| TOPへ 聖書のお話しMENUへ 「私たちは誰のものか」コリントT3章18−23節 私たちは、この世界に人間として生きています。おかしな言い方かもしれませんが、当然、私たちは、他のどの生物や動物でもない人として生きているということです。しかも、私たちは神様でありません。神様から命をいただいて、生かされている人間であるということです。それだから、内灘教会に集まって、今、神様を礼拝されている方々は、人間として生かされていまして、職場や学校、あるいは家庭で過ごされているということです。神様に生かされて日常の生活をしています。その日常の生活の中から、日曜日に教会にやって来まして、人間として神様を礼拝しているのです。教会に集まってくる人々のことを考えた時に、不思議な気持ちになります。教会にやって来られる人々が、こんなにも生き方やものの考え方、あるいは置かれている身分や状況が違うものかということです。男性、女性がいる。年代もばらばらです。それに、学生、社会人、主婦、あるいはその他の身分の人々が、教会に集まってきているのです。しかも、それぞれの方々の悩みや抱えている問題も明らかに違うということがいえるでしょう。そのような人々が、教会に集まり、日曜日の朝に礼拝を捧げているのです。不思議としかいいようのない出来事がここに起こっているのです。教会は、なかよしグループの集まりではありません。もちろん、同じ趣味や興味を持っているものが集まっているのでもありません。まさに、神様が私たちを呼び集めてくださったからこそ、この教会に集まってきたのです。神様が招いてくださったからです。もしかしたら、私は、そうは思わないと考えておられる人もいるかもしれません。私は、私の意思で教会にやって来た、あるいは誰かに誘われてやって来たと考えているから、神様から招かれてきたわけではないというようにです。いずれにしても、どのような考え方を持っておられても、今、教会の中にいまして、神様に礼拝を捧げているのは事実であるということです。神様を礼拝しているということは、まさに、ただの人間であることを認めていることになるのです。それだから私たちは、神様から生かされている人間であることに気がつかなければならないでしょう。 さて、今日の説教題を「私たちは誰のものか」というものにしました。この私自身が誰のものかということではありません。私ではなく、私たちであります。一人一人が集まっている私たちは誰のものかということです。言うならば、今、教会に集められている教会の人々が誰のものかということです。内灘教会は、誰のものかということが問われているのです。今日、説教で取り上げていますこのコリントの信徒への手紙は、イエス様を信じたパウロという人がギリシアにあるコリントの町の教会に送ったものでありました。当然、教会には、イエス様を信じる人々が集まっています。しかし、コリントの教会の人々は、とてもイエス様を信じる人々が集まっているようには見えなかったのです。イエス様を信じると言いながらも、他の神様を拝む人々がいました。あるいは、神様から離れて、不品行な生活やみだらな生活に明け暮れた人々がいたのです。イエス様を信じているのに、どうしてそんなことになってしまうのだろうという思いがパウロの心に残っていました。しかし、それでもパウロはただこの人々を非難しよとしたのではなく、イエス様のこと、あるいは神様のことをもう一度考え直してもらいたいと思ったのでした。なぜならば、パウロこそが、教会を愛していたからです。教会に集まって来る一人一人を愛していたのです。それは、イエス様が教会を愛されたようにです。主イエスを救い主と信じて、その教会の中に入れられた一人一人をパウロは愛していたのです。それだから、パウロは、時には厳しいことを語ることがありました。激しく、怒ることがありました。しかしながら、この手紙を読む私たちが、自分に送られたメッセージと聞くならばこれは、あまりにも厳しいと思われるかもしれません。パウロは怒ってばかりいると受け取られる人もいるかもしれません。私は、4年前に神学生であった時に、夏の伝道実習に遣わされた教会で、ある婦人からこのような相談を受けました。「パウロが書いている手紙を読むと、いつもいばっていて、いつも怒っているから好きになれません。聖書は、福音書を読むだけでかまいませんか。」というものでした。新約聖書の中の手紙のほとんどは、パウロが書いていますので、イエス様のことが直接書かれている福音書だけから恵みを受けたいという内容だったのです。その時は、まだ学生でありましたので、うまくその方に答えを示すことができませんでした。それに、神学校を卒業する時にある教授から言われたことがあります。「赴任した教会で、すぐにコリントの信徒への手紙の連続講解説教はしないように。」1章から順を追って説教をしないようにということです。続けて教授は、「なぜならば、厳しい言葉を投げかける説教になるし、人を裁く説教になるからだ」というような忠告を受けたことがありました。しかしながら、このコリントの信徒への手紙は、神様の言葉として聖書の中に入れられているものです。私たちを生かしてくださる命の言葉として書き記されているものです。しかも、この手紙からもうれしいニュースであり、喜びの声が響いてくるのです。私たちが、この手紙からもよき訪れである福音として受け取ることが求められているということです。 さて、今日の聖書の3章18節で、パウロは、「だれも自分を欺いてはなりません。」とまさしく厳しいことを語っています。自分のことで思い違いをしてはいけないということです。私たちは、自分のこと、あるいは自分自身をよく知っていると思っています。自分自身のことであるから、自分のことは欺くことはなく、よくわかっていると思っているのです。ありのままの自分の姿で、あるいは正直な自分を人に見せながら、自分のことを理解しながら生きていると思っています。私は、このような人間です。このような事ができて、こんなことができない人間だというように。あるいは、得意なもの、不得意なものが何であるか、ということを含めて自分を分析することがあるでしょう。そのように、自分自身を分析することから、私たちは生きていると思っています。まさしく仕事や自分の生活を決めていくためのものさしになっているのです。しかも、私たちはこのような分析をしながら神様を信じていくことにも当てはめていくのです。私は、イエス様のことをどこまでも信じていくことができるとか、あるいは私はそんなに信仰心が厚いとは思わない。反対に、私は、絶対神様のことは信じない、イエス様を信じたって何になる、そう思われる人もいるかもしれません。けれども、自分自身のことを、どれだけ自分が理解しているのでしょうか。自分のことで思い違いをしてはいないでしょうか。神様を信じる、あるいは神様を信じないと言いながらも、信仰のことがどれだけ、自分のこととして、わかっているのでしょうか。多くの人間は、神様を信じる信仰のことを理屈で考え、理解しようとします。神様を理解する時に、自分たちの頭の中で考えて、神様はこういうお方だというように考えてしまうのです。それで、神様のことが自分の頭で理解できた時に、神様を信じようとする心が沸いていくのではないでしょうか。科学的に、あるいは合理的に、神様のことが理解できたら信じてもいいというようにです。もうあとわずかで、21世紀になるのだし、こんなに科学や文明が発達しているのだから、今更、神様を信じて何になるのか、そう思う人もいるでしょう。しかも、私たち神様を信じる信仰を持っていても、理屈でわからないことがある度に、自分の信仰がいつもふらついてしまうのではないかと思うのです。 パウロが手紙を送ったコリントの教会は、まさしく、私たちの教会とそんなに変わらない教会でありました。特に、コリントがあるギリシアは、哲学が発達していまして、人間の知恵を持って、物事を考えていたのです。人間が考える知恵や知識こそが、重要であると誇っていたのです。神様のことを考える時も、人間の知恵を持って、理解しようとしましたし、解き明かそうとしたのです。現在の多くの人々がしているようにです。しかも、イエス様のことを理解する時にも、人間の知恵を持って理解しようと努力をしたのです。パウロは、このような知恵のある人々に対して警告を与えます。18節後半から19節の「もし、あなたがたのだれかが、自分はこの世で知恵のある者だと考えているなら、本当に知恵のある者となるために愚かな者になりなさい。この世の知恵は、神の前では愚かなものだからです。」というようにです。人間が持っている知恵や知識は、神様の前では愚かだということです。人間の知恵は、神様の知恵には及ばないものである。今、この私たちが考えている知恵は、当然、神様が考えておられる知恵には及ばないということです。私たちは、この世に生まれてきたのですが、何のために生まれてきたのかわからないと思うのです。それを探し求めながら、一生さまよい続けて過ごしていくのでしょう。私たちは、命が大事だと考えています。人間の命は、地球よりも重いと格言のようなものにもなっています。しかし、なぜ、命がそんなに尊いものなのかは、だれにも分からないことです。命が大事であると言っておかないと、お互いが生きるのに困るからだというぐらいしか言えないと思うのです。「人を殺してはなぜいけないのか」多くの若者が疑問を持ってぶつける問いです。人間の命は絶対大切なものであるというだけでは、きやすめにしかならない答えでしょう。私たちが生きていることについて分からなければ、死については、尚更わからないことでしょう。人間の知識や知恵で考えるならば、自分がなぜ存在しているのかさえわからなくなってしまうのです。人間の知恵の限界を思い知らされるのです。そこで、神様の知恵が登場してくるのです。神様が与えてくださる知恵を持ってしか、人間が存在していることがわからないのです。すなわち、神様がこの世界を造ってくださって、支配されていることがわからないことには、私たちの存在の意味がわからないのです。神様が私たちを造り、生かしてくださっているからこそ、私たちの命が大切だというようようにです。私たちの側で、自分の命、人の命をどうにかすることはできないし、私たちの判断で、命が大切だとは言えないのです。まさしく、神様が人間一人一人を大切にしておられるからこそ、私たちの命が大事だということです。神様を抜きにしては、命の重要さは考えることはできないということになるのです。 ところで、私たちが神様を信じる信仰を持つということは、神様のことを知るということにつながっていきます。神様を知ることは、先程言うように、自分の頭の中で考えて、神様はこういうお方であるということを認めることではありません。神様は、観念的に理解されるお方ではないのです。本当に、私たちが神様を知ることは、神様との出会いをするということです。では、どこで神様と出会うことができるでしょうか。それは、イエス・キリストにおいてしかありえないということです。この世界を造って下さった神様を私たちは自分の知恵を使って、瞑想したり、考えたりして出会うことはできないのです。ただ、神様が、イエスという人間になって、私たちが住む世界に来てくださった。その人間の歴史の中に現れてくださった神様であるイエス・キリストに出会って受け入れることによってしか、神様と出会うことはないのです。けれども、この世の知恵で、はかり知ることのできない神様が一人のイエスという人間になってこの世界に生まれてくだっさことを私たちは受け入れることはできるでしょうか。これは、できません。神の子であり救い主であるイエス様が人間の手によって十字架で殺されることや死んだ後に、蘇ってくださったことを理解することができるでしょうか。誰が聞いてもこんな馬鹿げてことはないと思うのです。それだから、人間の知恵ではとても受け入れることができないものです。それが、私たちの正直な反応であると思うのです。この手紙を書いたパウロは、同じコリントの信徒への手紙一の1章の18節で、「十字架の言葉は、滅んでいく者には愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」と語っています。十字架の言葉とは、イエス・キリストが十字架につけられたという言葉です。当時、十字架での死は、愚かな者であると考えられていました。十字架で殺されることは、犯罪を犯したものが死刑になることで、一番惨めな、悲惨な殺され方だったのです。それだから、当時のギリシア人たちにとっては、十字架にかかったイエス様が救い主とはとても思えなかったのです。この方によって、救いを得るということは非常にばかばかしいことだったのです。むしろ、捨てられて行くように死んでいくものが、どうして救い主であるのかわからなかったのです。まさしく、人間の知恵で考えれば、非常に愚かに見えたものでした。 けれども、誰が見ても、愚かすぎる十字架が、実は、私たちの救いに関わっていたのです。神様は、実の子であるイエス・キリストを十字架に付けることによって、私たちの救いを成し遂げてくださったのです。これが、まさしく、喜びのメッセージである福音となりました。そのいかにも愚かすぎる十字架の言葉を神様は、私たち人間に受け入れさせようとなされたのです。どのようにしてか。それは、人間の言葉を通してでした。そのために、この手紙を書いたパウロは、神様によって、遣わされたのでした。私たちキリストを信じているクリスチャンも同じように、神様によって、遣わされているのです。しかしながら、やはり、私たちは、この世の知恵に対しては、自分たちがやっていることは、愚かに思えるということをよく知っています。イエス様を伝える伝道をする時に、何となく引け目を感じてしまうのです。それで、何かよい方法、うまい言葉を使って受け入れてもらいたいと思うのです。イエス様を信じない人々に、どのようにしてわかってもらえるか、巧みな言葉を考えながら、キャッチ・セールスの上手な人や話し方のうまい人の真似をするようにという誘惑が私たちにはあるのです。そのような、この世の知恵の美しい言葉で飾りたてて、他の人にわかってもらうように努力してしまうのです。パウロもまた、このコリントにやって来た時に、イエス様を伝えるのに、とても不安を持っていました。その不安は、イエス・キリストの福音をどのようにすれば、他の人に受け入れやすくできるのかということでした。けれども、パウロは、不安になりながらも、十字架につけられたキリスト以外のことは知るまいと決心したのでした。なぜ、そのような決心ができたのでしょうか。それは、この手紙の2章4節、5節で、「わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、霊と力の証明によるものでした。それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるためでした。」とパウロが語っています。神様を伝えていく中で、本当に力を持って働いておられるのは、神様御自身なのです。これが、神様の霊であり聖霊であるということです。実際に神様を伝える働きをするのは私たちです。しかし、人間の魂に働きかけるのは、神様御自身であり、聖霊の働きであるということです。人間の説得力ではなく、神様の働きによって、福音を本当に人の心に受け入れさせ、心を変えさせて、イエス・キリストを信じさせるようにしてくださるのです。そのことから、生きておられる神様に、その神様の知恵の働きによって、出会うことが求められているのです。これこそが、信仰の大事なことです。 信仰は、キリスト教の知識を多く身に付けていくものではありません。人間の知恵を磨いて、知識を増やすものでもありません。私たちは、宗教的な思想で固まっている学者の話が福音だと思いがちになります。けれども、私たちが本当に救われるためには、もう一度愚かになって、無知であると思って、神様を知らないという謙遜な思いを持って、神様の言葉に耳を傾けなければならないのです。それこそが、私たちが、主イエスによって救われて、主イエスによって生かされることです。しかも、主イエス・キリストによって、自分自身を委ねて生きる時に、救われていることの確かさを見つめることができるのです。パウロは、23節で「あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです。」と語っています。様々な問題や悩みを抱えてやって来ている、招かれてやって来たこの教会の人々は、まさしくイエス・キリストのものであると語っています。私たちは、主イエス・キリストのものなのです。一人一人が、主イエス・キリストによって、神様から離れる思いや自分中心に生きる考えである罪からゆるされて、救われたことによって、キリストのものとなっているのです。だから、パウロが、21節で語るように、「人間を誇ってはならないのです。」私たちは、神様から生かされているものとして、主イエス・キリストに依り頼んで生きるしかないのです。パウロは、この手紙を送る時に、「神の教会」へと書き記しました。他の神々を拝み、道徳的にみだれていた人々が集まる教会でしたが、ここも神の教会だったのです。どの教会においても、教会の悩み、あるいは一人一人が抱えている問題があります。しかし、一人一人がキリストのものとなっているのです。それだから、私たちは、もう一度愚かな者になって、神の知恵をいただいて、主イエス・キリストの救いを受け入れていきたいと願っています。本当の救いと恵みに与かるために。 お祈りを致します。 天にいらっしゃいます父なる御神様 私たちは、人間の知恵を誇り、頭の中で考え、なんとか神様のことを理解しようとします。そのために、理屈や理性でわからないことが起こった時には、イエス様のことを信じることを諦めてしまいます。どうか、私たちに主イエスの十字架と復活の救いを与えてくださいまして、神様の知恵である聖霊の働きによって、私たちがイエス様のことを救い主であると信じて、受け入れることができますように、お導きをお願いいたします。しかも、私たちが本当に愚かな者になって、無力なものであることに気がついて、神様の救いの福音を受け入れることができますように、お導きをお願いいたします。私たち一人一人が集まっておりますこの教会は、まさしくイエス・キリストのものです。私たちが、この教会に招かれていることを受け入れて、どのような時でさえも、イエス様が共にいてくださり、イエス様のものであることを信じて、喜びに満たされて生かされていくことができますように、一人一人に祝福と恵みを与えて下さい。この祈りをイエス様の御名によって、御前にお捧げ致します。アーメン |