| TOPへ 聖書のお話しMENUへ 「あなたは自分の死を考えたことがありますか。」 ローマ6章1−11 今、私たちは、内灘教会に集まっていまして、永眠者記念として伝道礼拝を行っています。当然、ここに集っている人々は、現実に生きていまして生活をしていると思います。死んではいないということです。しかも、私たちの中で、だれも自分の死を経験した人はいないと思うのです。もし、死を経験した人がいるのならば、その人は、ここにはいません。当たり前のようなことですが、私たち人間は、誰一人として、死を経験して、それを伝えることができないということです。内灘教会が、教会として設立しまして、17年目に入っております。この17年間に、天に召された教会員の方は3名でした。1994年4月5日に、杉本恵子さんが、1998年2月4日に、伴俊明さんが、そして、つい最近、2000年9月27日に、寄留き一郎さんが、天に召されたのでした。この方々は、まさしく地上の生涯を終えられて死なれたのであります。しかし、その方々が自分の死を経験したことを、私たちに伝えることはありませんでした。そのように考えてみますと、死とはなにかわびしいものであり、悲しい出来事であるのかもしれません。それでも、誰もが死を経験するということです。人間である限りは、誰もが死ぬのです。お金持ちであれ、そうでないであれ、地位や身分の差があったとしても、例外なく、誰でもが死ぬということです。私たちがこの世に生まれた限りは、死を経験するのです。必ずです。ここに集って来ている私たちも死ぬのです。ですから、この世に生まれて来た者は、だれも死から逃れることができないのです。たとえ神様を信じていても、信じていなくても、同じように、人間は生まれた時から、死に向かって歩みつづけているということが考えられます。 まさしく、「生きることは死に向かって歩むことである。」そのようなことがいえるでしょう。ある幼い子が、このような疑問を投げ掛けました。「人間は、どうして死ぬのに、生まれてくるのだろう。」みなさんは、この問いに、どのように答えられるでしょうか。素朴な疑問でありますが、この問いは、誰もが考えることであり、答えられないものでもあるかもしれません。だからこそ、いっそ、人間が生まれた意味や死ぬ意味を考えずに、ほどほどにして、いい加減に人間の死を見つめていくのが、賢い生き方ではないかと思うのです。そのように私たちとって、生きている意味もわからないし、尚更、人が死ぬということもわからないものです。人間の死ほどミステリーなものはありません。死について、人間がどんなに理解しようとも、知恵や知識を用いても、人間が死ぬということは、不思議なものであり、神秘性が高いものであるといえるでしょう。現代のように、死に向かって病気と闘っておられる患者を癒す医療がどんなに発達しても、あるいは社会環境がよくなってより長く生きられるようになっても、人の死は、この先もミステリーであり続けると思うのです。人間の死はまさしく謎であるということです。謎であるということは、死そのものが人間の手によっては、解明できないということです。それだからこそ、死の問題を話題にすることは、何か縁起でもないことであり、敬遠されてしまう話になってしまうのではないでしょうか。ましてや自分が死ぬ時のことなんか考えられないと思うのです。特に、私たちが住んでおります日本においては、むかしから死が汚れたものであり、不浄なものとして見なされてきました。縁起が悪いものと思われてきたのです。いわゆる日常の生活の中で、死を語ることは、タブーとされてきました。人が死んで葬儀をする時にも、このことが生きております。葬式についてのある本の中に、葬儀にやって来る弔問客のマナーのことが記されていました。葬儀の中で、語る言葉で、避けなければならない「忌み言葉」のことが記されていたのです。不適切な言葉であり、縁起が悪い言葉は使わないようにということです。葬儀の中では、常識になっていることです。たとえば、たびたびや続いてというように繰り返す言葉や死ぬや生きていたころ、朽ちるやとんだことというように死を連想する言葉は避けるようにということです。これらは牧師が、葬儀の時に頻繁に使っている言葉です。 ですから、牧師こそが、マナーを守らない非常識で縁起が悪い人間であり、葬儀においては一番に煙たがられる存在であるかもしれません。 そのように、日本においては、死の問題を堂々と扱うということがなにか特別なことであり、踏み込んではいけない話題であるのかもしれません。なぜ、そのようになっていくのでしょうか。それは、多かれ、少なかれ、死が怖いものと考えられているからです。死ぬことに対して、絶望しか見えてこないからです。人が死ぬこと程、恐ろしくて、周りの人を巻き込んで不幸にしてしまうものであると考えられているからでしょう。それに、周りの人々にとっても、生きていた人の存在がなくなってしまい、語りかけても実際には返ってこない、そういう悲壮感が漂っているからです。しかも、死ぬことに対して、何も保証や救いもないからではないでしょうか。だからこそ、多くの人々が、死ぬことを恐れていては、生きられないと考えています。人間は死ぬということ、この私が死ぬんだということは、取り合えずは、忘れてしまって、楽しく生きていけばよいではないかと思っています。日常の生活では、私たちは、死から目を背けて、楽しく過ごしているのです。いえ、楽しく過ごしていると思い込んでいるかもしれません。毎日、毎日を楽天的に、楽しく喜んで過ごすこと、あるいは自分がやりたいこと、したいこと、願いや求めることが叶って過ごすことが、どこかで幸せな生き方であると思っているのです。それが、人間としての理想の生き方である。だからこそ、死なんか考えなくても生きていけると思っているのです。けれども、やはり私たちは、そのような生き方をしていても、心の奥底で死を恐れているのです。ただ、自分が死ぬ人間であることを恐れて考えないようにしているだけです。それが、一気に自分の身として考える時が、親しかった人の死に直面したり、自分が死ぬかもしれないという目にあった時ではないかと思うのです。その時になって、ようやく自分は死ぬ人間であると気がつくのでしょう。しかし、その時になっても、どうすることもできないからこそ、人は苦しみ、死の恐怖と不安の中で生きていかなければならないのです。それだからこそ、尚更、死の不安から逃れ、死を考えることなんかできずに、人をあざむいたり、他人をおとしいれたりして、よこしまな道に入ってしまうのです。そのようにして、自分勝手な道を歩み、自分を中心にして生きていくことが賢い生き方だということを選びとっていくのです。その中で、神様を信じたって何になるのかという思いになり、神様から離れて自分勝手な生き方をしていくのではないかと思うのです。しかし、自分勝手な生き方をしていては、かえって不安や死の恐怖が増していくものです。なぜか。そこには、本当の救いがないからです。自分の死をとりあえずは忘れてしまって、受け入れないで、勝手な生活をする中では、救いはないのです。本当の喜び、本当の幸せを人間は見いだせないのです。死が、まったくの謎であるということに留まっているからでしょう。 けれども、このように謎に満ちた死に、この世を越えて光が差し込んできました。死の闇を照らしてまことの光が輝いたのです。その光こそが、神様の言葉である聖書の中に描かれているイエス・キリストでありました。イエス・キリストがこの世界にやって来られたということは、人間の歴史に神様が入り込んでくだっさたということです。イエス様の誕生には、そのように人間の歴史の中に神様が現れて下さったという意味があるのです。人間の歴史の中に、神様であるイエス様が私たちと同じ人間となって、この世界に来てくださって、人間を救って下さったということです。しかも、イエス様によって、死とは何かを明らかにしてくださり、私たちが人生をどのようにして過ごしていくべきかを示して下さっているのです。その人間の死が明らかにされたのが、イエス様が十字架において、死んでくださったということでした。しかも、このイエス様の十字架こそが、死ななければならない人間を救うためのものだったのです。従って、イエス様が十字架において、死んでくださったことによって、私たちは救われたのです。何から救われたのでしょうか。罪から救われたということです。今日示されていますローマの信徒への手紙6章の中で、やたらと罪という言葉が使われています。聖書全体を見てみますと罪という言葉が頻繁に使われていることがわかるでしょう。今日の箇所では、罪の中、罪に対して、罪の奴隷、罪からの解放というように使われています。聖書で使われている罪とは、究極的には神様から離れるということです。神様なんかいらない、神様なんか信じなくても生きていくことができると考えていることです。 さて、聖書では、人間が神様から離れたら、生けるしかばねになってしまうと描かれています。生きていても、死んだような生活をしなければならないということです。しかも、死を克服できないものとなってしまったということです。ローマの信徒への手紙6章の23節では、「罪が支払う報酬は死です。」と書き記してあります。まさしく、神様から離れてしまった人間は、死を克服できなくなってしまいましたし、死が恐ろしいものと考えるようになっていったのです。そのことが、神様から最初に造られた人間であるアダムとエバの物語に描かれています。旧約聖書の創世記3章の物語です。この物語は、神話のような形で描かれていますが、人間の本質を見ることができます。神様がアダムに、「楽園にあるどの木からでも心のままに取ってたべらたいい。しかし、善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう。」と命じられました。これは、最初の人間であるアダムに向けられた神様との約束でした。そこに、蛇に化けたサタンがやって来て、アダムとエバを誘惑して、「そんなことはない。食べても死なない」と言ったのです。それで、アダムとエバは、誘惑のままにその実を食べてしまったのです。すると、たちどころに死んだかといえば、それが死ななかったのです。青酸カリや毒キノコを食べたみたいには、すぐに死んだのではなかったのです。考えてみれば、誘惑者であるサタンのいう通りでした。けれども、神様は、ただ肉体の死だけをここで問題にしてはおられなかったのです。神様が言われていた死ぬということは、肉体の直接の死だけでなく、命の質のことも言われていたのです。死んだような生活をして生きていかなければならないということです。だからこそ、アダムとエバは、神様との約束を破ったことから結局は楽園から追い出されて、苦労に苦労を重ねて、働いて生きていかなければならなくなりました。それだけでなく、やがては、何も残すことなく、土に返ってしまうものになったのです。死んでいくものとなったのです。こうして、人間に死が入ってきたというのです。人間が神様に背いて、神様から離れたという罪の結果が死であるということです。人間の死とは、神様から離れた人間に対する罰でありました。このように、最初の人間であるアダムが犯したこと、いわゆる神様の約束に背いて自分のしたいことをする罪は、人間が誰でも持っているエゴイズムという罪であるかと思われます。このために、人間は罪の定めである肉体の死を負うことになったことが聖書に描かれているのです。確かに、この最初の人間の物語を誰も見てはいません。あくまでも神話にすぎないかもしれません。しかし、聖書の物語を描いていく人々が、どうして人間は死ぬのだろうかと考えて、その答えを神様によって示されたのでした。それが、アダムの物語だったのです。 そのように、神様から離れてしまい、自分勝手に生きていこうとする考えの中で、死ぬべき人間が、どうしたら死を克服して救われるのかということです。それが、イエス・キリストが十字架で死んでくださったことでありました。イエス・キリストを神様がこの世界に送ってくださったのは、人間が死に苦しみさらに生きることに苦しんでる中で、最終的に、私たちに本当の命を与えるためだったのです。まさしく、イエス様が十字架について下さったことは、私たちの救いをなし遂げて下さることでありました。私たちが神様から離れようとする罪それ以外にも、具体的には、嘘をついたり、人を欺いたり、人を陥れたり、自分中心に生きることや自分のことしか考えないことに対しての一つ一つの罪を背負って、十字架につけられて、私たちの罪を許してくださったのです。このイエス・キリストの十字架によって、私たちの犯すすべての罪が許されたのです。今までの罪が許されただけでなく、これから犯す罪も許して下さったということです。そのようにして、全部の罪、アダムによってもらたされた罪のすべてをイエス・キリストがあがなって下さったということです。いわゆる神様に対して犯し続けた数々の罪の借金をイエス様が御自分を犠牲にしてまでも、帳消しにして下さったということです。しかしながら、イエス様の十字架の意味には、もう一つ大事なことがありました。それが、ローマの信徒への手紙の6章6節で、「私たちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。」と語られていることです。イエス・キリストの十字架によって、古い自分が死んだということです。私たち自身が、あの十字架によって、殺されたということになります。その殺された自分が古い人間だったということです。この古い人間とは、神様との約束を破ってしまったアダムのような生活のことです。その罪深い人間は、結局は死ななければ救われないということです。たとえは悪いのですが、ギャンブルやお酒好きの人に向かって、やめてほしいと考えている人がよく悪口で言う「バカは死ななきゃ直らない」ということと同じようなことです けれども、ただ古い自分が死ぬだけではないのです。イエス・キリストの十字架は、罪の奴隷であることから、私たちを造り変えて下さるのです。私たちは、いくら罪をあがなってもらっても、やっぱり罪を犯し続けるのです。罪の奴隷であり続けるのです。ですから、この罪の奴隷である古い自分が死んでしまって生まれ変わらなければ本当の解決にはならないのです。だからこそ、イエス・キリストの十字架とは、私たちが犯し続ける罪の始末をつけると同時に、私たち自身を始末しようとされたのです。しかし、私たちの命が十字架で死んでしまって終わりではなかったのです。なぜならば、イエス様は、十字架で死んで、復活させられたからです。4節後半には、「キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」と記されています。イエス様ただ一人が死の中から神様によって、復活させられました。私たちも、復活させられたイエス・キリストに結びつくことによって、新しくいただいた命によって生きるということです。私たちが新しく生きるためだということです。罪にまみれた古い自分であるならば、いくら修養や努力をし、頑張ってみても、決して違う生活はできません。心の底までは変わらず相変わらず死を恐れて生きているのです。それだから、どうしても古いこの私が死んで、新しい人間に生まれ変わらなければならないのです。それを与えて下さったのが、イエス・キリストの十字架と復活だということです。けれども、キリストの十字架と復活において、私たちが死んで新しく生まれ変わることは、これから私たちが一生懸命努力をしてやることではありません。私たちが生まれる前、2000年前に、既にイエス・キリストの十字架において私たちは死んだのです。私はまだ信仰が浅いから死んでないとか、洗礼を受けてないから死んでないとか、神様を信じていないから死んでないということはありません。すべての人が十字架によって死んだのです。ここに救いの事実が起こったのです。もしも、私たちの救いが私たちの状態によって左右されるのであるならば、これは大変不安定なことだと思うのです。熱心になったり、怠けたり、時には、神様なんか信じられない、教会なんか行きたくないといろいろなことがあります。けれども、私たちの救いは、イエス様が十字架におつきになって、よみがえられたことによって既に起こった事実です。誰も否定することができない歴史の中の出来事でありました。このことを知って信じて、受け入れることから、「ありがとうございます。私の古い人は既に死んで新しく誕生したことを感謝します」と言って、自分の葬儀と誕生祝いをすることが、洗礼を受けるということです。イエス様を信じて口でイエス様は救い主であると告白して水と聖霊によって受ける教会の儀式が洗礼であります。ですから、これから一生懸命イエス様を信じて頑張りますと決意を表すことが洗礼ではありません。私の古い人は既に死んで新しい人となった、イエス様と共に歩んでいく命であるから、もう死を恐れることはない。しかも、私たちの肉体が滅んでも、イエス様と共に生きていくことができて、復活の命に与かることができている。このことを聞いて、知って、信じて、「ありがとうございます」と神様に感謝をして受けたのが洗礼でありました。すでに、内灘教会で天に召された3名の方々も、イエス様の復活の命に与かって、今、休息の時を与えられているのです。私たちも、キリストと共に死んで、今、復活の命に生きる希望を与えられているのです。もう、私たちは自分が死ぬことを誤魔化して生きることはなくなりました。イエス様によって、復活に生きる希望が与えられているからです。聖書は11節で「あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。」と語られています。イエス・キリストに結ばれた生活こそが新しく生きるための生活であり、自分の死を克服するための生活であります。 お祈りを致します。私たちに命を与えて下さっている主イエス・キリストの父なる御神様私たちは、日常の中において恐ろしい死を考えずに生活をしております。そのために、神様から離れて、自分勝手に生きようとしております。しかし、あなたは、イエス様をこの地上に送って下さり、十字架と復活によって、私たち人間の死を打ち破って、救いを与えて下さいました。何よりも、死を克服して新しく生まれ変わって人生の歩みをしております。心より感謝を申し上げます。どうか、私たち一人一人を、恐ろしい死の力から守ってくださり、決して消えることのない命へと導いてくださいすように。死を間の当たりにしても、絶望することなく、イエス様がまさに共に居てくださって、復活の命に生きることができますように、お導き下さい。この祈りをイエス様の御名によって、御前にお捧げ致します。 |