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「心が燃える時」 ルカ24章13−35節 24:13 ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、 私たちは、生活をする中で、自分のものさしで見ていることがあります。自分の判断が正しいと考えながら生きているということです。このことは自分自身の感覚や考え方だけに頼りながら生活をしているということです。そのために、私たちはいつの間にか先入観を持って物事を見ていることがあります。このことは、この人は、絶対こんな人だというように最初から思い込んでしまうということです。あるいは、最初から、こんなことはありえないと思い込みながら、生きているということです。私たちは、先週は、イエス様が復活されたことを記念しますイースターの礼拝をしてお祝いを致しました。まさしくイエス様が復活されたということこそが、人々がこんなことありえないと思い込んでしまう物語ではないかと思うのです。「イエス様が復活されて今も生きておられる」誰が聞いたとしても、素直に信じることができない物語ではないでしょうか。人間が死んでから復活をする、こんなばかばかしい話を誰が信じるのかというように、私たちは思い込んでしまうということです。それだからこそイエス様が復活されたということは、人間が持っている知識やものさしでは、とても理解することができないものです。ましてや人間が復活をするということは信じられない出来事ではないかと思うのです。 先程読んでくださいました聖書の物語に登場してきます二人の弟子もまた、イエス様が復活されたということを聞きましたけれども、最初は信じられませんでした。まさしく、この二人の弟子の姿が、私たちを代表しているのかもしれません。この物語は、二人の弟子が、イスラエルの都でありますエルサレムから60スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩いていた時に起こった出来事であります。そのままの単位で日本語に訳されております60スタディオンとは、約12キロのことです。この物語は、イエス様を信じていた二人の弟子が、エルサレムから12キロ離れた故郷でありますエマオという村にもどっている場面であるということです。エルサレムに別れを告げて、故郷に帰っている場面であります。そこに、復活されたイエス様が近づいて来られて、二人の弟子と一緒に歩き始められたという実に美しい物語としてここに描かれています。それに、この物語は、「エマオへの道」あるいは「エマオへの途上の物語」として、多くの人々に愛されている物語であります。しかも、有名な画家たちが、この「エマオへの途上の物語」を聖書に親しみながら描いております。二人の弟子たちに挟まれてイエス様が真ん中になって、歩いておられるというようにです。この二人の弟子の中の一人は、クレオパという名前であったということが聖書には記されています。このクレオパは、男の人の名前で、この物語にしか登場してきません。けれども、ルカによる福音書が記されていった頃の人々にとっては、このクレオパが復活されたイエス様に最初に出会った人として忘れることができない名前として記憶に残されていったと思われます。ところが、聖書にはもう一人の弟子の名前は記されていません。ある聖書の学者が、もしかすると、このもう一人の弟子は、女の人であったと思われるのではないかというように解説をしました。もう一人の弟子が女性であったということです。有名な画家たちは、この二人の弟子を当然のごとく男の人として描いております。 私たちもまた、最初にこの物語を読んだ時から、この二人の弟子が男性であると思い描いてきたのではないでしょうか。それに、弟子という言葉を聞くと何となく男の人を思い浮かべると思うのです。イエス様の弟子と言えば、聖書をよく読んでいる人であるならば、イエス様といつも一緒にいた12人の弟子をすぐに思い浮かべるというようにです。けれども、イエス様の弟子とは、イエス様のことを信じている人々のことを指しております。クリスチャンのことです。このことはすべての教会の教会員がまさしく、イエス様の弟子であるということです。先程のもう一人の弟子が女性であったということは、あくまでも推測でしかありません。けれども、このことは私たちの思い込みを打ち破るものではないかと思うのです。少なくとも、私は、自分が持っているものさしや考えで、あるいは思い込みで聖書を読んでいるのではないかというような危険に気づかされた思いがいたしました。大袈裟ですけれども、目を開かされた思いがしたのです。それに、聖書を読む楽しみと人々に知らせたいという思いをかき立てられたようなそんな気がしたのです。もしかしたら、このもう一人の弟子が女性であったかもしれないという発見を誰かにはやく知らせたい思いに駆られたということです。そこで、このもう一人の弟子が、女性であるとしたならば、この二人はもしかすると夫婦であったかもしれないということです。もう一人の弟子がクレオパの妻であったということになります。もしかしたら、その当時の人々には名前を記さなくても誰だか理解することができるとしてクレオパの妻の名前を残さなかったのかもしれません。それに、この物語の最後に二人ともエマオの村の同じ家に行って、イエス様に、ここに泊まってくださいとお願いをしています。このことから、ふたりとも同じ家に住んでいるものと思われるので夫婦であるということです。 みなさんは、どのように思われたでしょうか。もしかしたら、みなさん方の中で、14節、15節の言葉を見て、この二人は夫婦ではないと否定される方もいるかもしれません。夫婦であるならば、そんなに話し合い論じ合ったりはしないと思われるという理由からです。このことが、まさしく自分たちのものさしで見ていることであり、思い込みなのかもしれません。 さて、この夫婦あるいは二人の弟子が、エマオに帰っていく道で、今、イエス様と一緒に歩いています。ところが、この人達は、イエス様であるということがわかりませんでした。よみがえられたイエス様が一緒に歩いておられるのに、気がつかなかったのです。復活されたイエス様の顔や姿が変わっていたからでしょうか。そんなことはありません。同じイエス様なのです。では、同じイエス様がなぜ分からなかったのでしょうか。聖書は、16節で「二人の目は遮られていて」という理由を記しています。二人の弟子の目が開いていなかったということです。このことは、まさかイエス様がこんなところにいるはずがないと思い込んでいたからでした。この時、この二人は、悲しい顔をして歩いていました。聖書は、17節で「暗い顔」という表現をしています。「陰気な顔」とも訳することができる言葉です。明るさがない、喜びがないということです。この二人の弟子は何もかも絶望してしまい、生きる気力も失ってしまい、がっくりと肩を落としてとぼとぼとエルサレムから自分の故郷まで歩いていたということです。 なぜ、この二人はエルサレムから離れようとしていたのでしょうか。それは、エルサレムで起こった出来事を目の前にして、絶望してしまったからでした。その出来事とは何でしょうか。復活されたイエス様もこの人達に「どんなことですか」と尋ねています。そのエルサレムでの出来事のことを19節以下でクレオパが説明をしております。それは、ナザレのイエスが十字架につけられたということでした。この二人は、イエス様に望みをかけていました。イエス様が自分たちを救ってくださる救い主として期待をしていたということです。それに、イエス様が語る言葉や力ある業に望みを掛けていたのです。イエス様になら、自分のすべてを捧げることによって喜びのある人生を歩んでいけると思っていたのです。しかし、イエス様は十字架につけられて、殺されてしまいました。惨めにも、人々から悪口を言われ、唾をはきかけられて、苦しみながら十字架の上で死んでしまったのです。そのイエス様の十字架の出来事を目の前にして、暗く悲しくなり、望みを失ってしまったのです。人生に敗北をしてしまったということです。何の喜びもなくなってしまったということなのです。 ところが、この二人の弟子たちは、イエス様が復活されたということも聞いておりました。最初に女性たちがイエス様の遺体が置かれている墓に行ったけれども、その遺体がなかったこと。さらに、天使たちが現れて「イエスは生きておられる」と告げたということを聞いていたのです。イエス様は生きておられるという知らせを二人はすでに聞いていたということになります。キリストの教会は、このイエス様は生きておられるという喜びの知らせを聞くことによって、一人一人が喜びに満たされながら真に生かされているものであります。それに教会は、繰り返し、「イエスは生きておられる」という喜びのメッセージを伝えていくところであります。 しかしながら、この二人の弟子たちは、イエス様が復活されたということを聞いたとしても、喜びはありませんでした。心がうきうきして、喜んでその復活のメッセージを聞いたのではなかったのです。けれども、二人の弟子たちは、イエス様の十字架の出来事と復活の出来事を他の人々が聞いたとしても納得できるように、はっきりと説明しております。それなのに、この弟子たちは益々暗い思いになっております。なぜでしょうか。本来ならば、望みを置いていた人が甦ったのならば、うれしいはずなのに、喜んでいいはずなのに、益々落ち込んでしまうということはどういうことなのでしょうか。24節で、「仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」とエルサレムで起こった出来事の最後の言葉としてクレオパが答えております。このことは他の人々もイエス様の遺体が置かれている墓に行ったけれども、からっぽであったということです。しかし、復活されたイエス様には会わなかったということです。この二人にとっては、天使が「今、イエスが生きておられる」と告げるだけでは、喜びは湧きあがらなかったということになります。イエス様が死んでしまったという事実、その事実だけを受け止めて生きている人にはたとえ「イエスは生きておられる」ということを聞いたとしても心を動かされることはなかったのです。絶望している人にとっては、復活の事実を聞いたとしても何にもならないことであったということです。 この二人にとって大切なことは、今生きておられるイエス様にお会いすることでありました。イエス様の墓がからっぽであった。このことは女性たちの言うとおりであった。イエス様は復活されたかもしれない。けれども、復活されたイエス様をまだ見ていなかったからこそ、イエス様が死んだものとして終わっていたということです。暗い顔をして、絶望で終わっていたということです。確かにそのようなものかもしれません。イエス様の復活を信じるということは、人間が様々な知恵を使ったり、筋道を通して、イエス様の墓がからっぽであり、イエス様が生きておられるということをいくら証明して見せても何にもならないということです。科学的には、こんなことであるからイエス様は復活されました。イエス様の復活は証明されました。そんなことを言ったとしても、誰もイエス様の復活を信じることができないということです。信じないということです。いえ、たとえそのような復活の証明を信じただけでは、私たちが生きていくための力にはならいなのです。喜んで生きていくことができないと思えるのです。それだからこそ、イエス様を信じるということは、今実際に生きておられるイエス様が呼び起こしてくださるものであり、今生きておられるイエス様にお会いすることにあるということです。まさに、この二人の弟子たちに、イエス様のほうから近づいて下さってお会いしてくださっていたのです。このことは、私たちにも言えるのです。今、生きて働いておられるイエス様が近づいてこられて、一緒に歩みつづけておられるのです。 しかし、私たちは気がつかないのです。人間は、イエス様が生きておられて出会ってくださっていることに気がつかないのです。「イエスを信じたって何になる。イエスという人が復活されたところで、私と何の関係があるのか。」そのような思い込みから、私たちはイエス様に出会うということを拒んでいるのです。生きておられるイエス様が見えなくなっているのです。このことが、まさにこの二人の弟子たちが、復活されたイエス様に気がつかなかった理由になっていると思うのです。それに、今更、復活されたイエス様に出会ったとしても、恵みにも喜びにもならないと思い込んでいたのではないでしょううか。 その思い込みを打ち破るように、イエス様が語られた言葉が聖書には記されています。絶望の中にありましたこの二人に、復活されたイエス様が25節で「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち」というように語られました。ここで、イエス様はこの二人を叱っておられるのです。「あなたたちは、物分かりが悪い、しかも心が鈍い」というようにです。この「鈍い」という言葉は、本来の意味は「ゆっくりする」ということを表しています。「のろい」ということです。ぐずぐずしているということです。人が持っています性格で表すならば、「のんき」だということです。私たちは、それぞれ鈍いところがあります。鈍感なところがあります。ある有名な牧師は、集会に行くたびに、傘を忘れ、カバンを忘れ、しまいには降りる駅に電車が止まっていたにもかかわらずに、降りることも忘れていたということがあったそうです。それぐらい、のんきな人だったということです。私も、のんきなところがあり、ぐずぐずする性格であると思っています。人それぞれ、いろいろなところで鈍いところがあるでしょう。生まれつきだから仕方がないと開き直ることもあります。けれども、ここでイエス様は、物分かりが悪いこと、心が鈍いことを嘆いておられるのです。 一体、この二人はどんなことに対して鈍かったのでしょうか。それは、預言者たちが語ったすべてのことが信じられないということでした。預言者とは、未来のことがわかり、その未来を人々に伝える人ではありません。預言者とは、神様から預かった言葉を人々に伝えていく人のことです。それだから預言者が言ったこととは、神様の言葉であるということです。つまり、神様の言葉とは、聖書であるということになります。この聖書というものは、その当時では、今、私たちが旧約聖書と呼んでいるものであります。聖書をきちんとよく読んで、神様の言葉として受け取っていたならば、イエス様のことについて愚かになるはずはなかったのです。物分かりが悪くなることも、心が鈍くなることもなかったということです。 それでは、一体イエス様のどこについて鈍感だったのでしょうか。イエス様は26節で「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」と語られておられます。メシアとは救い主のことです。人々の救い主となるイエス様が苦しむことによって、栄光を勝ち取る、光輝いて勝利するということです。 しかし、この二人はそのような思いには愚かにも行き着くことができなかったのです。イエス様の奇跡や病気を癒す力はよくわかっていました。ところが、イエス様が支配者たちに捕まって、十字架で殺されたことによって、途方に暮れてしまったのです。イエス様の復活の知らせを聞きながらも、立ち直ることができなっかったのは、イエス様が十字架で殺されたという苦しみの出来事を目の前にして衝撃が強かったからではないでしょうか。イエス様の十字架にぶつかった時に、弟子たちは、神様の救いを見ないで絶望してしまったということです。イエス様が死んだということだけに目を奪われてしまったということです。私たちも、誰かの死に出会うことがあります。私たちは親しい人であればある程、その死に目を奪われて絶望してしまうのではないでしょうか。死の問題にぶつかると途端に絶望しかないと思い込んでしまうということです。それだから、普段は、自分の命に関心など持つことができないのです。死というものを真剣に語ろうともしないということです。生きているうちは、おもしろおかしく過ごせばいいと考えているのではないかと思うのです。そのために、自分中心になり、神様のことなんか考えなくてもいいと思ってしまうのです。 実は、イエス様の十字架はそのためのものでした。人間の救いのために神様が必要とされたものでした。イエス様がなぜ十字架について死ななければならなかったのか。それは、私たち一人一人のためであります。この世界が死で終わることを断ち切るためであり、私たちを救い、真に活き活きと生かしてくださるためであったということです。この二人の弟子は、十字架を抜きにして、イエス様が復活されたことだけを信じることができませんでした。そのために、イエス様は何をなされたのでしょうか。「わたしの正体はこれだ」というように覆面を脱いだのではありませんでした。少し回りくどいことをされたのです。それは、聖書の話をされたということです。聖書全体がイエス様について書かれていることを説明されたのです。イエス様が、聖書を解いて、神様の言葉を聞きなおすようになさったのです。後に、弟子たちは32節で「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語っております。この心の燃え方は不思議な燃え方でした。後で、あの時のことを振り返って、ああそう言えば心が燃えていたなあというものであったということです。イエス様から聖書の説明を聞いて、すぐには心が燃えませんでした。スポーツ観戦やコンサートを見るように我を忘れて、熱狂したのではなかったのです。 しかし、じっくりと確かに心が燃えていたということです。本来、聖書の言葉は、私たち人間の心を熱く燃やしてくれるものであります。ゆっくりではありますが、聖書を読む時に、心が燃えるものなのです。けれども、教会ではしばしば聖書の言葉が退屈になります。冷めた言葉になるということです。なぜそうなるのでしょうか。生きて働いておられるイエス様の姿が見えないからです。聖書の言葉が、私たちの生活には無関係だと思い込んでしまうからです。しかし、そうではありません。復活されたイエス様は生きて働いておられるのです。イエス様が十字架によって、私たちを救い、復活されたことによって、死を打ち破って、私たちに復活の命を与えて下さっておられるのです。聖書の言葉から死が終わりではないことを知ることができるのです。そのことから、心を燃やして喜びを持って生きていくことができるのです。神様の言葉である聖書の言葉を受け取ることによって、イエス様がまさに生きておられ、私たちに出会ってくださり、共に生活の中にまで一緒に歩いてくださることに気がつくことができるのであります。 お祈りを致します。 天にいらっしゃいます父なる御神様 どうぞ、私たちの目を開いてください。自分たちの思いや考えで物事を判断し、愚かな思いに、鈍感な思いに陥ることがありませんように、どうぞ神様の働きかけをお願いいたします。なによりも、神様の言葉を私たちに与えてくださいますように。聖書の言葉を神様の言葉としてしっかりと受け取っていくことができますようにお導きをお願いいたします。聖書によって、私たちがイエス様と出会い、心を燃やして人生の歩みをしていくことができますように、どうぞお願いいたします。また、復活されて今も生きてはたらいておられるイエス・キリストが私たちの救い主となってくださり、死を打ち破って、私たちに復活の命を与えてくださっていることを信じて、過ごしていくことができますように、お導きをお願いいたします。まだ、イエス様のことを救い主と信じられない人々の上に、イエス様が共に生きて救いを与えて下さり、人生の歩みを共にして下さっているということに気づかせてくださいますように、どうぞお導きをお願いいたします。この祈りをイエス様の御名によって御前におささげ致します。アーメン
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