもであるイエス様を十字架に付ける程に、私たちに愛を示され、愛して下さっているのです。どうか、この愛を私たちが受け入れていくことができますように、導いてください。また、いつも神様が共にいてくださって、私たちを条件をつけずにゆるされていることを覚えて、生活をしていくことができますように、どうぞお願いいたします。また、神様の愛に気がつかない人々の上にも、イエス様が生きて働いておられる教会へと招いて下さっていることを受け入れることができますように、神様の働きかけをどうぞお願いいたします。今、病の中、苦しみ悲しみの中にいる人々の上に、神様が共にいてくださって、平安と慰めを与えてください。このお祈りをイエス様の御名によって、御前にお捧げ致します。アーメン
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