| TOPへ 聖書のお話しMENUへ 「隣人とはだれですか。」 ルカ10章25−37節 今日の説教に取り上げています聖書の箇所は、新約聖書の中のルカによる福音書です。このルカによる福音書の中には、イエス様が語られた譬え話しが多く記されています。今日、学びます物語もルカによる福音書が伝えている有名なイエス様の譬え話しの一つです。その箇所を小見出しで、「善いサマリア人」と呼んでいます。恐らく、多くの人々が、この物語を「善きサマリア人の例え話し」として覚えていて、親しみを持っておられるでしょう。このイエス様の例え話しは、10章の30節から始まっています。このイエス様の譬え話しは、説明しなくてもあるいは、一度ここを読むだけでもよくわかるあらすじになっているのではないかと思います。私は、今月の始めに、北陸学院短期大学が行っています学生のための修養会にアドバイザーとして、参加してまいりました。その修養会のメンバーは、今年造られました人間福祉学科の学生たちでした。その時の聖書の箇所が、今、学んでいます「良いサマリア人」の物語で、しかも、テーマは、「あなたの隣人とは」ということでした。その修養会において、隣人について、あるいは隣人愛について、広くいうならば、人を愛するということについて、学ぶ時を与えていただきました。日本の社会におきまして、高齢者問題やボランティアあるいは福祉が叫ばれている中で、人間福祉学科の学生たちと共にこの良いサマリア人の物語を立ち止まって考える機会を与えられたのです。しかし、私はむしろ、福祉ということよりも、人間というものをそこで学んできました。まさしくキリスト教主義の教育をしています北陸学院が、社会福祉学科と名付けないで、人間福祉学科と名付けている通り、キリスト教が深く追い求めています人間ということです。神様から造られた人間ということです。その人間というものをその修養会において学んできたということです。 そのことから、この例え話には、人間の生き方が語られています。それに、ここに人間の愛の姿を見ることができます。しかも、隣人愛と呼べるような、愛のモデルが描かれているということです。いうならば、隣人に愛を持って接しましょう。あなたの隣人を、愛しましょうということです。しかしながら、この言葉を聞くと、私たちは立ち止まってしまうのではないでしょうか。果して、私たちにとって、「隣人とは誰なのか。」。これが、今日の説教のテーマでもありますし、この問題をめぐってイエス様が例え話しを始められたということです。その「隣人とは誰なのか」という問題を抱えて、この例え話しだけをもう一度読んで考えてみますと、私たちは途方に暮れてしまうのではないかと思うのです。あるいは、望みを失ってしまうのではないかと思います。なぜか。このことが、今日の説教のポイントでもあります。核心部分をついたものといえるでしょう。そのことを受け止めて、良いサマリア人の例え話しを見ていきたいと思います。しかしながら、この譬え話しは、決してこれだけを一つの特別な物語として、ルカによる福音書は書き記してはいません。イエス様がこの譬え話を話されるきっかけがありました。それが、25節から記されていますように、イエス様と律法の専門家と呼ばれている人との問答でありました。律法の専門家とは、神様の戒めや教えをよく知っている人でした。神様が与えてくださった法律の専門家だったのです。ここでは、法律とは言わないで、神様の教えとして特別に律法と呼んでいます。 その神様の教えをよく知っている律法の専門家が、イエス様に近づいてきて質問をしました。神様の教えのことについて、イエス様に質問をしたのです。なぜ、神様の教えをよく知っている専門家がイエス様に質問したのかといえば、イエス様を試すためだったのです。イエス様を降参させるためでありました。その質問は、「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」というものでした。永遠の命とは、神様から与えられる命であり、神様と共に生きていくことができる命です。魂が救われるということです。ですから、この質問は、要するに「どういうことをしたら、救われるのですか。」というものだったのです。明らかに、この律法の専門家は、答えを知っていました。しかし、あえてイエス様を試そうとして質問をしたのです。しかしながら、イエス様は、逆に質問をこの専門家に返されました。26節の「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか。」という質問です。その当時のユダヤ人たちは、一日二回は、神様の教えである律法の大事な部分を読んで唱えるという生活をしていました。尚更、専門家でしたら、それがきちんと行われていたでしょう。しかも、神様の教えをよく知っていた専門家です。イエス様の質問は、簡単すぎる程のものでした。すぐに答えられるものだったのです。27節で、この律法の専門家は、「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また隣人を自分のように愛しなさい。』とあります。」と答えました。ここで、専門家は、神様を愛すること、隣人を愛すること、この二つの教えが大事であることを、イエス様に語りました。それを聞かれたイエス様の反応はどうだったのでしょうか。イエス様は、「正しい答えだ」と受け止められました。「なんだ、あんたよく知っているではないか。それならば、その通りにすればいい。」とイエス様が言われる。神様を愛して、隣人を愛すれば、神様から命を与えられるし、神様の救いに与かることができるということをイエス様によって告げられたのです。しかし、この律法の専門家は、それでも引き下がらなかったのです。「わかりました。」と言って、イエス様のもとから立ち去らなかったのです。この律法の専門家は、「では、わたしの隣人とはだれですか。」という質問を再びイエス様にしました。このきっかけで、イエス様が譬え話をされることになったのです。この問い掛けのおかげで、私たちも宝物として、この良いサマリア人の譬え話を聞くことができるようになったのです。 ところで、なぜ律法の専門家は、ここで「では、わたしの隣人とはだれですか。」とイエス様に質問をしたのでしょうか。聖書は、「自分を正当化しようとして」と説明をしています。「正当化する」このことは、自分が正しいと思うことを主張して、自分が置かれている立場を守るということです。あるいは、人に悪いところを見られないように、よく見せようとするということです。この律法の専門家は、隣人を愛するということの難しさを、よく知っていたのではないかと思います。だから、イエス様の「それを実行しなさい」という言葉に慌てたと思うのです。痛いところをつかれてしまったと思ったのです。だからこそ、そのとおりにできない自分を、守らなければならなかった。自分の正さを示さなければならなかったのです。このことは、私たちにも、よくわかることだと思います。なぜかと言えば、それは、よく私たちがしていることだからです。正当化とは、別の言葉で「とりつくろう」ということです。ぼろが出ないようにするということです。少し厳しい言葉ですが、礼拝を休みたいと考えた時、あれこれと理由を考えて、自分をとりつくろうとしないでしょうか。この理由だったら、休んでもいいといつの間にか思ってしまっているということです。その時、神様に対しても、自分自身を正当化しようとするということです。私も、自分を正当化してよく礼拝を休んだことがありました。まあ、この告白がすでに自分を正当化しようとしていることになるのかもしれません。しかし、これは、何もみなさんのことだけではありません。牧師だって、自分の正さを守るために、正当化しようという思いがあるということです。ただ、ここで、覚えておかなければならないことは、これは人を責める言葉ではなく、私たちに気づかせる言葉であるとういうことです。私たちもまた、この専門家と同じように自分自身を取り繕いながら、生きている人間であるということに気づくということが大事だということです。 ここで、この専門家は、自分を取り繕うために手を打ちました。それは、隣人を限定するということだったのです。つまり、自分の愛すべき人を無制限ではなく、ある制限の中にあるものとして定めたということです。隣人を、それこそ自分と関係している人々に限定をしたのです。このユダヤ人である律法の専門家は、ユダヤ人だけを自分の隣人と考えていたのです。ユダヤ教を信じていない人々やユダヤ人以外の外国人は、隣人とは考えなかったのです。ここでみなさんにも、質問をしたいと思います。「あなたの隣人とは誰ですか」私たちもまた、隣人を限定して考えるのではないでしょうか。親や兄弟、家族や親類や友人、せいぜい私と関係をしている人が隣人だと考えるということです。愛するということは、関わりを持つということです。相手のことを思い合いながら、苦しい時や悲しい時、あるいは楽しい時を分かち合うということです。ある人が愛するという言葉の反対は、憎むや嫌うということではなく、無関心になることであると言いました。まさしく、隣人とは、その人に関わりを持つということです。無関心ではいられなくなる人を隣人と呼ぶのであり、ある人に関心を持って生きるということが隣人愛に生きるということになります。これを聞くと、私たちは、隣人を制限して生きていかなければならない。なぜならば、他人のことばかりを考えていたならば、自分の生活ができなくなるからです。愛する人を制限無しにするとたまったものではないと私たちは思ってしまうからです。この律法の専門家もそうでした。いわゆるこの律法の専門家は、私たちの代表なのです。 さて、30節からイエス様が譬え話しを話されました。この物語には、ある人を中心人物として、他に追いはぎ、祭司、レビ人、サマリア人が登場します。イエス様は、「ある人がエルサレムからエリコへ下っていく途中、追いはぎに襲われた。」というように話しを始められました。エルサレムという町からエリコという町まで、下り坂でありまして、約30キロの距離がありました。その当時、その場所には、時々、服やお金を強引に奪っていく追はぎと呼ばれていた強盗が人々を襲っていたようです。そのように日常的に起こっていたことをもとにしてイエス様は、譬え話しを始められたのです。ある人が、その旅の途中に強盗に襲われて、半殺しの目に合いました。そこに、祭司やレビ人が通りかかりましたが、その強盗に襲われて死にそうになっている人を見たけれども、見ないふりをして、通り過ぎてしまいました。祭司やレビ人は、神様に仕えている人です。神様の教えや戒めをよく知っていて守っている人々です。律法の専門家と同じような人たちでありました。その祭司やレビ人が、見て見ぬふりをして、死にそうになっている人から逃げてしまったのです。次に、サマリア人がそこを通りました。サマリア人は、その死にそうな人を見ると、近づいていって、応急手当をして、宿屋に運んでいって介抱しました。それだけでなく、翌日になると、デナリオン銀貨2枚を宿屋の主人に渡して、介抱してくれるように頼んだのです。デナリオン銀貨一枚は、一人の人が一日働いてもらえるお金です。ここでは二枚ですから、2日分働いてもらえるお金を宿屋の主人に渡して、介抱してくれるように頼みました。しかも、この傷ついた人が、完全に治るように頼んだということです。 これが、イエス様の譬え話でした。おそらく、律法の専門家も、この物語がよくわかったかと思います。この譬えの物語をイエス様が話された後に、この律法の専門家に「だれが追はぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」と問われました。誰が考えてもわかる質問だと思います。この物語を子どもたちに話して、「さあ、悪い人に襲われた人の隣人は誰かな」と質問すると、大きな声で「サマリア人」と答えが返ってくると思うのです。しかし、この律法の専門家は、そのように答えなかった。「その人を助けた人です。」と表現をしました。この当時、サマリア人は、ユダヤ人から差別されて嫌われていた人々でした。それで、サマリア人がユダヤ人を助けたり、隣人になるとは考えられなかったのです。そのようなことから、律法の専門家は口に出して、「隣人は、サマリア人です。」とは、言えなかったのです。けれども、この専門家はイエス様の譬え話に登場するサマリア人の姿に感動したのではないかと思います。おそらくイエス様もまた、この専門家の答えに満足されたのではないかと思うのです。だからこそ、最後に「行って、あなたも同じようにしなさい。」とこの専門家に告げられたのです。この物語に出てきたサマリア人のように生きることをイエス様によって求められたのです。神様を愛すること、隣人を愛するということが、うわべだけでなく、実行するように求められたのです。イエス様は、私たちにも同じ答えを求めておられるということです。 しかしながら、私たちは、この物語を恵みとして聞くことができないと思うのです。尚更、こんな隣人愛に生きることはできない、無茶苦茶な愛になど生きることはできないと思ってしまうのではないでしょうか。できないからこそ、望みを失ってしまうということです。だから、この譬え話を読んだ後も愛の制限が始まってくる。愛に条件をつけるようになってくる。クリスチャンとして生きるために、自分を正当化するようになってくる。イエス様の言葉の通りに生きるならば、何もかも失ってしまうではないか。イエス様、このぐらいで、勘弁してくださいよと言いたくなる。これでは、クリスチャンになんかなれないと思い込むことがあるということです。それだけでなく、この譬え話が他人を責めるためのものさしになっていくということです。あの人は、教会に行って、立派なクリスチャンのような顔をしているけれども、本物かどうか試してみよう。何だ、やはり、この人も律法の専門家と同じではないか。あの人も理屈ばかり言っていて、通りすぎた祭司に似ているではないか。この人もレビ人とそっくり。その中で、私たちの間にも「クリスチャンのくせに」という言葉が生まれていくのです。しかし、そうではなく、これは、自分自身を裁く物語なのです。自分自身の中に愛がないことを気づかせる物語なのです。私たちは、いつの間にか、この良いサマリア人の物語は、信仰を持っていない人々にもわかると思い込んでいます。言い換えれば、神様を抜きにしても、イエス様を抜きにしても、この物語は読んで理解できると思っているのです。そのために、この物語が「人に親切にしましょう。」「人が傷ついていたならば助けましょう。」という標語のようなものになってしまうのです。 しかし、そうではなく、神様の恵みとしてこの物語をイエス様が語られたということです。このことを理解するためには、大切なことがあるのです。それは、一体このサマリア人が誰であるかということです。多くの人々がこのサマリア人こそが、イエス様であると理解しています。そうすると、このサマリア人がなぜ、傷ついた人を助けたのか。ということです。33節で「その人を見て憐れに思った」からであると理由を語っています。この「憐れに思う」という言葉は、「あらわたが痛む」という意味で、自分のお腹が痛むような、あるいは胸が張り裂けそうに痛むように憐れむということです。それだからこそ、ただ、サマリア人は、その傷ついた人を見て、思わず胸が痛くなって、立ち止まったにすぎないのです。考えてみて下さい。イエス様がなぜ、この世界に来て下さったのか。それは、私たち人間が傷ついた姿を見て、神様が胸が張り裂けそうに心を痛められたからです。私たちが、神様から離れている思いや自分勝手に生きて苦しんでいる姿を見て憐れに思ったからでした。ただ、それだけのことで、イエス様が十字架について死なれたのです。しかし、このことは、サマリア人が傷ついた人の隣人になって愛を注いで下ったと同じように私たちに深く関わって下さり、愛して下さっているということなのです。イエス様は、私たちに神様を愛することと、自分のように隣人を愛することこそが大切であると教えられました。しかし、私たちは、生まれながら、この教えを守ことができない人間なのです。生まれながら、神様を憎み、隣人を憎むようになっている。あるいは、関心を持たないようになっている。自分の都合で隣人を限定しながら、生きている。このことを、私たちに気づかせてくださったです。そのために、イエス様が、私たちの隣人になって下さいました。御自身の命までかけて、私たちを深く愛して隣人になってくださったのです。だからこそ、私たちも、人々の隣人になることができるのです。イエス様が、私たちを愛して下さっているからこそ、、私たちも神様を愛することができるし、隣人も愛していくことができるのです。従って、この譬え話しを自分を縛りつけ、他人を責めるための物語として聞いている限りは、私自身の救いや恵みの言葉として聞き取ることができなくなります。私たちが隣人になるということは、決して無理をすることではありません。イエス様によって生かされて、イエス様が私たちの隣人になって下さることを受け入れて、できる限り喜んで、隣人を愛していくということなのです。そのために、私たちの隣人が誰であるかという問いから解き放たれて、私たちが隣人になっていくということが求められているのです。イエス様が私たちの隣人になって下さったように。 お祈りを致します。 「父なる神様」私たちを教会へと招いてくださいまして、礼拝を守り、御言葉を与えて下さいまして、心から感謝を申し上げます。私たちは、生まれながら神様を愛することができないし、隣人を愛することができない人間であるということを思い知らされました。そのために、他人を責め、自分を正当化しながら生きているものであります。しかし、そのような私たちのために、神様は、イエス様をこの世界に送ってくださいました。私たちの憐れな姿を見て、イエス様は自ら隣人となって下さいまして、私たちを救い、恵みを与えて愛してくださいました。心から感謝いたします。どうか、私たちが神様から離れる思いや自分中心に生きてしまうという罪から解き放たれて、神様を愛していくことができますように、また隣人を愛していくことができますように導いてください。何よりも、イエス様が私たちの隣人になって下さったことによって、私たちも無理をすることなく、喜びを持って人々の隣人として生きていくことができますように、どうぞ神様の励ましと力づけを与えてくださいますうように、お願いいたします。まだ、イエス様のことを知らない人々の上に、イエス様こそが真の隣人であり、救い主であることを受け止めていくことができますように、聖霊の力を与えてくださいますように、お願いいたします。この祈りをイエス様の御名によって御前にお捧げ致します。アーメン |