| TOPへ 聖書のお話しMENUへ 「むだではない人生」 フィリピ2章16−18節 私たちは、今、こうして、生きていて、人生の歩みをしています。ここに、集っている一人一人の人生のことを考えた場合、それぞれ生き方は違っていると思うのです。一人一人が、自分の人生を考えて生きておられると思うのです。そのように人生を歩んでいる中で、果して自分の人生に意味があるのか、ということを考えられたことはないでしょうか。「人が生きていく人生に意味があるのか」という問いは、古くから、あるいは今でも、多くの人々が問題にしている問いでもあります。このことは、人間が生きている限りにおいて、また存在している限りにおいて、問われる問題だと思うのです。今、このような問いを持っておられない方も、ふと自分の人生を振り返った時に、自分の人生は何なのか、自分が生きていることに果して意味があるのかという問いの前で、悩んでしまうことがあるかもしれません。あるいは、それでも、人生の最後の最後、いわゆる人生の終わりといわれている死ぬ間際になって、自分が生きてきた生涯は、果して意味があったのだろうかというような問いに襲われるかもしれないのです。ある人は、人生に意味を持たすためには、人間が幸せになることであると言いました。自分が幸せになれば、生きる意味がそこから生み出されていくということです。あるいは、ある人は、人生に意味を持たすためには、人間に価値をもたらすことだと言います。つまり、人生の勝利者といいますか、人生に成功した者だけが、人生の意味を知ることができるのだということです。ですから、ある人々にとっては、お金持ちになることが、人生に意味を見いだすことだと考えたのです。当然、その人々は、富や財産を大きくすることによって、人生の成功者となると考えるでしょう。また、ある人々は、富や財産よりも、人生の中において、良い働きをして名前を残すということに、人生の意味を見いだせると考えました。りっぱなことをして、名を残す、功績を残すということです。さらに、自分の家族を幸せにすることができたか、どうかで、自分の人生に意味を見いだす人もいます。また、さらに、他の人々にどれだけ尽くすことができたかということで、自分の人生に意味を持たらす人もいるかもしれません。このようなことから、人それぞれの人生があるのと同じように、人生の意味を見いだしていくことは、様々であるといってもいいかと思うのです。このことは、一般的には、ある程度はやむを得ないことだと思います。 しかしながら、少なくとも、私たち、クリスチャンにとっては、やはり、イエス様のことを信じて生きていない人々と比べると、違うということなのでしょうか。それでも、私たちにとっても人生に意味があるのか、ないのか、という問いは、ふとした時に押し迫ってくる問題だと思うのです。それに、神様を信じる、イエス様のことを信じるという信仰を持つことによって、幸せになれるのかという問い掛けは、いつの時代にも、問われてきた問題だと思います。「信仰があると、果して幸せになれるのか」という問い掛けのことです。あるいは、神様を信じたら、人生に意味を見いだすことができるのかということも、問い続けられてきた問題だと思います。このことは、私たちイエス様を信じて生きている人々に向けられた問いであります。「イエス様を信じることによって、今、幸せですか。」あるいは、「イエス様を信じることによって、人生に意味を見いだしましたか。」という問い掛けです。このことは、クリスチャンではない人々がイエス様を信じるようになるために尋ねてみたい質問だとそのように考えています。人生に意味を見いだす、このことは、あなたが生きていることは、無駄であるか、どうかという質問でもあります。ですから、もう一つ言えば「イエス様を信じることは、無駄ですか。」とみなさんに聞いてみたいと思うのです。私が、この内灘教会にやって来まして、半年が立ちました。伝道者として歩みはじめて、半年が立ったということです。その中においても、先程の問いがいつも私の中にあります。イエス様を信じることは無駄ではないのか、あるいは、この場所で、このようにイエス様のことを神様であると語ることは無駄ではないのかという問いがいつも沸いてくるものです。説教を作るために、苦労していること、時間を使っていることも無駄ではないのかという思いが正直に言いますと、時々沸いてくるものです。そのような時、今日示されています聖書の言葉を受け止める時に、安心するといいいますか、恵みをいただいたような気がするのです。このことは、イエス様を神様と信じる、いわゆる信仰を持って人生の歩みをしている人にとっては、慰めの言葉だということが言えるでしょう。あるいは、まだ、イエス様のことを信じていない人々にとっても、聞いていただきたい聖書の言葉であると思うのです。 さて、今日示されています聖書の箇所であるフィリピの信徒への手紙2章の16節の後半に、「こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄ではなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう」と記されてあります。今日の聖書の中心部分の言葉です。これは、聖書の中に収められている手紙の一節です。この手紙を書いたのは、パウロというイエス様を神様と信じて、世界にイエス様のことを伝えていった人です。この手紙を書いたパウロという人は、最初からイエス様のことを信じて、イエス様のことを伝えていったのでしょうか。いえ、むしろ逆であったのです。イエスという者なんか、絶対神様と信じないとパウロは思っていました。それよりも、イエスを神様と信じる人々や教会を許せなかったのです。そのために、イエス様を信じる人々を、迫害し、時には、その人々を捕まえて、牢獄の中に入れていました。そのことを、この手紙を読み進めていくと、パウロの告白に見ることができます。3章の6節に「熱心さの点では教会の迫害者」とそのように、自分のことを語っているのです。 パウロは、それまで、その当時のユダヤ教を熱心に学んでいて、そのことが、神様を信じていると思っていたのです。ところが、そのパウロの熱心さが、逆に神様から遠いものになっていたのです。パウロが、熱心に神様を信じていると思っていた時、まさに人生の最高の状態の時に、いわゆる人生に意味を見いだしていた時に、イエス様との出会いをしたのです。それが、パウロがダマスコという町へクリスチャンを迫害するために、でかけていた時に、復活のイエス様に出会うということでした。その時は、イエス様は、十字架につけられて、殺されていました。ところが、イエス様はそれから3日後に復活されて天に昇られていたのです。その復活されたイエス様がパウロに出会われて、本当に神様を信じるということがどういことなのかを示してくださったのです。そこから、パウロは、イエス様に出会い、イエス様を神様と知ることによって、新しく生まれ変わったのです。それまでの人生を一気に変えられたのでした。けれども、今やパウロは、迫害をする者から、迫害をされる者に変わってしまったのです。それで、パウロは、捕らえられてしまって、牢獄の中にいます。まさしく、このフィリピの信徒への手紙は、パウロが牢獄の中で書いた手紙であるのです。いつ殺されるかわからない、危険な状態の中で書かれた手紙だということです。このような特別な状況の中で書かれてはいますけれども、私たちがイエス様のことを信じることに関しては同じことだと思うのです。しかも、この手紙は、フィリピの教会の人々に送っているものではありますけれども、時を越えて、今この手紙を読んでいる私たちにも訴え掛けているパウロからのメッセージなのです。 さて、そのパウロが、16節で、自分の労苦がむだではなかった、自分の人生はむだではなかったということを、はっきりと語っています。恐らく、フィリピの人々が「果して信仰を持つことは無駄ではないのか」という不安を持っていたために、パウロが手紙の中に記したのだと思います。いえむしろ、恐らくパウロ自身も、自分がイエス様を信じて生きてきたことを振り返ることによって、それに自分が行ってきたことを振り返ることによって、果して自分の人生に意味があるのか、どうかということを考えたのではないかと思います。だからこそ、パウロは「こうして」という言葉で言い表しているのです。この「こうして」という言葉は、15節からの言葉を受けていると考えられますが、もっと広く考えて、フィリピの教会の人々に送っているこの手紙全体の内容を指し示しているということが言えるでしょう。それは、パウロが、フィリピの人々にイエス様の御言葉を伝えることによって、イエス様を信じる信仰へと導かれて、今では、イエス様の言葉をいのちの言葉としてしっかりと受け止めて、イエス様の恵みの中で生きつづけているということです。だからこそ、パウロは、自分の働きが無駄ではなかったと確信できたのです。それだけでなく、パウロが伝えたイエス様の言葉によって、フィリピの人々が救いへと導かれていたからでした。しかも、このイエス様の言葉をパウロ自身も命をかけて信じていたからです。 では、このイエス様の言葉である命の言葉とは何でしょうか。それは、私たちを生かしてくれる命の言葉であります。まさしく、命の言葉は、私たちによい知らせを運んできます。喜びのあるよき知らせを持ってくるということです。それを、福音と呼んでいます。命の言葉はまさしく、イエス様の福音であります。この福音とは、イエス様が私たち人間のために、十字架についてくださって、私たちが神様のことを知らないと思う心や神様から離れている心、そのことによって自分中心に生きているという罪から救ってくださったことです。それだけでなく、イエス様は十字架について死んでしまった後、三日後によみがえられて、死というものを打ち破って、死から勝利してくださいました。そのために、イエス様は、私たちにも復活の命を、そしてイエス様と一緒に生きるという永遠の命を与えてくださっているということです。だから、福音とは、イエス様の十字架と復活のことです。それだからこそ、命の言葉とは、そのイエス様の十字架と復活による救いの言葉であります。その私たちの救いである命の言葉によって、私たちが喜んで活き活きと生きることができるというものなのです。この命の言葉をフィリピの人々が、しっかりと受け止めている。それだけでなく、私たちもこの命の言葉をしっかりと受け止めているということです。だからこそ、パウロは、イエス様のことを神様と伝えるために、走ってきたことや苦労してきたことは、無駄ではなかったということが言えるのです。 しかしそれだけでなく、パウロは、「キリストの日に誇ることができる」と語りました。キリストの日とは、聖書では、主の日と呼ばれています。しかも、日曜日も私たちは主の日と呼んでいることに気がつかれるでしょう。それに、週報を見ていただければ、日曜日毎の礼拝を主日礼拝と記されていることがわかります。キリストの日とは、復活されたイエス様が天にのぼられた後に、この私たちが住んでいる世界にふたたびおいでになる日であるということです。イエス様が再びおいでになって、私たちの救いを完成させてくださる日であるということです。それで、私たちが、今ここで、このように主日礼拝をするのは、イエス様が再び来られるのを待ち望んで礼拝をしているということです。ですから、キリストの日とは、別な言い方をすれば、この世の生活がはっきりと切り離される日ということになります。日常の生活から離れるということです。だから、主の日の礼拝が厳粛になるのです。礼拝が堅苦しくなるのはそのためなのです。もう一つ私たちにとって、この世の生活がはっきりと切り離される日があります。それは、私たちが死ぬということです。けれども、私たちにとっては、死ぬことによってこの世の生活が切り離されて人生が終わるということだけではありません。死ぬということによって生活が切り離される人生というのは、まさしく神様が私たちの生活を切り離されるということなのです。その時、私たちは、神様の前に立たされるのです。だから、私たちの死もまた厳粛であるということが言えるでしょう。 最近は、20世紀が終わることから、世紀末と叫ばれたり、あるいはある宗教団体や予言ブームによって、終末ということが語られてきました。この世が終わるということです。その終末という言葉を聞けば、環境問題や核武装による戦争、あるいは地震などの天変地異によって、世界が終わるということを考えるでしょう。多くの人々が、終末と言えば、人類が滅亡する日、世界が目茶滅茶になる日であると考えています。しかし、そうではないのです。たとえ、戦争がなくても、地震がなくても、人類が滅亡しなくても、今生きている私が死ぬということです。この私たちが死ぬということが、私たちにとっての終末であるということです。だからこそ、戦争にせよ、地震にせよ、そのことが、終末を感じさせるのは、それによって、人間が死ぬからなのです。しかし、ただ単に、私たちの人生が終わるということが終末ではありません。神様が人間の生活を終わらせるということです。神様がすべてを支配して人間の生活を終わらせるということが、終末なのです。私たちは、神様によって命を与えて下さっているということ、それと同時に、神様がその命をお取りになるということが、分かって初めて、私たちが終末の意味を受け取ることができるということです。それに、人間は死ぬんだということもわかってきます。それと共に、私たちが死ぬことが、厳粛なものであるということもわかってくるのです。しかも、このことから神様がいない終末のことは考えられないのです。従って、終末とは、私たちの救いを完成させてくださる日であるキリストの日ということも考えられるのです。なぜそのように言えるのでしょうか。普通の人々は、死が終わりだと思っているからです。人間、死んでしまったら終わりだと思い、生きているうちに、一生懸命働いて有意義に過ごさなければならないと考えているからです。 しかし、イエス様を信じるクリスチャンは、死で終わらないことを信じています。確かに、神様が命を与えて、命を奪っていきますが、この後永遠の命を神様が保証されているのです。神様と一緒に生きつづける命を保証して下さっているのです。それだからこそ、この世界をお造りになり、人間をつくり、しかもイエス様によって救ってくださった神様を信じなければ、終末も、キリストの日もありえないということです。あえて申すならば、何のために人間が生きているのかわからないということです。人間が神様によって生かされていることがかわらないことには、人間が生きている意味もわからないのです。そのために、パウロは、終末の日であるキリストの日のことを考えて、その日を目指し走りつづけて、虚しくない無駄ではない人生を過ごしていると訴えたのです。しかも、それが誇りになると考えたのです。この誇りとは、心の中に深い喜びを感じることを意味している言葉です。しかも、パウロ自身が行ってきたことを誇るのではなく、神様から恵みをいただいたことを誇らしく思うということで、イエス様によって生かされていることを心から喜んでいるということです。だからこそ、パウロは、たとえ今、牢獄の中で、殺されたとしても、イエス様と一緒であるのだから、喜びたいと思っているのです。 イエス様を信じても、苦しみや悲しみあるいは、悩みはいつも迫ってきます。時には、信仰を投げ出したいという気持ちになることがあるでしょう。また、あるいは教会なんか行きたくない、礼拝はおもしろくないという思いに駆られるかもしれません。しかし、イエス様と共に歩む人生、イエス様を信じて、生活のすべてをイエス様に委ねて生きることは、たとえ自分自身に不利と思えるようなことが起こったとしても、決して無駄には終わらないのです。なぜか。イエス様が私たちと共に居てくださって、救いを与えて下さって、守ってくださっているからです。一言で言えば、神様が私たちを愛してくださっているからこそ、イエス様を信じて生きることは、決して無駄には終わらないのです。たとえ、お金持ちにならなくても、名を残さなくても、自分の人生が神様と一緒に生きてきた、神様の恵みに支えられてきたことを、立ち止まって考える時に、そのように確信できるのならば、その人の人生は無駄ではないということです。どうぞ、まだイエス様のことを知らない人々や生きていることが無駄であると思っている方は、立ち止まって、今日の聖書の言葉を考えていただければと思っています。 お祈りを致します。 天にいらっしゃいます父なる御神様 主の日に私たちを教会へと招いて下さいまして、愛する兄弟姉妹と共に、礼拝にあずかり、御言葉によって、新しい恵みをいただき、心より感謝を申し上げます。私たちは、人生の歩みをしています。歩んでいることが、まさしく死ぬことにへ向かっています。けれども、イエス様は、私たちの人生の中にいてくださいまして、恵みを与えてくださっています。どうぞ、私たちに、そのことをしっかりと受け止めて、イエス様を神様と信じて生きていくことができますように、また、私たちが死ぬことで終わらず、永遠の命を与えてくださっていることを信じて、信仰の歩みをしていくことができますように導いてください。また、どのような状態になっても、悲しみや苦しみが迫ってきたとしても、イエス様と共に生きる人生がまさに無駄ではなかったということを、確信させて下さいますように、どうぞお願いいたします。また、イエス様の十字架と復活による喜びの救いに与かっていくことができますように、一人一人に祝福と恵みを与えてくださいますように、どうぞお願い致します。まだ、イエス様のことを救い主と知らない人々に、信仰に生きることが無駄ではないこと、神様と共に生きることが、喜びに変わるということを受入れさせてくださいますように、どうぞ聖霊の働きかけをお願いいたします。今、病の中、苦しみの中、悩み悲しみの中にいる方々の上に、イエス様が共にいてくださいまして、平安と慰めを与えてくださいますように、どうぞお願い致します。この祈りをイエス様の御名によって、御前におささげ致します。アーメン |